第6話

51 視察

 王太子の曹隆明は側室の申陽菜と数名の供を連れ、各機関を視察する。そう遠くない未来に、隆明は王となり政を行うようになるだろう。

 こういった視察にはいつも北西出身のお気に入りである周茉莉を連れていたが、彼女は歌舞や衣装を取り扱っているところ以外はつまらないと言うので、今回は申陽菜を連れている。王太子妃の桃華は相変わらず体調が悪いということで、外出をしたがらない。


 申陽菜はここぞとばかりに隆明の機嫌をとろうと、太極府や医局でも関心を示し感想を述べる。


「殿下、医局は優秀な薬師が多いみたいですわね。太極府も厳かで素晴らしいと思います」

「うん、どちらも国にとって大事な機関だからな」


 当たり障りのない会話を交わしながら、隆明は最後に軍師省へ訪れる。


「どうかな。今年の見習いは」

「もちろん、どこの見習いよりも上等な者がそろいましてございます」


 一番の高官僚、大軍師の馬秀永は濁った眼で、どこかわからぬほうへ視線を向け話す。戦国時代ほどの大きな活躍がみえない軍師省だが、国の最高機関として存在している。そのため気位の高いものが多い。王の臣下として次ぐ最高権力者は宰相であるが、この大軍師はそれに匹敵する。


 古い時代には大軍師から、宰相になるものもあったが、今はこの軍師を目指すものは偏りすぎていて仁徳に乏しい。学問や知識、創意工夫に満ちてはいるが、知力のエキスパートはどこか人柄に問題も多かった。勿論、太極府や医局などの専門的な機関には、世捨て人のようないわゆる変わり者が多かった。


 他の専門機関に比べ、軍師省は活発な議論をなされることも多いので、案外賑やかだった。意見が対立しているのかたまに怒声が聞こえてくる。


「こちらは活気があるのですね」


 荒げた男の声に、申陽菜はその細い体をより細く縮めるようにして隆明に寄り添う。


「そうだな。ここは与えられたものを受け取るだけではなく、発揮するところであるからな」


 間違うと場末の酒場のような言い争いにも受け取れる。軍師、教官、助手と順にみながら、隆明は彼らの熱気に当てられたかのように己も軽い興奮状態になっていた。


「良いな……」


 王太子という身分を与えられた曹隆明と違い、彼らは自らの手で道を作り歩こうとしているのだ。最後にかるく見習いたちのいる部屋を覗く。一人の青年が地図を指さし、古代の分裂していた時代のことを熱心に話している。見習いたちは、過去の戦乱、戦略をシミュレーションして戦略を立てているのだ。振り返った青年を見て隆明は立ちすくむ。


「しょ、晶鈴……」


 青年は晶鈴によく似ている。北西出身の側室、周茉莉よりもずっと似ている。じっと青年を見つめる隆明に、申陽菜は「殿下、どうなされたのですか? あの青年が何か?」と尋ねた。


「あ、い、いや。知り合いに似ていたので」

「そうですか。声でもおかけになります?」

「いや、討論中のようだしやめておこう」


 案内役である、軍師助手の男に隆明は三人の名前を尋ねる。神経質そうな軍師助手は「左のものが徐忠正、右のものが郭蒼樹。立っているのが朱星雷です。今回最高の成績のものです」

「そうか」


 朱星雷と口の中でつぶやくが、胡晶鈴とはまるで結びつかない。他人の空似でも、ここまで晶鈴に似ていると隆明はたとえ青年であろうが執着心を芽生えさえないことができなかった。どうにかして朱星雷をそばに置きたいと考え始めていた。


 今夜はこのまま申陽菜のもとで隆明は過ごすことになる。申陽菜は医局長の陸慶明に作らせた、体臭をかぐわしい花の香りに変えさせる薬湯を飲んで寝台でスタンバイしている。


「今夜こそ、隆明様を夢中にさせてみせるわ」


 はかなげな肢体と表情の下に、誰よりも負けたくないという強い気持ちが宿っている。申陽菜はとにかく自分が一番大事にされていないと気が済まなかった。

 しかし思惑はなかなかうまくいかず、隆明は気もそぞろでぼんやりした夜を過ごした。申陽菜が甘く話しかけても生返事ぐらいで、結局、添い寝をするだけだった。

 朝げを一緒に食べ、笑顔で隆明を朝廷へ送り出した後、申陽菜は癇癪を起こす。


「一体、何が気に入らないのよ!」


 あまりにもそっけない隆明の態度は、彼女にとってまったく理解ができない。頭に血が上ったようで、ふらふらと申陽菜はしゃがみ込んでしまう。


「陽菜さま」


 かけよる宮女に身体を支えられ、寝台に腰掛ける。


「なんだか、具合が悪いわ。薬師を呼んでちょうだい」


 機嫌の悪い申陽菜に八つ当たりされないように、宮女はすぐさま医局へ走り、医局長の陸慶明に助けを求めた。



52 思案

 軍師見習いの三人は、地図を広げこの中華を4つに分けた。中華を統一したこの曹王朝はそのままにして、残りの三国の君主となって中華統一を目指すシミュレーションを行うのだ。

 徐忠正は地道に国力を上げ、兵よりも農民を増やす。彼はそもそも南方の大富豪の息子なので、まず流通を活発にし経済を安定させることを大事にしている。


「商人が少ないんじゃ?」

 

 星羅が尋ねると「いや、売るものがないと商人ばっかりいてもしょうがないのさ」と物質の豊かさを説く。

 郭蒼樹は防衛に力を注ぐようだ。


「保守的すぎないか?」


 徐忠正にそう言われるが郭蒼樹はそれでいいらしい。彼は代々軍師を輩出している家柄だ。その彼に言わせると、勝負は時の運らしく余裕があって攻めても駄目になることがあるので、まずは守りを、ということだった。


「星雷はどうする?」

「うーん……」


 星羅はまだ方針らしいものが確立されていなかった。


「ちょっと情報収集しながら様子見かな」

「まあ、それもありだ」


 柔軟性のある態度も、必要であると3人の意見は案外そろう。考え方も個性も違うが、徐忠正も郭蒼樹も他人の思考に偏見がなく、否定することがなかった。少しでもみんなと違うと排除しようとする人たちに比べ、寛容だが芯のある二人を星羅は好きになっていった。


 思考を鍛えながら、3人は献策について考える。気のいい徐忠正は提案をする。


「なあ、3人で一緒に3つ考えないか?」

「一緒にだと?」

「ああ、禁じられてはないだろう?」

「確かに、一人ひとりで考えろとは言われていないね」

「どうだ?」


 星羅は「いいと思う」と賛成するが、郭蒼樹は少し考えている。


「それだとここから追い出されることはないだろうが、自分の実力が測りかねるな……」


 知力においてプライドの高い彼らしい考えだった。軍師省に無難に残っていくよりも、自分の能力を確かめたい気持ちに星羅も同意する。


「確かに、平均的な3人でいるよりも、この中で一人でも突出したものが軍師になっていくほうが国のためにはなるね」

「そっか。まあそりゃそうだわな」


 星羅も提案する。


「お互いで考えた献策を最後みんなで考察しあうのってどう?」

「ああ、それはいいな」

「うん、それなら自分の能力も測れるし、策の精度も上がろう」

「じゃ、策はしばらく内緒ね」


 3人は献策についてしばらく触れずに、また学習に戻ることにした。


 献策について考えながら歩いていると、馬の優々のまえを通り過ぎてしまった。


「星雷さん、どこ行くだ? おめえさまの馬はそっちだぞ」

「あ、仲典さん、うっかりしてたよ」


 気のいい許仲典はにこにこと馬の世話をしている。馬たちも彼によく懐いているらしく、そばに来るとふんふん鼻を鳴らし顔を摺り寄せる。


「こらこら、くすぐったいだよ」

「ふふ、仲典さんは馬に好かれているな」

「まったく、おなごにはあまり好かれないのに」


 ふくれっ面をするが愛嬌がある許仲典に「仲典さんのように、優しければよい奥方がきますよ」と星羅は本心から告げる。


「そうかあ? 星雷さんも、おらのとこに来てもいいと思うかね?」

「え?」


 虚を突かれたように許仲典を見つめると、彼も不思議そうな顔をする。


「星雷さんは、おなごだべ?」

「あ、ああ、そうだ。知ってたのか」

「そりゃあ、一目見たらわかるさ」

「別に隠してるわけじゃないけど、みんなには内緒にしてもらえないか? ここは男ばかりだからさ」

「ん? いいよ。おら、星雷さんくらいしかおしゃべりする人いないし」


 ほっとして星羅は「仲典さんは鋭い観察眼も持ってるな」と感心した。ほめられて気をよくした許仲典は「それほどでもないって」と頭をかく。


「あ、そうだ。財務省の袁幸平には気を付けたほうがいいだ。とにかく女好きだ。星雷さんが目をつけられたらやっかいだ」

「財務省の袁幸平? まあお目にかかることはないと思うが、気を付けるよ。ありがとう」


 安心した顔を見せる許仲典に別れを告げ、星羅は馬の優々とともに厩舎を後にした。色々な機関が入っている金虎台の門を出てから星羅は優々にまたがる。


「仲典さんのおかげで艶が出てるね」


 優々に話しかけるとヒヒィン!と嬉しそうに啼く。


「さて帰ろう」


 好きな学問と考察に明け暮れる毎日はとても充実している。少し遠回りをして地平線が望めるところに出る。


「この広い国の外にもいっぱい国があるのね」


 記憶にない母、胡晶鈴に思いを馳せる。いつか再会できる日が来るだろうか。太極府の鑑定によると元気であるということだが。知性と体力を蓄えたのち、星羅はもっと広い世界を知りたいと願う。どこでどんな状況になろうがやっていける自信を身に着けるべく、とにかく鍛錬するしかないと考える。

 日が傾き空に北極星が見える。どの国にいてもこの星は見えると兄の京樹が教えてくれた。母も見ているといいなと思いながら帰路についた。


53 接近

 珍しく神妙な面持ちで教官の孫公弘が教室に入ってきた。軍師見習いの三人が静かに学習していようが、討論していようが、いつもはお構いなく混じってくる。ところが今日は静かにこほんと咳払いをして「皆、こちらへ座るように」と指示する。

 星羅たちは顔を見合わせ、ちょっと変な表情を見せ黙って座った。


「えーと、今日から週に一度だけ聴講生がいらっしゃる」


 おかしな物言いに徐忠弘が「聴講生にいらっしゃるだってさ」と星羅に囁く。


「そこ、静かに。今紹介する、いやさせていただくので皆もちゃんと挨拶する様に」


 明らかに気を使っている様子に、三人はどんな人物がやってくるのか息をのんで待つ。孫教官が深く頭を下げ「どうぞ」と丁寧に椅子を出す。

 すっと入ってきた男は軍師見習いの着物と同じく空色の着物だが、頭にかぶっている冠が装飾が華美ではないものの、金細工の美しいものだった。落ち着いていて立ち振る舞いが美しいので、孫教官よりも年配にみえるが、艶のある漆黒の髪が若々しさを感じさせる。

 郭蒼樹は声を出さずに、あっと口を開けた。


「知ってるの?」


 星羅が尋ねると「あの方は……」と言いかけて口をつぐむ。 


「えーっと蒼樹はおそらく存じておろう。このお方は王太子の曹隆明殿下だ。粗相のないように」


 星羅と徐忠正はまた顔を見合わせて驚いていた。郭蒼樹は軍師の家柄であるので、王族のことを知っていたのだろう。それでも王太子が聴講生ということで驚きを隠せない。

 中年であろう曹隆明は透き通った低い声で「そのように緊張しないでほしい」と笑んで見せた。


「えーっと殿下は、これから即位するまでに、ご自身でももう少し勉強をしたいということだ。ご公務もあるので月に二度ほどここに通われるそうだ」

「よろしく頼む」


 ざわざわする三人だが、気さくな徐忠正が「教官」と挙手した。


「なんだ。忠正」

「殿下の歓迎会をするんですか? 俺んちで」

「ば、ばかもの! そのような品のないことはせぬ!」


 慌てて孫公弘は手を振った。それを見て曹隆明が「歓迎会とな? 私にはしてくれぬのか」と孫公弘に尋ねた。


「そんな、こんな庶民の歓迎会など殿下には不愉快なだけです。何か御身にあったら」


 顔を赤くさせたり青くさせたり忙しい孫公弘に「冗談だ」と隆明は優しく告げる。余計なことを言った徐忠弘をにらんだ後、「では、学習を続けるように、俺は教官室にいる。何かあればすぐに言いに来るんだぞ」と隆明に深く礼をした後教室から出ていった。

 軍師見習いの3人が顔を突き合わせていると、隆明が話しかける。


「私のことは気にするな。これまでの続きをするがいい」


 そういわれて、とりあえず三人でやっていた軍略の続きを始める。


「では俺からだったな」


 郭蒼樹は地図の上で、駒を動かし細い谷を通るだろう敵軍のために伏兵を設置し始める。それに対して、徐忠弘と星羅は自国の軍をあらゆる策で行軍する。

 三人三様の行軍の仕方や戦略に、曹隆明も感心して眺める。しかし彼の目線は主に星羅に注がれていた。仮想の行軍中に星羅は「あれはなんだったかな」と慌てて兵法書をとりに踵を返した。ちょうど砂がこぼれていたところで星羅は足を回転させたので滑ってしまった。

「きゃっ」


 転ぶかと思った矢先に、ふわっと隆明に抱きしめられ転ばずに済んだ。


「大事ないか?」


 目の前の王太子に星羅は慌てて身体を離し「殿下、申し訳ございません」と跪く。隆明は「よい。立ちなさい」と星羅の手を取った。

「お、畏れ多い」


 ますます恐縮する星羅に隆明は笑う。


「本当によいのだ。そなたたちは大事な軍師見習いでこの国の責を担うことになろう。精進するのだぞ」

「はい!」

「まあでも今日はこの辺で私は帰ろう。次はもっと緊張を解いてほしい」


 そういって衣擦れの音だけを残し隆明は教室を出ていった。すぐに孫公弘の「お帰りですか?」と大きな声が聞こえた。


「はあ、緊張した」


 星羅はほっと胸をなでおろした。


「まったく星雷はひやひやさせるよな」

「王族の身体に触れると本来、不敬罪あたりかねん」

「不敬罪?」

「冗談だ」

「悪い冗談はよしてくれ」


 ふっと笑う郭蒼樹に星羅は目を丸くする。


「でも殿下は気さくな方だな」


 徐忠弘は王太子である曹隆明が高圧的でも、傲慢そうでもない温和で寛容な態度に感心しているようだ。


「うん。僕もそう思う。王族とはそういう方が多いのかな」


 星羅の素朴な疑問に郭蒼樹は首を振る。


「いや、誰とは言わないが傲慢と高慢でできている王族も多い」

「さすが軍師家系だな。よく知ってるんだな」

「まあ親父や祖父から色々聞かされているしな」

「それでよく軍師になろうと思ったね」

「ほかに思いつかなかっただけだ」


 郭蒼樹にとって軍師になることは、普通に生活をすること変わりないことのようだ。


「僕はもっと精進して軍師になって殿下にお仕えしたい」

「そうだな。俺もそう思うよ」

「うん、殿下にならお仕えする甲斐があるというものだな」


 三人は同じ意見を持った。緊張が解けると「それにしても星雷は女みたいな悲鳴を上げるよな」とからかい始めた。

「そうだな。軍師たるもの些細なことで動揺しないほうがいい」

「ちょ、ちょっとびっくりしただけだって。大げさに言わないでくれよ」

「じゃ、続きやろうぜ」

「そうだな」


 また軍略の続きを練り戦うことを始めた。誰も戦争を望む者はいないが、戦うことを適当にないがしろにすることはしなかった。気づかないうちに三人は戦略だけでなく、心理の駆け引きにも長けていくようになっていった。 


54 香り


 隣で眠る、花の香りの高い側室の申陽菜に背を向けて、今日、軍師省で思わず抱き寄せた朱星雷を思う。まだ若い青年のためか、抱いた感覚は柔らかく軽く華奢だった。一瞬のことだったが、星雷からスパイシーな香辛料の香りが漂った。中性的な雰囲気で透明感があり、かわいらしさもある。そして胡晶鈴によく似ていた。


「不思議な子だ……」


 晶鈴に思いを馳せる。彼女もとらえどころのない不思議な人物で、隆明をそっと薄絹のように包み込んでくれていた。

 ただ、今にして思えば、晶鈴は自分を受け入れてくれていたが、彼女が自分を求めたことはない気がする。晶鈴を自分のものにしてしまいたいと若かった隆明は男の欲望を彼女にぶつけてしまった。その劣情を彼女はそっと受け止めた。


「あれが母性だろうか……」


 隆明は物心ついたころには、先の王妃であった母を亡くしていたので、母を味わったことはない。乳母や女官が優しく甘やかして育ててくれたと思うが、彼女たちを母のように思ったことはなかった。


「晶鈴だけだったな……」


 改めて晶鈴は友であり、恋人であり、母であったのだと思う。そう思えば思うほど晶鈴が恋しくなる。


「身代わりにはできないだろう」


 よく似ている朱星雷を、ついつい晶鈴の身代わりにそばに置きたいと願ったが、逆に虚しくなりそうだ。デリケートで心根の優しい隆明は、朱星雷にも嫌な思いをさせたくなかった。


「晶鈴は何も残さなかったな」


 香りもまとわず、記憶に残るのは彼女の若かりし姿だけ。彼女の好きな桔梗の花を庭に植えたが、嫌いじゃないというだけだったかもしれない。


「今、私のことを少しでも想ってくれることがあるだろうか」


 故郷にいるだろう晶鈴はおそらく家庭を持っているだろう。隆明は何度も彼女の故郷に行きたいと願ったが、無理な立場だった。また彼女に会ったところで何か変えられることもない。

 朱星雷の登場で、久しぶりに胡晶鈴への想いを再確認してしまった。そのことを口にはもちろん出さないが、申陽菜と周茉莉2人の側室は隆明の様子がおかしいことに鋭く気づくのだった。


55 世継ぎ


 申陽菜と周茉莉はめでたく懐妊したが、二人とも産んだのは女児だった。そしてまた二人の側室が隆明の後宮に入ることになった。太極府ではまた側室選びが始まる。これで二人の側室が後宮入りしても女児しか生まれないのではないかと、口には出さないが、皆、懸念している。


 過去に一度だけ王子が生まれないことがあり、女王が誕生したことがある。子が全く生まれなければ、王位継承は、王の兄弟に移るが、そうでない限りできるだけ直系血族を世継ぎにするべく女王誕生となった。


 今は王はまだ健在なので、後を継ぐのは長兄の隆明になる。隆明が王になり、女児しか望めなかった場合にはまた女王が誕生する。しかし王太子の身分のまま早世してしまえば、王太子は次男の博行に譲られるだろう。


「これは好機かもしれない……」


 現王妃の蘭加は、息子の博行が王になれる可能性を見出す。王太子の隆明に一人でも男児が生まれていたらそう思わなかったが、こうも女児ばかりが生まれていて、まだ王太子であれば、博行の王位継承が見えなくもない。


「隆明に何かあれば……」


 ごくりと喉を鳴らす。隆明が王位を継げぬまま亡くなれば、博行が王太子となり、博行の息子が王太子となる。


「あまり悠長にはできぬ……」


 現王の曹孔景は近頃、胸を押さえながら咳をすることが増えた。医局からも薬湯が多く出されており、暑い日でも冷やされたものを食べすぎないようにと言われている。高齢といえば高齢であるのでここ数年で世代交代はなされるだろう。


「どうすべきか」


 自ら手を下すことも、人を使うことも相当に慎重にやらねばならない。だが蘭加の心はもう決まっている。王太子、曹隆明を亡き者にするのだ。


「ふん。博行が王になればもう少し、あたくしを尊重するでしょうよ」


 早くに亡くなった前王妃は質素で慎み深かったことが、王に気に入れらていたようで、臣下たちからも尊敬を集め慕われていた。蘭加はその質素さを貧乏くささだと馬鹿にしていた。王妃ともあればもっと華やかな装いと凝ったアクセサリーを身に着け、他国に文化のレベルの違いを見せつけることが必要だと思っている。

実際に、蘭加が王妃になってから、華夏周辺諸国から訪れる外交官たちにウケが良かった。王妃のこだわりと贅沢な装いは、華夏国が強大で文明の高さを他国に見せつけることができた。


「質素な王妃では諸国に馬鹿にされてしまうわ」


 今の隆明の正室である王太子妃、桃華も質素で地味だ。


「臣下への人気取りもいいけど、もっと外国に目を向けるべきだわ」


 蘭加は自分の考えは王妃として真っ当なもので、華夏国にとっても良いものだと信じている。つまりこの国を諸国に対し、大国として存在していることをアピールし続けるには、息子の博行が王となり、自分が王太后として支えることが必須だろう。


「隆明や桃華が即位すれば、隣の西国につけ入れられることになるわ」


 かんざしが入った箱を開け、蘭の花が細工された金のかんざしを手に取る。少し白髪が混じってきた髪に挿し鏡を見る。赤い紅を引いた顔を見るとまだまだ若さを感じる。

 王妃や側室が直接政治に関わることはできないが、息子や王には多少干渉ができる。王の孔景も外交に関して、多少、蘭加に意見を求めることがあった。


「このまま引っ込まないわよ」


 息子の博行は王とならなければ、地方を治めることになり蘭加も同行することになるだろう。中央で活躍することはなくなる。田舎暮らしなどまっぴらだと本格的に博行即位の計画を立て始めた。



56 星読み

 いつも静かな太極府が今、朱京樹の見解に、命術、卜術、相術の主任以上の占い師たちは騒めいている。太極府長官の陳賢路が咳払いすると少し静かになった。


「では、京樹よ。そなたの星読みによるとここ数年で王朝の危機が来るということだな?」

「はい」


 京樹は慎重に答えた。


「うーむ……」


 幼いころから、異国民である朱京樹はこの太極府で星を読んできた。最初の数年は異国のものに、華夏国のことを読ませるなどと嫌悪を表すものや、無理だろうと能力を軽んじてみるものなどがいた。しかし京樹は自国民でないからこそ、冷静に客観的に星を読むことができた。その能力はもうすでに陳賢路を超えているだろうと、陳賢路本人が自覚している。

 それゆえ、京樹のこの国家に来る危機を笑い飛ばせないでいるのだ。


「何度も観察して考察したのじゃな?」

「今に始まったことではありません。去年から観察と考察と過去の記録を照らし合わせました」

「もう少し、具体的な内容はわかりそうかね?」

「それがまだわかりません。人災か天災か……。しかし国家の星と王の星が危うい瞬きを見せ、厄星と凶角をとっています」

「うむ……」


 陳老師は白いひげを何度も何度も、動揺をなだめるように撫でつけた。そしてそれぞれの占い師たちに王族と官僚たちのことを鑑定する様に命じる。彼らに大きな異変があれば、少しでも原因がわかるだろう。また都と各地方の天変地異や庶民の動きも、周期的に占わせることにした。今までは飢饉対策に、毎年の収穫と天候について大まかに占うだけだった。にわかに太極府は忙しくなる。このことはまだ他の機関には内密である。


「では陳老師。また空を見てきます」

「ああ、わかった。もうそんな時間か」


 いつの間にか深夜になっている。星を見るのに最適な時間のようだ。すっと朱京樹は立ち上がり、闇の中に紛れていく。浅黒く艶のある肌と大きな輝く瞳を持つ京樹は、夜空の下に立っているとまるで夜の帝王のようだ。

 陳賢路は彼こそが自分の後継者にふさわしいと思っているが、残念ながら異国の民である。また国家がどうなっているのかもわからない。とにかくここ数年で今まで何百年と続いた王朝に異変があるかもしれない。

 太極府のものは占うことしか行わない専門機関なので、華夏国の王朝が数百年で交代してきたことを知ってはいるが、重きを置いてはいない。

 歴史的な見解で王朝交代を考察するのは図書館と学舎に属する長官たちだが、そのような話も出てきてはいない。地質を調べている機関からも、大陸に大きな変動は見られていない。

 唯一、太極府が、朱京樹が異変を感じ取っているのだ。数年早く異変がみられることが分かっただけでも救いかもしれない。


「晶鈴がいればのう……」


 今の時点で国家のほころびがあれば、胡晶鈴の鑑定で分かったかもしれない。


「いやいや」


 陳老師は首を横に振る。胡晶鈴は、自分の代わりにこの星読みのエキスパート、朱京樹を連れてきたのかもしれないと不思議な縁を感じた。

 彼女の娘、朱星羅は母親の血を受け継がなかったようで占い師としての資質はない。占い師とは代々受け継がれるものではないようで、この太極府にいる者たちもみな、親族に占い師がいるわけではなかった。


「さてと」


 陳賢路も立ち上がって、夜空を見るために外にでる。目を凝らし、空を見る。ここ何年か目の衰えにより星の瞬きが見えなくなっている。国家と王の星の色の変化を、京樹のように見出すことはできなかった。それでもなお空を見続ける。


「星は美しい」


 月は満ち足りかけたりして、不安を感じさせる。その点、星は暗闇の中に埋もれてしまわずに光る。陳賢路はどんなに辛く苦しい時でも星を見れば、希望が湧くと信じていた。 

 

57 故郷

 早朝、支度を終え朝食を食べているところへ、すれ違いの生活だった兄の京樹が帰ってきた。


「京にい、どうしたの? なんだか疲れてる顔ね」

「そんなことないさ」

「ほんとう? 京樹、星羅の言う通りやつれているように見えるわ。眠る前に粥をお食べなさいな」

「ん、じゃ少しだけ」


 京樹は食欲はあまりなかったが余計に心配されるといけないと思い、星羅の隣に座り粥を待つ。ことりと湯気の立つ器を置いた京湖は二人を見比べふっと笑む。


「息子が2人にみえるわね」

「確かに、星羅の男装も板についてる。まず女人だと思われないだろうな」

「そうなの。見習いの二人は気づいてないみたい。でもね一人わたしが女人だと最初からわかってた人がいるの」

「へえ。それはすごいわね」

「でもその人はその格好のほうが安心だろうねって」

「なかなかの好人物だね」

「ええ、厩舎の馬の世話をしてくれていて、優々がとても懐いてるの。あ、もう行かなきゃ。またね京にい」


 慌てて食卓を立ち、星羅は包みを小脇に抱えた。


「いってらっしゃい」


 透き通った微笑みを見せ、そよ風のように家を出ていった。可憐な男装の後姿を見送ったのち京樹は深いため息をついた。


「まあまあ。ほんとうにどうしたの?」

「ん。ちょっと考えることが多くて疲れたのかも」

「そう……。よく休んでね。もっと食事に香辛料を増やそうかしら」

「それは元気になるよ。ねえ、母様と父様は西国に戻りたいとは思わない?」

「え? 西国へ? それは、そうね。いつか戻れたらいいわね」 


 京樹はこの華夏国の危機を家族であっても話すことはできない。もしかしたら華夏国と運命を共にすることもあるのだ。京樹自身は、生まれたのも育ったのも華夏国なので、西国に望郷の念はない。むしろ太極府こそ自分の居場所であり、活躍できる場なので忠誠を尽くす所存だ。

 星羅の存在も大きい。彼女はもちろん華夏国の主要人物となっていくだろうし、この国を離れることはないだろう。華夏国と星羅を京樹は支えていく覚悟だ。

 しかし彰浩と京湖は西国で生まれ育ち、この国が好きで来ているのではない。両親の事情は京樹も星羅も知っている。京樹は秘密裏に西国の星も観察している。ちょうど華夏国が危機を迎える年に、西国にも変化が起きる。その変化はどうやら国民にとっては幸いなことで、国が亡びることではないようだ。

 この危機に瀕する華夏国から西国へ戻ることを、両親に進めるべきか京樹は悩んでいる。


「いきなり西国の話なんてどうかしたの?」

「いや。どんな国なのかなって」

「そうねえ」


 スパイスやら香やら花など華夏国と違って薫り高い国のようだ。常に暑く、気質は短絡的だが明るく大らかしい。しかし未だに生まれつきの身分差別がひどいことが西国の汚点であると京湖は話す。


「父様は西国の人らしくないね」 

「ええ、代々陶工で、国境付近で暮らしていたから少し違うわね」


 朱家は華夏国の商人とも先祖代々関わりがあり、漢字の名前も持ち、更に華夏国の漢民族に性格も近い。外見は、浅黒い肌に彫の深い顔立ちをしている、西国の紅紗那族そのものなのに、まとう雰囲気が漢民族だ。この国の官窯ですっかり打ち解けている彼はますます華夏国民として溶け込んでいる。京樹もそうだ。


 京湖は紅紗那族らしく、人との距離が密接だ。華夏国で生まれ育ち、太極府に勤めていると、京湖があまりにも物理的に近くにいることに息子であるのにぎょっとすることがある。彼女はすぐに抱擁し、肩や腕や指先にすぐ触れようとする。星羅が男装をする前は、彼女の美しい毛先をよく指先に絡めたりしていた。

 星羅は京湖の影響か、それとも兄だと思って接しているのか京樹に対する距離が近い。何か書き物をしているとすごく近くに顔を寄せてくるので、ドキッとしてしまう。


「そろそろ西から隊商がやってくるらしいから、香辛料が手に入るよ」

「そうなの! 嬉しいわ。手持ちが少なくなってしまって」


 キャラバンの運んでくる西の香りを、京湖は心から毎年待ち望んでいる。漢服を着て、肌に白い粉をはたきキャラバンのもとへ買い付けに行くたびに、西国の様子を京湖は尋ねる。あまり情勢に変化はないようだが、じわじわと税金が重くなっているらしい。西国からきたキャラバンに向ける懐かしそうな眼を見ると、京樹は帰りたいのだろうなといつも思った。

 数年のうちに、京樹も星羅も自立するだろう。その時に、帰らせてやれるものなら京湖を西国へ帰してやりたいと願っている。


「父様も知ってるかな」

「官窯でも聞いているんじゃないかしら。毎年、隊商から絵付けにつかう顔料を買っているようだし」

「最近、町でもみかけるよ。青花の器を」


 ここ数年、白磁に青い染付をする手法が始められ、輸出もされるようになっている。玉のような真っ白い肌に、中華独特の文様や、風景、植物などが描かれており外国ウケが良かった。


「綺麗だけど、ちょっと硬くて冷たい気がするわ」

「そう」


 少し寂しそうな眼をする母に「いつかまた父様の器を使えるよ」と同情した。


「そうね。じゃあもうおやすみなさい」


 昼夜逆転の京樹は、日の出とともに眠りにつく。まるで最初から夜型だったかのように今はすっかり馴染んでいる。寝台に横たわると、洗濯された清潔な寝具が心地よい。京湖がすすぎ水の最後に数滴たらす、精油の香りがうっすらと漂う。深く苔むしたような木の香りを吸い込むと、思考がほぐれ京樹はまた深い闇の世界へ落ちていった。

 

58 隊商

 年に一度、西国のキャラバンが都にやってくる。西国と華夏国との貿易でもあり、外交でもあるのでキャラバンの隊長は国賓である。国の機関がそろぞれ取引を終えたのち、都の催しが行われる大広場で、キャラバンは庶民のための市を開く。華夏国も明るく豪華で華やかな彩の国であるが、西国はまた独特の極彩色で彩られ、刺激的な香料であふれている。


 朱京湖は普段以上に肌をおしろいで白く塗る。首や手首、指先まで念入りに塗っていった。波打った髪を、水と油でまっすぐに伸ばし、顔を多く覆うように垂らしてから一つにまとめる。漢服の袖で、顔をちらちら隠していれば、西国の紅紗那族には見えない。


「おまたせ」


 書物を読みながら待っていた星羅は、京湖の姿を上から下まで眺め「すっかり華夏国民ね」と笑顔を見せる。


「そう? ならいいけど」


 西国の商人の密告を恐れ、京湖はこの市の時にはいつも以上に装いを漢民族に仕上げる。もう変装ともいえるぐらいで、外で彰浩や京樹に会っても京湖とわからないかもしれない。


「じゃ、優々を連れてくるわ」


 星羅は厩舎に行き、馬の優々に「今日はかあさまも乗せてね」と首筋を撫でた。優々は了解したとばかりにぶるっと頷く。その隣で老いたロバの明々が恨めしそうな眼をする。もう誰かを乗せることも、荷を引っ張ることも明々には難しかった。それでも明々は、京湖と一緒にささやかな菜園を耕す手伝いをしていた。


「待てってね。明々の好きな岩塩買ってきてあげるから」


 星羅の言うことがわかるのか明々は嬉しそうに「ホヒっ」と鳴いて足を踏み鳴らした。


 優々に京湖を乗せて、星羅も後ろに跨った。


「ゆっくり走らせるから」

「ありがと。馬は速いものねえ」

「かあさまは、ゾウという動物に乗っていたのでしょう?」

「若いころはね。走ると結構速いのだけど、普段はロバの明々よりのんびりしてたのよ」

「市にゾウが来ないかしら。本物を見てみたいわ」

「とても大きくて優しくて賢いのよ。だから余計に可哀そうだわ」


 古代から象は戦争に利用されてきたことを、京湖もよく知っている。心優しく賢く強い象は、西国において軍隊の兵器だった。華夏国においても古代には象を軍隊で使用していたが、象軍よりも、騎馬隊の活躍が目覚ましくなり、すたれていった。気候の変動などもあり、華夏国には南方の奥地に野生の象がわずか居るだけだった。


 軍師省の厩舎に馬を繋ぎ、星羅と京湖は市へたどり着く。遠目からでも市の賑わいがわかるほど、大勢の人々が行き交っている。


「今年も盛況ねえ」

「香辛料たくさん買えるといいね」


 色とりどりの西国の衣装を横目に、京湖はいつもの場所の香辛料売り場にやってきた。京湖は顔を見られぬように星羅の後ろにいて、欲しいスパイスの名前を告げる。もう十数年も経っているのだから、平気だろうとは思うが習慣的に警戒をしていた。


「えーっと、孜然(クミン)、宇金(ターメリック)、香菜(コリアンダー)、小豆く(カルダモン)、それとその三色の胡椒と唐辛子をもらおうかな。あ、それも! 」

「こんなに香辛料が好きな漢民族もなかなかいないね」


 白いターバンを頭に巻いた商人の男は白い歯を見せて笑う。


「ああ、昔、辺境で咖哩飯(カレーライス)を食べてからはまってしまって」

「そりゃあいい」


 スパイスを麻袋に詰め終り、商人が星羅に手渡したとき「おや?」と一瞬手を止めた。


「ん? 何か? 金が足りないか?」

「いや、兄さんによく似た女の人を西国で見たことがあってね。まあでも漢民族はみな同じ顔だしなあ」


 その話を聞いたとき、星羅も京湖も、胡晶鈴のことを話しているのだと思った。平静を装い星羅は尋ねる。


「僕によく似た女性かあ。その人はなぜ西国に? 今はどうしてるんだろうか?」

「さあー。なんでだろうなあ。だけどもう昔のことだけど、確か別の隊商ともっと西の浪漫国に行ったよ」

「浪漫国……」

「どうかしたかい?」

「あ、いや。えっと岩塩はどこだったかな?」

「塩なら、反対側に売ってるよ。まいどあり」


 これ以上深く追及しても何もわからないだろうし、京湖の素性がばれても困るので星羅は話をやめた。心配そうな表情で京湖がそっと星羅の肩に手を乗せる。


「かあさま。もう母は西国にいないようですね」

「そのようね」

「とにかく塩を買ったら帰りましょう」


 目当てのものをすっかり買ってから帰宅する。待ちかねていたのか、ロバの明々は「ホヒイー」と嘶いている。


「待っててね。明々。どうぞかあさま」


 手を貸して、京湖とスパイスの入った麻袋を降ろす。


「お茶を入れてるわね」


 麻袋を一抱えもって京湖は小屋に入っていった。星羅は優々を厩舎に入れ水をやる。そして一塊の岩塩を明々の飼い葉おけの隣の桶に入れてやる。

 明々は嬉しそうに目を細め、ペロリペロリを塩をなめる。


「おいしい?」


 しばらく舐めると明々は顔を上げ、星羅の頬も舐めた。


「ふふっ。もういいの? まだあるよ」


 少し舐めれば満足するようで、明々は脚を折り目を閉じた。昼寝をするようだ。


「優々もお疲れさま」


 優々も明々をみると眠気が移ったのか、座り込んだ。大きさの違う二頭は仲良く休憩をするようだ。静かに星羅は厩舎を出てため息をつく。おそらく京湖もため息をついているだろう。


 養父の彰浩と、医局長の陸慶明に今日聞いた商人の話をして、二人の考えを聞いてみようと星羅は思っていた。本当はすぐにでも探しに行きたい気持ちがあるが、思ったまま行動に移すほど、星羅は無謀ではなかった。

 

59 懺悔


 久しぶりに陸家にやってきた星羅は、まず恩師の絹枝にあいさつをする。相変わらず書籍だらけで素っ気ない部屋だ。


「老師、ご無沙汰してます」

「元気そうね」

「今日は老師ではなく、慶明おじさまにお話したいことがあるのですがもうお帰りになります?」

「ああ、あの人ならもう帰ってきてるわ。貴晶の相手をしていると思うの」

「貴晶?」

「あら、聞いてない? 春衣が生んだ息子よ。ちょっと身体が弱くてね。おまけに春衣もあまり具合が良くなくて……」


 絹枝は、心配そうに眉をひそめる。春衣はもう若くなかったので難産だった。産後の具合も良くなく、起き上がることができない。

 今まで陸家を回していたのは、ほぼ春衣だったといっても過言はなくその彼女が臥せっているので、いろいろなことが滞っている。経済的には困窮することはないが、屋敷の内部のこまごまとしたことが上手く回っていない。何人か使用人も雇ったが、春衣のような有能なものはなかなかおらず、無駄に給金を払うばかりだった。


「今日は天気がいいから、夫が貴晶を日光浴させてると思うわ」


 絹枝はそう言いながら目の前の竹簡に目をやる。今まで春衣に任せていた、使用人の給金や役割を確認している。


「どうもこれからは、私が家のことをやらなければならないかも……」

「春衣さん、よくなるといいですね」

「ええ……」


 星羅はこれ以上絹枝の邪魔をしないように、庭のほうへ向かった。その前に春衣の部屋がある。一応見舞ったほうがいいかと、春衣の部屋付きの下女に声を掛ける。


「あの、春衣さんにお会いできるか聞いてみてくれる?」


 若い下女はすぐに春衣のもとに行って帰ってきた。


「お会いになるそうです」


 下女は静かに春衣の寝台へ案内する。使用人頭から側室になった彼女の部屋は、調度品が上等な物に変わっており、白檀の香が焚かれ重厚な雰囲気になっている。正室の絹枝の部屋より、夫人の部屋らしい感じがした。

 しっかりした寝台のまえに来ると春衣が身体を起こして星羅を待っていた。


「いらっしゃい……」

「こんにちは。お加減は……」


 そう言いかけて、春衣を見ると言葉が続かなかった。髪も肌も艶がなく、目は落ちくぼみ明らかに良くないことがわかる。


「こっちにきてもらえる?」

「え、ええ」


 春衣は星羅を寝台に腰かけさせる。


「今の私を見たら、晶鈴様はなんと言われるかしら」

「きっと早く元気になるようにって言うと思います」

「そうかしら。そうなるのは当たり前よって言わないかしら」


 星羅には春衣が何を話しているのかわからなかった。


「自分の欲望のために……。だから貴晶は身弱なのかしら……」


 春衣は疲れたのか目を閉じた。星羅はそっと下女に目配せし、二人で春衣を横たわらせる。


「おやすみなさい」


 静かに寝台を離れ、部屋を出た。すぐに庭が見え、柔らかい草の上に陸慶明が座っていて、膝に赤ん坊を乗せてあやしている。


「おじさま」

「やあ、星羅きてたのか」

「ええ、少しお話があったのだけど」


 慶明も少しやつれているように見えた。


「何かな。ここでもいいかね」

「もちろん。あの、おめでとうございます。知らなくて」

「ああ、いいんだよ。貴晶、星羅だ。そなたの姉上のようなものだな」

「こんにちは」

「あうぅうむぅっ」


 小柄な貴晶は声のほうに応じる。


「賢いですね。もう言ってることがわかるのかしら」

「どうだろうな。でも明樹と違って言葉が早そうだ。この子は少し虚弱だから、考えることのほうに長けているかもしれないね」


 貴晶は赤ん坊にしては肉付きがあまり良くない。春衣が体調を悪くし、乳も出ないので乳母を迎えてたっぷり与えているということだが、そもそも量を飲まないらしい。

 星羅は春衣がなぜか自分自身を責めている様子に理解ができず、慶明に聞いてみた。


「春衣さんが、自分のせいで赤ん坊が身弱と言ってましたけど、どうしてですか?」

「春衣がそんなことを? さあ、なぜだろうな。確かに子を産むには若くはないが……」


 慶明も春衣の言葉の真意を知らない。今も寝台でぶつぶつと晶鈴に懺悔のような言葉をつぶやいている。


「私の後を継ぐのは、明樹ではなく貴晶のようだ。身体こそ強くないが、それが逆に薬師として適正になると思う」

「そうかもしれませんね」


 春衣の欲望と独占欲は直接的には満たされなかったが、貴晶が慶明の跡継ぎになるという方向で叶う。残念ながらそうなったときの貴晶の姿を春衣は見ることが叶わないだろう。死の床で晶鈴に、星羅を亡き者にしようとしたことを懺悔し続ける。


「それで、話とは?」


 星羅は母の京湖と西国のキャラバンによる市に行った時の話をした。


「晶鈴が浪漫国に……」

「その夜、父とも話したのですが、西国も浪漫国もいまだに奴隷制度があるらしいですね」

「ああ、わが華夏国ではすっかり解放された奴隷も、隣国にはまだある。宦官すらまだ廃止されてないところも多いだろう」


 曹王朝の高祖が求賢令を発布したときに、まったく身分を問われなかった。さすがに犯罪者の登用だけはなされなかったらしい。その時から、奴隷の身分が解放され、宦官も廃止される。

宦官がいなくなっただけでも朝廷の腐敗はなくなり、奴隷解放によって国家の生産性は上がった。他国に比べて思い切った政策は華夏国の誇りでもあった。


「母がもしや奴隷にでもなっていたら」


 まだ見ぬ母の身を案じ星羅は胸を痛めている。


「いや、晶鈴のことだ。奴隷になどなるまい。太極府でも晶鈴は心配ないと言われただろう?」

「ええ……」

「とにかくこちらからは動けまい。京湖どののこともあるし。外交官として西国に行けるのは軍師助手以上だったな」

「そうです。見習いから上がらなければ……」

「うん。やみくもに一人で西国に行っても、ましてや浪漫国行っても何も成果が得られないだろうな。とにかく星羅は精進するしかない」

「ですね」


 十数年ぶりに得たと思った母の情報は、もっと遠くの国にいるかもしれないということだけだった。華夏国内であれば、晶鈴の行方を把握できていたが、国外はさすがに難しい。


「希望を捨ててはいけないよ。晶鈴はきっと無事だ」

「外国で漢民族は目立つかもしれませんね」

「ああ……」


 慶明は図書館長の張秘書監に紹介状を書いてくれた。本来なら軍師見習いの身分では会えることが叶わない人物である。国家の図書館であれば、浪漫国のことをもっと詳しく調べられるだろうということだった。


 西国出身の朱彰浩と朱京湖から、浪漫国は言葉も習慣も全く違うと聞いている。全然違う民族に思えるが、まだ漢民族と紅紗那族のほうが近しいということだ。


 星羅は忙しくなってきた。国家への献策を考えると同時に、浪漫国の言語獲得にもいそしむことになる。あえて忙しいほうが星羅にとって、悲しくならなくて済む分ありがたかった。

 

60 面影

 紹介状を持って星羅は王立図書館に向かった。場所はやはり軍師省と同じ金虎台にある。図書館に入ったことはあるが、張秘書監の管理する禁帯出資料の場所には許可が下りていないので入ったことはない。そこには高祖の兵法書をはじめとする大事な初版と外国から入ってきた書物が保管されている。

 図書館は案外人が多くいて、整頓したり、書き写したりと忙しそうだ。


「張秘書監にお目にかかりたいのですが」


 星羅は近くの職員に紹介状を見せながら尋ねる。


「おまちください」


 見習いだろうか。同じような年頃の若い女が星羅をちらっと見て頬を染め、奥に入っていった。しばらく待っていると音を立てずに小走りで帰ってきた職員は「どうぞ、こちらへ」と案内する。


「ありがとう」


職員はこっそり「あの、軍師さまですか?」と尋ねてきた。


「まだ見習いですが」

「すごいですね」


 女は尊敬のまなざしを向ける。大きな活躍がないとはいえ、軍師省に入るということは頭脳明晰ということなのだ。もう少し話したそうだったが、目的の場所についてしまったようで「ではこれで」と残念そうに去っていった。


「失礼します」


 声を掛けてはいるとふっくらとした赤ら顔の張秘書監が「うむ。ここへ参れ」と椅子を勧める。腰掛けた星羅を張秘書監はじっと見つめる。


「名は?」

「朱星雷と申します」

「母上によく似ておるの……」

「え? 母をご存じですか?」

「ああ、よく知っておる」


 張秘書監は懐かしむような様子を見せる。


「軍師省からじゃなくて、医局長の陸殿から紹介状が来たから何かと思えば。彼は確か晶鈴殿と親しかったな」


 しばらく張秘書監から昔話を聞いた。陸慶明とはまた違う胡晶鈴の話は、星羅にとって新鮮でありがたいものだった。


「晶鈴どのは欲のないお人でなあ。今のわしがこうして安穏としてられるのも晶鈴殿のおかげじゃろう」


 慶明にも張秘書監にも好かれていたのだと思うと、星羅は自分の母が誇らしい気持ちになる。


「あ、そうじゃそうじゃ、思い出話はこれくらいにしてと、ほらここに浪漫国の資料がある」


 棚を見ると何層もの動物のなめされた皮があった。


「これが書物ですか?」

「ああ、浪漫国では羊皮紙といってなこれは山羊の皮を使っておる。これもなかなか便利でな。軽いし遜色がなく、かなり耐久性が高い」

「へえー」


 机の上に何枚か広げた羊皮紙を眺める。


「変な形がいっぱい書かれてますね」

「ふふふっ。それがその国の文字なのだ」

「これが文字ですかあ」

「我が国の漢字よりも、覚えると簡単で使いやすいのだよ」

「あの、これが読めるのですか?」

「まあ一応な」


 張秘書監は語学に堪能で、浪漫国のラテン語を読み書きすることができた。


「ただ話せないのだ。音がわからないのでなあ。だから手間がかかるが筆談になるの」

「いえ、それだけでも十分です。全く伝わらないよりも」

「で、これがわしが作った中浪辞典じゃ。まさか使われる日が来るとおもわなかったが」


 はははっと張秘書監はふっくらした腹をさすって笑った。星羅はそっと中浪辞典に触れる。巻物ではなく蛇腹に紙が交互に折り重ねられていた。


「これは持ちだしても構わん。ただ一冊しかないので丁重に扱ってもらいたい」

「わかりました。書き写したらお返しします」

「それと、これは晶鈴殿にも渡したものだが」


 折りたたまれた紙を広げると華夏国と西国、浪漫国と他の諸国などが描かれていた。


「地図は見たことがあるかね?」

「華夏国と周辺までしかありません」

「ほらご覧。華夏国は大きいが、世界はもっと広いのだ。浪漫国はこの砂漠を越えたここにある」

「こんなところに……」


 改めて地図を見ると、浪漫国はとても遠く過酷な旅になることが分かった。


「晶鈴殿のことじゃ。元気でちゃんとやっておろう」


 慰めのような、それでいてそうだと思わせるような話しぶりを、誰もがする。母の胡晶鈴はきっと誰からも絶望を感じさせることのない人なのだと思う。悲観的にならないようにと、いつもいない母から励まされるような気がした。


 いつでも来て良いと言われ星羅は図書館を後にした。地理と言葉を身に着け、軍師見習いから助手になることが今、星羅の目指すところだった。



 張秘書監は空色の衣の星羅を、立派な孝行息子だと思い眺めていた。


「しかし彼は陸殿の息子ではないのだなあ」


 父親が誰なのか張秘書監は知らない。都を出る理由になった、占術の能力を失った原因がそもそも妊娠であったことも知らないのだ。

突然、現れた朱星雷を見れば、胡晶鈴の面影がありありとみえ、彼女を知るものは誰もが晶鈴の子と思うだろう。

 ただ父親の面影がまるで見えない。男装をしているので、父親から受け継いだ美しい漆黒の髪はすっかり隠されている。おかげで、各省のトップたちは、王太子、曹隆明によく会っているにもかかわらず、星羅の父親であるとわかるものは誰もいなかった。

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