第9話

81 王位継承


 王太子だった曹隆明が王に即位すると、王とその妃たちはみな『銅雀台』に越してきた。都で一番高い建物であるここへの引っ越しは大変な時間と労力を要した。

 何段もある石の階段を医局長の陸慶明はため息をつきながら見上げる。もう若くない彼にとってこの段数は億劫だった。若いころなら楽々楽しく上っただろうと、若かりし頃の身軽だったころを懐かしんだ。今は、足も重く、気も重い。階段下で待機している屈強な石段籠運びに、金を渡し運んでもらうことにした。一見上がり下がりに不便だと思えるこの高さは、力と体力を持つ者にとって適切な職場だった。ここを上がる者は王族や国家の要人である。一日一人でも運べば十分な賃金が発生する。いたるところに高祖の配慮があった。


 籠は快適で歩くよりもずいぶん早く到着する。籠を降り改めて『銅雀台』の高さを思い知る。都全体を見渡せる高さは、まさに王者の住まいにふさわしい。


「ここから庶民を見下ろしておられるのか」


 医局長にまで上り詰めた慶明であるが、この高さからみる景色は圧巻だ。今日はここに住まう、曹隆明と妃と未婚の子供たちの定期健診にやってきた。気が重い診察は、側室の申陽菜だった。


 今日も、彼女は自分の娘を王位につける算段の相談をしてくるだろう。曹隆明が王位についたので王太子を立てねばならない。候補になるのは王妃が生んだ第一公主の杏華で、すでに婿も取っている。虚弱な彼女は一度懐妊したが流れてしまい、その後妊娠の兆候はない。慶明の見立てでは、杏華公主が子を持つことはもう無理だ。そして近々、申陽菜の娘、晴菜公主が婿を迎える。彼女は健康的なので十分懐妊できるだろう。


 女性が王位継承者になるとき、世継ぎを産むためにやはり太極府が選んだ婿を入内させる。男児を孕ませることができなければ、また別のものが婿入りすることになっている。


 申陽菜は杏華公主が邪魔で抹殺したがっていたが、彼女にもう妊娠能力がないとわかると抹殺を取りやめる。もう敵は杏華公主ではない。今度の矛先は、周茉莉の娘で第三公主である、百合公主だ。晴菜公主に子ができなければ、継承権は百合公主に移っていく。邪魔ものを消すことと、晴菜公主に男児を産ませる相談をされるとわかっている慶明の足取りは重かった。


 王と王妃の部屋は、王太子宮のころと変わっていなかった。王妃となった桃華の体調は相変わらず優れず、かといって悪化もしていない。桃華はもう何年も健診で関わっているというのに、慶明によそよそしい。ほかの妃たちはすぐに打ち解け、良くも悪くも美容の相談をされる。桃華は、慶明だけでなく、王である曹隆明にもよそよそしい。王族には王族なりの何かがあるのかと思うが、頑なな桃華はいつもこわばった顔つきをしている。


「どうぞ力を抜いてください」

「はい……」


 そう言ってリラックスされたことはなかった。しょうがなく慶明は、気の流れがスムーズになり、心を安らかに保つ薬湯の処方を渡している。王妃の性格であって病んでいるわけではないので慶明にはやりようがなかった。とにかく身体の健康の維持に努めるだけだ。


 申陽菜の部屋だけ、引っ越し後に様変わりしている。調度品はすっかり新しいものに変えられており、内装は明るい。少々軽薄な雰囲気になっており、王族の部屋というより、裕福商人の屋敷のようだ。寝台などは、パステルカラーの薄衣で何層ものドレープを作らせ、むせるような香を焚き込めている。まるで娼妓の部屋のようだ。


「ねえ。陸殿。今度、晴菜が婿を取ることになりましたの」

「おめでとうございます」

「茉莉夫人の百合公主の婿取りは来年になるのだけど、その前に、ね」

「その前に、とおっしゃられても、こればかりは天の計らいですし」

「強壮剤でもなんでもよいから、何かないかしら?」


 申陽菜は、自分の娘を、周茉莉の娘よりも早く懐妊させたいのだ。


「で、百合公主には、ほら、わかるでしょ?」


 腹黒い彼女はさらに百合公主の懐妊を妨げる薬を盛れと言う。むせかえる香に、咳き込みながら慶明は申陽菜の衰えに気づく。側室に入ったころは、可憐で透明感のある美女であった。曹隆明も彼女の美しさをとても褒めていた。しかし、いつの間にか妬みが強くなり、蹴落とすことばかり考えているせいか表情はきつく、眉間の皴が深くなっている。華奢な身体が自慢のため、食事を制限しているが、老いた今、彼女は枯れ木のような印象になってきた。

 年相応にふっくらしてきた周茉莉を豚のようだとののしるが、申陽菜の容姿は今や痛々しい。


「とにかく頼むわよ」

「善処いたします」


 いつものように肌を潤す処方を渡し、慶明は下がった。


「もう、後には引けぬのだ」


 一度陰謀に関わると、手を引くことはできない。申陽菜の部屋を出て、着物を軽くはたき匂いを追い出す。軽く頭痛がしてきたが、こめかみを揉んで次の側室の診察に向かった。

 

82 『銅雀台』


 軍師省に復帰した星羅は、郭蒼樹はもちろんのこと、教官の孫公弘にも歓迎され、大軍師である馬秀永にも直々にねぎらいの声を掛けられる。息子の徳樹は、京湖が面倒を見ている。『金虎台』内に設置されている託児所もあるが、京湖の希望で徳樹を預けている。


「また子供の面倒を見られるなんて嬉しいわ」

「ほんとう? 大変じゃない?」

「星羅と京樹二人に比べたら全然平気よ」

「それならいいんだけど」


 頼もしい京湖のおかげで、星羅は安心して勤めに精を出す。徳樹も好奇心は旺盛だが、気性はおとなしいようで癇癪を起したり暴れたりすることはなかった。星羅が実の母に育てられていなくとも、京湖から愛情を存分に注がれており、京樹と比較されたこともなかったので恵まれた育児環境だったと思う。


 胡晶鈴のことは毎日考える。どこでどうしているのか、会えるのか。彼女の存在はある意味星羅の目標になっている。実の母に会いたいというよりも、会わなければならないと思っている。

 人恋しくなったり、寂しくなると京湖を思い出し、顔を見に行った。京湖のことは毎日考えない。心細いときだけ京湖のことを思うのは都合が良いのだろうかと一度、兄の京樹に聞いたことがある。寂しいときには胡晶鈴を思い出すべきなのだろうかとも尋ねた。

 京樹は自分も同じで何かあれば、いつもは気にかけていない母、京湖を思うと答えた。その答えを聞くと、星羅にとって『母』は京湖なのだと実感した。ただ京樹は、弱っている時だけ母を思い出すということは、京湖には伏せておこうと笑った。



 王になった曹隆明と妃たちが『銅雀台』に越してしばらくすると郭蒼樹から、郭家が祝いに参るので一緒に行かないかと誘われた。


「ほんとうにいいのかな」

「ああ、こんな機会はほぼない。逃すと数年待つかもしれないぞ」

「そうねえ」

「徳樹も見せることができるし」


 星羅は自分の産んだ子を、祖父になる隆明に一度だけでも見せたいと願う。また『銅雀台』に上がることにも非常に興味があった。


 当日、星羅は男装をして郭家と共に『銅雀台』へ参る。郭家と親戚の柳家の人たちは合わせて10名ほどいるが、星羅と赤子をみても特に関心を寄せてこない。


「あの、挨拶しようと思ったけど」


 参加させてもらったことの礼を述べたいと郭蒼樹に耳打ちする。


「いや、いい。俺の友人だと伝えているし特に何もしていないからな」

「そうなの?」

「ああ、心配するな。うちは礼儀にはこだわりがないのだ。何か良い策があれば、父が聞こうとするだろうが」


 笑っていう郭蒼樹に、星羅は郭家は一風変わった家族だと、大人しく端のほうで混じっていることにした。


 高くそびえる『銅雀台』を前にして星羅は目を細めて見上げる。ここにはかつてこの王朝を興した高祖が住んでいて、今は王の曹隆明が住んでいるのだ。


「籠を使うか?」


 すでに星羅と郭蒼樹以外は籠に乗って石段を上がっている。3名ほどまとまって乗っている籠もあるので、スピードは歩く程度だ。


「いや、自分の足で登りたい」

「そういうと思った。じゃあ俺もそうしよう」


 若い二人にこの程度の高さは億劫ではない。ただ星羅は徳樹を抱いているのでいつもより体力を使う。


「ほら、徳樹をよこせ」


 息が荒くなってきた星羅から郭蒼樹は徳樹を抱き上げる。


「すまない」

「いや平気だ。徳樹も楽しいようだぞ」


 表情がついてきた徳樹はきゃっきゃと声をあげている。その隣で一台の籠が止まり「あたしはここから歩くわ」と一人女人が出てきた。

 柳紅美だった。


「あ、こんにちは。紅美さんもきていたのね」

「ええ、もちろん」


 柳紅美は星羅をじろっと見た後、郭蒼樹とその腕の中の徳樹を見て「まるで夫君みたいですわね」と一言つぶやいた。


「そうか?」


 そっけなく答える郭蒼樹に柳紅美は不機嫌な様子を見せる。気づまりな空気に、星羅は足元の石段を見て黙ってあがる。

 柳紅美は並んで歩いていた、郭蒼樹と星羅の間にしっかり入って、二人の会話を妨げている。いつも軍師省で話し合っているので話せなくても平気だが、この女人からの嫌がらせに慣れていない星羅は居心地がとても悪かった。剣で戦うほうがよほど気が楽だ。


「さて、着いたな」


 郭蒼樹の言葉と、次の段がないことで星羅は最上段に来たことを知る。振り返って周囲を見渡す。


「すごい眺めだ。ずっと遠くまで見える」

「ああここから都が一望できる」


 都の地図で、全体像を把握していたが、リアルな全体像はまた格別の感動がある。そして都よりももっと遠くの空を見つめる。夫、陸明樹の赴任地のほうを見る。隣は西国、そして広大な砂漠を越えると浪漫国があるのだ。


「さあ、中に入るぞ」

「あ、うん」


 徳樹はいつの間にかすやすやと寝息を立てていた。


「さすが、大物だな」


 郭蒼樹は一段と優しい目で徳樹を見てから皆の後をついていく。その姿を柳紅美は忌々しそうに睨みつけていた。


83 血脈

 代々軍師として仕えている郭家が、王、曹隆明のもとに祝辞を述べにやってきた。郭家は王家と婚姻を結ぶことなく、常に軍師を輩出し続け、こうして何代も繋がってきているので、ある意味外戚のようだった。この一族が私利私欲に走る輩であれば、この曹王朝は倒れていたかもしれない。

 郭家は王家とも違う高いプライドを持つ家柄だ。この王朝を築いた高祖の志を受け継いでいるかのようである。軍師試験で郭家を優遇することは断じてない。どの世代にも一人は確実に軍師を輩出しているのは、そういう血統なのだろう。

ただし郭家にも保険のようなものがあるようだ。多く子を作り軍師になれる確立を上げている。とはいうものの下手な鍛冶屋も一度は名剣ではなく、元々のベースが違うのだろう。最難関の軍師試験はそうそうパスできない。


 外戚のような関係であっても馴合うことはしない。権力にも富にも欲がなく、ただ最上策を練り上げることだけに専念するエキスパートだ。そのおかげで他の高官たちは郭家に一目を置いているが、特殊すぎるせいでやっかみの対象にもならなかった。



 郭家の長である郭蒼樹の父、郭嘉益が長々と寿詞を読み上げる。普段、挨拶すらしない一家だがこういった形式はきちんとこなす。隆明はじっと聞き入り、終ると宴席に促す。王族と名家の宴会だが質素だ。お互いに迎合することのない関りで、質実剛健を旨とする王家と郭家には華美なものは必要なかった。派手な舞や劇もなく、音楽もなく上等な酒を酌み交わすくらいだ。


 隆明は末席に星羅を見止める。またその腕に抱かれた赤子にも気づく。今すぐにでも席を立ち、星羅のもとへ行き赤子を抱きたいと思った。しかし思うだけで隆明は動かなかった。


「若かったのだな……」

「何かおっしゃいました?」


 申陽菜がつぶやきに反応したが「いや、なんでもない」と言葉を濁す。隆明は胡晶鈴に会いに行った時のことを思い出していた。愛のない婚姻に耐えられず、衝動を抑えられずに晶鈴を抱きしめていた。今の彼にはもうない情熱と行動力だった。自分と晶鈴の娘である星羅。そして孫。

 隆明と晶鈴の間には、一時の時間しかなかったが、これまでの間、隆明には様々な出来事があり、思いがあった。甘く苦しく懐かしい思いが隆明の中を駆け巡っていた。


 宴会は短時間で終了する。合理的な郭家はだらだらと時間を過ごすくらいなら、延々と討議するほうが好ましいからだ。帰り際に、隆明は一番後ろの星羅にそっと声を掛けた。郭家と柳家の人々はもうほとんど籠に乗って降りて行ってしまっていた。


「陛下。ご即位、おめでとうございます」

「ん。ありがとう」

「その子はそなたの子か?」

「はい」

「名は何と申す」

「徳樹にございます」

「そうか。よい名だな。抱いても良いか?」

「えっ。あの、それは、もったいないことです」


 一目だけ孫を見せたいと思っただけだったので星羅は慌てて頭を下げる。実の孫ではあるが、公にできない庶民の子を尊い王に抱かせるわけにはいかない。


「よい」

「あ、玉体が」


 さっと星羅から奪うように徳樹を抱き上げる。徳樹はきゃっきゃと喜びの声をあげている。


「そなたにはわかるのだな」

「陛下……」


 星羅はなんだか目が潤み、とても幸せな気分になっていた。郭蒼樹の咳払いが聞こえ、隆明は徳樹を星羅に返す。


「幸せに」


 隆明は、星羅か徳樹か、二人ともにか分からないがそう声を掛けた。


「行こう」


 郭蒼樹に促され星羅は『銅雀台』を降りていった。


「そなたたちも戻るがよい」


 側室たちに声を掛けてから隆明は自室に戻っていった。側室たちは、あっさりとした宴会がもの足らずこれから集まり、菓子などを持ち寄って宴会の続きをするだろう。


「陽菜姉さまはこられないのですか? 茉莉姉さまのところで続きを……」


 一番後から入った側室が申陽菜に声を掛けるが、険しい表情におののき黙って引き返した。


「あの赤子……」


 申陽菜だけは、星羅の赤子が、曹隆明と同じ質の美しい髪を持っていることに気づいた。


「しかも男児とは」


 星羅と隆明はやはり只ならぬ関係なのだと申陽菜はみなす。やはり星羅と徳樹を無視することはできないと一人部屋に戻り抹殺の計画を練り始めた。



84 国難

 数年のうちに国難にみまわれるという太極府の予言によって、国はもちろん、州、郡、県にも備蓄を増やしておくようにと発布してあった。備蓄と倹約を始めて数年経過すると、もう国難はないのではないかと国民を気を緩め始める。ちょうどそのころ強い冷夏にみまわれた。

更に例年に比べ雨量も多い。暑い夏をいつもより快適に過ごせると喜びもつかの間、作物に大いに影響が現れる。伸びきらない作物に加え、じっとりとした雨に根腐り始める野菜。家畜の成育も悪く、妊娠率も低下している。


「この飢饉のことだろうかのう」


 星空を見ながら、太極府長の陳賢路はつぶやく。空には凶星が赤黒く瞬いている。


「これは一つの原因だと思います。今の国家でこの状況に乗じて政変を起こす者はおりません」


 同じく星空を見つめたまま、朱京樹は答える。


「ふむ……。危機的な状況がどれぐらい続くか見通しは立てられるかね?」

「おそらく3年は」


 都から南の地方はまだ良いが、北部は飢餓に苦しむことになる。国の穀物倉庫である『氷井台』には十分に備えがあるが、まかなえるのは都に住む人々ぐらいで、ほかの州まで面倒見ることは厳しい。しかし飢饉がひどくなれば、北部から都へ避難民が南下してくるだろう。



 飢饉対策のためにいきなり各省は多忙を極める。軍師省でも、見習いから大軍師まで一堂に集まり策を練っている。


「今回の国難には耐えることが基本だが、状況によっては人道を外すことがある。国難に付け入る国もあるだろうから大国に援助は申出ないほうがいいだろう」

 

 次期、大軍師と言われている郭蒼樹の父である郭嘉益が厳かに発言する。大軍師である、馬秀永は白く長いひげを撫でながら頷き聞いている。


 現在の軍師省には上から下まで合わせて、7名所属している。大軍師の馬秀永を筆頭に、軍師の郭嘉益、教官の孫公弘、助手の郭蒼樹と朱星羅、そして新たに試験に合格した助手見習いになる柳紅美と郭文立だ。柳紅美は郭蒼樹の従妹で、郭文立は郭蒼樹の弟になる。星羅は改めて、郭家は軍師の家系なのだと感心する。


「まだ飢饉が他国に知れ渡らぬうちにもっと食物を輸入しておくべきでしょう」


 郭蒼樹の発言に、星羅も同意し、さらに付け加える。


「西国にもまだ国難は知られていません。今のうちに華夏国の絹織物を香辛料に変え、もっと北部の大蒙古国から寒さに耐える種芋を譲ってもらったほうが良いと思います」


 星羅の発言に、柳紅美が口を挟む。


「種芋はわかるけど、香辛料なんかどうするの? 腹の足しにならないわよ」

「あ、それは、その……」

「紅美、途中で口を挟むな」


 郭蒼樹に制され、柳紅美はつんと横を向く。大軍師の馬秀永がほほっと笑う。


「よいよい。軍師省のものは家族も同然。黙って考えるのも良いが、複数の人間が集まって発言すれば、もっと大きなところから新たに想像がなされるのでな。さて星雷、続きを述べよ」


 星羅は一呼吸おいて説明する。


「確かに香辛料には腹を膨らせることはできません。しかし様々な薬効があり、心身ともに良い影響がでるのです」

「薬効? どこの情報?」


 柳紅美は厳しく突っ込んでくる。


「わたしは両親が西国人なので香辛料の効果は身をもって感じてますし、医局長も香辛料を定期的にとることで免疫などが上がるとおっしゃってました」

「ほうほう。医局長殿のお墨付きか」


 これから飢饉によって、餓死者が出るのは必然になり、国は葬式で溢れ返すだろう。身体は生きていても、心が死んでしまうかもしれない。星羅は国民が国難によって、生きる気力がなくなってしまうことを恐れた。困難がやってきても、あきらめず前向きな気力があれば乗り越えられると信じている。


「西国に食物を望むときっと国難に付け入ります。しかし西国とて、わが国の絹織物や銀は欲しいはずです。香辛料との引き換えであれば、内情を探られずに済むと思います」


 郭蒼樹も星羅を推して発言する。しばらく活発な会議が行われたのち、まとめてから今日は解散となった。


 今日も疲れたと履物を履いていると「星雷」と郭蒼樹から声を掛けられた。


「どうだ。酒屋にでも寄らないか? 疲れただろう」

「ふふっ。ありがとう。でもいい。徳樹が待ってるし、あの子の顔を見るのが一番元気になるのよ」

「そうか。なんだか、すまなかったな」

「なにが?」

「紅美だ」

「ああ、気にしてないから。突っ込みがあるともっと考えなければって頭を働かせるようになるしね」

「そうか。じゃあ、また。よく休めよ」

「蒼樹もね」


 気を使ってくれている郭蒼樹にありがたく思いながら星羅はふと空を見上げる。


「今日は遅くなったな」


 大きく輝く北極星を見ながら、星羅は朱家へを馬の優々を走らせた。



 星羅が立ち去った後、柳紅美は郭文立を伴って軍師省から出てきた。柳紅美は星羅のように男装することなく、軍師省の水色の着物を娘仕立てにして着ている。郭家の親戚とあって華美な装いはしていないが、髪にはかんざしを挿してある。

 郭文立は郭家らしい長身に、知性的ですっきりとした目鼻立ちを持っている。


「星雷さんはやはり兄貴が一目置くだけあるよな」


 のんきものの郭文立の言葉に柳紅美はイライラし始める。


「たまたまよ。親が西国人だからじゃないの。ほんと、胡椒臭い女」

「えー。そうかなあ」

「そうなの!」


 郭蒼樹を追いかけて柳紅美は軍師省に入ってきた。元々、柳紅美は女教師を目指していた。いづれは郭蒼樹に嫁ぐつもりだった。両親に話せば、まとめてくれる縁談だろう。

しかし郭蒼樹が軍師省に入ってから、朱星雷の話ばかりするようになった。軍師省の同窓ということでてっきり男だと思っていたが、女だった。


 郭蒼樹の様子を見れば、朱星雷に恋をしていることは一目瞭然だった。朱星雷が結婚し、人妻になっていても気持ちは変わっていないように見える。

 このままでは縁談の話を持ちだしても、郭蒼樹は何かと理由をつけ断ってくるだろう。今日も、星雷に恥をかかせてやろうかと思ったが失敗した。


「蒼兄もあんなにかばわなくても……」

「何か言った?」

「何も。あんたは蒼兄に顔は似てるけど中身はとんまよね」

「なっ! 軍師試験に受かってるんだぞ?」

「あたしもじゃない」

「そ、そうだな」

「まあ、まだまだこれからね」

「そうだな。良策を考えねばな」

「……」


 とんちんかんな郭文立の相手をするのはやめ、柳紅美は、星羅の失脚について策をめぐらせている。



85 西の駐屯地

 西国に隣接する駐屯地では、気候も温暖でからっと晴れる日が多く、飢饉の懸念が中央よりも薄い。都から、倹約と備蓄をいつも以上に心がけるべしと通達が来たが、表面的に命令を守るだけで危惧するものは少なかった。


 陸明樹の妻、星羅からの手紙には今回の冷夏は曹王朝最大の国難となるだろうと書かれてあった。珍しく不安な様子の手紙に、明樹は他の兵士に比べ状況を重く見ている。


「もうすぐ帰るからな」


 明樹の任期はもうひと月で終る。星羅と息子の徳樹にもう少しだと自分の中で言い聞かせながら日々、職務に励んでいた。ところが来週任期が明けるというところで、後輩の部下から誘いがかかる。


「兄貴。来週には都に帰るんでしょ? 今のうちに遊びに行っておきませんか?」

「遊び? 妓楼なら興味ない」

「相変わらずですねえ。せっかく西国の女と遊べるってのに」

「俺はいいよ」

「まあまあそういわずに、美味い咖哩も食べられるって評判なんですぜ?」

「咖哩?」

「病み付きになるらしいっすね。おれ食べたことないんすよ」

「ふーん。咖哩か。じゃあまあ日の高いうちになら行ってもいいか」

「そう来なくっちゃ」


 後輩が熱心に誘うので、この駐屯地での最後の娯楽と思い出かけることにした。


 その店は関所の門の外すぐそばにある。国境に位置するが西国の店だ。西国と華夏国を行き来する客が、ここに立ち寄り、しばし西国との別れを惜しむか、初めて西国の文化に触れるかになる。またこの関所を守る兵士たちの中に常連もいる。門番の兵士が顔見知りであれば、兵士たちにとってその店に行くことは容易い。

 さすがに西国から入国するものと、華夏国から出国するする者に対してはきちんとした検問が行われるが、平和な今、兵士の行き来は気楽なものだった。


 門番にちょっとそこの店に行ってくると告げると「どうぞ、楽しんできてください」と笑顔で見送られる。明樹は苦笑して、後輩と門をくぐった。

 馬に乗るまでもなく近場にその店はあった。宿屋も兼ねているようでほどほどに大きい。門の上についている看板には、西国のくねった蛇のような文字と一緒に、漢字で『美麻那』と書かれてあった。


 今は繁忙期ではないようで店の中は空いている。明樹たちに気づいた西国の女人が大きな声と身振りで「ようこそ!」と出迎えた。艶やかな褐色の肌を持つ女を見て、星羅の母、京湖を思い出す。思わず星羅がいるのではないかときょろきょろと見回してしまった。


「兄貴、どうかしました?」

「いや、ちょっと知り合いに似てたので」

「あら、兄さんは西国の女に知り合いがいるの?」


 店の女は、肌が透けるような薄い衣をひらひらさせて尋ねる。


「あ、まあ、ちょっとね」

「兄貴もお安くないなあ!」


 妻の義母が西国人だというのは面倒なので適当にごまかしておいた。


「ご注文は?」

「咖哩飯を頼む」

「飲み物は?」

「あの、紅茶に乳と香辛料をいれたやつを」

「チャイね」

「じゃとりあえずそれで」


 女が厨房に入っていくと後輩の兵士が感心している。


「兄貴は慣れてますねえ! ほんとはよく遊びに来てたんじゃないんすか?」

「たまたま知ってただけさ」


 明樹は星羅が作ってくれていた咖哩と茶乳を思い出していた。彼女が言うには咖哩は作る人によって味が違うらしい。きっと星羅の作る咖哩が一番だろうと思い、雑談をして待っていた。後輩の兵士は、まだ任期が残っているらしい。


 また別の女が咖哩を運んでやってきた。同じ女人かと思ったが衣装の色が違う。西国人から見た華夏国民はみんな同じようなのっぺりした顔に見えるというが、逆もまた然りで、西国人の彫の深い顔立ちは同じように見える。


「どうぞ」


 咖哩とチャイをテーブルに置き、女も席に着く。


「何か?」


 明樹が尋ねると「兄貴、ここはそういうところなんで」と後輩の兵士が嬉しそうに言う。


「じゃ、そっちに座ってくれ」


 女に後輩の隣に座るように促した。女は黙って言われたとおりにし、笑顔を振りまき後輩の肩に腕を乗せる。にやけている彼を横目に明樹は咖哩を頬張る。


「なかなかうまいな。ちょっと星羅のより辛いか」


 辛くなってきたので茶乳を一口飲むと口の中に甘みが広がった。皿を半分ほど空にした時、明樹の感覚と記憶は飛んでいた。


「あれ? 俺は店にいたはずでは?」


 いつものように狭苦しい寝台で目が覚めた。


「いつ帰ってきたんだ」


 身体を探るが何も異変はない。上着はいつものところに掛けてある。金をとられた様子もない。


「おかしいな」


 変だとは思うが、何も変化のないいつもの朝だ。もうしばらくすれば都に戻るということで明樹も深く追及しなかった。しかし彼は今日も後輩に誘われ、咖哩を食べに『美麻那』に行くだろう。



86 行方不明


 もうじき夫が帰ってくると星羅は、国難のさなか明るい気持ちでいた。陸家でも、珍しく絹枝が溌溂としている。


「やっと帰ってくるのね。徳樹も貴晶もすっかり大きくなったわね」

「貴晶さんは徳樹を弟のようにかわいがってくれますね。寝かしつけも上手で」

「ええ。今きっと一緒になって眠りこけてると思うわ」


 亡き陸慶明の側室、春衣が生んだ貴晶は5歳になっている。貴晶には春衣のことを話してはおらず、絹枝が実母として彼を養育している。

 家事も育児も不得意な絹枝は、明樹の育児にはほとんど乳母に任せたようだが貴晶のことは自分で面倒を見ているようだ。


「貴晶はほんとうに利口な子でね。利発な春衣によく似ているわ」

「お義父上にも似てますし、お義母上の養育もいいんだと思います」

「そう? だといいわねえ」


 絹枝は教師として多くの女学生を導いてきたおかげか、実の子でない貴晶を疎んじることなく、その才を認め育てている。


「あの、こんなこと聞くとちょっとどうかと思うけど……」

「なんでしょうか」

「星羅さんは、実のお母さまが恋しくはないのかしら?」

「うーん。恋しいとは思ったことがないです。京湖かあさまがいてくれたから」

「そうなのね。いえね。いつかは貴晶に母親のことを話さねばと思うんだけど、知ったら私のことを嫌になったりするかしらね。ほら、実の母親じゃないくせに母親面するなとか……」 


 絹枝はこれからの貴晶との母子関係を心配しているようだ。


「大丈夫ですよ。わたしは京湖かあさまを心から母だと思っています。晶鈴かあさまも勿論母だと思ってますけど。そういえば子供のころに兄が、星羅にはかあさまが二人いるねって言ってくれました」

「なるほどねえ」


 複雑な生い立ちの星羅の想いにしみじみと絹枝は感じ入っていた。


「ありがとう、星羅さん。私はできることを貴晶にするわ」


 晴れやかな笑顔を絹枝は見せた。池のほとりの東屋で、久しぶりにゆっくり過ごす二人のもとへ、慌てた様子でバタバタと若い兵士がやってくる。

「夫人!」


 息が上がっている兵士にとりあえず水を飲ませ、星羅は一体何があったのかと尋ねる。


「こ、こちらに竹簡が」


 胸元から竹簡をとりだし、星羅に渡す。兵士が呼吸を整えている間、星羅と絹枝は竹簡に目を通す。


「はあぁっ」


 内容を確認してしゃがみ込んだ絹枝を星羅は支えた。星羅も倒れてしまいたいぐらいだった。中には明樹が3日前に行方不明になったと書いてある。赴任先まで早馬を飛ばしても10日はかかる。つまり明樹がいなくなってもう2週間になるのだ。

 落ち着いた兵士は口をぬぐいながら説明する。


「陸殿は先週、任期が終わる予定だったのですが、ある時ふっつりといなくなってしまったんです。最後に門番が国を出たのを見たらしいですが」

「国を出るって? 西国に向かったってこと?」


 机に突っ伏して頭を抱えている絹枝の背中を撫でながら、星羅は震える声で聞いた。


「西国というか、門のそばに宿屋があるんです。陸殿は最近、そこへ通っていたらしくて」

「宿屋? 宿屋に何があるの?」

「あの、その」

「はっきり言って」

「宿屋でもありますが、妓楼でして……」


 その話を聞いて、絹枝が身体を起こす。


「まさか! 明樹さんがそんなところに行くわけないわ!」

「お義母上、どうか、落ち着いて」


 星羅は興奮して立ち上がりかけた絹枝を腰掛けさせる。


「は、はい。陸殿はそのようなところで遊ぶ方ではありません。し、しかし……」


 星羅にも明樹が妓楼で女遊びすることなど信じられなかった。


「その店を捜索したの?」

「捜索というか、西国の領土になりますので、店の者に聞くくらいしか……」

「店の者はなんて?」

「立ち寄ったが、そのあとは知らないと」

「そう……」


 母の胡晶鈴につづいて、夫の陸明樹まで西国で行方不明になってしまった。


「ありがとう。帰っていいわ」

「はっ! 失礼します」


 若い兵士は拱手して下がった。ちょうどその時、貴晶がやってきた。利発そうな瞳と広い額をみせ「徳樹が起きました」と星羅に告げる。


「ありがとう。見て来るわ。貴晶さんはお母さまをお願いね」

「はい。どうしたのですか? かあさま。頭でもいたいのですか?」


 貴晶は小さな手を絹枝の額にのせ、心配そうに見つめる。


「貴晶さん……」


 絹枝はその小さな手をとり、しっかりと彼の身体を抱きしめていた。星羅は暖かそうな二人の様子を見ながら徳樹のもとへ行く。

 大きな籠に入っている徳樹は機嫌良さそうにほほ笑んでいる。


「明兄さま……」


 笑った顔が明樹にそっくりだ。


「もうわたしは子供ではない」


 星羅は徳樹を抱き上げ、ぬくもりを感じる。そして明樹を探し出す決心をした。

 

87 旅路

 馬を走らせ星羅はまっすぐに明樹の駐屯地を目指す。旅の供は馬の世話係の許仲典だ。


「星羅さん! 次の宿で休まねばだめだ」

「もう? もう少し行けないか?」

「無理だ。馬がもう走れねえ」

「そうか……」

「んだ」


 許仲典の言うとおりにして、宿屋に泊ることにした。

 


――星羅は夫の明樹を探しに行くために、軍師省に休職願を出す。叶わねば辞職も覚悟の上だった。誰もいい顔をしなかったが、決心の堅い星羅に大軍師、馬秀永は西へ向かうことを許可した。唯一、星羅を煙たがっている柳紅美だけは、喜んでいた。


「退職になっても構いません。また試験を受けますし」

「わーっはっは。最高点でも更新する気か?」


 教官の孫公弘が豪快に笑う。


「俺がついて行ってやりたいが」

「おいおい。軍師省から二人も抜けられると困るだろう。ただでさえ少数精鋭なのに」


 郭蒼樹の言葉には孫公弘は青ざめる。


「残念だ。しかし一人ではだめだ。誰か、連れていけ。そうだ、許仲典がいいだろう」

「許仲典さん? 馬係の?」

「ああ、そりゃいい。そうしろ」


 許仲典の一族は元々、高祖に仕える将軍の家系だった。忠臣だった一族は、国が平和に落ち着くにつれ、自分たちの役割も終わりだと悟り中央から退いていく。気性ものんびりとしており、野心もない許家の過去の栄光を知るものは郭家など、もう一部のみだった。

 許仲典の忠義心といざというときの武力、そして馬を知り尽くしている彼は星羅の供にぴったりだ。彼に、星羅の供の話をすると二つ返事で快諾した。許仲典は主君を得たと拱手し、初めて鋭い目を見せた。


 都から離れ、小さな町が点在し始めるとなんだか星羅は懐かしい気がした。まばらな木々、舗装がなされてない、でこぼこの轍だらけの道。もう記憶には残っていないが、実の母、胡晶鈴と別れ、朱家の家族と旅した風景に似てるのかもしれないと星羅はあたりを眺めた。


「どうしただ? 子供が心配か?」

「ん? いや、徳樹はかあさまが見てくれているし、心配ない。ちょっと懐かしい気がしただけ」

「そうかそうか。さ、宿が見えてきただ」

「うん」


 小さな宿に着くと、許仲典はすぐさま馬を繋ぎ、水をやる。星羅が宿屋の主人に話をつけ終わると、馬たちはすでにゆっくり休んでいた。


「ごめんね。いっぱい走らせて」


 今回の旅には馬の優々は連れてこなかった。郭家から一日で千里を駆けるという名馬、汗血馬を2頭借りている。それでも途中で馬を変えねばならないだろう。


「馬は役に立って喜んでいるだよ」


 にこやかな許仲典に星羅は気が安らぐ。


「ありがとう。仲典さんがいなかったら馬を乗りつぶしてしまっていたかもしれない」

「んー。馬は優しいからなあ。星羅さんが走れと言えば倒れるまで走ってしまうかもな」


 馬の優々は倒れて泡を吹くまで、星羅の言うとおりに走るのだろうかと思うと胸が痛んだ。


「まあまあ。おらたちも飯食って寝るべ」

「だね」


 はやる心を抑えて星羅は食事をし寝床についた。駐屯地まではほぼ一本道なので迷うことはない。華夏国の中央を横断する道は、国境沿いに比べ、治安もよく盗賊もおらず安全だ。しかし飢饉の影響が出ているので、宿屋の食事は粗末で少なかった。


「仲典さん。私のも良かったら」


 大きな体格の許仲典に、星羅は自分の椀を差し出す。


「いらねえいらねえ。星羅さんこそ、ちゃんと食べないといけないぞ」

「あんまり腹も減らないのだよ」

「だめだだめだ。ちゃんと食っておかねば。おらはこう見えて10日間くらい水だけで平気なんだぞ?」

「え? 10日間水だけ?」

「んだ。ご先祖様もそうだったらしい。だけんど、食べるときは象のように食べるんだって」

「へえ。象のように。食いだめできるなんて駱駝みたいだ」

「まあ、象も駱駝もみたことがねえけどな。わははっ」

「食べられるときにはちゃんと食べておかねばならないということね」

「んだ」


 迫る飢饉に国に仕えず、夫を探す旅に出ることに罪悪感を持たなくもない。星羅は高祖にあこがれ、軍師を目指したのに自分がとても身勝手だと思えてしまう。

 暗い表情をする星羅に、許仲典は良く気づき「どうしただ?」と聞いてくる。邪気のない彼の問いに星羅はついつい自分の気持ちを話すようになっている。


「そりゃあ、仕事の代わりはいっぱいあるけんど、旦那さんの代わりはないど」

「だよね」


 思い悩むことを、明るく肯定してくれる許仲典に星羅はいつの間にか心をすっかり許していた。許仲典もこんなに親しみを持ち、敬意を払われたことはなかった。先祖が高祖の忠臣であったことで、許家に敬意をはらわれることはあるが、馬の世話係である彼自身に対してではない。許仲典は星羅が危機に見舞われたなら命に代えても守る覚悟を持っている。


88 捜索


 朝なのか夜なのかわからないずっと薄暗い部屋で、陸明樹ははっきりしない頭で横たわっている。狭く寝台しかない部屋はずっと甘ったるい香が焚かれ続けていて、時々やってくるやせ細った若い女が明樹を世話しにやってくる。


「どうぞ、ダンナ様」

「う、うう……」


 明樹は腹が減っているわけではないのに、女が匙を口元に持ってくると粥のようなドロドロしたものを啜ってしまう。椀を一つ平らげると、女は明樹の着物を脱がせ、身体を清拭し始める。そのころにはまた思考がぼんやりし始め、女にされるがままになり、何かを問われたら従順に答える日々だった。



 許仲典を伴い、星羅は明樹の勤務先にやってきた。この地を守る県令に面会を頼むとすんなり通され、事情を聞くことができたが書簡と同じ内容で詳しいことは何もわからなかった。


「調査はもうしてないのですか?」

「なんせ、西国の領土なのでなあ」


 平和ボケしたような県令は、とにかく何事も起こらないように穏便に済ませたいらしく、西国に掛け合うこともしないようだ。中央と違い辺境では、身代金を目当ての盗賊による誘拐はある。身代金の要求であればとっくに届いていてもいいはずだがそれはない。

 星羅が独自に調査するしかなかった。


「問題を大きくすることは辞めてほしい。国交問題になると今は特に厄介なのでな」


 男装をしている軍師の星羅を見ると、何か事を起こしそうに見えるのだろう。県令は、くぎを刺す。


「わかってます。大それたことはしません。夫の命に係わるかもしれませんし……」

「頼む。陸副隊長が使っていた家はそのままにしておるので」


 とりあえず、明樹が住まいにしていた家に赴き、これからのことを考えることにした。


「仲典さんはそちらの部屋を使って」

「んだ。星羅さんは少し休むといい。おらは馬を世話してくる」

「わたしも行くよ」

「いいや、おらだけでいい。まだまだこれからなんだから休んだほうがいい」


 許仲典の言うように、ろくに休まずにここまでやってきたので星羅は疲労困憊だった。明樹の使っていた寝台に横たわるとすぐに星羅は眠りに落ちていった。


 美味そうな香りに気づき、星羅は目を覚ます。


「あっ、ここは?」


 起きて見回し、明樹の部屋だと思い出す。起きだして美味そうなにおいがする台所のほうへ向かう。大きな身体の許仲典がかまどで何かを煮炊きしていた。


「仲典さん、何か作ってるの?」

「ああ、起きただか。もう出来上がるからそこに座るといい」


 星羅が席に着くと、許仲典は深鉢を机の真ん中に置いて、小皿を出した。


「美味そうな角煮だね。すごい。仲典さんは料理が上手いんだな」

「いやあ、いい豚が手に入ったから、ちょっと煮込んだだ。さあ、熱いうちに」

「うん」


 熱い肉の塊は口の中で柔らかくほぐれ消えていく。まるで許仲典その人のように、料理は星羅に優しくさりげなくしみ込んでいく。それと同時に明樹のことが心配になる。


「ちゃんと食べているんだろうか」

「きっと食べてるさ」

「だと、いいな」

「ほら、もっと食べろ? 旦那さんを探すのに体力いるぞ」

「そうだね」


 回復を感じた星羅は、まず家の中を調べる。小さな家は土間の台所と3つの部屋があり、特に何か変わった様子はない。おそらく寝に帰ってきているだけであろう。着るものと書物が少しあるだけだ。何の手がかりも得られないので、西国領土になる国境付近の店を尋ねることにした。


 門番に事情を話し、星羅は自分の通行証を見せる。若い門番は軍師である星羅に恐縮して通行を促す。


「あの、夫に何か不審な様子はなかったかしら?」


 門番の若い男はうーんと首をひねり記憶をたどる。


「なんでもいいの。些細なことで」

「ああ、そう言われると、陸副隊長は行きは明るく話しかけてくれるのですが、お帰りの際は無言で誰にも声を掛けずにお帰りになってました」

「無言で……」


 きさくな明樹が無言で門を通り抜けるのはおかしい。店の場所を聞き星羅は、許仲典とともに向かう。華夏国を覆う長城沿いの一本道を進みすぐに店は見つかった。長城を抜け、西国の領土になると途端に砂漠地帯が増えているので星羅は驚いた。日差しが強く、空気も乾きカラッとして熱い。西国の端であるが、京湖の生まれ育った国なのだと思うと感慨深い。


「ここね」


 漢字で『美麻那』と看板に書かれた店を見つける。看板がなくてもこの店一軒しか周囲にはないのですぐにわかるだろう。

少しでも明樹の形跡を見つけようと、星羅は意気込んで店の中に入った。  




89 『美麻那』  


 扉は開いていて、ひらひらと何枚もの鮮やかな荒い布が垂れ下がっている。手でくぐり中に入ると、やはり華夏国と違う明るい色合いの机と椅子が並んでいる。壁には極彩色で描かれた、象や孔雀、人物画などが飾られている。


「ちょっとおらは落ち着かねーぞ」


 腰掛ける許仲典は珍しく緊張気味だ。この西国の色合いが肌に合わないのだろう。


「そう。たぶん華夏国民なら慣れないかも。あたしは家族が西国人だから結構平気」

「目がチカチカするだ」


 客は他におらず二人きりだ。座ってしばらく経つと店の女がやってきた。年配のふくよかな女が「あら、こんな時間に珍しいわね」と星羅の肩に手をかける。


「ああ、すまない。営業時間じゃなかったか?」

「そういうわけじゃないんだけど、この時期、この時間にお客はめったにないのよ。ご注文は?」

「カリーとナンとチャイを」

「あら、珍しい」

「え、みんな何を食べるんだ?」

「いいえ。注文はみんなカリーとチャイだけど、華夏国の人はナンをあまり頼まないのよ」

「そうなのか」

「それと、発音が綺麗だわ」

「それはどうも。この店は開店して何年になる?」

「20年越したところよ。じゃ、お待ちになってて」


 長年開店しているこの店に、特に怪しいうわさなどない。新しくぽっと出の店などは、盗賊の根城になっていることもあるが、その場合すぐ噂に上るので店自体もすぐに解体される。

 運ばれてきた咖哩はふんだんにスパイスが使われ、食欲を刺激する。美しい輝くような黄金色のナンは香ばしい香りを放つ。


「おらあ、初めてだ!」

「さ、熱いうちにどうぞ」


 女は星羅の隣に腰掛け食べる様子を眺める。


「いや、隣につかなくていい」

「あら、最近そういう人が多いのねえ」

「そういう人?」

「ここは宿屋でも食堂でもあるけどね。男に楽しんでもらう店でもあるのよ? この前も食事だけの男が何回か来たわね」

「ふーん」


 その男はきっと明樹だろうと星羅は推定する。咖哩を一口頬張った許仲典が「んん?」と変な声を出す。


「お口に合わないかしら?」

「いや、そうじゃねえんだが」

「仲典さんには刺激が強い?」


 星羅も一口放り込む。確かに何か舌に違和感を感じる。許仲典は手を付けるのをやめている。なんだか食べ進めることに不安を感じる。


「あの、香辛料は何が使われてる?」


 こってり化粧を施した女に尋ねると「さあ、あたしが作ってるんじゃないからわからないけど」と立ち上がって後ずさり始める。

 星羅と許仲典も、怪しい女の動きを見て立ち上がる。


「二人を取り押さえて!」


 女が厨房のほうに怒鳴ると、ガタイの良い男が数人やってきた。男たちは半裸で曲刀を手にしている。髪を束ねることなく無造作に伸ばしている。


「星羅さん! 逃げるだ!」


 数人の男めがけて許仲典は腰から剣を抜き、飛び込むように切りかかった。彼が男たちと戦っている間に逃げるチャンスはあったが、許仲典を置いて逃げることはできなかった。自身も剣を抜き応戦する。

 腕っぷしと勢いのいい許仲典が半数の男をなぎ倒し、星羅たちが優勢に見えた。


「あんたの夫が死んでもいいのっ?」


 女の叫ぶ声で、星羅の動きは一瞬止まり、男によって剣を叩き落された。


「あっ!」


 一瞬で形勢は逆転してしまう。星羅の喉に曲刀を当てられては、許仲典も剣を置くしかなかった。


「仲典さん、ごめん」

「いや、おらはいい……」


 縛り上げられた二人は女の指示で、食堂から奥の部屋に連れていかれた。細い廊下は石畳で砂埃をかぶっている。黄砂がひどく掃いても掃いても入ってくるのだろう。

 大人しく歩いている星羅の耳に男の呻く声が聞こえた。聞き間違えることのない明樹の声だ。星羅が気づいたことに気付いた女が「心配しなくていい。とにかく大人しくしてね」とにやりと笑う。


「会わせて」

「いいわよ」


 女は明樹のいる部屋へ星羅を連れていく。


「どうぞ」


 部屋には扉はなく布一枚で廊下と隔てられている。すぐにも逃げ出すことができそうな部屋の作りに疑問を持ちながら星羅は中に入る。


「あなた!」


 寝台にはやせ細った明樹が横たわっている。髪はまとめられておらず、半裸の身体に流れている。身体を縛られたまま星羅は寝台に駆け寄り、明樹に何度も声を掛ける。


「あなた、あなた」


 閉じていた目を開いたが明樹の視線が定まっていない。


「う、うう」

「しっかりして、星羅です!」

「せい、ら?」

「ええ!」

「それより粥を……」

「粥?」

「うう……」


 何もまともに答えてくれず、星羅のこともよくわかっていないような明樹の様子にまさかと女を睨みつける。


「怖いわ。そんな顔して。命に別状はないのよ?」

「麻薬を使うなんて……」

「拷問なんかよりもいいと思わない?」


 さっきの咖哩もおそらく麻薬を盛られていただろう。許仲典の野性的な味覚が違和感を感じたのは偶然ではない。本能的に危機感を感じたに違いなかった。


「目的は何?」


 虚ろでやせこけた明樹を涙をこらえてみていたが、涙声になっている。


「安心して命でもお金でもないから」

「では何!?」

「ごめんなさいね。それはあたしもよく知らないの。とにかく上からの指示でずっとここに店を出してたのよ。あなたが来るまで」

「わたし?」


 女の狙いは星羅だったが、とらえる理由を知らない。彼女は指示されているだけのようだ。それでも明樹をこんな状態にした女を許せるわけもなく、憎しみが増していく。


「さて、もう一人の男に書状を持たせて解放するわ。しばらく夫婦の対面をしててね」 


 見張りの男を一人置いて女は出ていった。


「あなた……」


 星羅の呼びかけに明樹は壁を見たままぼんやりとしている。近寄って頬を彼の手の甲に乗せたが反応はない。痩せた手は筋張りかさつき、体温を感じない。自分の流す涙の熱さを星羅は初めて知った。

     


90 交換


 軍師省に届けられた書状には、陸明樹とその夫人星羅を、朱京湖と交換したいという内容が書かれてあった。更に、交換に応じれば、華夏国の飢饉に食料の援助も申し出ると書かれてある。しかし断れば、もちろん明樹と星羅の命はないし、いつでも出撃の準備ができていると脅迫文もあった。華夏国の飢饉がすでに西国に知られているようだ。


 星羅の養母の朱京湖を西国が欲するのか理由が分からない軍師省は、朱家に赴き状況を話す。使者には、星羅と親しい郭蒼樹が出向いた。

 なかなか帰ってこない星羅の代わりに、郭蒼樹が訪れると、京湖は悪い予感が当たったような表情で彼を出迎える。そして事情を聞いたとき、目の前が真っ暗になった気がしてしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですか」

「あ、あ、ええ」


 郭蒼樹は京湖の手を取り、椅子に腰かけさせる。


「どうして西国があなたを欲するのでしょうか」

「20年以上経っているのに……」


 京湖は震える声でここまで来た経緯を話す。もう古い過去のような話で、自分自身でさえ、なぜ華夏国に住んでいるのか忘れるほどであった。

 郭蒼樹も一人の男が20年以上も京湖を手に入れるために画策していたことに驚く。だが、その執着心を京湖には悪いが、なくもないと思っていた。


「どうしますか」


 聞くまでもなく答えは決まっているが郭蒼樹は尋ねるしかなかった。華夏国としても、朱京湖が西国に帰国してくれないと都合が悪い。


「行きましょう。すぐにでも。あ、でも夫と息子に別れを告げたいから2日ほど待ってほしいわ」

「ええ。早馬で西国には返事をしておきます」


 京湖は覚悟を決めて西国に帰る。夫の彰浩も息子の京樹も引き留めはしないだろう。


「娘には絶対に手を出させないわ」


 星羅は京湖にとって本当に愛しい娘だ。その娘を救うために命も投げ出しても惜しくはない。20何年か前には、星羅の生みの母、胡晶鈴が自分の身代わりになってくれた。その恩も返さねばならない。


 今夜、悲痛な家族の別れ話になるだろう想像はつくが、京湖をだれも止めることはできない。郭蒼樹を見送って、京湖は安穏と過ごした小屋を見渡す。昼寝をしている徳樹を見に行くと、幼いころの星羅の顔を思い出す。


「ごめんね。もうおばあさまは徳樹を抱っこしてやれないかも」


 幸せな日々が終ってしまうと京湖ははらはらと涙を流す。しばらく感傷に浸っていると外で馬の泣き声が聞こえたので表に出る。

 馬を柵につなぎ、走ってくるものがいた。星羅の舅である陸慶明だった。息子夫婦の消息と、交換の話を聞いて急いでやってきたようだった。


「陸殿……」

「今、聞いて。西国に帰られるのですか」

「ええ。それしか二人を救うことはできないので」

「残念だ」


 一番事情を知っている慶明も、何の手立てもなかった。


「もう、ここには戻れないでしょうね。徳樹をしばらく陸家で預かっていただけませんか?」

「もちろん」

「よかった……」


 話し合えることは何もなかったが、京湖は西国にいる、自分を蛇のようにしつこく手に入れようとする男を思い出し身震いする。


「ほかに私にできることが何かあれば」

「ありがとうございます、もう、特に……」

「そうですか……」


 頭を下げて去ろうとする慶明を、京湖は引き留めた。


「あの一つだけお願いが。ほしいものがあるのです」

「なんでも」

「毒を」

「毒?」

「お願いです」


 死をも覚悟している京湖に怖いものは何もなかった。


「わかりました。明日中に用意しましょう」


 慶明も毒を何に使うかなど詮索はしなかった。ただ彼女の要望通りに、すぐさま調合し渡すだけだ。


「さあ、食事の支度をしないと」


 明後日にはもうこの家を出る。それまで出来るだけ日常生活を味わっていたかった。

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