第10話

91 帰国


 西国から京湖に豪華な衣装が贈られてきた。京湖は今まで着ていた漢服を脱ぎ、鮮やかな桃色の衣装を身に着ける。生地は透けるほど薄いのに、金糸銀糸で刺繍がなされておりずっしりと重い。足枷を付けられるような思いで着替えた。鏡を見るとすっかり西国人だ。艶のある褐色の肌に、極彩色が良く映える。


 軍師である郭嘉益が、外交の役割を果たすべく朱京湖を連れ、門を抜ける。国境の外、すでに西国にはずらりと並んだ兵士と、象軍が待ち構えていた。ここで何かあれば、すかさず西国は攻め入る準備があるということだ。華夏国と西国間に外交上の問題は今まで起こっていない。大人しく朱京湖を引き渡すことで、確執は何も生まれず今まで通りの国交になるだろう。


 郭嘉益が良く通る声で、交換を願い出る。西国軍の将軍であろうか、煌びやかな鎧と槍を持ち、波打つ髪をたなびかせながら、二人の目の前にやってくる。

 将軍は跪き手を胸にやり、京湖に敬意を払う。


「ラージハニ様おかえりなさいませ」


 久しぶりに本当の名を呼ばれたが、京湖は嬉しくも懐かしくもなかった。


「二人は無事なのね」

「もちろんです。傷一つつけておりません。お会いになりますか?」

「いいえ。相手からもわたくしに気付かないように華夏国に返してちょうだい」

「かしこまりました。少し窮屈ですが箱に入っていただきます」

「そうして」


 星羅と会うのが辛すぎて、京湖は別れを告げることをせず西国に戻ることにした。


「いいのですか。お会いしなくて」


 郭嘉益は永遠の別れになるだろうと慮って尋ねる。京湖は笑んで首を振る。


「西国に戻るわたくしに会えば、星羅はどうなるかわかりません。辛いことを目の当たりにさせたくはないのです」


 慈愛に満ちた母である京湖の瞳は、黒曜石のように美しく潤み光っていた。普段から感情を抑えてきている、軍師の郭嘉益でさえ胸を打たれる。

 将軍の合図で大きな木箱が二つ運ばれてきた。


「この中です。今は薬で眠ってもらっています。それと目隠しと耳栓をしてますから」


 そっと覗くと、星羅と陸明樹が並んで横たわっている。明樹はやつれているが、星羅に異常は見られなかった。


「星羅……。婿殿、ごめんなさい」


 最後にそっと星羅の髪に触れた。しっとりと艶のある美しい髪を記憶に閉じ込めるように両手で包む。


「さあ、これでいいでしょう」


 将軍は郭嘉益に「これからも我が国と貴国が親しくありますように」と敬礼した。郭嘉益も拱手して頭を下げる。


「お元気で」

「星羅をよろしくお願いいたします」


 京湖は将軍に連れられ、砂塵の中、西国に帰っていった。それに続いて、兵士たちや象軍も引き上げていく。郭嘉益は、華夏国の兵士に星羅と明樹の入った箱を運ぶように命令し、華夏国に戻った。

 兵士たちもこの一連の人質の交換を見ていた。目を覚ました星羅がどんなに嘆き悲しむかと思うと同情せずにいられない。誰もが眠りから覚めないほうが良いだろうと思うくらいだった。



 目を覚ました星羅は、身体も頭も重くここがどこか分からず、目だけで周囲を見る。見慣れた建築様式と落ち着いた色合いにここが『美麻那』でないと気づく。


「ここは?」


 どこだろうと思っていると、部屋に入ってきた許仲典が声をあげる。


「起きただか!」

「仲典さん?」


 起き上がろうとする星羅を許仲典はそっと押し戻し「まだ寝てるだよ」と寝具を掛ける。


「みんなを呼んでくるだ」


 許仲典が部屋を出てから、すぐに数人部屋になだれ込んできた。陸慶明と妻の絹枝と朱彰浩と兄の京樹だった。


「とうさまに兄さま。お義父たち……。かあさまは?」


 一番いるであろう朱京湖がいない。


「何がどうなって? 夫は? 明兄さまはどこ?」


『美麻那』で監禁されている間、もう薬は必要にないと麻薬の使用は止められていたが、暴れられては困るということで、食事を拒む星羅に身体を弛緩させる香を焚かれていた。力が入らず、明樹を救って逃げ出すことも叶わず、星羅は時間だけが過ぎていくことを感じていた。


 どこからどう説明すればよいのか分からず、皆口をつぐんでいた。特に朱彰浩と京樹は、立っているだけで精一杯というやつれぶりだ。

 許仲典がもう一人部屋に連れてきた。郭蒼樹だった。最初にいた4人は静かに外に出て入れ替わる。


「星雷、無事でよかった」

「蒼樹、なにがどうなってるんだ」

「順を追って説明しよう」


 冷静な落ち着いた声で郭蒼樹は話始める。まず『美麻那』は現在、西国の王位についているバダサンプ王が華夏国に隣接している関所近くに立てた店だ。『美麻那』は一軒ではなく、華夏国を取り囲むように、やはり国境沿いの関所付近に何軒もある。そこにやってくる華夏国民から、西国人である朱京湖の情報を得るためだ。

 華夏国民で西国の料理に詳しいものや、慣れているものがいれば知り合いや身内に西国人がいるかどうか聞き出す。麻薬と自白剤で情報はいくらでも引き出せる。

 陸明樹は、妻の星羅の両親が西国人であり、さらにはその西国人がバダサンプが求めるラージハニその人だと知られてしまう。明樹は兵士であり、妻は軍師であるため、華夏国の飢饉状況も西国に筒抜けだった。砂の中で金の粒を探し出すように、バダサンプは20年以上かけて京湖を見つけ出したのだ。


「で、かあさまは?」

「お前たち夫婦と交換で西国に帰った」

「そんな!?」

「明樹殿は、医局長が解毒を始めている。命に別状はないからすぐ回復するだろう」

「かあさま……」


 一目も会えずに西国に帰った、いや奪われた京湖のことを思うと胸が張り裂けそうだ。


「かあさまを、取り返す」


 2人も母を奪った西国が憎くてしょうがない。起きだそうとする星羅を、郭蒼樹はなだめ力を籠め寝かしつける。


「だめだ。軍師として軽装な行動をとってはいけない。西国は京湖殿を引き渡さねば、象軍をけしかけるつもりだったのだぞ」

「そんな!」


 華夏国の北部ではもう飢饉で飢えている人が出ている。今の国難の状況で、西国から戦を仕掛けられたら国の存続が危うくなるかもしれない。


「父が言うには京湖殿は立派だったそうだ。一言も嫌だと言わずに帰国する決断をしたそうだ」

「かあさま、かあさま」


 自分を救うために、京湖は帰ったのだと星羅は泣くことしかできなかった。


「とにかく今は身体を厭え。泣いている暇も恋しがっている暇もない」

「ううっ……」

「京湖殿は生きているんだから」

「かあさま……」


 放心状態で泣き明かしている星羅をみて、郭蒼樹は抱きしめたい衝動が湧いたが、ぐっと抑えて外に出た。郭蒼樹は星羅と一緒にこの国難を乗り越えなければと軍師としての決意を固めていた。


92 バダサンプ


 朱京湖ことラージハニは数日の旅の末、王に拝謁することになった。兵士に囲まれて王宮にはいり、王に拝謁する。跪き下を向いていたラージハニに「顔をあげよ」と声がかかる。

 王の顔を見てラージハニは驚いた。


「あ、あなたは!?」

「そうだ。私はいまや王なのだ」


 大臣の息子であったはずのバダサンプが王位についている。いつの間に王位を簒奪したのだろうか。


「王には世継ぎができなかったのだ。それで私が王位につくことになったのだよ」


 政権交代が穏やかに行われたはずはなかった、秘密裏に高官が何人も抹殺されているはずだ。考えられないほど、卑劣なやり方で王位についたであろうことは想像がつく。華夏国にいた時ですら、西国はどんどん税が重くなっていき庶民、それ以下の奴隷が苦しんでいる噂は聞いていた。


「さて、そなたは私の妃となる。喜べ」

「なっ!」


 立ち上がろうとしたラージハニを二人の兵士が抑えた。


「よいよい。すぐに婚礼を上げよう。支度をさせよ」


 ラージハニは引きずられるように兵士に連れていかれ、花嫁の支度をされることになった。


 沐浴のためにラージハニは兵士から、王宮に仕えている侍女たちに引き渡される。石でできた浴槽に水が張られ香り高い花びらが散らさせている。侍女たちに衣を脱がされ、手を引かれ水につかる。特に何もすることなく浸かっていると、また侍女たちに手を取られ浴槽から出される。身体を柔らかい布で拭きあげられるままじっとしていると「こちらは何でしょうか?」とラージハニの胸元を見る。首から小瓶がぶら下がっている。


「これは、美肌を保つ水よ。沐浴の後に肌に塗るものなの」

「あの、失礼ですが、中身を確かめさせていただいて宜しいでしょうか?」

「あら、怪しいかしら?」

「その、一応確認しないと……」


 木の蓋をとり瓶の中身を手のひらにとろりと出す。


「ほら。なめてみましょうか?」


 ラージハニはぺろりと舐めた後、全身に塗り始める。すっかり中身を出してしまい首筋から胸元、腰から足首まで身体中に塗る姿に侍女たちは大丈夫だろう判断しそのままにした。


「では、こちらを」


 今度は真紅の衣装を身に着ける。婚礼衣装のようで豪華さが増している。


「美しいですわ!」


 侍女たちの感嘆の声にラージハニは苦笑する。もう若い娘ではないのだ。美しい装いや豪華な髪飾りを嬉しくは思わなかった。髪と化粧を整えられたのち、また王宮に連れていかれる。


 王座ではバダサンプがふんぞり返ってラージハニ待っていた。若いころと変わらず、蛇のようにいやらしい目つきと、西国人にしては酷薄な薄い唇を歪めて笑っている。


「待ちかねたぞ。さあ王妃よ。こちらへ」


 ラージハニは王座の隣へ座らされる。


「さあ、わしは王妃を得た。皆で祝うがよい」


 大臣や兵士から歓声が上がると、バダサンプは立ち上がり、ラージハニの手を取った。


「どこへ?」


 嫌悪感で吐き気がするが、我慢して尋ねる。


「もちろん、寝室だ」

「今から祝宴では?」

「ああ、そうだ。ほかのものはわしらを祝う」

「では、わたくしたちもここで祝いを受けねばならないでしょう?」

「そんなことは後でいい。そんなことよりもそなたを早くわしのものにせねばな」


 いやらしく笑いバダサンプはラージハニの肩をがっちりと抱えるように、強引に引きずって寝室に向かった。ラージハニが無理やり連れていかれる姿に、誰もが見て見ぬふりをし、祝宴を続けた。


 しばらく引きずられるまま歩き、広い寝室へと連れていかれた。柔らかい寝具が敷き詰められた寝台に、ラージハニは投げ出されるように寝かされる。抵抗しても傷つけられるだけだろうことはわかっている。ラージハニは歯を食いしばってバダサンプにされるがままになっている。


「やっと手に入れた。これで望むものをすべて手に入れた。フッフッフフ」

「王になったなら、もっと若くて美しい女をいくらでも望めるはずでしょう?」

「ああ、そうだ。国中の女すべてわしのものにできる。だがわしはお前がいいのだ」

 

 バダサンプの這う指に嫌悪しながら、ここまでなぜ執着されなければならないのか疑問を口に出す。


「知りたいか?」

「ええ」

「わしの本当の身分はもっとも最下層の不可触民なのだ」

「え!?」

「驚いたか? 一番下どころか、人としても扱われないわしが今や国の王なのだ」

「なぜ……」

「顔が、大臣の息子と顔が似てたのさ」


 バダサンプは当時ラージハニの父と政敵であった大臣の跡取り息子と入れ替わっていたのだ。


「お前をやっと手に入れた」


 ラージハニに記憶はないが、バダサンプは彼女から施しを受けた。その時、バダサンプは恋をする。西国の花と呼ばれた美しい彼女に恋しない者はいないだろう。バダサンプは一生、不可触民としてゴミのような人生を送るのだと思っていたし、その生き方以外想像したこともなかった。ただ人生の岐路は誰にでも訪れる。


 バダサンプが町の清掃をしていた時だった。若い男が頭から血を流して倒れている。金持ちの息子が一本裏道に入ったために襲われたのだろう。若く背格好の似ている男は、バダサンプにそっくりだった。同じ顔の男の服装と、自分の服とは言えないのようなぼろ布を交換してみる。

「死んでるんだからもらってもいいだろう」

 丸裸で路上に転がすと、まるで自分が死んでいるみたいだった。気分が良くないと思い、自分のぼろを着せておいた。しばらく初めて着る上等な服を楽しんだ後、金に換えるつもりだった。しかし大臣の息子を探しに来ていた使用人にそのまま息子として屋敷へ連れていかれた。


「そのままわしは大臣の息子として過ごしてきたのだ」

「そんな……」

「身分の高いものは馬鹿なのか? 息子が入れ替わったことにも気づかなかった。しかもどんどん実権が奪われて行っていることにもだ」


 思い出しただけでも面白いと乾いた笑い声を立てる。確かに多忙な高官僚は、子供の教育は教育係にまかせっきりでかまう暇はない。ラージハニもあまり父や母、兄や姉と密な過ごし方はしたことがない。


「どうして暴政をしくの? 最下層の民の気持ちがわかるのだったら――」

「フハハハッ。やはり身分の高いものは愚かだな。わしはもう民の支配者なのだぞ? 民の気持ちなど分かったからどうだというんだ。ゴミはゴミのままでいいのだ」

「――。昔わたくしと間違えた華夏国の女はどうしたの?」

「華夏国の女? さあ、忘れたな。おそらく奴隷を欲しがっていた隊商にでも売ったのだろう」

「――晶鈴……」

「さあ、もうおしゃべりは良いだろう。不可触民が戦士階級の女を手に入れるのだ」


 何を言っても無駄なのは最初から分かっていた。美しい都(ラージハニ)は静かに大蛇(バダサンプ)に蹂躙されるのを待つ。


「さて、王妃よ、交わろうではないか」


 ラージハニの全身を味わったのちバダサンプはにやりと笑った。しかし次の瞬間「う、ぐっ」と胸をおさえた。


「く、な、なんだ。うっ、ぐ、ひゅっ、ぶっ」


 目をむき、口から泡を吐き出した。顔は青くなっり赤くなったり変化が激しい。


「み、水、を」


 喉が膨れ上がっているようで、呼吸もままならないバダサンプは、喉を掻きむしり寝台に臥せる。しばらくぴくぴくと手足の指が痙攣を起こしていたがそれも消えた。

 ラージハニはバダサンプのまだ生暖かい手首に指を置き脈を診る。もう脈を打つ音は聞こえなかった。


 彼女は、華夏国を出る前に医局長、陸慶明から毒を調合してもらっていた。それも少量ですぐ効果のあるものではなく、多量に服用することで効果があるものをだ。

 バダサンプが執拗な愛撫を施すだろうとラージハニは予想して、その毒を身体中に塗っておいた。



 寝台の近くにある水瓶を見つけ、ラージハニは頭から水をかぶる。


「もっと洗いたいわ」


 ふらふらと寝室から出たところを、兵士に取り押さえられた。

 


93 父との別れ

 虚ろな日々を余儀なくされていた陸明樹は、父である医局長、陸慶明の処置によって徐々に力を回復していった。自分の家族がわかり、身体にも力が入るようになり起き上がることが出来るようになってから、中央に帰ってきていることを知る。

 目を覚まして、天井を眺めている明樹に気づき、隣で休んでいた星羅は身体を起こす。


「あなた、気分は?」

「うん、悪くない」


 明樹は天井を見つめたまま答える。星羅は寝台から降りて、息子の徳樹が眠っている籠を覗きに行った。彼はまだすやすやと眠りこけている。

 ぼんやりと星羅は、西国に帰ってしまった母、朱京湖を想い、帰ってきた夫、明樹を感じる。明樹を取り戻せた喜びと、京湖を失った悲しみが複雑にブレンドされている。


「朝げの支度が出来ました」


 陸家の下女の声に星羅はハッと現実に心を戻し「今行きます」と返した。明樹の具合が安定するまで、星羅と息子の徳樹も、陸慶明の屋敷に住んでいる。広い屋敷では親子三人が加わっても問題なかった。家のことも、使用人が何人もいるので星羅は客のように何もしなくてよかった。

 

 明樹の容態が安定すると、星羅の養父、朱彰浩が西国に戻ると言い出した。京湖がいない華夏国に、彰浩がいる理由がないのだ。兄の京樹は華夏国に残る。彼には太極府で星を見る重要な仕事があるからだった。


「本当に父様行ってしまうの?」

「すまない」

「西国に戻っても母様とは会えないのに」


 京樹は彰浩が西国に戻るメリットがまるでないと考える。


「ああ、わかっている。私は自分の住まいに帰ることにするよ」


 元々京湖は臣下の中でも最上級の身分である戦士族で彰浩は市民階級だった。二人の身分差は大きく開いたもので、出会うことすらできなかった。


「出会う前に戻るだけだよ」


 寂しそうに言う彰浩の目がとても切なく見えた。華夏国では王族は別格だが、奴隷も廃止され、職業的な身分はあっても、生まれた時から決まる身分などなかった。才よりも身分を優遇する西国の価値観に星羅はまったく理解ができないし、『身分』によって希望を持つこともできず、諦められる国民性に疑問を抱く。


 京樹も同じだった。彼は西国人であるが、華夏国育ちのおかげで、身分に囚われることはない。彰浩も、華夏国に近いところに住み漢名をも持ち、20年以上暮らしてきたのに、やはり中身は西国人なのだ。


「もう二度と京湖には会えないだろうが、せめて同じ国土を踏んでいたいのだ」


 控えめで静かに京湖を愛してきた彰浩の願いを、星羅も京樹も反対する気はなかった。


「寂しいわ……」

「お前たちがまだ幼ければ、一緒に西国へ連れていくのだが。二人とも立派になった」


 自立した二人を彰浩はまぶしく見つめる。彰浩にとって、西国の花と呼ばれたラージハニこと京湖と過ごした日々は、子供たちを見れば夢でも幻でもなかったのだと実感する。しかし西国に帰って、自分の朽ち果てた陶房で今までの生活を夢のような日々だったと想像しながら過ごすのだろう。いい夢を見たと思いながら、静かに陶器を作る日々を彰浩はそんなに悪くないと思っている。


「手紙をかいてね」

「ああ、わかったよ」


 最後の晩餐は、星羅がありったけのスパイスを使って咖哩を作った。彰浩も京樹も京湖の味がすると喜んだ。星羅もそう思ったが、もう二度と咖哩は作らないだろうと思っていた。


 京樹も星羅も感傷的になりたくなくて仕事に精を出す。それでも京樹は西の空の星を見、星羅も西の地に思いを馳せる。

実際に感傷に浸っている暇はなかった、華夏国はますます冷え込んでいき、作物は枯れ始め、家畜は減少していった。北部からは南下してくる難民が増え、豊かで温かい南部では食料の買い占めが始まっている。国民を落ち着かせ、国力を保つために2人とも泣いていられなかった。 


94 薬

 渇きを覚えた明樹が水を飲もうと部屋から出ると、下女が庭を掃いているのが見えた。初めて見る小柄で痩せた若い女だ。その女を見ていると明樹はなぜか情欲が湧いてくる。


「何を考えているのだ。私は……」


 目をそらし下女と反対方向に歩いて、水を探し求めた。広々とした屋敷には今は使用人と明樹しかいないようだ。弟である貴晶はすでに学徒となっている。幼い徳樹はどうやら星羅が軍師省に連れて行っているのだろう。


 台所で甕から水を汲み飲んだ。喉の渇きは収まったが、今度は飢えを感じる。調理台の上の籠に入った棗を一つ口の放り込む。シャキシャキと甘酸っぱい味が口の中に広がると少しだけ満ち足りた。しかし飢餓感が治まらない。棗をかじった時に思ったが、腹が減ってるのではないのだ。


 台所を出て、屋敷内をうろつく。馴染んでいるはずだろう屋敷だが、明樹は散策する様に部屋を覗いて歩く。やがて一番端の倉庫にやってきた。北側に位置するこの倉庫は、食料品ではなく、父の陸慶明の薬品や薬草などが保管されてある。

 明樹は導かれるように薄暗い倉庫に入り、一つ一つ、薬品の入った瓶のメモを読んでいく。


「腹を下すもの、腹下しを治すもの。発熱させるもの、熱を下げるもの……」


 きちんとした性格の慶明らしく、薬はまるでつがいのように、状態を起こすものと、治めるものがあった。ある瓶の前で明樹は足をとめる。それはかつて春衣が使った媚薬だった。


「催淫剤……」


 埃をかぶった薬品たちは、もう出番がないのだろう。慶明は今は新薬の開発を盛んに行ってはおらず、ここへは不要な薬を保管しているだけだ。

 瓶を持ちだし、明樹はまた元の部屋に戻る。寝台に座り瓶を眺めながら、どうしてこれを持ってきてしまったのか、自分の行動に理解ができなかった。


「明樹さま、粥を持ってまいりました」


 さっき庭を掃いていた下女が今度は食事を運んできた。


「いつからここで働いている?」

「明樹さまがお戻りになる数日前からです」

「そうか。名は何と申す」

「小桜です」

「小桜か。いつも私の粥を?」

「ええ、奥様から昼の粥を任されています」

「ふうん」

「あの、こちらでよろしいでしょうか?」


 小桜は寝台の隣の机に目をやる。明樹が頷くと小桜はコトリと粥の入った白い碗とレンゲを置く。


「味見もするのか?」

「はい、恐れながら、粥の具合をみさせてもらってます。今日は奥様も若奥様もいらっしゃらないので、あたしが運んできました」

「いつもありがとう。うまい粥だ」

「ありがとうございます!」


 明樹に褒められて小桜は頬を染める。彼女の袖から出ている細い手首を見る。手も小さく華奢だ。肌の色も華夏人にしては色黒で、彫が深い。南西の出身なのだろうか。明樹は小桜を見ているうちに、なんだか頭がぼんやりし始める。そして着物の袖からそっと瓶をとりだし小桜に見せる。


「すまないが、この瓶の中身を一匙粥に入れてもらえないか」

「この中身をですか?」

「ああ……」


 小桜は言われるまま、レンゲにそっと瓶を傾け中身を出す。催淫剤はとろっとしていて飴色だった。不思議なものをみるように小桜はそのとろりとした液体をそっと椀の中に入れてかき混ぜる。


「味も見てほしい」

「え、あ、あのでは、匙をもってまいります」

「よいよい」

「で、でも」

「気にするな。私は兵士だから何人もの兵士たちと同じ杯で酒を回し飲みすることもある」

「は、はあ。では、少しだけ……」

「遠慮するな。ちゃんと一匙味見してほしいのだ」


 だんだん高圧的になってきた明樹に、小桜は恐る恐る粥に口をつける。作った時よりもほんのり優しい甘さが口に広がった。


「あの、美味しくなってます。大丈夫です」

「そうか。ついでに食べさてくれるか? 少し疲れてきた」


 明樹は寝台に足を上げ、上体を持たれかけさせた。


「では、失礼して」


 小桜は椀を持ち、そっとレンゲで粥を救い明樹の口に運ぶ。椀の中身が半分ほど減ったころ、まず小桜に異変が生じた。


「どうした?」

「あ、いえ、別に……」


 息が荒くなり、顔が火照っている。明樹自身にもその異変が現れ始める。目が潤み、そわそわし始める小桜の手から椀をとり、明樹がレンゲで粥をすくう。

「ほら、そなたも食べろ」

「え、あ、は、はあ」


 言われるまま小桜は粥を食べる。椀が空っぽになったころ小桜は明樹に組み敷かれていた。


「私が嫌ではあるまい?」

「め、明樹さ、ま」

「悪いようにはせぬ」

「ああ……」


 明樹は西国の『美麻那』を思い出す。何もかも忘れ、二人は快楽だけをむさぼり始める。


 

95 地方の飢饉


 中央から遠く離れた地方では、県令の人格によって治世の差が大きく出ている。安定した情勢の時には誰しも、暗部が見えなかったが、飢饉に見舞われると本性が出てきてしまっていた。

 北東部の辺境では、強欲な県令が食料を買い占め、更に備蓄されていた救済用の穀物もすべて役人たちのものにしてしまう。貧しい老人から飢えはじめ、やがて幼い子供たちが飢え死にしたときに暴動は起こった。


 都から兵士たちと共に暴動を鎮圧するために、星羅と郭蒼樹も派遣される。また許仲典と柳紅美もついてきている。許仲典は、前回の西国への供で、星羅を守れなかったことを悔いているのだ。柳紅美のほうは、星羅と郭蒼樹が間違いを犯さないように見張るためだ。密通する二人でないと分かっていても、親密になっていくのを阻むつもりだ。


「すぐに治まってよかった」

「本当ね。でもまだこれは序の口かもしれないわね」

「うむ」


 都からの救援物資を運び、県令のもとへ行く前に飢えた民に配給する。少しでも腹が満たされた民たちはそれ以上、暴力に訴えることがなかった。民が落ち着いた後、郭蒼樹は県令のもとへ兵士とともに赴き勅令を言い渡す。


「国難の際に、私欲にはしった県令を極刑に処す」


 やせ細った民たちが見守る中、速やかに刑は執行された。これからますます飢饉が厳しくなる前の見せしめでもある。県令は勅令を言い渡された後、泣いて命乞いをしたが蒼樹は顔色一つ変えず「勅令である」と静かに告げた。


 飢饉でなければもっと時間をかけた審議がなされ、刑の執行もすぐには行われなかっただろう。県令を長く生かせば、それだけ食料は減るのでこのような早い執行となる。例え、陥れられたとか、真っ当な言い分があっても無理だったろう。

 転がった県令の首は、ぷっくり膨らんでいて毬のように転がる。饅頭でもくっつけたような肥えた顔を見ると、どんな言葉があっても無駄だった。


 新しい県令はすでに配属済みだった。処刑を間近にみた新しい県令は、同じ過ちは犯すことはないだろう。

 一通り様子を見て帰路についたが、飢饉を横目に皆足取りは重かった。移動するだけでも、労力と食料を消費してしまうので大きな動きはしたくないのだ。


「今回のことで他の県令たちも慎ましくしてくれるといいのだが」

「そうね。まだ今年くらいは質素にやればなんとかもつと思うのだけど」

「約束通り、西国からすぐに救援物資も届いたことだし」


 西国のことを耳に入れると星羅は暗い表情を見せたので「すまん」と蒼樹は謝り話をやめた。

 2人の後ろでは、許仲典と柳紅美が控えている。


「帰ってきてから陰気なのよね。同情買うつもりかしら」


 嫌みを言う柳紅美に許仲典は「おめえは性格が悪そうだな」と率直に言う。


「な、なによっ」

「人の悪口ばっか言ってると嫁にいけねえぞ?」

「人のこと言えんの? あんたみたいな愚図っぽい男、嫁の着てがないわよ」

「おらはええ。星羅さんに仕えてるから」

「ふんっ!」


 興奮した柳紅美を、蒼樹が静かに諭す。


「紅妹。あまり労力を使うな。使うなら頭を使え」

「ぐっ」


 それから都につくまで柳紅美は静かに馬に乗っているだけだった。

 

 馬の上で星羅は、明樹とのやり取りを思い出す。軍師省からの派遣で地方に赴いたが、明樹が心配なので辞退しようかと思っていた。明樹に話すと職務を全うしてほしいと、地方行きを勧めた。

 星羅の活躍を妨げることもなく、後押ししてくれる夫君など早々いないと軍師省ではもてはやされた。ただ一人、柳紅美は「夫の癖に冷たいんじゃない?」と憎まれ口を聞く。余計なことを言うなと蒼樹にたしなめられていたが、星羅も柳紅美の言うことに同調していた。

 星羅にはほかにも懸念があった。もう明樹の体調は安定し、以前の健康体に戻ったと陸慶明から安心していいと言われている。しばらく離れていた二人はやっとまたそばにいられるというのに、明樹は星羅に指一本触れてこないのだ。

 明樹の背中にそっと寄り添っても、すぐに寝息が聞こえてくるだけだった。


「もうすぐ着くな」


 蒼樹の声に星羅は頭を振って悪い考えを追い払おうとした。


「早く帰ってこられて良かった」

「ああ、すこしだけ休もう。それですぐ仕事だな」

「うん。乗り切ろう」


 早く明樹に会いたいと、星羅は馬をせかした。


96 明樹の死

 馬を走らせ、陸家の屋敷についた星羅は、門に白い大きな布が垂れ下がっているのを目にして息をのんだ。


「だ、誰が? 一体」


 門番に尋ねようかと思ったがやめて、馬を預け急ぎ屋敷内に入る。以前も同じ光景をここで目にしている。春衣の葬儀の時だった。


「あ、あなた、どこ」


 激しく胸を打ち始めた鼓動を抑え、屋敷の中心である広間に向かう。使用人が何人かいるはずだが、見当たらず静かだった。静けさの中に自分の心臓の音だけが響く気がする。白い布が多く垂れ下がった広間に恐る恐る顔を出す。そこには陸慶明とその妻、絹枝、次男である貴晶がいる。貴晶の隣には大人しく座っている徳樹が見えた。4人とも白い着物を着て俯き、押し黙っている。

 嫌な予感がする星羅は声を掛けずに、そっと中の様子をうかがう。大きな塗りの位牌の文字が目に入る。


『故男 陸明樹』


「あ、ああ、あっ、あ、あな、た……」


 力が抜け、よろよろと入ってきた星羅に徳樹が気づき声をあげる。


「かあー」


 その声で、皆顔を上げ、そしてまた俯いた。放心していた絹枝がまたすすり泣きを始める。陸慶明は絹枝の背中を撫でいたわったのち「星羅……」と膝まづく星羅の身体を起こした。


「どう、して? 夫に一体何が? もう、もう体は回復したと」


 明樹の死が全く理解できない星羅にとって、悲しみよりも疑問しかない。星羅は立ち上がって棺を覗く。そこには青白くなった明樹が白い花の中で眠っていた。


「あなた、起きて? ねえ、どうして? やっとやっと帰ってきて、これから一緒にいられると思ったのに」


 冷たい頬を撫で、話しかけても明樹は沈黙を守る。もう微笑むこともない。


「どうして、どうして、どうして」


 震えながら涙声で何度も明樹に呼び掛ける星羅に、慶明は何も言えなかった。絹枝もますます嗚咽がひどくなり咳き込む。

「かあさま、しっかり」


 貴晶は絹枝を支えるように手を握っている。徳樹は泣いている星羅を不思議そうに見ていたが、やがて悲しくなったらしく声をあげて泣き始めた。


「徳樹、徳樹」


 泣く我が子を抱き上げ、星羅は呆然と明樹を見続ける。徳樹が泣き疲れ、星羅の腕の中で眠りについたことに気付き慶明は

「さあ、徳樹をこちらへ」と抱き上げ乳母に寝台へを運ばせた。


 ひとしきり涙を流した後「どうしてこんなことに?」と星羅は慶明に顔を向ける。明樹の父である慶明も、深い悲しみを感じさせる目の色だった。絹枝と貴晶に目をやって戻し「こちらで話そう」と星羅を広間から外に出す。

 広間から少し離れた東屋に座り、星羅は説明を待つ。


「明樹は心臓が破裂したのだ……」

「え、心臓、が?」


 こくっと頷き慶明は続きを話す。星羅は黙って口を挟むことなく最後まで聞いた。



――明樹は西国での快楽を忘れられず、下女と催淫剤を使って快楽に耽っていた。しかも催淫剤だけでは飽き足らず精力剤や精神を高揚させる薬品にまで手を伸ばす。複数の薬品を、明樹は酒とともに服用していた。薬品のおかげか、健康そのものに見えた明樹を、慶明は回復したものとしてそれ以上追求することがなかった。

 昼間に慶明と絹枝がいない間、存分に快楽に耽った明樹は機嫌よく、夕げ時に顔を合わせると健やかそのものだった。

 複数の薬品によるエクスタシーのしわ寄せがある日やってくる。健康に見えたのは表面だけで、中身はもうボロボロになっていた。あちこちの臓器はフル稼働していたらしく、とうとう心臓が異常な速さで鼓動を打ち張り裂けた。


 慶明は泣きながら聞いている星羅に「すまなかった。気づいてやれなかったのだ」と力なくつぶやいた。明樹の相手になっていた下女の小桜も、同様の症状で死に絶えた。星羅の気持ちを考えると、腹上死で二人とも逝ったとは言えなかった。更に手を硬くつなぎあっていた二人を無理やり引き離したことも一生告げるつもりはない。


 ぼんやりと空中を眺める星羅にそれ以上何も話さず、慶明もじっと座っていた。いつの間にか日が落ち夕暮になり、星が輝き始めたが、星羅は気づくことがなかった。


  

97 冷宮

 冷害による飢饉の影響は華夏国をじわじわと脅かす。都では備蓄と治安の良さでなんとか耐えているが、地方に行けば行くほど、殺伐としている。地方の暴動を抑えるために、都から軍を派遣すればそれだけ国の体力は奪われる。飢饉が収まるまで、中央への税を廃止し、北東部の県令が、配給を私物化したために即、極刑に処されたことを素早く伝達することで治安が保たれている。


 後宮でも食事は質素なものとなり妃たちも慎ましく生活している。王妃の桃華は毎年ある両親からの手紙が届かないことで一層、不安に見舞われている。後宮入りすれば、自身は外に出ることは叶わなくとも、家族からの面会には応じることが出来る。最初の数年は両親と、本来、妃になるはずだった姉が面会に来ていたが、入れ替わったことがばれるのではないかといつも不安な桃華は、すぐに部屋に引っ込んだ。年老いてきた両親も、そのうち都へ上がることが疲れるのか、手紙だけが届くようになった。


「この飢饉ですもの。もしや、父上と母上の身になにか……」


 桃華の実家、呂家は地方長官であるが役人なので食物の備蓄には農家と比べて乏しい。役人の権威など今は、飯一碗より低いに違いない。家族のことを憂いていると、すっと宮女がそばに寄り耳打ちを始める。


「お妃さま、ご家族が面会にいらしております」

「え? 家族? 父上? 母上?」


 臥せっていた身体を起こし、宮女に尋ねると、彼女は首を振り「妹君の李華さまでございます」と頭を下げた。


「李華……?」


 どうして彼女だけがやってくるのだろうかと、首をかしげたが実家の様子が知りたいので通すように宮女に告げると、入れ違いにすぐさま李華が入ってきた。


「姉上!」

「あ、ああ、李華、久しぶりね」


 李華は大げさに桃華を姉と呼び再会を喜ぶ声をあげた。桃華は姉を見てぎょっとした。もともとほっそりしていた姉だが、頬がこけ、目がくぼみぎょろりと白目を大きく見せている。髪も本来の艶ではなく、油でぎらぎらさせているようだ。飢饉の影響が出ているのだと、桃華は胸を痛め、姉を抱きしめる。宮女にしばらく下がっているように告げ、人払いをさせる。


「李華、父上と母上は? あなただけなの? 夫君は?」


 矢継ぎ早に桃華は李華に質問するが、彼女はふうっと息を吐くと「元に戻りましょう」と言葉を発した。


「ええ? 元にって? 一体……」


 何を言いたいのか全く分からず、桃華は何度か瞬きをして姉を見つめた。


「元々私が桃華でしょ? 交換をやめましょうと言っているの」

「どうして、今頃……? 父上と母上は? 夫君は?」


 再度同じことを尋ねると、姉は億劫そうに口を開く。


「とっくに死んだわよ」

「ええっ!? 」


 懸念したとおりに飢饉の影響が呂家を襲っていた。備蓄もろくにないのに真面目な役人である呂家は自分の分まで貧しい人に食料を分けていたようだ。姉の夫は個人の食料争いに巻き込まれて、ケガがもとでなくなってしまった。独立した子供を頼ったが、すでに家族を持つ子供たちは母親の面倒など見る余裕などなかった。


「ね? わかるでしょ? 王妃になれば飢えないで済むと思うの」

「な、なにを今更?」


 自分が恋人と結ばれたくて入れ替わったのに、また飢えたくないという理由で入れ替われという。


「ばれやしないわよ」

「いいえ。すぐにばれるわ。最近鏡を見ていないの?」

「鏡?」


 双子である彼女たちは両親ですら区別がつかぬほどそっくりだった。今は、顔立ちを変えてしまうほどの年月と人格が見える。常に心労で臥せってきた桃華は愁いを含んだまなざしをそっと鏡に映す。じろりと姉が鏡をのぞき込む。


「あ、あたし?」


 ぎょろりとした白目がちな目はきつく吊り上がり、唇は薄く口角がへの字に下がっている。眉間の皴は深くきつい表情になっている。おそらく、両親にも夫にもわがままを通し、常に高圧的な態度であったのだろう。誠実さと優しさに満ちていれば、独立した子供たちも母親を見捨てるようなことはしない。


「もう入れ替わることはできないわ。でも陛下に頼んでみるわ。ここに置いてもらえるようにと」

「嫌よ。あたしが王妃なのよ! 陛下に全部話すわ! 本当の王妃はあたしですって!」

「そ、それだけはやめて。そんなこと話せばどうなるか……」

「あんたが罰を受けるだけよ! きっと!」

「そ、そんな」


 震える桃華に、姉は勝ち誇った顔を見せた。そこへ宮女から「陛下のおなーりー」と声がかかった。びくっとする桃華を押しのけて、李華はぎらぎらと目を光らせ、腰を落とし、頭を下げ曹隆明を待った。


「面を上げよ」


 曹隆明はゆっくりと李華に声を掛けた後、宮女にまた下がるように言いつけ、桃華に目を向けた。


「へ、陛下」


 慌てて頭を下げる桃華に「よい」と笑んでからまた李華に目を向ける。


「妹君、ごきげんよう」

「陛下! お会いできて光栄でございます。実は大事な話があって参りましたの!」

「大事な話?」

「ええ、ええ。実はあたしと桃華は本当は――」


 そう言いかけた李華の口は、すっと後ろから出てきた黒い影にふさがれる。


「んー! んー!」

「妹君。それ以上話されるとさすがに命の保証ができないのだ」


 目を見開きもがいている李華を、唖然として見ていた桃華は「あ、あの、陛下……」と震えながらそばに寄ってきた。


「案ずるな。そなたはそこに座っていなさい」


 倒れそうなほど真っ青な顔をしている桃華を座らせ、また隆明は李華に続きを話す。


「そなたは妃の家族なので命までは奪いはせぬ。しかし王朝に危機を招く人物でもあるようだ」

「んー! んー!」

「せめて。選ばせてあげよう。毒杯をあおるか、冷宮で生涯を送るか」


 隆明が手をさっとあげると宮女が白磁の高杯を持ってきた。目の前に出された高杯の中身は毒だとわかると李華は激しく首を振り涙を流した。


「よろしい。ではこの者を冷宮へ」


 全身黒ずくめの人物は、そのまま李華の後頭部に手刀をうち気絶させ運んでいった。胸を抑えている桃華に隆明は静かに話しかける。


「案ずるな。悪いようにはせぬ」

「陛下、陛下……。わたくしは、わたくしは……」

「言わずともよい。事情は分かった。しかしそなたがここに来たということは、そういう縁なのだ」

「陛下……」

「辛かったのだな。最初は、私のことがよほど嫌なのだと思っておったが……」

「そんなこと、そんなことありません。一目見た時から、恋に落ちて……。だけど、選ばれたものでないことがばれてしまうのが怖くて」


 はらはらと涙を流す桃華に、隆明は愛しさを感じる。心の奥のほうで、胡晶鈴に対する思いがさらさらと風化し消えていくのを感じた。


「これからはもっと夫婦らしくいられるであろうか」

「お許しくださるなら、おそばにいさせてください」


 長い年月をかけてやっと、桃華は心を開くことが出来た。これからは堂々と隆明を愛することが出来るのだろうと、熱い喜びの涙を流し続けていた。



 ここ数百年使われていなかった冷宮の重い門が開かれる。かつては王朝に害をなす妃、側室たち専用の牢だった。広々とした空間に、調度品などは何一つなく、寝台と粗末な寝具のみがある寒々しい宮だ。


「出して! だしてえっ!」


 李華の声が虚しく響く。これから李華は一日一度の食事を持ってくる老女と、門番の男、掃除をする老人とだけしか会うことはない。会っても、李華の話を誰も聞かない。声を掛けてくることもない。この冷宮で働く者たちは聾啞者だった。そのことに気付くまで李華は自分は本当は王妃だと何度も話しかけた。

 老女は、李華の訴えをうんうんと頷き、笑顔を見せ、質素な食事を置いて帰る。冷宮のおかげで飢えることはなくなった。そのうち李華は黙って笑んで食事をするだけの日々を送ることになる。 


98 王太子候補

 しばらく長男の陸明樹の喪に伏した後、陸慶明は久しぶりに王族の健診にやってきた。王の曹隆明とともに、珍しく王妃の桃華がそばにいる。初めて見る睦ましい二人の姿に慶明は驚き、明樹と星羅の若い夫婦の仲の良かった様子を思い出した。


「もう、仕事ができるのか?」


 労りのある隆明の言葉に、慶明は「恐れ入ります」と感謝の言葉を述べた。隆明は陸家のことだけではなく、胡晶鈴との間に生まれた娘である星羅のことを心配している。そのことがよくわかっているので慶明は率直に話す。


「私たちよりも、嫁が心配です。ろくに寝もせず食べもせず仕事ばかりしております」

「そうか……」

「孫のことも、構う暇がないくらいです」

「軍師省が多忙を極めておるのはわかるが」


 話が深くなるにつれ、そばにいる王妃の桃華が気になってしまい、慶明はぼかしたような話を続ける。そのことに気付いた隆明は「はっきり申してよい。星羅が朕の娘であることは王妃のみ知っておる」と桃華に視線を送る。


「ええっ?」


 驚いた慶明が、桃華に視線を送ると彼女はこくりと頷いた。いつの間に、秘密を共有するほどの仲になっていたのかと慶明は驚いた。


「この国難の状況下において、星羅に休養をとらせられないのが気の毒だな」

「ええ……。ただ休めても星羅は休もうとしますまい」

「徳樹の様子はいかがか?」

「母親を煩わせることなく軍師省で大人しくしています」

「軍師省におるのか」

「ええ。なぜか徳樹は軍師省に行きたがるのです。妻と乳母が面倒をみようとするのですが」


 徳樹は母親から離れたくないと思って側にいるふうではなかった。まだ幼い彼は、軍師省で議論や策が練られているそばでじっと話を聞き、うとうと眠り、腹が減った時だけ星羅を呼ぶ。殺伐とした軍師省で徳樹は軍師たちに安らぎを与える存在のようであった。


「まこと、天子というものは徳樹殿のようですわね。陛下によく似ておいでで」


 王妃の桃華が優しく隆明に話しかける。


「天子、か」

「あの、陛下。徳樹殿を王太子としてお迎えできませぬか? 杏華公主の子として」

「ふ、む」


 桃華の提案に、脈診を行っている慶明の脈が速くなってきた。慶明は桃華と同様に、ずっと以前から自分の孫を王太子にとひっそり望んでいたのだ。


「できませぬか?」

「できぬこともない。しかし色々手筈を整えねばならぬ。本来なら生まれるはずのない子なのでな……」


 陰りのある隆明の表情を見て、桃華も苦しくなる。   


「わたしのせいで……」

「そなたに罪はない」


 慶明は、桃華が男児を産めなかったことを苦しんでいるのだと思っていたが、桃華は自分が選ばれていない妃であることを話していた。冷宮に送られた姉が王家に嫁いでいればきっと男児が生まれただろうと思っている。


「どうでしょう。本当は杏華公主が男児をお生みになっていたが、母子ともに療養中であったため公表できなかったことにすれば」

「まあ!」

「ほう」


 慶明の提案に、隆明と桃華は顔を明るくする。


「あ、しかし星羅殿が承知するのかしら。杏華はきっと子供を喜んで慈しむと思うわ」

「こちらの都合だけで話してしまったが、星羅に話してみないとな。慶明頼めるか?」

「ええ。きっと星羅も良い話だと思うでしょう」


 慶明は早速、今夜にでも星羅に話そうと話の手順を考えた。それと同時に、徳樹の立太子を邪魔する人物をどうにかしなければと考え始めている。


 慶明が去ったあと、隆明と桃華は二人で庭に出た。手入れは良くされているが、気候が寒冷化され花は咲かなくなっている。


「また温かくなったらそなたの好きな花でも植えようか。好きな花はあるか?」


 桃華はこうして隆明を一緒に歩くことが出来、心に花が咲き乱れるような気持だった。


「春に咲く花ならなんでも好きですわ」

「そうか。もっと他にも好きなものを聞かせておくれ」

「ええ」


 30年近く過ぎてやっと心を通わせ会う二人に、優しい風が流れる。桃華は初めて安心と幸福を感じている。今、飢えて死んでも心は満たされている。


99 兄と妹

 太極府へと星羅は赴き、兄の朱京樹に会いに行く。水を打ったような静けさを保つ太極府は、そこに勤める人々も植物的というか人間味がないというか、不思議で独特の雰囲気を持つ。京湖と明樹を失う前の星羅であれば静かすぎて落ち着かなかっただろうが、今は喧騒も耳に入らないほど心が閉ざされていた。案内された無機質な客間にじっと座って星羅は待った。音もなく入ってきた京樹が声を掛ける。


「よく来たね」

「あ、ああ京にい」

「どうかしたのかい?」

「実は、少し相談があって。時間は良いかしら」

「いいよ。ちょうど僕のほうも話したいことがあった」

「なあに?」

「いや、星羅から」

「ん……」


 数日前に義父である陸慶明から、息子の徳樹を養子に出さないかという話があったことを伝える。


「どうして公主さまのところへなど」

「それが、実は」


 身の危険が及ぶかもしれないということで、家族にも星羅は王の娘であることを伏せていた。それを初めて京樹に話す。


「なるほど、どうりで」

「驚かないのね」

「うん。太極府長の陳老師が星羅と徳樹の星と陛下の星を良く眺めていたからね。なんとなく」

「黙っていてごめんなさい」

「いいんだ」


 京樹の落ち着いた声と漆黒の瞳に星羅はどんどん落ち着いていく。


「星羅はどうしたいんだい?」

「わたしは……。よくわからない……」 


 徳樹が杏華公主の養子となっても会えなくなることはなかった。むしろ王の曹隆明の後を継ぎ、星羅が軍師となればただの親子関係以上の関わりになるだろう。


「そういう星のもとに徳樹は生まれたのだろう。星羅、君も……」

「義父上はとても良い話だというの。義母上も」

「そうだろうね。この王朝を引き継ぐのだもの。華夏国の権威と尊敬を一身に受けるのだから」

「わたしが手放すことを、徳樹はどう思うかしら」

「手放すとは違うよ。徳樹は星をみても本人を見ても国の天子だとよくわかる」

「ええ、そうね……」


 陸家を頼り、徳樹を育てることは可能だろうが、彼自身を見ていると王家に入ることが望ましい。軍師省に大人しくついてくる徳樹は、活発な議論に目を輝かせ、地図をじっくりと眺めている。まるで王太子であったころの曹隆明と同じようなまなざしで、華夏国を見ている。軍師として国に仕え、発展に尽力したいと考える星羅とは同じ血族でも、異質のものだ。


「わたしは軍師だけど、徳樹は君主なのだわ」

「結論が途中だけど、いいかな」

「え、ええもちろん」

「実は僕も西国に帰ることになる」

「えっ!?」

「かあさまと西国の状況がわかった。ここに手紙もある」


 京樹は棚から蛇腹の紙をとりだす。ふわっとスパイシーな香りが漂う。西国には紙にも香料が施されているようだ。中身は西国の文字ではなく、華夏国の漢字で書かれていたので星羅にも読むことができた。香りに懐かしさを感じながら読み進めた。


「なっ!」


 顔色を変える星羅が全て読み終えるまで京樹は待つ。読み終わった星羅は蛇腹の手紙を閉じ京樹に返した。


「まさか、かあさまが……」

「ああ、驚いた。そんな大それたことをする人ではなかったから」


 手紙にはラージハニこと京湖が、大王であるバダサンプを暗殺したと書かれてある。バダサンプは実は王族ではなかったことと、彼によって忠臣が排除され、重税を強いていた暴君であったことにより、京湖は大きな罪に問われなかった。そもそも京湖の身分は、バダサンプの身分をはるかにしのぐものであり、人が虫を殺したくらいの格差があった。更に王位継承者がことごとくバダサンプに抹殺されており、なんと京樹にもその継承権が回ってきている。


「京にい、王位につくの?」

「さあ、どうしようか」


 身分制度の厳しい西国に、華夏国で育った京樹が王になればきっと善政を敷くだろうと星羅は思う。


「京にい。王位に就くべきだわ」

「星羅はきっとそういうと思ってたよ」


 ふっと笑む京樹は、父の彰浩にも、母の京湖にもよく似て、優美で誠実そうだった。


「一緒に来ないか?」

「え? 京にいと? 西国に?」

「うん。王妃として」

「ええっ?」


 驚いて星羅は立ち上がった。声が響いたらしく隣から咳払いが聞こえた。


「あ、ご、めんなさい」


 下を向いてまた前を向くと、初めてみる兄ではなく、男としての表情を持つ京樹がいた。


「やだ、なんの冗談?」

「冗談ではないよ」

「でも、わたしたち、兄妹として育ってきて今更そんな」

「僕は妹じゃなくて一人の女人として君を愛してきた」


 真剣な表情に怖くなるほどだ。漆黒の瞳はより深く黒く星羅を吸い込んでしまいそうだ。


「あ、あの。ありがとう。でもわたしはやはり妹で、わたしの心は明樹にあるわ」

「ん。そういうと、わかってた……」


 星羅はいろいろな出来事と様々な感情が沸き上がり、何をどう考え感じたらいいか迷った。


「太極府のお仕事はどうするの?」

「星を見る限り、国難の絶頂がどうやら過ぎたみたいだ。もしかしたら徳樹のことも関係してるのかもしれない」

「そう」

「恐らくこの飢饉も一年耐えれば何とかなると思う」

「ならいいけど」


 良い話を聞くと少しだけ気持ちが軽くなる。


「難局を乗り切れば、帰国しようと思う」

「そうなのね……」


 京樹は西国に行く、ではなく帰国と言い始めた。


「家族としてでも来ないか? かあさまにも会えるし、きっと以前のようにみんなで暮らせるかも」


 星羅は首を横に振る。


「わたしはこの国の民だわ。もちろん京にいも、かあさまもとうさまも恋しい。でもこの国でやらねばならないことがいっぱいあるから」

「わかった。何かあればすぐに言うんだよ。できる限り力になるから」

「ありがとう」


 太極府を出て、陸家に戻り、ロバの明々と、馬の優々に会った。明々はますます老いた。もういつ逝ってもおかしくないだろう。


「ありがとう。あなたたちもきっとわたしのために居てくれるのよね」


 明々は「ヒィ」と短く鳴き、優々は「ヒンッ!」と力強く鳴いた。京樹も本当はすぐにでも西国に向かったほうが良いであろうが、星羅のためにぎりぎりまで華夏国に居ようとしている。京樹は西国の民のために大事な王になるだろう。いつまでも華夏国に居させては彼の時間が惜しい。


「立ち直らなければ……」


 愛する人を亡くしたときにどうやってみんな立ち直るのか。王朝の祖である高祖もこのような辛い気持ちになったのだろうか。


「そういえば、高祖も、愛する人をいつまでも忘れずによく泣いたと伝記にあったわ」


 どうやっても明樹が生き返ることはない。だからと言って悲しい気持ちがなくなることもない。しばらく明々と優々の前で泣いて、落ち着きを取り戻してから、慶明に徳樹の養子の件を話し合うことにした。


100 母親

 徳樹を連れ、星羅は杏華公主のもとへ向かう。杏華公主は以前、曹隆明が王太子だった頃に住んでいた白壁の優美な屋敷に住んでいる。


「何年前だったかしら?」


 隆明の私的な宴を思い出す。あの頃は希望に燃えていて、挫折も悲しみもなく目の前が明るい毎日だった。門番に身分の札を見せるとすぐに中に通される。以前のように咲き誇る花はなく、食用の草木が植えられている。王族といえども民を差し置いての贅沢は許される状況になかった。


「ほらみて徳樹。これは食べられる草なのよ」


 しゃがんで星羅は指をさすと、徳樹も屈んでよく観察する。


「ぼくもご飯、これにする」

「ええ。粥に混ぜて食べましょう」


 庭を歩き杏華公主の住まいに近づくと、官女がやってきてどうぞと案内を始める。広く手入れの行き届いた庭を抜け広間に通される。


「ここでお待ちください」


 何代にもわたって使われてきた調度品は黒光りし、強い存在感がある。この何百年という年代物の調度品に星羅は感銘を受ける。今の流行ではない細工は重々しく無骨な雰囲気もあるが、何代もの王太子を知っている。もしかしたらこの古めかしい椅子は高祖も座ったかもしれない。


「見て。あのお椅子は高祖もお使いになったかもしれないわ」

「ぼくも座るよ」

「あっ」


 徳樹はするっと星羅の腕を抜け、大きな高い椅子に上り座った。そこへ杏華公主がやってきた。


「あっ! 公主さま。徳樹! おりて!」


 星羅が拱手し、頭を下げながら徳樹を椅子から降ろそうとしたが「よい」と杏華公主は柔らかい声を出す。


「顔を上げなさい。あの子が徳樹か」

「はい」

「よい子ね。そこへどうぞ」

「ありがとうございます」


 星羅は気ままに好奇心を発揮する徳樹にはらはらした。男児にしては暴れることもなく大人しい気質であるが、好奇心は旺盛でよく観察したがる。


「あなたはいいの?」


 杏華公主は養子の件を優しく星羅に尋ねる。杏華公主は、王妃の桃華によく似て優美で儚げな美しさをもつ。たおやかではかなげな彼女が、自分の姉でもあるのだと思うと不思議な気持ちになり、同時に不敬でもあると思った。


「国や徳樹にとって良いのであれば」


 星羅の言葉に杏華公主は優しく頷く。


「うれしいわ。こどもを育てられるなんて。もう産むことができないからあきらめていたけれど」


 一度流産し、もう妊娠できない杏華公主は目を細めて徳樹を眺める。


「あなたも遠慮せずに徳樹に会いに来るのですよ」

「え、いえ、それだと」


 自分の存在が徳樹と杏華公主との関係に悪い影響を与えてはいけないと星羅は辞退する。


「まだまだ公に出ていくことはないし、王太子に即位する頃に徳樹は分別がつくでしょう。いきなり母親と引き離されたらきっと心に傷を負うわ」


 杏華公主の思いやりに触れ、星羅はこの人になら徳樹を任せられるだろうと安心する。


「徳樹。おいでなさい」


 優しい声で杏華公主が手招きすると、徳樹は素直にやってくる。官女がさっと杏華公主に紙包みを渡す。


「ほら。あたくしのお膝に座ってお菓子を食べましょう」


 徳樹は杏華公主の目をのぞき込んでうなずき、膝の上に座らせてもらう。小さな手のひらに紙包みを開かせ、一粒ずつ干菓子を口に入れる。


「徳樹。今日からあたくしが母上になるわ」

「母上?」


 徳樹は丸い目をして見上げる。そして星羅をみて「かあさまは?」と尋ねる。


「もちろんかあさまはかあさまよ」


 杏華公主の言葉に徳樹は「ふーん」と杏華公主と星羅を見比べる。


 星羅は幼少のころを思い出していた。西国人である朱京湖を母と信じて疑わなかったこと。しかし実は別に生みの母がいること。そして兄の京樹が星羅には二人も母がいると言ったこと。星羅は心の中で「京にい……」とつぶやいた。今更ながら、彼が自分をずっと静かに見守ってきてくれていたのだと感謝が沸き上がる。 


「お庭にいきましょうか」


 杏華公主の誘いに徳樹は嬉しそうに目を輝かせる。庭に出ると、徳樹はあれは何かこれは何かと官女に尋ねる。

 ふうっと腰掛ける杏華公主に目をやると汗ばみ、顔を紅潮させている。


「あの、お加減は大丈夫でしょうか」

「ええ、身体が強くないので臥せってばかりだったのだけど、徳樹の話を聞いてからなんだか元気になってきた気がするの」


 徳樹を養子にするにあたり、心配なのは杏華公主の健康状態だった。もともと成人できぬかもしれないと言われていた身弱な公主だった。医局長の陸慶明の強壮剤によって維持されていると言っても良かった。

 官女が毬をもってきて徳樹に与えると、彼は官女を相手に遊び始める。


「まあまあ。こどもの笑い声っていいわね」

「ええ」

「こんなに楽しい気持ちになるのは初めてかもしれないわ」


 母である王妃、桃華も彼女自身の不安と心配で臥せってばかりだったので、杏華公主を可愛がったことはない。


「かあさま! 母上!」 


 徳樹は官女とかけっこをして勝ったので、嬉しそうにこちらに手を振る。杏華公主は微笑んで手を優しく振り返す。自分よりも母の喜びを杏華公主は感じているのではないかと星羅は考える。

 植物の乏しくなった庭で、徳樹はきらきら輝いている。死人のようだと噂される杏華公主も生き生きと命を謳歌し始める輝きが見える。

 星羅は二人をまぶしく見つめる。亡き夫、陸明樹のことを思うと悲しくて辛いが、この命の輝きに触れると、死にたいとは思わなくなっていた。

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