第7話

61 郭家にて

 軍師省に王太子、曹隆明が訪れるようになって半年も経つと、見習い三人は随分と打ち解け、礼儀を崩さないものの素直に慕っている。見習いたちの活発な議論や、平和でも、臨時の時に対する方針や対策を立てる姿に、隆明も活力を与えられていた。


「ここにくると若返る気がするよ」


 穏やかな笑みを浮かべた隆明に「まだまだ殿下はお若いです」と星羅は答えた。


「そうか、星雷はそう思ってくれるか」


 隆明は彼女が男だと思っているが、そう言われると嬉しかった。


「来週、私のところでちょっとした音楽会を開く。そなたたちも招待しよう」

「え! 本当ですか!」


 星羅と徐忠弘は目を丸くする。郭蒼樹だけは落ち着いて「光栄です」と答えた。彼は軍師家系なので王族との付き合いが元々盛んなのだろう。驚くことはないようだ。

 王太子の曹隆明が帰った後、星羅と徐忠弘は二人で話し合う。


「王太子様の音楽会だぞ? どうするよ」

「この格好だとまずいのかな」


 星羅は男装の着物はこの軍師省のものしかなかった。娘の格好に戻すのであれば、もう少し凝った装いができるのにと思ったが、いきなり娘の装いで行くのは変だろうと思い、その考えはやめる。


「今から新調するのも時間がかかるだろうな。家に帰るほうがましか」


 徐忠弘は裕福なので、こういった集まりで着ていく上等な着物は持っているが実家に合った。馬を飛ばせば来週の音楽会には間に合いそうだ。


「ちょくら家に帰って着物をとってくるよ。こんな機会めったにないし」

「そうだな。しばらく家族とも会っていないだろうから様子を知らせるといいよ」

「だな。じゃ、これで」

「も、もう?」


 徐忠弘は時間が惜しいようで、すぐに帰ってしまった。どうしようかと思案している星羅に郭蒼樹は声を掛ける。


「星雷」

「ん?」

「俺のところに来るか。着物くらい貸してやろう」

「え、蒼樹の着物?」

「うん。忠弘に貸すにはちょっと大きいだろうが、星雷には大丈夫だろう」


 徐忠弘は星雷よりも背が低く、蒼樹とは頭1つ半背丈が違うが、星羅はまだ頭一つ分くらいの差だった。


「いいのかい?」

「ああ、うちは、それ用の着物はまあまああるから」

「そうか。僕は着物はこれしかないからな……」

「それだけ?」

「あ、いや。普段着はあるけど」

「ふーん。まあ、忠弘も帰ってしまったことだし、今から行くか」


 早速、星羅も着物を借りるために郭蒼樹の屋敷に行くことになった。彼の家は都の中でも一等地にあり、馬に乗ってすぐのところにある。


「すごいなあ」


 立派な屋敷に星羅は唖然とする。医局長の陸慶明の屋敷も立派で大きく優美な雰囲気があるが、郭蒼樹の屋敷は物々しく、重そうで頑丈そうな扉と、屋敷を取り囲む壁もまたレンガ造りで要塞のようだった。


「こんな造りだと、臆病者にみえないか?」


 自分の家に皮肉めいた言い方をする。


「いやあ。籠城することも策のうちなのだろう」


 一般人の屋敷とはまるで違う造りに星羅は素直に感心していた。


「入り口はこっちだ」


 どうやら大きな扉は普段使われていないらしく、少し壁伝いに歩くと小さな扉があった。馬を預け、屋敷の中に通される。池も小川も愛でる花などもなかった。代わりに食用できる果樹などが多く植わっている。


「うちの家訓はどんな時でも、気を抜かないように実用的なものしかないのだ」

「なるほど」

「楽器もないし、花もない。装飾品の類も普段は蔵の中さ」

「さすが徹底されているのだなあ」

「優雅さを求めたらもう頭脳は使えないということだが、屋敷から外に出たら、芸術にいくらでも触れられるからな」


 郭家では屋敷内で優雅さを求めなくても、王族や他の高官と付き合っていると、必然的に優雅な状況に至る。音楽を家で奏でなくても、どこかの屋敷に行けば勝手に流れてくるのだ。そのため、芸術に疎いわけではない。むしろ楽曲にも、舞踊に関しても並々ならぬ知識がある。


「さて、ここでちょっと待っていてくれ」

「うん」


 客間に通され、星羅は椅子に腰かける。やはり机も椅子も装飾がされておらずシンプルなものだ。堅牢な柱などを眺めていると、郭蒼樹は二人の使用人につづらを運ばせてやってきた。


「ここにおいてくれ」


 大きなつづらそっと置いたのち、使用人は「あとでお茶をもってきます」と頭を下げて去った。使用人も必要なことしか話さず、無駄に愛そう良くすることはないようだ。


「この中のものどれでも好きなものを選べばいい」


 中を覗くと、上等な絹織物が詰まっている。軍師の家柄とあって色味は渋く、華やかさはないがシックだ。


「こんな綺麗な着物は見たことがないなあ」


 星羅はたとえ男物であっても、美しい着物にうっとりする。かすかに木の良い香りもする。触るのをためらっていると「ほら、これなんかは合うだろう」と郭蒼樹は、藍色の着物を出す。金糸と銀糸が織り込まれ、夜空の星がちりばめられたようだ。


「へえ。綺麗だなあ」

「着てみろよ」

「え、あ、ああ」


 きょろきょろする星羅に「どうかしたのか?」と郭蒼樹は尋ねる。


「いや、どこで着替えようかと」

「ここでいいだろ」

「ここ、か」

「なんだ」


 一番上の着物だけ脱いで羽織ればよいので、全裸になるわけではないが星羅はためらう。


「ちょっと向こう向いていてくれるか?」

「ああ、なんだ。恥ずかしいのか」


 特に気に掛けるわけでもなく郭蒼樹は星羅が言うように後ろ向きになる。星羅はさっと帯を解き、空色の着物を脱いでから、すぐに藍色の着物を羽織る。少し丈が長いようだが、一つ折り返して帯を締めれば大丈夫だろう。

 つづらの中におそろいのような帯があったので締める。今までで一番上等な着物をきた星羅は興奮する。


「どうだ?」

「うん! すごく綺麗だ!」

「どれ」


 振り向いた郭蒼樹は何か変な表情をする。


「はて? なんだか星雷、おかしい――?」


 きょとんとする星羅に郭蒼樹は目を見張る。そして視線が注がれるところに気づき、慌てて星羅は後ろを向く。

「おい、星雷。それはなんだ」

「あの、えっと」


 初めて着る美しい着物に、うっかり胸の下で絞めてしまった帯のせいで、身体のラインが娘らしい。明らかに男と違う柔らかいふくらみは、誰の目から見ても女だとわかる。


「女だったのか」

「あ、うん、そうなんだ。ごめん」

「はあ。なんか最初から変な奴だと思っていたが……」

「軍師省は女が一人もいないから……」

「まあ、そうだな。そのほうが俺たちもやりやすいかも」

「怒ってる?」

「いや、怒る理由がない」


 笑った郭蒼樹は、今までで見た中で一番優しく感じられた。


「まあ、でもそのままにしておけばいいさ」

「ん。忠弘にも話したほうがいいだろうか」

「んー。どうかな。気にしてない良いだしわざわざ言わなくてもいいだろう」

「そうするか」

「まあ、しかし、女の身でよく軍師を目指したな」

「それは、よく言われる」

「ほら、帯を直せよ」


 くるっとまた蒼樹は後ろを向く。さっと帯を直して、星羅は「できた」と声を発した。

「よく似合ってるよ。それを持って帰ればいい」

「ありがとう。汚さないように気を付けるよ」


 もう一度着替えなおして、軍師省の着物に戻る。こちらは着慣れているので迷うことなく腰に帯を締めた。


「星雷って本名か?」

「いや、ほんとは星羅」

「なるほどな」


 ばれてしまったが蒼樹は大して気にしていないようで、星羅はほっとする。


「そろそろ帰るよ」

「ああ」


 着物を風呂敷でくるみ星羅は背負った。上等な着物と帯は、たくさん絹を使われているようでずっしりと肩にくる。


「持って帰れるか?」

「ん? 平気だよ。落とさないから心配しないで」

「大丈夫ならいい」

「じゃ」


 星羅は優々に跨ってゆっくりかけだす。郭家をあとにし、しばらく馬を走らせているとふっと気づくことがあった。


「蒼樹に心配されたの初めてだな」


 何気ない気づきのせいで、蒼樹の心情の変化までは見通せなかった。


 

62 宴

 いつもよりも丁寧に髪を梳かしまとめ上げ、星羅は郭蒼樹に借りた着物を着る。上等な絹織物に母の朱京湖はうっとりと生地を撫でる。


「この国の織物はほんとうに素晴らしいわね。重厚で繊細で丁寧で」

「西国にもいいものがいっぱいあるでしょう?」

「うーん。緻密さが少し違うわね。国のせいかしらね。西国は暑いから」

「そうなのね」


 くるりと一周して見せる星羅に「これならどこに出しても恥ずかしくないわ!」と京湖は感嘆する。


「晶鈴がみたら、どんなに立派になったかって思うかしら……」


 歳のせいだろうか、キャラバンで胡晶鈴の噂を聞いたせいだろうか。京湖はまた涙もろくなっている。


「わたしが立派に見えるなら、それはかあさまが育ててくれたおかげだわ」

「ありがとう……」


 力強く星羅は心からそう思っている言葉を発する。実際に京湖は子煩悩で、兄の京樹と星羅を大変慈しんだ。もちろん夫の彰浩に対しても思いやり深く優しく尽くしている。とても高官の娘とは思えない献身ぶりだ。


 京湖に言わせると、娘時代は自由奔放で好き勝手しても誰にも諫められることはなく、毎日楽しいことばかりして過ごしたということだ。今は、贅沢もできず、一日中家事に追われて自由に遊ぶ時間はない。それでも愛する夫と子供たちに囲まれて幸せだという。

 実の子ではない星羅が卑屈にならず、素直に明るく育ったのは京湖の、大らかで愛情深い育て方のおかげだろう。


 今日の音楽会は王太子と妃たちが住まう、中央から離れた王太子宮の庭で行われる。美しい白壁に囲まれた宮は、高さを誇る王の住まい銅雀台とは違い、優美で可憐だった。王太子が王に即位すればここから離れて銅雀台へ住まう。

 そっと白壁を撫でた星羅はその滑らかさに驚く。そしてこの宮は、穏やかで優しく優雅な隆明のようだと思った。

 優美さとは裏腹に門番は物々しい。いかつく険しい表情の門番に声を掛ける。


「あの、王太子様に招かれたものですが」


 じろりと見下げる大きな男に星羅は『軍師見習い 朱星雷』の札を見せる。確認して頷いた男は門の隣のやはり小さな扉を指さし「そこからどうぞ」と視線をやった。

 頭を下げて星羅は扉を開く。


「あっ」


 入るとすぐに庭があり色とりどりの花が咲き乱れている。自然の美しさがここに凝縮されたような典雅な様子だった。


「桃源郷とはこんなところかしら」


 ぼんやり見ていると、「星雷」と声を掛けられた。振り返ると、郭蒼樹と徐忠正が立派な装いで立っている。


「お、見違えたぞ」


 徐忠弘の明るい声に「こっちだって、どこの王子かと思ったよ」と星羅は答えた。

徐忠弘の着物は、明るいオレンジ色でざっくりとした荒い織り目だが、何層にも重ねられていて豪華だ。裕福な商家だと思わせるが、成金ではないので下品さはなかった。徐忠弘の気さくなキャラクターに良く似合っている。


 郭蒼樹はもう軍師の貫禄がある。青みを帯びた灰色の渋い着物に黒い帯だ。あたりをきょろきょろと興味津々で見ている忠弘と違い、蒼樹は慣れた様子でじっとあたりを見ている。


「そこが会場だろう」


 郭蒼樹の指さすほうを見ると、柔らかい草の上に赤い色の毛せんが何枚か敷かれている。きちんとした台座を作ることなく簡単に敷かれた様子を見ると、私的な集まりで堅苦しさはなさそうだ。


「僕たちはどこに座ればいいのかな」


 星羅が尋ねると「おそらく、その下座だ」と蒼樹が答えた。遠目からでもわかる華やかな集団がやってきた。王太子、曹隆明と妃たちだ。一人の官女がさっとやってきて「軍師のみなさま、こちらへどうぞ」と案内してくれた。


「軍師だってさ」


 徐忠弘は見習いが省略されただけなのに嬉しそうな顔をする。緊張していた星羅もおかげで硬さがほぐれた。王太子、曹隆明の前にいき三人は拝礼する。


「よい、面を上げよ。気楽にしてそこに座るがよい」


 蒼樹の言った場所に案内され三人は座る。


「華やかだな」

「うん」


 忠弘は隆明と妃たちの豪華絢爛な着物に目を奪われている。彼は目利きでもあるので、それらの着物や装飾品がどれだけ価値の高いものかよくわかっている。


 目の前に、酒や肴、果物が運ばれる。豪華さに目を見張るが、白地に青い染付をされた器を見てふっと養父の朱彰浩を思い安心感を得た。彰浩が作ったものかもしれないと思うと、そばに彼がいるようで安らぐ。彰浩は無口であれこれいう人ではないが、一家を支え誠実な人だ。星羅のことを、京湖と同様、実の娘として愛情を注いでくれている。幼い星羅をロバの明々に乗せ、よく散歩に出かけた。


「おや、お妃さまたちは4人しかいないぞ」

「あれ、ほんとだ」


 着飾った妃たちは、隆明の左右に2人ずつ侍っている。そのうち二人の、隆明に近い妃の後ろにはまだ幼い王女が官女と控えている。

 小声で蒼樹は星羅と忠弘に囁く。


「王太子妃さまの具合はいつも良くないのだが、王女さまの具合もよくないのだ」


 王太子妃の桃華はずっと臥せったままで、王太子の長子である王女も病弱で公の場に出ることがなかった。気の毒なことだと思い、気が沈みそうになると笛の音が聞こえてきた。


 王太子の曹隆明が美しい音色を奏で、側室の周茉莉が高くかわいらしい声で歌いだす。『詩経』のような堅苦しいものではなく恋の歌で、明るく開放的な内容だ。おそらく周茉莉の出身地方の歌だろう。


「茉莉さまはかわいらしい歌声の持ち主だなあ」


 耳に障りの良い声に忠弘はうっとりしている。歌が終ると、今度は新しく迎えた側室二人が、それぞれ琵琶と琴を演奏し始める。さきほどの隆明のしっとりとした演奏と違い、スピード感があり、転調が激しい。官女の一人が小さな鐘を鳴らすと、側室の申陽菜がさっと出てきた。

 軽装な薄衣に、羽衣を何枚かと扇を持ち、まるで飛んでいるかのような舞を踊る。


「すごい!」


 アクロバティックな動きの中に、優雅さと妖艶さを演出する申陽菜に星羅と忠弘は見入る。官女たちもため息をつきながら素晴らしいわと口々に囁いている。激しい動きなのに汗もかかず息も乱さない申陽菜は、まさしく国随一の舞姫だと誰もが思うだろう。 


 内輪の集まりとはいえ、やはり王族だ。庶民では観ることも聴くこともできない。子供のころから芸術に触れる機会が多かったという、徐忠弘でも舌を巻くようだ。


「いやあ、今までも国一番ってものを観てきたがそうでもなかったな!」

「本当だな。王太子様に感謝しなければ」


 興奮している星羅と忠弘にに蒼樹は優しく微笑んだ。


「蒼樹は慣れっこなんだな。やっぱり代々軍師家系は違うな」

「いや、そういうわけでもないが」


 単に感動が薄いだけのようで、蒼樹の関心は芸術にはさほど注がれないようだった。


「この桃もこんなに大きいものはないぞ」

「初めて見たよ、こんな大きい桃」

「古代では桃1つで大混乱が起こったこともあったからな」


 星羅は美しい歌と舞、そして素晴らしい果物と酒にまるで夢のようだと思った。ふっと正面の曹隆明と目が合う。隆明は優美な笑みをみせじっと星羅を見つめた。星羅はなんだか胸がどきどき高鳴るのを感じ、酒を飲みすぎてしまったのかと頭を振る。


 王女たちが隆明にじゃれるようにまとわりついている。周茉莉を母に持つ王女は愛くるしく膝に乗っており、申陽菜を母に持つ王女は幼いながらも色気があり、隆明の首に手をまわしている。それぞれの母は、隆明と二人きりの時にそうしているのだろうと誰もが予想できる。

 そんな王女たちを見ていると、なぜだか星羅は胸が苦しくなってきた。なぜだかわからないが切なく辛くなってくる。


「さて、そろそろ終わりにしよう」


 隆明が立ち上がると妃たちも立ち上がる。軍師見習いの三人も慌てて立ち上がった。


「どうだ。楽しかったか?」


 隆明の言葉に3人は恐縮して礼を述べた。


「星雷は少し酔ったのか?」

「え?」


 すっと隆明の指先が星羅の頬をかする。


「また軍師省で会おう」


 くるっと隆明は妃と官女を連れて立ち去った。


「さて、俺たちも帰るか」

「あ、ああ」


 ぼんやりしている星羅に忠弘が声を掛けた。


「楽しかったな。しかし隆明様はほんとうにお優しいかたであるなあ」


 ますます隆明に信奉していく忠弘だった。


 帰宅して蒼樹から借りた着物を脱ぐと、星羅はまるで夢からさめたような気がした。


「どうして胸が苦しくなったのかしら」


 親ほど年の離れた隆明のことを思うと、やはり胸が苦しい気がする。そして早く軍師省に訪れてほしいと願うようになるのだった。




63 胡晶鈴の娘


 王太子の私的な宴の後、曹隆明と軍師見習いたちはより親しみを覚えていく。公務のため、訪れる頻度は少ないがいつの間にか一緒に話し合うことも増えている。軍師家系の郭蒼樹でも知りえない過去の戦争の策を、隆明はよく熟知していた。さらに誤って伝えられ史実になってしまったことも訂正してくれた。


「では殿下、その戦の功労者は別のものだったということですか?」

「そういうことだ。そのほうが民を統制するのに都合が良かったのだろう」

「あー、なんだか知らなくてよかったことかもしれないなあ」

「いや。真実は突き詰めようがないから知っておくほうがいいだろう」

「自分の策が後年まったく真逆の評価になるかもしれないね」


 軍師省は見習いであろうが、助手や教官であろうが軍師省は熱血な機関だった。


「で、この政策について星雷はどう思う?」


 徐忠弘に聞かれて、星羅はとっさに答えられなかった。


「あ、の、ごめん。何も思いつかなかった」

「調子でも悪いのか?」


 最近、郭蒼樹は星羅をよく心配するような発言をする。


「少し休憩をしたほうが良いだろう。そのほうが身体も頭もよく働く。高祖もよくうたた寝をしたようだ」


 隆明が優しいまなざしを星羅に向ける。


「じゃ、俺、茶でも淹れて来るよ」


 身軽な忠弘はさっと部屋を出て、茶を淹れに行った。隆明は上座に座り、星羅と蒼樹にも勧めた。狭い部屋では隆明の息遣いを感じることができる。忠弘がいないと部屋は静かで、星羅は自分の動悸の音が聞こえてしまうのではないかと心配した。

 休憩してまた戦略の考察と議論を交わした後、隆明は立ち上がった。


「では、また」

「あ、そこまでお送りいたします」


 星羅は軍師省の外まで送ろうと立ち上がる。


「ん」


 もちろんこの丁重な扱いが当たり前の隆明は遠慮することはない。廊下に出て、隆明に何事もないように星羅はあたりを見ながら先を歩く。少しでも長く一緒にいたいと思っているせいか歩みが遅かった。


「宴はどうだった?」

「え? 宴? あ、あのすごく楽しかったです」


 話しかけられることがとても嬉しい。軍師省での議論はもちろん楽しいが、もっと隆明とたわいもない会話をしてみたかった。


「ここでよい」


 一応お忍びなので地味な馬車に隆明は乗り込む。すだれを上げ「またな、星雷」と笑んだのち馬車を出させた。


「殿下……」


 はやく軍師になって、もっとそばでお仕えしたいと星羅は思うのだった。




 医局長の陸慶明は、王族の定期健診を行っている。王族から信頼が厚いが、側室の春衣の具合が一向によくならず原因もつかめずにいるので、最近の慶明は自信を無くしている。


「薬師の不養生か? 元気がないようだが」


 王太子、曹隆明の脈診が終ると声を掛けられた。


「いえ、殿下。ちょっと多忙なもので」

「ならばよい」


 もともと美しい隆明だが、中年になり艶のある魅力が増してきている。いつもより機嫌もよさそうだ。


「殿下は今とても好調のようですね。何か良いことがありましたか?」

「ふふ。そうだな、ここ最近で一番楽しいかもしれぬ」


 萌黄色の光沢のある着物をゆったりと着込み、慶明に袖を直された隆明は白い歯を見せ笑う。心から元気になっているのかと思うと慶明は、ほっとするが続く言葉でぎょっとする。


「今、軍師省にいって聴講生をしておるのだ。見習いのものの一人が好ましくてな」

「え? 軍師見習い?」

「そうだ」


 見習いが3人いるが、隆明が好んでいるのは星羅だとすぐにわかった。


「それで、殿下はそのものをどうにかするおつもりで?」

「まだ見習いなのでどうにもできぬが、助手にでもなれば私のそばに置いてもよいかもしれぬな」

「いや、その、それは……」

「慶明よ。不思議な気持ちになるのだ。その青年に会うと、まるで若かりし頃の自分に戻ったように」


 星羅を通して、胡晶鈴を恋しがっているのは、慶明にもよくわかった。しかしこのまま、星羅をそばに置き、間違いでもあれば、慶明は一生、晶鈴に顔向けできないだろう。 

 嬉しそうな隆明を傷つけることになるかどうかわからないが、真実を告げぬままにはもうできない。傷は浅いうちのほうが直りは早いだろう。


「大事なお話があります」


 青ざめて沈痛な顔をする慶明に、隆明も顔から笑みが消える。官女たちに下がるようにつたえ、広い部屋はがらんどうになったような静けさをまとう。


「軍師見習いのものとは、朱星雷でしょうか」

「よく知っておるな」


 隆明は驚いた顔を見せる。更に驚かせることになるだろうと慶明はひと息つく。


「胡晶鈴の娘です」

「!?」


 慶明はますます声を潜めて、隆明のそばに寄る。


「父親はあなた様です」

「なっ! なんと申した!?」

「朱星雷、いや、星羅はあなたさまと晶鈴の娘なのです」


 いきなり突き付けられた真実に隆明は、固まったまま空を見る。ほんのわずかな時間ですべて理解した彼は「そういうことだったのか」と肩を落とした。

 占い師の胡晶鈴が能力をなくし、都を追われた原因は懐妊にあったのだ。


「それで、晶鈴は今どこでどうしているのだ」

「それは……」


 胡晶鈴が、人違いで他国に連れ去られたことから、星羅の現状までの話を聞かせた。隆明は、慶明の話を一言も漏らさぬように聞き入っている。


「晶鈴……」

「彼女はきっと無事です。きっといつか……」

「ん、よい。しかし何も知らなかったことが残念でならぬ……」

「殿下……」


 感傷的になっているところに胸を痛めながら慶明はさらに進言する。


「決して決して父と名乗ることはおやめください。継承問題と星羅の命にかかわりますので。星羅にも父が誰か知らせていません」


 隆明は辛いのか嬉しいのか複雑な笑いを見せる。晶鈴の行方は分からないが、二人の結実ともいえる娘、星羅が身近にいるのだ。


「わかってる。聞いていてよかった。我が娘とは。危うく間違いを犯すところだったかもしれぬな」


 あまりにも晶鈴に似ている星羅を、青年だと思っていても隆明は求めてしまったかもしれないと思っていた。その言葉を聞き、慶明はほっと胸をなでおろす。


「これで軍師省に行く楽しみが、また違ったものになるな」

「ええ、殿下。星羅は素晴らしい娘です。きっと国を支えるでしょう」


 星羅を女性として愛してしまう前に、娘とわかり隆明も優しい気持ちに戻った。彼女を成長を見守り、じっと玉座で胡晶鈴を待ち続けるのだ。

 隆明は落ち着きを取り戻したが、星羅の気持ちには配慮がなかった。慶明も同様に、星羅が実の父である曹隆明を男として愛し始めていることに気づいていない。


 

64 初恋    

 軍師省から帰る王太子、曹隆明を星羅はまた見送る。馬車に乗り込む隆明に手を貸すと、踏み台が濡れていたようで足を滑らせかけた。


「殿下、危ない!」


 下から支えようとした星羅は逆に持ち上げられるように、ふわっと抱き上げられた。


「あ、あの殿下」

「大事ない、ではまた」

「は、はい」


 馬車に乗り込んだ隆明はあっという間に去っていった。星羅は思わぬ隆明との触れ合いに、ますます鼓動が早くなる。どうしてこんなに恋しくて懐かしくて苦しい思いをするのかわからなかった。郭蒼樹と徐忠正に変に思われないように、深呼吸してからまた軍師省に戻った。


「何かあったのか?」


 蒼樹が星羅に尋ねる。


「え? なにも? あ、今日借りた着物を返しに行くがいいかい?」

「ああ、かまわないが」

「では、終わったら家に帰ってから行くよ」


 学習を終え家に帰り、京湖によって手入れされた着物をもって郭家に訪れる。門にいた使用人が無表情で蒼樹の部屋を案内する。相変わらず物にも人にも無駄のない、合理的な屋敷に感心して部屋に入った。


「蒼樹。ありがとう。母が手入れをしてくれたからこのまま片付けてよいと思うが、気になったら確認してくれ」

「ああ、わかった」

「じゃ、これで」

「待てよ。茶ぐらい飲んでいけ。急いでるのか?」

「いや、特に」


 蒼樹がそう言うとすぐに茶が運ばれてきた。使用人に「呼ぶまで来なくてよい」と告げ、茶をすすめる。


「殿下と何かあったのか?」

「殿下と? いや、べつに……」

「慕っても報われないぞ」

「僕は軍師として」

「うそだ」


 いつの間にか蒼樹は星羅のすぐ目の前にいる。


「自分が女だと告げたのか?」

「そんなことは言わない」

「抱き合っていただろう」


 ちょうど隆明がバランスを崩し、それを支えようとして転びそうになった星羅を反対に抱き上げた姿を、蒼樹は見ていたのだ。


「あ、あれは――」


 誤解だと状況を説明しようとするまえに、蒼樹は星羅を抱きしめた。


「な、なにを!」

「星雷。いや星羅、殿下だけはよすんだ」

「放して」

「放したくない」


 星羅は学問に加え、剣術も鍛錬していたのでそれなりに自分の力も自負していたが、蒼樹の抱きしめる力は強く、しかも背中と腰を押さえられ身動きがとれない。


「厩舎で会った時から、気になっていた。男なのに。自分がおかしいのかと思っていたが女だとわかって安心した」

「え……」


 初めて軍師省に行き、馬を停める場所を教えてくれたのはやはり蒼樹だった。


「いっそ、このまま……」


 するどい目で蒼樹に見つめられ、星羅は固まってしまった。蒼樹の顔が迫ってきて触れる僅か寸でのところで、星羅は自分の身体の拘束が緩んだことに気づく。そのすきをついて、星羅はさっと蒼樹から身体を離した。


「お願い蒼樹、やめて……」


 手の中から離れた不安そうな表情をする星羅をみて、蒼樹は冷静さを取り戻す。握ったこぶしで自分の額を叩き「すまなかった」とわびる。


「じゃ、これで」


 蒼樹の顔を見ないようにして、星羅は立ち去る。明日顔を合わせた時には、いつものように軍師見習いの仲間でいられるようにと願った。


 星羅が帰った後、蒼樹は性急な自分に腹を立てた。


「軍師たるもの激情に身を任せてはいけない」


 軍師の家系で冷静さに重きを置いているといっても、蒼樹はまだまだ若者だった。しかし彼は高いプライドゆえに、一般の男のような欲情を発揮してしまったことを恥じた。力で手に入れても星羅は自分を愛さまい。今日の出来事は、失敗した策として胸にとどめておくことにする。いつか彼女の心から手に入れようと、心に決めた。


65 思慕

 郭蒼樹との関わり方を心配したが、彼はいつも通り何も変わった様子がなかった。先日の出来事がまるで嘘のようだと、気構えていた星羅は拍子抜けしたが、安心もした。あらためて蒼樹を感情に左右されない人物だと思う。今回のことで彼は尊敬の対象となったが、星羅の心は王太子の曹隆明に向かっている。蒼樹が言ったように、女性として慕って報われるなどと思っていない。よい策を出し、国を発展させ、忠臣であることで星羅は隆明に尽くしたいと思っている。


 休日、星羅は久しぶりに遠乗りにやってきた。馬の優々も家と軍師省の往復に飽きていたのか、いつもと違う道を嬉しそうに駆ける。人気のない山道を走り見晴らしの良い高台に上がる。柔らかい下草に優々は喜んで顔を埋めている。


「今日はのんびりしよう」


 いつもの軍師省の男装をとき、今日の星羅は髪もおろし、いつもの娘姿で草むらに寝転んだ。高く澄んだ青い空を見ていると隆明の顔が浮かぶ。


「殿下……」


 同時にクールな蒼樹の「放したくない」といった言葉を耳の奥で感じる。頭と心がぐちゃぐちゃし始めたころ、遠くから馬の嘶きが聞こえたので身体を起こした。優々も聞こえたらしく星羅のそばにすり寄ってきた。

 優々の首筋を撫でながら馬の嘶きのほうに目を向けていると、数名の男たちが馬を走らせてやってきた。その中に見紛うことのない曹隆明がいる。隆明も星羅に気づいたらしく、馬の頭を引き返しこちらへとやってきた。


「星雷か?」

「殿下……」


 隆明が不思議そうな顔をするのも当然だった。いつもの男装と違う娘の姿だからだ。星羅はハッとして「あの、わたしは本当は……」と言いかけ口をつぐむ。何と言ったらいいかわからなかった。


「遠乗りに来ていたのか?」


 優しく尋ねる隆明に「はい」と返事をするだけで精一杯だった。


「少しこの者と話があるので、そなたたちはあちらを見てきてほしい」


 どうやら隆明は狩りに来ていたようで、護衛のものも弓矢を持っている。いつも優美な着物姿から、胸当てなどの装備を身に着けた隆明は凛々しく頼もしい。


「久しぶりに狩りに来たら、かわいらしい小鹿に会ったな」

「小鹿……」


 子供にしか見られていないと思うと星羅は辛くて泣きそうになった。


「どうした。そなたはいつも元気なのに」


 もう自分の娘だとわかっている隆明は、思わず星羅を優しく抱きしめる。


「なにか辛いことがあれば言うがよい」


 蒼樹の力のこもった拘束力のある抱擁と違って、隆明の懐は柔らかく温かい。


「殿下、殿下、わたしはあの、あなたをお慕い申してます」


 やっとの思いで自分の気持ちを告げると隆明は「嬉しく思う」と星羅の髪を撫でた。そして身体を離し、自分のまとめ上げた髪から一房、するっと手に取り星羅の目の前に差し出す。


「殿下?」


 一房の髪と隆明を見比べる。そっと触れた髪の毛に星羅は驚き、そして自分の頭にさっと指を入れ髪を梳いた。


「そなたは晶鈴にとてもよく似ている」

「あ、ま、まさか」

「しっ。それ以上は言ってはならぬ」


 隆明は優しくも悲しい目をする。

 言葉を発することも、隆明から視線を外すこともできずに、星羅は立ちすくむ。再び、馬の嘶きが聞こえる。一周回ってきた護衛たちが帰ってきたのだろう。隆明はさっと星羅から距離をとり、身体の向きを変えた。


「また軍師省で会おう」


 星羅の言葉を待たずに、隆明は馬にまたがり護衛の者たちと立ち去った。その後姿を星羅は立ち尽くしたまま見ることしかできなかった。


「殿下が父上……」


 目の前が滲み始めた。景色がグニャグニャと歪む。初めて恋をした人が父だった。初めてそばに感じた時から、懐かしく恋しく感じた隆明は、父だった。養父母の朱彰浩と京湖は、おそらく王太子が星羅の父親だとは知らないだろう。どうして今頃、隆明が父だと星羅に明かしたのかわからなかった。公言することのできない事実を持つことはとても辛いことなのだと思った。

 星羅が王太子の実子だと周囲に知られると、後継者の問題に巻き込まれるどころか、安定したこの王朝のほころびになるかもと抹殺されるかも知れない。恋は人知れず終わる。


「蒼樹……。終わったわ……」


 蒼樹に心配される必要がなくなったなと星羅はふっと笑った。今までにない卑屈な微笑だった。



66 酒場にて

 気が付くと優々と一緒に町をぶらついていた。


「星妹っ」

 

 後ろから明るい声がかかったので振り向いた。陸家の長男、陸明樹だった。


「明兄さま……」


 久しぶりに会った明樹は日焼けしていて精悍になっている。明樹も休みだったのか鎧を着ておらず、腰に剣だけを挿した着物姿だった。


「どうした? やけに暗いな」

「……」

「よし、そこで酒でも飲もう。星羅は飲める口だときいたぞ」

「あ……」


 まだ日は高く帰る予定の時刻には早かった。今暗い顔で帰ると、きっと京湖にいろいろ聞かれるだろう。誘われるまま明樹について酒場に入った。

 酒場は空いていて客はまばらだった。奥の川が見える座敷に座り、明樹は酒と肴を適当に頼んだ。


「よく来るのですか? 明兄さまは」

「うん。最近な。今、家に帰ると気を使うんだ」


 陸慶明の側室、春衣のために慶明は色々な処方を試しているが一向によくならず、慣れない家事や使用人の采配に絹枝は、きりきり舞いし機嫌が悪い。さらに春衣が生んだ次男の貴晶への教育に慶明も絹枝も熱心なようで、明樹は蚊帳の外らしい。


「やっぱ家を継がない俺にはあまり興味がないらしい」

「そんな……」

「まあでも貴晶のおかげでもっと自由にできそうだけどな」

「兄さまったら」


 杯を傾けながら明樹は明るく笑う。つられて星羅も杯を空け笑った。


「うん。星羅は笑っている顔が一番いいぞ。俺の周りの女兵士たちの怖い顔ったらさあ」

「まあ!」


 明るい気性の明樹は、兵士の日常を面白く聞かせる。星羅も軍師省での毎日を話すと、明樹は関心を持って聞き入る。酒が回り、心が軽くなってきた星羅は思わず明樹に尋ねる。


「もしも、報われない恋をしたとしたら兄さまはどうします?」

「報われない? 最初からそんなものするかなあ」

「例えば好きになった人には他に好きな方がいたりとか」

「ああ、俺はあきらめるかなー」

「そうなのですね」

「他にも女人は大勢いるし、時がたてば好みも変わるのではないかな」


 確かに歳を重ねれば、考え方その物も変わるかもしれない。


「じゃあ兄さま。せっかく好きな人と結ばれても別れなければならないとしたらどうします?」

「ええ? 結ばれたのに別れる? そうだなあ」


 考えている明樹の答えを星羅はじっと待つ。


「やっぱり、あきらめるかな」

「そう……」

「なんだよ、さっきからそんなことばかり。ははーん。さては男に振られたんだろ」

「え、そ、そんなこと……」


 星羅は慌てて手を振り、杯を空ける。


「まあ、飲めよ」


 明樹は酒瓶を傾け、星羅と自分の杯になみなみと注ぐ。


「失恋したなら、もう次の恋に行け。ああそうだ。俺が娶ってやってもいいぞ」


 いきなりの発言に酒を吹き出しそうになった。


「家に帰ると、母上が早く結婚しろとうるさいのでな。なんか厄介払いみたいだ。はははっ」

「確かに、もうご結婚してもいい身分ですものね」

「しかし、来年は辺境に勤務なんだよ。新婚早々辺境ではな。夫人は連れて行かないつもりだが」

「お仕事をなさってる奥方なら離れてても平気なのでは?」

「いやあ。それが女兵士たちでも夫とは離れ離れになるのは嫌らしい」

「そういうものですか」

「星妹は平気か?」

「心が通じていれば、たぶん……」


 恋が終ったばかりで、全く想像がつかない結婚に甘い夢は見られなかった。


「そりゃいいな。母上も星妹を気に入っているようだし適当なところで結婚しよう」

「もう、明兄さまったら」

「はははっ、まあ飲もう!」


 明樹のおかげで、ふさぎ込むことが少なくて済んだ。星羅の考え事を深刻に受け止めて、一緒に悩んでもらうより笑って聞いてくれた明樹に感謝する。

 夕暮近くになると店が混んできたので出ることにした。


「ああ、星がでてきたな」


 朱色と青色の交わるあたりの空に一番星が出ている。


「帰れるか?」

「ええ。ありがとう、兄さま」

「気にすんな」


 馬の優々にまたがり星羅は明るく手を振って家路ついた。星の隣に半月があった。白く滑らかな肌の隆明を思い出し、胸がちくりとしたが涙は出なかった。


67 春衣の死

 もう一滴の水も喉を通ることはないだろうと、陸慶明はやせ細った春衣の脈を測る。特に持病もなく、健康的だった春衣は、息子の貴晶を産んだ後見る見るうちに病に伏していった。最初、虚弱であった貴晶は今ではふっくらとし始め、食も太くなってきた。そのことを話すと、やせこけた頬が緩み、春衣は目頭が下がった。


「そなたももう少し口に何か入れられたら良いのだが……」

「いえ。もう充分です」

「何か欲しいものはないか?」

 何を与えてももう意味がないと知りつつも、慶明は春衣に尋ねる。

「何も……」

「そうか……」

「旦那様。お仕事にいかなくて良いのですか?」


 春衣は慶明がここ数日、医局に向かわないことを心配する。


「そなたの看病を私以外にできるものか」


 慶明は苦笑して答えると、春衣が不思議そうな目で慶明を見つめてきた。


「どうした?」

「いえ。旦那様、聞いてもいいですか?」

「ん? 何をだ」

「晶鈴様のことです」

「晶鈴?」

「ええ、晶鈴様をどう思ってらっしゃるのですか?」

「どう?とは?」


 何を聞いてきているのか、さっぱり慶明にはわからなかった。


「まだ愛しておいでなのですか?」

「え?」

「星羅さまはどうです?」


 春衣はあえぎあえぎ質問してくる。


「春衣。一体何を言っているのだ。晶鈴は確かに若いころ好いておったが、思い出にすぎぬ。星羅は、そう、いわば姪のようなものだ」


 慶明の言葉を聞き、春衣はほぉーっと息を吐く。


「ずっとそんなことを考えておったのか」

「すみません」

「絹枝と一緒になって20年近くになる。お互いに恋をしたわけではないが、大事に思っている。もちろん春衣、そなたのこともきっかけはどうであれ、大事な妻だ。晶鈴は入る余地などないのだよ」


 ずっと水分をとっていない春衣の目が涙で光るのが見えた。


「ずっとずっとお慕いしてました。でも旦那様のお心には晶鈴様しかいないのだと思って」

「春衣……」

「ほんとうはずっと我慢するつもりでしたが、星羅さまが晶鈴様にどんどん似てきて……」

「私を慕ってくれていたならもっと早く言ってくれたらよかったな。春衣。そなたのことは私も若いころから利発でかわいらしいと思っていたよ」

「もう、満足です。こんなに側にいてくれて……。卑屈にならずに素直でいればよかった……」

「もうよい」


 春衣は今更ながら、使用人頭の時も、側室に入った時も大事にされていたことに改めて気づく。慶明は家のことで何かあれば、真っ先に春衣に相談していた。着るもの、食べるもの、住まい、調度品、使用人や庭に植える植物まで。

 側室になってからは、寝台をもっと重厚で趣味の良いものに変え、絹枝が関心を示さない装飾品を一緒に選んだりした。


「名前通り、そなたは明るい色の着物が良く似合っていたな」


 一瞬だけ春衣の頬が朱に染まった気がした。


「旦那様。貴晶を、お願いします」

「ああ、貴晶はきっと立派に、私の――春衣?」


 最後の言葉まで聞かずに春衣はこと切れた。口元がわずかに笑んでいる。慶明はがっくりと頭を垂れる。晶鈴にこだわっていたのは、自分だけではなかったのだ。春衣にはそれが伝わっていたのだろう。言葉では思い出と言ったが、春衣の問いは的を射ていた。

 細く骨っぽい春衣の手を握り慶明はつぶやく。


「春衣。すまなかった」


 もっと早く彼女の気持ちに気づき、側室に迎えていれば、難産にも耐えられたかもしれない。または難産にならなかったかもしれない。

 慶明は春衣が、妻の絹枝と、星羅の命を狙ったことは知らない。罪悪感と正義感の狭間で苦しみ、独りよがりな愛憎で心をむしばみ、健康を害していたことを知る由もなかった。幸か不幸かそのおかげで、彼が春衣に負の感情を抱くことはなかった。

 


68 恋心 

 きっと父親のことを知っているはずだと星羅は陸慶明に会いに行く。これまで母、胡晶鈴のことだけは常々気にしていたが、父親の存在については養父母の朱彰浩も京湖も知らないので関心を寄せてはいなかった。初めて恋をした相手が、曹隆明でなければ父親のことを知りたいと思わなかったかもしれない。

 陸家の屋敷の門に着くと固く閉ざされていて、白装束を着た門番が一人だけ立っている。屈強そうな若い男は陸家を何度も訪れてきた星羅の顔見知りだ。


「あの、何があったのですか?」

「星羅さま。実はご側室がおなくなりに……」

「え、春衣さんが……」


 喪中のようで家人はみな白装束を着ているようだ。出直そうか、お悔やみを言おうか考えていると息子の陸明樹が小さな扉から出てきた。彼も白装束を着ている。


「あ、やあ星妹」

「明兄さま……。あの、この度は……。知らなくて……」

「春衣は側室だったということもあって、そんなに大きな葬儀はしていないのだ。何か用事か?」

「ええ、おじさまに。でも、また後日に」

「いや、星妹の顔を見ると元気が出るだろう。会ってほしい」


 星羅は明樹の勧めで慶明に会うことにする。屋敷の中はいつも以上に静かで使用人の数も少なかった。先に通りがかりにある夫人の絹枝の書斎を覗く。


「こんにちは。絹枝老師」

「あら、星羅さん」


 絹枝も白装束だ。ただ悲しんでいる様子はなく、事務処理に追われているようだ。


「おじさまにちょっとお聞きしたいことがあってきました」

「そう……。ちょっと気が滅入っているようだから、よかったら励ましてあげて。私はそういうことは、なんていうかあまり上手くなくて……」

「わたしでよければ」

「きっと顔を見ただけで気分転換にもなると思うから、ゆっくりしていって」


 春衣の死を悼んではいるだろうが、それよりも現実的な処理に追われていて絹枝は忙しそうだった。今はまた学舎の卒業シーズンでもあるので、仕事のほうも忙しいのだろう。感傷的になる暇はないといった風だった。


 風とともに線香の香りが漂ってくる。香りのほうに目をやると、広く開け放たれた部屋の一室に白装束の慶明が座っている。そこは春衣の部屋なのだろう。じっと彼が見つめる先には位牌がある。


「おじさま……」


 静かに声を掛けると、少しやつれた慶明が顔を向け優しく笑んだ。


「よくきたね」

「あの、お線香あげてもいいですか?」

「ああ、ありがとう」


 頭を下げ静かに部屋に入り、位牌を目の前にする。手を合わせ春衣のことを思う。星羅が知っている春衣は、使用人頭で家の中を取り仕切り、明樹に対して世話をよく焼いていた。直接話したこともなく、どんな人物だったかはよく知らない。


「春衣さんは、母に最初仕えていたそうですね」

「ああ、当時からよく気が利いててね。浮世離れしている晶鈴の世話を焼いていたよ」

「不自由なさいますね……」

「まったくだ。春衣ほど有能なものを探すのも難しいだろう」


 春衣は特に学問を修めているわけでもなく、何かに特化した才能があるわけでもない。それでも医局長の陸慶明に有能と言わしめる彼女は実務能力が抜群だったのだろう。


「あまりに采配が上手いので彼女の気持ちに気づいてやれなかった」

「気持ち、ですか?」

「うん。春衣は晶鈴がいたころから私を慕ってくれていたそうだ。もっと早く気づいてやればよかった」

「おじさまを慕って……」

「きっと私のためになると思って屋敷の中のことも頑張ってくれていたのだろうな。間抜けな私は、単純にそれを彼女の能力だと思っていたよ」


 慶明は遠い空に目をやった。


「あの、おじさま。そんなにご自身を責めないで。春衣さんは結果的におじさまのところに輿入れすることができましたし」

「結果的に、か。それでよかったのだろうかな。こんなに早く逝くことになろうとは」

「好きな人と結ばれるなら、きっと、命なんて。惜しくなかったと思います!」


 報われることもなく、想うことすら叶わない恋の終わりを思い出し、星羅は胸が痛くなった。語気が強い様子に慶明は「何かあったのかね?」と星羅に視線を戻す。


「あ、いえ」

「春衣のことは内内だけのことだから知らなかっただろう。私に用事があったのかね?」


 側室を亡くし意気消沈している慶明に、自分の父親のことを聞き出すのは気まずく感じ、星羅は口をつぐむ。


「気にしなくていい。聞きたいことがあれば、言いたいことがあれば早く言っておきなさい。手遅れにならないように」


 慶明はまた春衣の位牌に目をやる。線香の煙がゆらゆらと揺れ、星羅に流れてくる。まるで春衣がはやく話すよう促しているようだ。


「では、おじさま。教えてください。わたしの本当の父についてです」

「星羅の父親か。いきなりどうしたんだね。今までそんなこと気にしていなかったようだが」

「おじさまはわたしの父ではないのですよね?」


 わかり切っていることを改めて星羅は尋ねる。もし、彼がそうだと言ったら星羅はこの喪中の屋敷の中で喜びの声をあげてしまうかもしれない。


「残念ながら……」

「そうですよね」


 陸慶明が父であれば、胡晶鈴はたとえ占術の能力をなくしても、都を離れることなどなかっただろう。


「星羅の父上のことは公にできないお方なのだ。もしも誰かに知られることがあれば、その方はもちろん、星羅の身に危険があるのだよ」


 黙って星羅は聞く。禁忌の恋心はダメだとわかっていても、星羅の中をさまようばかりでどこにも立ち去ってくれない。


「おじさま。春衣さんはとても長い間気持ちをこらえていたんでしょうね」

「あ、ああ……」


 話がまた春衣に戻り、慶明は虚を突かれたような気になる。


「どうやって自分の気持ちを押さえてなだめていけばいいんでしょう」

「誰か好きな男がいるのかね?」


 慶明は星羅が恋をしているのだとわかった。そしていきなり父親の話を聞きたがる。先日、王太子、曹隆明と会ったばかりの彼は、星羅の苦しい恋の相手が誰だか想像がついた。


「星羅。娘というものは初めて恋する相手は父親になるのだよ。残念だな。私が君の初恋の相手になれなくて」


 できるだけ優しく慶明は話す。


「私も母が大好きだった。母の愛を一身に受けたくて頑張ったものだよ」

「おじさま……」

「実らない、告げられない、報われない。そんな恋は辛いだろう。しかし不思議なものでまた別の縁が出てくるのだよ」

「おじさまにも経験がおありですか?」

「うん。縁がないのだろうと思う。だけどその事に拘っていたら、ほかの良い機会を逃すだろうし、その苦しい思いは良い思い出に変わる」

「良い思い出……」

「今は信じられないと思うが」


 春衣は慶明に、慶明は晶鈴に報われない思いを抱いていたのだろうか。星羅はこの苦しい思いは自分だけが味わっているのではないと思い始めると、孤独感が減ってくる。


「恋した相手をどうにかしたいと望むのは欲望だが、相手の幸せを願うのは愛だろう」

「母は父に対してどうだったのでしょうか」

「そうだなあ。晶鈴はもともと欲の少ない人だったし、いつも皆の幸せを願っていると思うよ」


 養母の京湖も、晶鈴が自分の身代わりになったと言っていた。


「なんか、叶わないですね。母には……」

「はははっ。晶鈴と星羅は母子といっても違う人間だからね。良いところも悪いところも違うものだよ」

「おじさま、ありがとうございます。少し落ち着きました」

「いいんだよ。何かあればいつでもおいで」

「すみません。こんな時に」


 星羅は少しだけ軽くなった心を感じる。恋する気持ちをすぐに捨てることはできないが、時間とともに落ち着いていくかも入れない。もう一度春衣の位牌に手を合わせ、陸家を後にした。



 若い星羅を見送った後、慶明はまた春衣に線香をあげる。


「春衣。星羅は私たちの青春の象徴のようだな……」


 もう自分の出番は終わったと慶明は実感する。晶鈴に似た星羅を我が物にと思ったことがなくもない。しかし彼女の若くみずみずしい輝きを手の中に収めることはもう無理だった。王太子の曹隆明も、星羅の成長を父親として見守っていくことだろう。初恋の終焉と風化を感じると、慶明は心が鎮まる。不思議なもので鎮静化すると自由に広がっていくものを感じた。


「私もやっと晶鈴の域に達したかもしれぬな」


 後で、靴を脱いで息子の貴晶と庭を散歩しようと考えた。


 

69 見習いの卒業

 そろそろ軍師見習いから、助手に昇格もしくは、軍師省を去る時期がやってくる。毎年、軍師見習いの試験はあるが、しばらく合格するものはなく、星羅と郭蒼樹、徐忠弘3の人のままだった。この三年の間に変わったことは、徐忠弘が星羅の身長を抜いたことだった。


「俺は脱落するかもなあ」


 気の抜けた徐忠弘の言葉に星羅は筆をとめる。


「なぜだ? そんなこと言うなよ」

「うーん。やっぱさあ。軍師って俺には合わないと思う。策も商売のことばかりしか出てこないし」

「商売だっていいだろ。国が富むことだって十分策だろうし」

「なんていうかさ。根本的にあんまり国に対する忠誠心っていうものがやっぱり薄いんだ」

「じゃあ、どうするつもりだ?」

「家を継ぐかな」


 徐忠弘の実家は南方では有名な商家だ。


「せっかくここまで一緒に頑張ってきたのに」


 残念そうな星羅に郭蒼樹が口をはさむ。


「確かに、ここで決断することは良いだろう。忠弘はきっと助手になれるがそのあとは厳しいと思う」

「蒼樹もそう思うか? 軍師というものは蒼樹や星雷みたいな、頭が冷め切ったやつか、心が熱いやつがなるもんさ」


 徐忠弘は話しながら、より納得していっているようだった。


 竹簡に記した策を三人は教官の孫公弘に渡した。徐忠弘は商品の流通に関して、郭蒼樹は軍事に関して、星羅は治水に関する策を講じた。結果は明後日ということで三人は久しぶりに町へ行き、酒屋で慰労会を始める。今日はしこたま飲んでやろうと、二階の奥座敷を用意してもらう。


「お疲れ様」

「一仕事だったなあ」

「手ごたえがあったな」


 あっという間の三年間だったが、濃厚だった。星羅は曹隆明を男として意識する恋心と、父としての思慕の間で苦しみながら過ごした。治水に関する策は、隆明が黄河の氾濫で苦しむ民のことを話していたからだ。星羅は隆明の心の負担が少しでも軽くなるようにと策を講じる。結果的に良策であるが、その策を生み出す過程を知られれば、感傷的な策だとよい顔をされないだろう。


「忠弘の策も通ると思うけど、本当に辞めるのか?」


 星羅は、徐忠弘の能力を惜しむ。


「ああ。通ったとしてもな。もうこれ以上策は出てこないよ」

「惜しい気がするがな」


 郭蒼樹は徐忠弘の杯に酒を注ぐ。


「お前たちは軍師になってくれよ?」

「頑張るよ」

「ほかにやることがないからな」

「はははっ。やることないからって、さっと試験に合格されたじゃあなあ」


 忠弘は笑って杯を空ける。


「しょうがないだろう。商人にも農民にもなれぬだろうし」

「確かに、蒼樹が商人だと仏頂面で何も売れそうにないなあ」

「土を耕す前に考えていそうだよなあ」

「人には適材適所というものがあるからな」

「忠弘はどこで何をしても適材適所ってかんじだなあ」

「それもなあ。器用貧乏ってやつか?」

「貧乏じゃないだろう」


 他愛もないことから、真剣な話、想像までいろいろな会話を交わしあう。3人ともはっきりした個性と考え方があり、切磋琢磨しあってきた。これから徐忠弘がいなくなると思うと星羅は残念でならなかった。

 人が引け始め、店の者がそろそろ終いたいと言ってきた。


「ああ、もうそんな時間なのか」

「僕はそろそろ帰るよ。二人はまだゆっくりしたらいい」


 遅くなると京湖に伝えてはいたが、ほどほどにしておこうと星羅は二人に別れを告げる。


「夜も遅いことだし、送ろう」

「いや、いいよ。優々であっという間に帰れるから」

「まあまあ、星雷。遠慮するな。さすがにこの時間におなご一人を帰らせるわけにはなあ」

「え?」


 徐忠弘の言葉に星羅は驚きまじまじと彼の顔を見る。


「なんだ?」

「あの、僕が女だと知っていたのか?」


 郭蒼樹も怪訝そうに徐忠弘を見ている。


「ああ、最近だけどな。星雷はちっとも背丈が伸びないし、声も変わらないからな、そうかなーって」

「そっか、わかってたのか」

「だからって別にどうだってこともなかったんだけどな」

「ありがとう」

「気にするなよ。女軍師目指してがんばってくれよ」

「うん!」

「じゃ、ここで。蒼樹、後は頼む」

「ああ、任せておけ」


 徐忠弘は機嫌のよい顔を見せ去っていった。星羅は郭蒼樹と二人で軍師省の厩舎にむかい、それぞれ馬を引いてきた。


「帰るか」

「うん」


 2人は無言で馬に乗り走らせる。思う言葉は同じで『寂しくなる』ということだった。



 徐忠弘が寄宿舎に帰ってくると、教官の孫公弘もちょうど帰ってきたようで「ようっ」と声を掛けられた。


「孫教官、お疲れ様です」

「どうだ。食堂で一杯やらねえか?」

「今、蒼樹と星雷と飲んだばっかりなんだよなあ……」


 頭をひねっていると「まあ、こいよ」と強引に連れていかれた。夜更けの食堂は誰もおらず広々としていた。


「もう調理員は寝てるんじゃないですか?」

「いやいや、オヤジはまだまだ起きてるさ。なあっ! 酒と何か肴を頼む」


 厨房へ孫公弘が大声でどなると「ちょっと待ってろっ」と返答があった。


「な? ほら、そこ座れ」

「は、はあ」


 すぐに厨房から男が酒を運んできた。初老の男はいかつく目つきが鋭い。徐忠弘は相変わらず迫力のある食堂のオヤジだと、目をそらす。酒瓶を置くとすぐに戻り、肉と青菜を炒めたものを持ってきた。


「ほらよ」

「おお、すまんすまん」

「ゆっくりやんな」


 男はまたプイっと厨房へ戻っていった。

「ほら」

「あっ、おっとと」


 なみなみと酒を注ぎ杯を重ね飲み干した。軽く一杯やった後で孫公弘が尋ねる。


「結果は気にならないのか?」

「結果? ああ」

「なんだよ。気にしてなかったのかよ」

「あいやー。気にしてないというか、どっちにしても俺はもう、この辺が引き際かなって」

「お前がいるといい均衡を保つんだが、これからどうなるかなあ」

「蒼樹と星雷の組はなかなかいいと思いますけどね。夫婦軍師とかになったりとか。はははっ」


 おやっという顔をして孫公弘は杯をそのまま空に浮かせた。


「星雷が女って知ってたのか」

「途中からですけどね。うちは女中だらけなので女には目ざといですよ。教官も知ってたんですか?」

「そりゃあな。上のものはみんな知ってるさ。まあ軍師省初の女人ということで、星雷の希望で男装してたわけだが」

「星雷も変わってるよなあ。嫁の行きてがあればいいが」

「嫁に行く気などないだろう。ああ、でも嫁ぎ先はたくさんありそうだぞ。わはははっ」


 徐忠弘はその話を聞いてちょっと残念な気がした。秘かに彼女を気に入っていたので、行き遅れたら自分が娶ってもいいくらいに思っていた。


「そうか。じゃ、せめて婚礼衣装くらいうちで用意してやるかな」


 そんな徐忠弘の気持ちに気づいてかいないのか、孫公弘はどんどん酒をつぐ。


「ここに入ったばっかりの時にもさんざん飲んだよなあ」


 自分の部屋で歓迎会と称する飲み会を、徐忠弘は懐かしく思い出した。なみなみと注がれた杯の酒には、あの頃の少年のような徐忠弘ではなく、立派な青年が映っている。


「華夏一番の商人にでもなるか」

「おう! お前ならできる!」


 再び乾杯して門出を祝った。


70 昇格


 軍師見習いから助手になった朱星羅と郭蒼樹は改めて、大軍師の馬秀永にあいさつをする。


「ほーっほっほ。また顔が見れたの。じゃが2人か」


 白く濁った眼で交互に星羅と蒼樹の顔を見る。


「まあ、しょうがない。助手も久しくいなかったくらいだし。軍師省が大所帯にはなるまいな。では精進する様に」


 軍師試験は定員制ではなく、高すぎる一定の水準を超えねばならなかった。そのため数年間、見習いさえいないときもある。星羅の年は豊作だったようだ。二人が助手に昇格したのち、見習い試験に受かったものがやっと一人出た。


「ここまで来たら後には引けないぞ」


 郭蒼樹は星羅に覚悟させるように言う。


「わかってる。忠弘はほんとうに引き際を知っていたんだな」

「うむ。辞めるものはやはり見習いのうちにやめるようだ」


 これから本格的な軍師の道を進む。助手からは朝議に参加できるようになり、その場で上奏することはできないものの、意見を教官以上のものに提出して審議してもらうことも可能になる。

 星羅は朝議で出ることで、頻繁に王太子の曹隆明に会えることが嬉しかった。


 初めて朝廷に向かう。星羅はいつも見ていた石の階段を一段踏みしめるように上がる。遠目からはよく見える『銅雀台』は階段の下からは見えないほど高い。まるで高祖の志のように高い。


「今日からここで政に参加するのね」


 そう思うと足がぶるっと震えた。王太子で実の父である曹隆明への恋しさよりも、緊張のほうが勝る。


「星雷っ」


 後ろから郭蒼樹の声がかかった。


「あ、蒼樹。おはよう」

「おはよう。早いな」

「あ、うん。眠れなくて」

「そうか」

「蒼樹はいつも通りだね」

「そんなことはない。俺もここに上がるのは初めてだ」


 珍しく蒼樹も緊張しているようだ。


「でも、蒼樹の父上もいらっしゃるのだろう?」

「まあな。しかし親や親族などいても関係はないさ。俺たちは末席でなんとか話を耳に入れられる程度だ」


 それでも助手の身分で朝議に参加できるのは、軍師助手だけだった。医局長であっても陸慶明も参加できないし、太極府局長の陳賢路もしかりだ。そのため朝議に交じっている若者は軍師省からの者だとすぐにわかる。階段を上がる足取りが若くて軽くとも、経験と実績のある熟年の高官たちに囲まれて星羅は息苦しさを感じた。

 前向きで意志が強く、周囲に流されない星羅ではあるが、さすがに高官たちの朝議には緊張する。発言を求められるわけでもないが息をするので精一杯だ。ふっと郭蒼樹のクールな表情を見て、彼がいてくれてよかったと思った。


 末席で落ち着いてくると、上奏の内容なども聞こえてきて、官僚たちの顔も見ることができた。空席の玉座の隣に、王太子の曹隆明が座って上奏を聞いている。今、王は高齢で体調不良のため、朝議には出ていない。

 今、華夏国に大きな問題がないためか、朝議はスムーズに終わる。ある程度の派閥はあるが、激しく争うこともない。時々、上奏に矛盾が生じたり、数値がおかしいときなどに隆明が聞き返している。

 次期王である曹隆明の立派な姿に見とれていると「解散!」との声がかかり、星羅は我に返る。


「出るぞ」

「あ、うん」


 郭蒼樹に促され、混雑する前にすばやく退出した。星羅は、郭蒼樹の後をついて階段を下りる。同じ軍師省の空色の着物を着て、身分も助手と同じなのに、蒼樹は落ち着いていると星羅は感心する。


「さて軍師省にもどるか」

「そうだね」


 朝議の後は、見習いの時と同じく軍師省にて政の補助的な仕事をする。


「そういえば、上座のほうに蒼樹に似た方がおられたな。父君か?」

「ああ、そうだ」


 曹隆明のそばに、大軍師の馬秀永がいて、その隣に郭蒼樹に似た年配の男が立っていた。


「蒼樹は若いんだな」

「何を言ってるんだ。星雷と同い年だぞ」

「いやあ。普段大人びてるからさ」


 郭蒼樹の父親はよく似ているが、さすがに蒼樹よりも数段落ち着いていて貫禄があった。それを目の当たりにすると、いつも自分よりもずいぶん大人びていると思う蒼樹は、青年なんだと実感してリラックスする。


「しかし、殿下はやはり違うな」

「あ、ああ」

「軍師省においでになった時は気さくで親しみを感じるが……」

「朝廷ではとても遠い存在に感じるな」


 星羅は襟足からそっと自分の髪に触れる。隆明と同じ手触りの髪に触れると、心が安らぎ慰められる。王太子、曹隆明が実の父と知った夜から「殿下は父上……」と髪に触れながら、寝台を濡らして夜を過ごしてきた。もう涙を流すことはないが、髪に触れる癖がついている。


「すぐにおそばに参れるさ」


 郭蒼樹の優しい口調に、星羅は「そうだな」と明るく答えた。

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