第8話

71 公主たち

 側室の中で最も可憐だと評価の高い申陽菜の住いは、多種多様の花が植えられており、年中、常春のように感じられる。王太子の曹隆明以外の男で、王族の夫人たちの住まいを出入りできるものは、医局長の陸慶明のみだった。

 ほっそりとした白い手首を差し出し、申陽菜は目を細めしなを作り「どうかしら?」と甘い声で慶明に尋ねる。


「残念ながら懐妊の兆候はありません。しかし、とても健やかであられます」

「ふーん」


 つまらなさそうな表情で、すっと腕を下げ着物の袖を降ろした。ほっそりした白い手足を見せびらかすように、できるだけ柔らかく薄く透ける着物を何枚も重ねている。それぞれの着物には違う香料を焚き込め、複雑で怪しく淫靡な雰囲気を演出している。


「何か気になることはありますか?」


 慶明は軽く問診し、申陽菜の顔色を眺める。特に何も悪いところはないだろうと診断し、いつもの彼女のために処方した肌を滑らかに保つ薬を侍女に渡す。


「ねえ、陸どの。杏華公主のお加減はいかが?

「それは、その……」


 王太子妃、桃華が生んだ第一公主の杏華は生まれつき身体が弱く、成人しても丈夫にならなかった。当時の医局長の見立てでは成人に達することができないと、秘かに慶明にだけ告げられていた。今、病みがちではあるが、なんとか生き長らえているのは、慶明の滋養強壮剤によるものだ。それでも、常に油断できない虚弱体質だった。流行り病などにかかってしまえば、打つ勝つことはできぬだろう。


「相変わらずってことね」

「は、はあ」


 もしも杏華公主になにかあれば、申陽菜の産んだ晴菜公主が第一後継者になるのだ。そうなれば王太子妃になることは桃華がいるので叶わなくとも、王太子妃と同等になるだろう。

 慶明には、申陽菜が何を願っているかもちろん分かっている。彼女は贅沢趣味なので立場が上がれば、生活水準を上げさせようとするに違いない。善政を敷いてきた曹王朝が、妃一人の贅沢で倒れることはないが、王朝の存続のために妃の散財は常々懸念されていることだ。


 杏華公主が亡くなると、年功序列で決まる次期後継者は星羅になる。そのことを慶明は誰にも言うつもりはない。王太子の曹隆明も公言することはないだろう。ただ隆明が王になった時、胡晶鈴が王妃、星羅が王太子になればこの王朝の心配はないだろうと夢を見る。きっと隆明も同じ気持ちだろう。


「ああ、そうそう。今度軍師助手に上がってきた朱星羅というものを知ってるかしら?」

「え?」


 いきなり星羅の名前が挙がり、慶明は思わず申陽菜を凝視してしまう。華奢で可憐な容貌の申陽菜から出る言葉は、鋭く冷たい。


「そのものが何か?」

「どうも見習いの時から、隆明様が気に入ってるらしいのよね。男だとばかり思っていたら女子じゃないの」

「はあ」

「ちょろちょろ目障りなのよね。代々軍師の郭家の息子と一緒に呼び出しているけど、なんだか見過ごせないわ」


 隆明は娘である星羅と一緒に過ごしたいのであろう。二人きりにならないように注意しながらよく会っているようだ。


「あたくしよりもあの娘と会っている時間のほうが長い気がするわ」


 申陽菜が星羅を煙たがっていることが分かった。これ以上機嫌を損ねると、申陽菜は星羅をもっと調べ上げようとするかもしれない。そうなると隆明も、自分も守ってきたものが崩れてしまう。

 咳払いをして慶明は静かに告げる。


「その娘ですがもうじき婚礼を上げるそうですよ」

「あら、そうなの? ふーん。人妻になるのねえ」


 とっさの嘘で慶明は、申陽菜の敵意を星羅からそらす。嘘とはいっても、妻の絹枝から相談を受けていた話だった。息子の明樹と星羅を結婚させたいと絹枝は希望していた。


「ええ、殿下がそのようなものと、いや、そうでなくても間違いを犯すはずはございません」

「まあいいわ。そうそう、最近顔にしみができてきたのよ。これもどうにかしてちょうだい!」

「次回までに何か用意しておきます」

「下がっていいわ」

「はい」


 毎回、美容に関することで注文を付けられて帰る。隆明の妃の中で一番、身なりと美容に気を配っている申陽菜だが、その努力は残念ながらあまり効果的ではなかった。



 慶明は医局に帰る前に、兵士の訓練所に向かう。静かな医局と違い、門の外からでも男たちの掛け声や怒声が遠くからでも聞こえてくる。門番の大男に、息子に会いに来たと告げ、身分証を見せるとすぐに通された。慶明は医局長ともあって、移動には輿を使っている。数名の男に運ばせている様子を見れば、彼の身分はすぐにでもわかるので、身分証を見せることは単に形だけだった。


 息子の陸明樹は順調に上等兵になっており、部下の訓練に勤しんでいる。訓練中なので胸当てくらいしか身に着けていないが、槍を振り回し、藁人形を突く姿は英雄の風格があった。久しぶりに見る息子の姿に感心して、しばらく訓練を黙って観ていた。そのうち兵士の一人が慶明に気づいたようで、明樹に話しかけた。慶明と明樹はよく似ているので、兵士たちにはすぐに慶明が父親だとわかったようだ。槍を部下に預けて明樹は走ってきた。


「父上。どうしたのですか? わざわざこんなところまで」

「いや、特に急ぎではないが、最近話していない思ってな。顔を見に来ただけだ」

「へえ。珍しいですね」

「まだまだ訓練中か」

「もう終えられますよ」

「そうか」

「一体何の話ですか?」

「うむ……」

「今日はまっすぐ帰りますよ」

「わかった。では、あとで」


 慶明は活気のある訓練所を後にした。明るく活発な明樹は部下にもよく慕われているようだった。武芸もなかなか達者なようだ。我が息子ながら、明樹であれば星羅を任せられると慶明は考えている。



72 縁談

 朱家では久しぶりに家族4人揃い、夕げの席では会話が盛り上がっていた。星羅が軍師見習いから助手に昇格する間に、兄の京樹はすでに教官になっていた。養父の彰浩もその腕を見込まれ、成形の主任となっている。夫と子供たちの話を、京湖は嬉しそうに聞いている。


「華夏国は女人の進出が目覚ましいのね」

「かあさま、西国の女人は違うの?」

「家事しかしないものなの。外に出ることは許されないわね」

「かあさまも外で仕事をしたい?」

「ううん。私は家事が好きよ。若いころは家事すらしたことがなかったのだから」


 ふふっと笑って京湖は立ち上がり、星羅を後ろから抱きしめる。彼女はスキンシップが好きで、感情が高ぶると側にいるものを抱きしめるのだ。


「ありがとう。星羅。私のことを気遣ってくれてるのね。私はこうやって家を整えて食事を作って、あなたたちの話を聞くことが大好きだわ」

「かあさま……」

「こんなに幸せな日が来るなんて思いもしなかった」


 目を細め微笑んでいる京湖を、見つめながら彰浩も笑んでいる。


「だから何も気にしないで。星羅は星羅の好きなことを頑張ってくれたら私はとても嬉しい」

「そう。それならわたしも嬉しいわ」

「ふふっ。じゃ、お茶でも淹れるわね」


 茶を淹れに席を立ち、京湖は台所へと向かった。星羅が食器を片付けていると、扉を叩く音が聞こえた。彰浩が立ち上がり「誰だろうか」と様子を見に行った。

 京樹も「客なんて珍しいね」と扉のほうを見つめる。朱家に客が訪れることがほぼないので、ちょっとしたイベントのようだ。

 彰浩がすぐに客を連れて戻ってきた。星羅はその客をみて「あらっ」と声をあげた。図書館長の張秘書監だった。


「やあ、こんな時間に失礼。皆さんがお揃いのところでと思ってたのでな」

「こちらへどうぞ」


 彰浩は客間に通し、椅子を差し出す。


「これはどうも。わしは座卓よりも椅子のほうが膝が楽でいい」


 ふっくらした腹をゆすって腰掛けると木製の椅子がぎしっとなった。朱家では床に座る習慣がないため、椅子生活だ。


「しかもなかなか座り心地がよい。どちらで手に入れたのですかな?」

「これは私が作りました」

「ほう! さすが官窯で一二を争う腕前ですなあ!」


 机も椅子も器用な彰浩の手作りだった。机や椅子も、彼の作る陶器と同じく飾り気のないシンプルで飽きのこないものだ。

 京湖がシナモン入りの紅茶を張秘書監に差し出すと彼は、また嬉しそうに「いい香りですなあ」と腹をゆすった。


「で、どのようなご用件で」

「医局長の陸慶明殿をご存じだと思いますが」

「ええ、もちろん」

「こちらを預かってまいりました」


 机の上に風呂敷包みを広げて中から書状をとりだす。竹簡ではなく、上等な紙の巻物だ。手渡された彰浩は中に目を通し「星羅、こちらへ」と後ろのほうで様子を見ていた星羅を呼ぶ。


「読んでご覧」

「はい」


 それほど長い文章ではないが、星羅を十分に驚かせる内容だった。


「あなた?」


 京湖が心配そうに声を掛ける。京樹も黙って様子を見守っている。


「星羅に縁談の話だ」

「縁談? 陸殿から?」


 いきなりの話に慌てる京湖に張秘書監が「いやいや、息子の明樹殿ですよ」と説明した。陸慶明が張秘書監を仲人に立て、息子の明樹との縁談を持ってきたのだった。


「いい話だと思うが、星羅の意思を尊重したいので」

「ええ、ええ。先方もそう言ってました。で、こちらは星羅殿に」


 星のような桔梗のような形の花がちりばめられた金細工のかんざしだった。店先では見られないような繊細な造りはおそらく特注品であろうと思われる。


「綺麗ねえ。とても星羅に似合うと思うわ」

「ええ、綺麗」


 紺色の布地の上で輝くかんざしはまるで天の川のようだ。しかし朱家の4人は突然の申し出にどう反応したらいいのかわからず、陸慶明からの書状とかんざしを交互に見るだけだった。


「では、これで。数日したらまた参りますので、その時にできたらお返事を下され」


 シナモン紅茶をうまそうに飲み干して張秘書監は立ち上がる。彰浩は彼を見送るため外に出ていった。固まっている星羅の肩に京湖はそっと手を置く。


「星羅。気に入らない縁談なら断っていいのよ? 陸家にはお世話になっているけど、気にしなくていいのよ」

「かあさま……」


 京湖の顔を見た後、星羅は京樹のほうへ目をやる。


「京にいはどう思う?」

「どうって……。星羅の好きにすればいい」


 そういった後、珍しく不機嫌そうに京樹は部屋に戻っていった。京樹の後姿を不思議そうに見ていた京湖はとりあえず今日はもう休むようにと星羅に告げる。

 星羅は言われるまま、部屋に行き寝台に横たわった。


「明兄さまと結婚……」


 まえに冗談で明樹が星羅を娶ってやると言っていたが本気だったのだろうか。結婚することに関しては肯定も否定もない。同級生だった女学生たちはもうほとんど結婚しているようだ。

 明樹のことを慕ってはいる。彼は明るく気さくで武芸にも秀でていて勉強も熱心だ。星羅が学生であったころ、彼にあこがれる女生徒は多くいて、星羅も素敵な男性だと思っていた。

 絹枝老師に会うために陸家によく訪れるようになると、明樹が気さくに声を掛けてくれ、いつの間にか軍師試験などの協力者になってくれていた。

 人柄も家柄も申し分ない縁談なので断る理由を探すほうが難しい。


「馬には乗ってみよ人には添うて見よ、かなあ」


 恋心は曹隆明によってはかなく消え去った星羅にとって、自分の気持ちを考えることはなかった。明日、郭蒼樹にも相談してみようと目を閉じた。眠りにつく瞬間に思い描くのは曹隆明だった。

 


73 婚礼

 真紅の花嫁衣裳を着て、迎えの花轎に星羅は乗り込む。輿の外から、この婚礼はどこの誰だとか、花嫁の姿はどうであろうかと賑やかに話す人々の声が聞こえる。星羅は外を眺めることもせず、陸家に着くまでじっと郭蒼樹のことを思い出していた。


――陸明樹との縁談話を郭蒼樹に告げる。


「いい話だと思う」

「そうか」


 この縁談には文句の付けようがなかった。


「油断した」

「何を?」

「星雷に縁談話などそうそうに来ることがないと思ってた」

「あ、うん、わたしもそう思ってた」

「もう隆明様はいいのか」

「いいというか、どうにもならないしね」

「あと、3年あればよかったのに」

「3年?」

「教官になったら、婚礼の申し込みに行こうと思ってた」

「蒼樹……」

「仕方ない。これも縁だろう。幸せになれよ」

「ありがとう」

「ああ、そうだ。婚礼衣装は徐忠弘に頼むといい。ここを去るとき、もしも星雷が結婚するなら衣装を用意したいと言ってたから」

「そうか。文をかくよ。あの忠弘も、蒼樹も来てくれるかな」

「行くよ。星雷の女装は見たことがないからな」

「女装!?」

「はははっ」


 乾いた笑い声をたてて郭蒼樹はその場を去った。彼の広い背中を見ながら、まだ自分を想っていてくれたことを知る。しかし星羅には蒼樹を軍師の仲間、またはライバルとしてしか見ることができなかった。


「ごめん……」


 以前のように、瞬間的に気まずくなっても次の日には普段通りに戻るだろう。



 ぼんやり考えていると輿が止まり「花嫁の到着!」と大きな声と歓声が聞こえた。星羅は養父の彰浩に手を取ってもらい輿から降りる。頭からかぶっている赤い紅蓋頭のせいで、周囲はぼんやりとしか見えないが大勢の人が祝福してくれていることはわかる。

布の隙間からは、彰浩の浅黒い手が見える。実の父ではないと言え、彼は星羅を慈しんでくれた。じっと彼の手を見ていると、肌にはもう艶はなく目立たないがシミがあることに気づく。スキンシップの多い京湖と違い、彰浩とはそれほど抱き合ったことはないが、よく手を引いてもらったことを思い出す。浅黒い肌に薄桃色の長い爪甲。角ばった大きな手は優しい陶器を生み出し、小さな星羅の手を包み込んでくれた。


「とうさま……」


 会えなくなるわけでないのに、星羅は寂しい気持ちでいっぱいになる。星羅のつぶやきが聞こえたのか彰浩もぽつりとつぶやいた。


「もう家に帰ってもいないのだな……」


 今まで聞いたことのない寂しそうで弱気な声を星羅は聞いた。思わず歩みを止めて、強く彰浩の手を握った。


「もっともっと幸せに……」


 わずかに力がこもった後、ふっと彰浩は力を抜き、すうっと星羅の手を上げる。星羅の指先にふわっと触れる別の人物の指先を感じた。


「大事にします」


 明樹だった。彰浩の手は離され、星羅の手は明樹の手の上に乗せられる。その手は大きく温かかった。


「よろしくお願いいたします」


 そう言って彰浩は後ろに下がる。思わず振り向きそうになった星羅の身体を、明樹がしっかりと支え「行こう」と歩き出す。

 星羅のエスコートが彰浩から明樹に変わると、歓声がまた激しくなった。大きな銅鑼の音が響き、笛の音や太鼓や鐘の音が鳴り響く。周囲が見えないだろう星羅に「ゆっくりでいいから、気を付けて」と時々明樹からのいたわりの声がかけられる。

 しばらく歩き階段をあがる。慣れているはずの陸家だが、今日は違う屋敷に来ているようだ。明樹の歩みが止まる。


「着いたよ」

「はい」


 2人は跪き、目の前にいる陸慶明と妻の絹枝に挨拶をする。これから夫婦として支えあい、慶明と絹枝に実の親のように仕えると星羅は宣言し、そして退出した。客たちはそのまま宴会が始まり、にぎわっている。

 星羅は明樹に手を引かれ、夫婦の部屋へと入った。寝台に腰かけた星羅の顔にかかる紅蓋頭を明樹はそっと取る。


「星羅……」

「明兄さま?」


 ぼんやりとする明樹に星羅は首をかしげる。


「いや、あの、ちょっと驚いた」

「何をです?」

「こんなに美しいとは思ってなかった」

「えっ」


 いきなり明樹は背を向ける。いつもと違う明樹の様子に星羅もなんだか、胸の鼓動が早まる。


「え、っと、これからもよろしく頼む」

「あ、はい、あの、お仕えします」


 ふうっと大きく息を吐きだした明樹は、振り返り星羅に笑顔を見せる。夫婦になってから初めて男女の意識を始める二人は、ぎこちなくも優しく温かく情を交わし始めた。


74 辺境

 結婚した後、陸明樹は小さいながらも屋敷を構える。忙しい二人のために家事をこなす年配の女中を一人だけおいた。陸家に一緒に住めばよいと慶明からも絹枝からも言われていたが、妻の星羅のためにやめた。軍師助手となった彼女は明樹から見ても才があり、国家になくてはならない人物だと思う。

陸家に入るときっと星羅の性格からして、絹枝や新しい使用人頭の補助に回ってしまうだろう。そうなれば星羅は陸家のことで手一杯になり軍師であり続けることが不可能になりそうだ。彼女の軍事的な才能を、個人の一家庭で使い果たしてしまうにはあまりにも惜しいと明樹は考えていた。


 建前としては妻の才能を発揮させたいといったものだが、本音は初々しく可愛らしい星羅と誰はばかることなく愛し合いたかった。星羅が女学生の時には気づかなかったが、父の陸慶明の星羅を見つめる様子が尋常ではないことも感じ取っている。使用人頭であった春衣を側室に入れてからはなんとなく収まっている気がしたが、ここのところやはり星羅に対して舅以上の想いが見え隠れする。薬師という立場を利用して、星羅に必要以上に触れている気がしていた。


「奥方が迎えに来ていますよ」


 部下の一人が冷やかすように明樹に告げる。明樹は余裕の笑みを浮かべて「お前も早く誰かを娶るとよい」と肩に手を乗せる。明樹の妻が軍師助手だということは、彼の周囲にはもちろん知れ渡っている。これから活躍するだろうと大きな期待をされている明樹と、華夏国のシンクタンクの一人である星羅の組み合わせは皆に一目置かれている。

 また明樹の明るく誠実な人柄と、星羅の控えめだが芯の強さを感じさせ、夫を毎日迎えに来る献身的な様子に皆、好意的だった。似合いのカップルだと祝福されている。


「あなた、お疲れ様です」

「うん、帰ろう」


 仲良く並ぶ後ろで、やはり部下たちがヒューヒューと囃し立てていた。星羅が振り向き頭を下げると、部下たちは照れ臭そうに頭をかいて引き下がる。


「あなたの部下たちは面白い方たちばかりね」

「ははっ。うらやましいのさ」


 明樹の明るい夏のような笑顔は、星羅をリラックスさせる。軍師省ではいつも緊張と緊迫感があり星羅はヒリヒリした感覚で仕事をしている。それが嫌いではないが、明樹といるとホッとする。


「明日は、揚梅さんはお休みだからわたしが咖哩を作るわ」

「ああ、久しぶりに食べたいと思ってたんだ。咖哩はなんか癖になるよな」

「ええ、かあさまの作る咖哩には及ばないけど」

「十分美味いさ。あ、でも米じゃなくてあの長細くて薄っぺらい面包(パン)にしてくれ」

「いいわよ。西国では面包(パン)とは言わずに饢(ナン)と言うそうよ」


 若い二人は仲睦まじく肩を寄せ合って暮らしている。ただ、もうじき明樹は西国に隣接している辺境での勤務が決まっている。

 以前、離れていても平気だという話をしたが、実際に夫婦になってみると、離れて暮らすことはとても寂しい。今一緒に暮らしている間に、できるだけ星羅は明樹に妻として尽くしていたかった。

 並んで歩く二人の影をわざと重ねてみたりする。手をつないでも一体化しないのに影はぴったりと一人の人物になったように見える。星羅は影になって明樹に重なって一緒にいられたらと願うようになっていた。

 

75 懐妊

 夫の陸明樹が辺境の地に赴任してしばらくすると、星羅は体調不良に見舞われる。胸がムカムカし、吐き気はあるが実際に嘔吐することはない。軍師省で吐き気を抑えるために手ぬぐいを口に当てていると、郭蒼樹が町医者でいいから行けと言う。


「おじさま、じゃなくて、来月にでもお義父さまに診察してもらうから平気よ」

「医局長じゃなくても、すぐに診てもらったほうがいい」

「そう? ここのところ蒸し暑いからそのせいだと思うけど」

「自分で気づかないのか……。とにかく早く医者に行くといい。薬局でもいい」

「何? なんだか思わせぶりね」


 いつもはっきり言う彼がやけに言葉を濁す。


「俺は専門ではないからな」

「そんなに言うなら、すぐにでも行ってくる」

「ああ、そうしろ」


 星羅は休憩がてら、外に出る。軍師省は都の中心部にあるので、どんな店でもすぐに探すことができた。薬局も少し歩けばぶつかる。薬を買う人々で賑わっているが、星羅の空色の着物を見るとすぐに店員がやってきた。


「これはどうも軍師さま。何がお入り用ですか?」

「あ、あのちょっと胸がムカムカするので診察とその薬でももらおうかな」

「は、はあ。胸がムカムカと。こちらにどうぞ」


 じろじろと星羅の顔を見て、店員は納得したような表情をし、薬の処方箋を書いている薬師のまえに座らせた。


「こちらの方の診察をお願いします」

「よしよし。手首を出してみなさい」


 年配の人の良さそうな薬師がニコニコと星羅の脈を測る。星羅は陸慶明以外に診察をされるのは初めてだ。自分を抱き寄せるほど近くで診察する彼と違って、この年配の薬師は伸ばした手でそのまま診察する。薬師によって診察の仕方に違いがあるものだなと感想を持つ。

 手を離した薬師がもっと笑顔で話す。


「おめでたじゃなあ」

「おめでた? なにがおめでたいんです?」

「そりゃあ、子供ができたことだ」

「え? 子供?」

「そうじゃよ。気づかなかったのかの?」

「子供……」


 仲の良い星羅と明樹だったが、無邪気な子供同士のような夫婦だったのでまさか妊娠しているとは全く予想していなかった。


「身体を冷やさんことと、根を詰め過ぎんようにな。腹がもっと出てくるまであまり動いてはならんぞ」

「あの、馬にも乗ったらだめですか?」

「馬に乗る!? だめじゃだめじゃ。馬車でもよろしくない。ゆっくり歩くか輿に乗るんじゃな」


 妊婦のための薬草をもらって星羅は薬局を後にし、また軍師省に戻る。


「どうだった?」


 落ち着かない様子を郭蒼樹が見せる。


「子供ができていた」

「やはりそうか」

「よくわかったね」

「それはそうだろう。結婚してしばらくして体調不良と言えば定番の出来事ではないか」

「はあ、なるほど」

「しばらく休むか?」

「いや、別に今のところ平気だろう。薬師も仕事をするなとは言わなかったし」

「まあでもあまり無理はするな」

「ありがとう」


 郭蒼樹は星羅の妊娠がわかってから、軽るかろうが物を運ぶことをさせなかった。仕事のサポートも大きく星羅はいつか彼に恩返しをしなければと考えていた。


 厩舎に行き、馬の優々のところへ行く。


「優々、しばらくあなたに乗れないみたい」


 優々は言っていることがわかるのかブヒンと寂しそうに顔を振った。


「おーい。星雷さーん」


 馬の世話係の許仲典が大きな体を揺らしながら走ってきた。


「こんにちは。仲典さん、いつも優々をお世話してくれてありがとう」

「いやあ、おらにできることってそれくらいだし」

「ううん。馬たちはみんな仲典さんが好きだもの。すごいことだわ」

「いやあ」


 嬉しそうな許仲典をみると星羅は気分が和む、しかし悪阻がなくなるわけでなかった。


「う、うぐっ」

「ど、どうしただ?」

「だいじょう、うぶっ、ちょっと気持ち悪くて」

「おら、薬師呼んでくるだよ」

「まって、平気。これ、あの悪阻なの」

「つわり? それってなんだったべか」

「子供ができたようなの」

「子供! それはめでてえ!」

「う、ぷ。ありがとう。だから平気なの」

「そうかそうか。そりゃあ大事にせねばなあ」

「だけど、しばらく優々に乗れなくなるみたいなの」


 星羅が優々の首筋を撫でると、優々は恨めしそうな目で許仲典に目をやる。


「おやまあ、それは優々がつまらないこった。よし。おらが時々、乗って散歩させてやっとくよ」

「そんな。ほかの馬の世話もあって忙しいだろうからいいわ」

「うんにゃ。ちょこっと走らせてやるだけだよ。重たいおらを長い時間乗せて疲れさせてもいけないし。なあ優々」


 優々は嬉しそうに前足で地面をかく。


「まあ! 優々ったら嬉しそうね。じゃあ無理のない程度でお願いします」

「うんうん。星雷さんは丈夫な子を産むんだぞ」

「ありがとう。まだまだ先だけどね」


 星羅は優々を連れてゆっくり歩いて屋敷に戻った。あいにく屋敷は、実家よりもずいぶん軍師省に近いので馬に乗らなくても歩きで十分ではある。

 明樹が僻地に赴任し一人になった屋敷は寂しいと思ったが、腹に子供がいると思うと明るい気持ちになる。


「明日、みんなに知らせに行かなくちゃ」


 陸家と朱家に子供ができたことを告げて回ることにする。


「驚くかなあ」


 星羅は明樹に文をしたためる。一言、子供ができましたとだけ。その一文をかくとより星羅に子供ができた実感がわいた。


「晶鈴かあさまは、わたしを身ごもった時どう思ったのかしら」


 珍しく京湖ではなく実母の胡晶鈴のことを考える。同時に初めて不安というものを感じる。もう自分一人の身体ではないのだと思うと不思議な責任感が沸き上がる。


「酒は飲まないほうがいいかしら」


 ふつふつと湧いてくる喜びと不安に高揚感がある。胸の上に手を置き、自身の鼓動を聞く。もう片方の手を腹の上に置く。自分の体の中に二つの命があるのだと思うと、改めて命の不思議さを実感するのだった。



76 陰謀の中心


 王妃の蘭加と王太子の側室、申陽菜から同時に医局長の陸慶明に依頼が舞い込む。蘭加からは王太子の曹隆明を、申陽菜からは第一公主の杏華を毒殺してほしいとのことだ。報酬はもちろん、今以上の陸家の繁栄だった。陸慶明にとって、その二つの話は大きな利益を生む話だ。能力主義の王朝とはいえ、後ろ盾の大きさは一族の繁栄につながる。

 若いころの慶明は、母のために薬を開発することが大事だった。彼にとって出世は、新薬を生み出すために必要な材料が手に入りやすくなるための手段であり目的ではなかった。おかげで慶明の母は正気を取り戻し、孫の明樹を可愛がり穏やかに天寿を全うした。その後、慶明は大きな目的もなく医局長として、医局の繁栄と王族の健康維持に努めている。


 王妃の蘭加と王太子の側室、申陽菜の話は断ることができない。話が上がった時点で受けるしかなく、断ることは死に直結する。頭を悩ませている慶明のもとに、星羅から懐妊の知らせを受ける。その知らせは慶明に一つの決断をさせるのだった。


 王妃の蘭加の部屋は、王族の中で、王よりも華美な贅沢品で占められている。豊かな髪は半分以上白いが何本もの金のかんざしがさしてあり、きらきらと光を受けて彼女の肌を明るく照らす。白い肌に頬は赤く染められ、額には蘭の花が描かれている。王太子妃の側室の申陽菜も、化粧と香りに拘っているが、蘭加もそれ以上に凝っている。むせかえるようなじゃ香のにおいは彼女の妖艶さを引き立たせている。毒殺を好む妃たちの共通した性格と雰囲気に、慶明はうつむいたまま苦笑する。


「面を上げよ。どうじゃ。首尾は」

「はっ。今、自然に事が進むよう手配しております」

「まあ、突然死だと明らかに疑いがかかるわなぁ。健康を害しておるわけではないからのぉ。じゃが時間がかかりすぎても困るぞ? 王の具合もあるのだから」

「大丈夫です。お任せください。三月ほどで事は収まります」

「三月か……。王はその間もつか?」

「もちろんです。王は養生していただけば3年は平気でしょう」

「3年は長いな。博行が王太子に即位したなら、王も隆明の後を追わせよ」

「はっ。御意にございます」

「では、下がってよい」


 王妃の診察は今や陰謀の報告の時間になっている。この後はまた申陽菜のもとに行き同じような話をするのだった。


 しばらくすると王太子の隆明は、咳き込むことが多くなる。時々発熱することもあり、朝議は隆明の代わりに、次男の博行が参内することがあった。

 隆明の体調を、間者探らせるとわずかだが吐血しているらしい。医局長の陸慶明に詳細を尋ねると、肺を弱らせたのち、食を細くさせるということだ。そして皆が口にするもので隆明に反応を起こさせ、死に至らしめる予定らしい。

 そこで王妃の蘭加は身内を集めた花見の宴を開く。蘭加の自慢の庭は一年中花が咲き誇り、香りが高い。王は体調不良で不参加だが、隆明は周茉莉を伴ってやってきた。


「母后、本日はお招きいただきありがとうございます」

「ほほほっ。楽になさって。今日はゆっくりしていっておくれ」


 隆明は弟の博行の隣に座る。兄弟仲は特に悪くはないので酒を酌み交わし雑談を始める。2人の席順を見て、蘭加はすぐに上座は博行のものになるとほくそ笑む。酒も存分にふるまわれ、珍しい料理も多く登場する。隆明が何か食べ物を口にするとき蘭加はこっそり盗み見る。色々口に入れているように見えるが一向に変化はなかった。


「おかしい……」


 宴も終わりに近づき、もう出される食べ物はない。


「王妃様どうかなさいましたか?」

「何がじゃ」


 侍女に尋ねられ、蘭加は喉を掻きむしっていることに気づく、同時に喉の奥がはれ上がり息が苦しくなってきた。


「う、く、苦し……」


「母上! 誰か、誰か、早く侍医を呼んでまいれ!」


 博行は慌てて蘭加のもとに駆け寄る。隆明も彼女のそばに寄り添い心配しながら様子をうかがっていると「早く王妃様を寝台に!」と医局長の陸慶明の声が聞こえた。

 蘭加は板に乗せられ運ばれる。動揺している博行も一緒に付き添っていった。隆明は「皆の者、ここを片付けて持ち場に戻るように」と指示してから、自分も蘭加のもとへ向かった。


 慶明は蘭加の診察をするので、皆下がって静かにしてほしいと頼む。蘭加は目を白黒させていて口の端から泡が出ていた。


「王妃様、何か言い残すことはありますか?」


 静かに尋ねる慶明に蘭加は目を見開き睨みつける。


「お、の、れえ、そなた、りゅう、めいではなく、あたくし、をっ!」


 慶明は少し口の端を上げる程度に笑んで何も答えない。蘭加は目いっぱい叫んでいるつもりだが、声はしわがれ喉がどんどんふさがっていくため、そばの慶明にしか聞こえなかった。


「大丈夫です。博行さまには健やかに過ごしていただけるよう尽力して参りますので」

「ぐっ、うううっぐ、くや、し――ぐはぁっ、うっ――」


 蘭加は呼吸ができず、顔は青黒くなっていった。身体中には発疹が出ている。やがてビクッと身体を震わせ息絶えた。

慶明は身体が硬くなってしまう前に目と口を閉じ、両頬を力を込めて押し穏やかな形相に変えておいた。もう一度脈を測り、絶命を確認してから寝台の外の博行と隆明に「ご臨終です!」と声を張り上げた。

 ばっと博行が「母上!」と叫び入ってきた。蘭加の身体にしがみつき悲しみに暮れている。隆明もその様子を悲痛な表情を見せる。

 慶明は「手の施しようがありませんでした」と深々と頭を下げ説明を始める。


「王妃様は、おそらく何かの食べ物で中毒を起こされたようです」

「今日口にしたものは、珍しいものが多かったが毒になるようなものはなかったはずだ」


 隆明に問われて慶明は恐縮した様子で答える。


「ええ、そうでしょう。毒見もおりますし。しかし体調や組み合わせなどで毒になってしまうこともございます」


 慶明は「申しわけございません」と額づく。


「わかった。下がってよい……」

「はい」


 これから国葬の準備のために忙しくなるだろうと、ちらりと蘭加の寝台に目をやり慶明は下がった。


 屋敷に戻っても気を抜かず、顔をしかめたまま使用人に茶を一杯入れて持ってくるようにと告げて部屋に入る。夜はもう更けていて妻の絹枝も、息子の貴晶も眠っているようだった。茶を運ばせ、一人きりになり一口茶を飲んで慶明はやっとひとここちつく。


「ふうっ。一つ片付いた……」


 蘭加の死によって、王太子、曹隆明の命が狙われることはもうないだろう。死の瞬間まで蘭加は、自分が慶明のターゲットになっていたことに気づかなかった。慶明は時間をかけてじっくりと、蘭加に少量ずつ、中毒症状を引き起こさせるための毒を与えておいた。一定の量が体内に蓄積されたとき、対象の食物によって中毒を起こす。医局長の陸慶明にしかできないことだった。たとえ解剖されても、ショック症状なので毒は検出されない。

 次の依頼者は申陽菜だ。同じ手はすぐには使えないだろうと、別の方法を考えながら茶を啜る。今の慶明はもう履物を脱いでリラックスすることはなくなっていた。


77 秘密

 王妃が亡くなったことは、数日してから星羅の耳にも届いた。太極府に勤めている兄の京樹からも、国葬の日取りと墓の方位が決まったと聞いた。王太子、曹隆明の実母ではないが、身内の者はしばらく喪に服し活動を自粛するということだ。

 王の容態も小康状態だったが、王妃の突然死によって衝撃を受けたらしく、体調は芳しくない。いよいよ王位が交代かとささやかれている。

 隆明が王になれば、もう軍師省に来ることはないだろう。軍師助手では王と言葉を交わすことさえできない。星羅が出世していかなければ、遠くから隆明を眺めるだけになる。

 郭蒼樹と星羅が兵法書の研究と解読を行っているところに、すっと隆明が入ってきた。


「研究は進んでおるか?」


 突然の隆明の声に、二人は驚きすぐに膝まづく。


「よい。楽にせよ」


 お忍びで来ているのであろう隆明の着物は、庶民の着る麻のようだが、彼自身が輝くような麗しさで目を引いてしまう。


「もう、おいでにはならないかと」


 クールな郭蒼樹が残念そうな声を出す。


「うむ。今日で最後であろう」


 星羅は何も言えずに突っ立ったまま隆明を見つめ続ける。そんな星羅に隆明は優しく微笑む。


「好い子を産むのだぞ」

「は、はい」


 わずかに膨らんだ腹を隆明はそっと慈しむように撫でる。星羅と隆明の二人の時間だけが優しくゆるゆると流れているようで、まるで一枚の絵を見せられているような郭蒼樹だった。


「では、これで。朝廷で待っておる」


 2人は隆明が部屋を出てい行くまで頭を下げた。郭蒼樹が先に頭を上げ「行ってしまわれたな」と星羅に声を掛けた。


「ああ、そうか」


 星羅は温かさを保つように、さっき隆明に撫でられた腹の上に手を置く。


「星雷。まさか、その腹の子は……」


 郭蒼樹が慎重だが鋭い口調で訪ねる。


「ち、ちがうよ」

「誰が見てもおかしいだろう。妾なのか?」

「まさか!」

「最初は星雷だけが殿下を慕っていると思っていたが、ここ何年も見てきたが寵姫に見えてもおかしくない」

「そ、そんな。それは蒼樹の思い込みじゃないか。わたしはもう夫もいる身だし」

「結婚など契約にすぎない」


 郭蒼樹は、星羅と隆明の関係を只ならぬものと疑っている。今に始まったことではないのだろう。確信しているといった話振りだ。


「もう少し納得したいものだ。殿下と星雷のかかわり方は後宮でも怪しまれているのだぞ?」

「え?」


 全く予想していない事柄に星羅は唖然とする。


「側室の申陽菜さまが目ざといのだ。探りを入れられていることを知らなかったのか?」

「探り?」

「そうだ。殿下と一緒にくる供の者がいるだろう。あれは申陽菜さまの息がかかっているものだ」

「で、でも、わたしは何も……」

「知ってる。俺もいるのだから。だが、俺が逢引の協力者だと思われていることもあるのだ」


 郭家は軍師家系なので、星羅には伝わらない情報を色々得ているのだろう。郭蒼樹は冤罪だと言わんばかりに口惜しそうな表情だ。


「すまない。わたしのせいで嫌な思いをしてたんだな」

「いや、なんでもないならいい」


 何年も一緒に切磋琢磨してきた郭蒼樹はこれからも、いや、一生軍師として関わり続けるかもしれない。彼は十分に信頼に値し、誠実で、正義感がある。星羅は彼だけには打ち明けようと決心する。


「蒼樹、これから話すことを絶対に誰にも他言しないと約束してくれるか?」


 真剣な表情をする星羅に「もちろん」と郭蒼樹は頷く。


「殿下はわたしの――わたしの父なのだ」

「えっ?」

「しっ!」

「あ、すまない。あまりにも驚いて」

「ふふっ。蒼樹も驚くことがあるんだな」

「それは、ま、まあ」


 星羅は実の母と隆明のことをかいつまんで話す。


「そうだったのか……」

「わたしも、このことを知ったのは軍師見習いになってからなんだ」

「ああ、なるほど……」


 郭蒼樹は何年か前のことを思い出して反芻する。そして今現在の状況と繋がったらしく納得した。


「しかし、それはそれで大変な重要機密だな」

「そうらしいね。誰にも言わないでほしい」

「わかってる。聞いて後悔したくらいだ。まだ殿下の愛妾のほうがいいくらいだ」

「もう! やだな」

「冗談だ」

「でも、申陽菜さまには気をつけろ。朝廷でも、行事のときにも殿下を目で追うなよ」

「気を付けるよ」

「もうじき殿下は王になる。そうなると、ますます、いや、まあとにかく早く軍師にならねばな」


 郭蒼樹はこれ以上星羅にプレッシャーを与えないようにと話題を変える。


「ありがとう。親子の名乗りは上げられないけど、軍師としてお仕えできるよう頑張るよ」

「その意気だ」


 星羅は郭蒼樹との信頼関係がますます厚くなるのを感じていた。

  

78 臨月

 王妃、蘭加の後を追うように、王の曹孔景も崩御した。父である曹隆明ほどの思慕はないものの、星羅は自身の祖父であり華夏国の王の死を悼む。隆明は今どのような気持ちなのだろうか。王位継承の重責を感じているのか、それとも父の死を悲しんでいるのだろうか。こんな時に少しでも隆明のそばに行き、慰めになれたらと星羅は思う。


「そんな顔をしていては腹の子に悪いぞ」


 郭蒼樹は素っ気なくも優しい。


「そんな顔って……」

「殿下が、いやもうじき陛下か。心配なのか?」

「うん、これから今まで以上に大変だろうから」

「それは陛下自身百も承知だろう」

「だね」

「会いたいか?」

「う、うん、会いたいというか、会わせられたらと、思う」


 星羅は膨れてきた腹に目を落とす。郭蒼樹は、星羅の腹の子は隆明の孫になるのだなと頷いた。


「軍師になって陛下に会おうと思うとうまくいっても5年はかかるな」

「5年か。それはさすがに無理だろうし、急いでないよ。わたしが陛下にお会いするまでにその3倍もかかっているんだから」

「そうか」

「母にはいつ会えるかどうか……」

「俺も本来なら会える身分ではないが、家系が家系なもので陛下にお目にかかる機会がある。その時一緒にくるか?」

「え? 郭家の方たちと一緒に?」

「ああ、家族の振りでもしておけばよい」

「いいのかい?」

「いいさ。親父たちも俺のすることに口出しはしないし」

「そうなんだね。信頼されてるんだな」

「そうではない。うちは放任主義なのだ。かまってやって能力がなかったら時間の無駄になるということでな」


 一風変わっている家訓の中で育った郭蒼樹はやはり一味違うなと星羅は妙に納得する。


「では、本当に無理じゃなければお願いするよ」


 星羅は久しぶりに温かい気持ちになった。



 いよいよ臨月に入る。星羅は休職し、実家の朱家に戻ってきている。ロバの明々が星羅の顔を見て嬉しそうに嘶く。


「明々、わたしの子もあなたに乗せてもらえるかしら?」


 もう年老いた明々はよぼよぼ歩くだけで荷を乗せることは難しい。それでも星羅の言葉に頷くように「ホヒィ」と鳴く。

 ロバの明々は、都から胡晶鈴を運び、そして西の端から星羅を乗せてまた都に戻ってきた。


「あなたが一番、母とわたしのことを知っているのかしらね」


 鼻面を優しく撫でてから星羅は小屋を後にした。朱家の家のは相変わらず小さく質素だが、京湖が毎日あちこちを磨き上げ清潔にこざっぱりとさせている。使用人を置くこともできるが、慎重な京湖は他人によって自分の情報が漏れるのを恐れた。箸一本洗ったことのなかった彼女は今では、家事のエキスパートだった。星羅は朱家より掃除が行き届いている屋敷をまだ見たことがない。


「わたしはかあさまのようには出来ないなあ」


 椅子に腰かけ、腹を撫でながらつぶやいていると京湖が「なあに?」と星羅の両肩にふわりと手を乗せる。


「ん。わたしにはかあさまみたいに家を整えるのが無理だなって」

「ふふふっ。星羅は私にできないことがいっぱいできるじゃない。家事は誰かにしてもらえばいいわよ」

「そうねえ」

「明樹さんもあなたに家事してほしいなんて言わないでしょう」


 確かに明樹は星羅に家庭の中のことをきちんとしてほしいなどと望まない。彼の母、絹枝が家事をほとんどしたことがないが、教師として尊敬される人物であることも大きかった。


「星羅が軍師よりも家のことに魅力を感じたら、そうなさいな」


 花のように笑う京湖につられて星羅も笑った。京湖は星羅の腹のまえで屈み、耳を当てる。


「何か聞こえる?」

「ええ、力強い鼓動が聞こえるわ。ほら、おばあさまよ。蹴ってごらんなさい」

「やだあ、かあさまったら。あ、いたっ。ほんとに蹴ってきた」

「元気ねえ」


 心から実の孫が生まれると思っているのだろう。京湖は愛しそうに星羅の腹を撫で微笑んでいる。優しい時間はまるで春の陽気のようだ。思わずいつまでも子供のままで京湖に甘えていたいと願ってしまっていた。


79 孫

 星羅は玉のような子を産む。男児だった。取り上げたのは医局長でもあり、舅にもなる陸慶明だ。星羅は彼に取り上げてもらうことなど、王族でもないので畏れ多いと断ったが、慶明は自分の孫であるということで聞き入れなかった。

 私生児になるだけで本来なら星羅は王族であり、生まれた子も王族なのだ。慶明は自分の孫を取り上げるというよりも、王子を取り上げるという意識のほうが強かった。


――朱家にいる星羅をほぼ毎日健診して、何かあればすぐ呼ぶようにと京湖に念を押す。


「慶明殿はとても楽しみになさってるようね」


 毎日の訪問と熱心な健診に京湖ですら感心する。京湖をはじめ、彰浩も京樹も星羅が、王である曹隆明の娘であることは知らない。トラブルにならないように、星羅も、慶明も話していなかった。そのため、慶明の熱心さが過剰に見えていたのだ。


「名前は考えたの?」

「ええ、高祖から一字もらおうと思ってるの」

「うふふっ。本当に尊敬してるのね」

「男の子なら、徳樹。女の子なら徳湖」

「まあ……」


 女の子の名前には京湖からとった文字を使うつもりのようで、その気持ちが嬉しくて京湖は熱くなった目頭を押さえる。


「きっと男の子よ。元気いいもの」

「お楽しみね」


 もう間もなく新しい家族が増えると朱家は明るく賑わっていた。普段穏やかな、彰浩と京樹もそわそわしている。彰浩は職場で上司に頼んで小さな器を焼かせてもらった。赤ん坊の離乳食用の器だった。


「なんてかわいいんでしょう」

「祝いにな」

「ありがとう! とうさま」


 彰浩は照れ臭そうに星羅の大きな腹を眺める。実の孫でなくとも彰浩は祖父として愛情を目一杯注ぐだろう。

 京樹も毎日空を眺めている。生まれてくる子どもの星を読もうとしているのだ。


「生まれたら、時刻をちゃんと覚えておくんだよ」

「わかったわ」


 京樹は、生まれてくる子どもが王の孫と知らなくても、高貴な存在になる予測がたてられていた。理由はわからないが赤ん坊は庶民にはならないだろう。それがこの華夏国にとってどのような影響を及ぼすか今はわからなかった。 


 明樹も赤ん坊の顔を見たらすぐに戻るという約束で、赴任先から帰ってきている。あまりにも小さな存在に彼は恐る恐る眺めるだけだ。


「もう少しそばで徳樹の顔を見たらいいのに」

「いやあ。泣かれると困るしなあ」

「父上の顔が見たいわよね」


 丸々とした紅い顔の赤ん坊はぼんやりとどこかを見ている。


「しかし小さくて赤いものだな」

「お義父上の話では、なかなか大きいほうみたいよ」

「へえ。これでもかあ」

「目元はあなたに似てるかしら」

「どうだろうなあ。赤ん坊の顔なんか区別できるんだろうか」

「自分の子供はわかると思うわ」

「確かに、顔はどうかわからないが、このつやつやした黒髪は星羅によく似ている。赤ん坊はつるっぱげだと思っていたが」

「ええ、髪だけはなんだかとてもしっかりしているみたいよ。ああ、京湖かあさまもわたしが赤子の時から髪が豊かだと言ってたわ」

「ほう。やっぱり家系があらわれるのだなあ」


 明樹はしっとりとして艶のある黒髪をもつ、徳樹の頭をそっと撫でる。


「残念だが、明日には戻らねばな」

「そうなのね」

「何か心配なことがあるか? あれば上官に休職でも申し出るが」

「ううん。みんな良くしてくれているし、身体も元気だし」

「それならいいが」

「あなたこそ平気? 赴任先で不自由はない?」

「ああ、特にないな。兵舎の独身寮に入ってたころと同じだよ」

「そうなのね。でも独身ではないのよ?」

「わかってるさ」


 明樹は明るく笑って、星羅の頬を撫でる。


「結婚前は離れてても平気だと言ったけど、実際離れるとちょっと寂しいものね」

「星妹……。俺もだよ。来年には帰ってこれるからそれまでの辛抱だな」

「うん。じゃ、行く前に抱いてやってね」

「お、おう!」


 立派な体格の明樹にそっと抱かれた徳樹はふあっと小さなあくびをしてすやすや眠った。眠ってじっとしているだけの赤ん坊を二人は飽きることなく見続けた。


80 蒼樹の従妹

 息子の徳樹を抱いて庭を歩く。首が座ってから徳樹は庭のいたるところに目をやる。星羅は厩舎のまえに立ちそっと入ると彼女の気配をずっと前から感じていたらしく、馬の優々とロバの明々は待ち遠しそうに前足を踏み鳴らしていた。


「こんにちは。徳樹を連れてきたわ」


 二匹とも徳樹を驚かさないようにしているのか、静かにじっと見つめる。徳樹のほうが好奇心が強いようで背の低いロバの明々に手を伸ばす。


「あらあら、明々を撫でたいの?」


 手本を示すように、星羅は優しく明々の鼻面を撫でる。明々が嬉しそうに鼻を鳴らすと、徳樹も小さな手でそっと明々に触れた。明々は目を細め、また嬉しそうに鼻を鳴らす。隣で馬の優々が、待ちきれないといったふうに「ヒヒンっ」と鳴き前足を鳴らす。


「はいはい。こんどは優々よ」


 艶やかな優々の首筋を撫でると、徳樹も手を伸ばす。


「あっ!」


 小さな手が優々の首の毛を握りこんでしまう。優々はじっと耐えていた。


「優々。ごめんね、痛かったわね」


 徳樹の手を開かせ、むしられかけた毛を撫でつける。


「ヒンッ」


 優々は平気だというように啼いた。優々は名前通り気性の穏やかな馬でとても優しい。


「もう少ししたら一緒に乗せてね」


 星羅のお願いを優々は承知したようだった。明々と優々に会って徳樹はご機嫌になっている。あうーとか、まうーなど喃語が盛んに発声されている。それに呼応するように、明々と優々も優しい鳴き声を出す。


「ふふっ。仲良しになったのね」


 一人と二匹の会話を楽しんでいると、京湖がやってきた。


「ここにいたのね」

「どうかしたの?」

「お客様よ」

「わたしに?」

「ええ、お祝いに来てくださったの。おなじ軍師助手の郭蒼樹さんよ」

「ああ、蒼樹が。今行くわ。じゃあね」


 名残惜しそうな3人組だった。


 朱家は陸家とも郭家ともちがい高い塀も門もなく、木の柵と防風林で囲まれている。無造作に止められている郭家の馬車は、明らかに朱家のものではないことがわかる。


「馬車も立派ねえ」


 しっかりとした造りは、今風の飾りや派手な布地などは使われておらず堅牢そうだ。弓矢が飛んできても防げるだろう。権力や富の象徴を馬車や輿で表されることが多いが、郭家はやはり実を取るようだ。ある意味護送車のようでもある。

 繋がれている馬は遮眼帯がつけられている。少し視界を狭くして走ることに集中させられているようだ。徳樹が馬に反応して「あまー」と手を伸ばすが、郭家の馬はきっと他人を触れさせることはないだろう。


「だめだめ。蒼樹がいるときにしましょう」


 徳樹をなだめ、星羅は家に入った。


 小さな客間では2人腰掛けている。一人は郭蒼樹だがもう一人は女人だった。


「お待たせ」


 星羅が声を掛けると郭蒼樹が振り返り「やあ。元気そうだな」と立ち上がる。


「ありがとう。どうぞ、座って座って」


 郭蒼樹が立ち上がるともう一人の女人も立ち上がり、優雅に腰を落とし「初めまして」とあいさつをする。星羅よりも数歳若いだろうか。あどけなさと利発さが同居する複雑な年頃の少女のようだ。シックな装いの郭蒼樹とは違い、娘らしく薄紅色の明るい色彩の着物だ。髪はまだ結い上げておらず長い髪を自由にさせている。


「俺の従妹だ」

「柳紅美と申します。よろしく」


 親戚とはいえあまり顔立ちは似ておらず、クールな容貌の郭蒼樹と違い、血気盛んで精力的な強い瞳をしている。


「朱星羅です。この子は徳樹です」


 2人に徳樹を見せる。徳樹はすでに寝息を立てていた。籠の中にそっと徳樹を入れ、星羅も腰掛ける。


「本当は一人で来ようと思ってたのだが紅妹が一緒に行きたいとうるさくてな」

「蒼にい。一人で女人のもとに訪れるのは世間体があるからついてきてあげたんです」

「わかったわかった」

「わざわざありがとうございます」


 星羅が柳紅美に頭を下げるが、彼女はにこりともせず口早に「別に」と答える。


「紅茶をどうぞ」


 京湖が茶を運んできた。


「桂皮は好き嫌いがあるだろうからお好みでどうぞ」

「ありがとうございます」

「かあさま、ありがとう。後は良いわ」

「なにか御用があれば呼んでね」

「ええ」


 京湖が去ると柳紅美が「桂皮なんかどうするの?」とシナモンスティックをつまんで目の前で振る。


「ああ、それは紅茶に入れて何度か掻きまわすの」

「どれどれ」


 郭蒼樹は言われるように匙のようにかき混ぜ、とりだしてから一口飲む。


「ふーん。香り高くなるのだな」

「ええ、西国ではよく飲まれているみたい。ここに乳と砂糖を入れると格別なのよ」


 異文化に触れ興味深そうな郭蒼樹をよそに、柳紅美はやけに否定的だ。郭蒼樹のシナモン紅茶の香りをかぎ、顔をしかめる。


「ちょっときつすぎるわ。繊細な漢民族には合わないと思うわ。下品な飲み物ね」

「紅美!」

「あら、ごめんなさい」

「いえ、いいの。確かに飲みなれていないときついわよね。桂皮なしで召し上がれ」 

「色々な経験をする意思がないと軍師には向かないと思うぞ」

「そんなことないわ」

「軍師?」

「ああ、紅妹は今年で学舎を卒業して軍師試験を受けるつもりのようだ。受かるかどうか怪しいものだが」

「失礼ね。女学生の中で一番の成績なのよ?」

「まったくおてんばで困る」

「あら、星羅さんだって軍師じゃない」


 さすがの星羅にも柳紅美が郭蒼樹を好きなことが分かった。しかも何か誤解をしているのか、星羅は恋敵のような扱いで言葉にも態度にもとげがある。どうしたものかと考えていると、軽く眠って起きた徳樹がふああんと泣き声を出す。


「あ、起こしてしまったか。すまない」

「いいのいいの。まだまだこんな調子なのよ」

「抱いていいか?」

「え、ええ。大丈夫? 夫なんかこわがってしまって」

「俺の下に弟が3人いるんだ。結構、子守をさせられている」

「そうなのね。意外!」


 そっと取り上げ慣れた手つきで徳樹を抱き寄せる。徳樹は人見知りをすることなくすぐに機嫌がよくなり、また持ち前の好奇心を発揮し、蒼樹の頬を撫でる。


「ふふふっ。よく似ているな」

「ねえ! あたしにも抱かせてよ!」

「お前はだめだ。すぐに重いとか飽きたとか言って泣かせるからな。ほら、母上のところへ」


 ふわっと徳樹は星羅の手に渡る。その時に郭蒼樹の手が、星羅の手に触れていることを柳紅美は厳しい目で見ていた。


「そろそろ帰るよ」

「ああ、もう? 軍師省のほうはどうかしら?」

「まあぼちぼちだな」

「もう少ししたら復帰するつもり」

「そうか。待ってる」

「さよなら」


 最後までにこりともしない柳紅美は「すぐに追いつきますね」と宣戦布告のように告げて去っていった。


「うーん。後輩になるのかしら?」


 同じ軍師を目指すならば、仲良く協力したいと星羅は願う。復帰したときに郭蒼樹に彼女との仲を取り持ってもらおうと思った。


「明兄さま……」


 煩わしいことや、暗くなる気持ちをいつも明樹は明るく吹き飛ばしてくれた。その彼は今、遠く離れている。

 星羅は努力家で実行力もあり、志も高く未だ挫折というものを知らない。明樹がどれだけ心の支えになっているのか、今はまだ実感していなかった。

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