第5話

41 思惑

 教壇から絹枝は一通りの女学生たちを見下ろす。やはり星羅は他の女学生とは一線を画す。彼女は与える学問を受け身に吸収するのみならず、古人の思想の欠点なども指摘する。能動的な学習は、隣の男子学生にも劣るどころか群を抜いている。若く幼い星羅は、まだまだ浅い見通しと机上の空論の部分を否めないが、数年もすれば国家の試験はすべて、どのジャンルでも合格できるだろうし文官としての出世も見込める。このまま順調に勉学に励めば、役人でも教師でもまたは薬師でもすきな進路を得られるだろう。


 太極府の陳老師から、星羅は国の大事を担うことになるだろうから、よく学問を身につけさせてほしいと頼まれたときに、それほど深く考えずに返事をした。今になって、そのことを軽く受け止めてしまったことを反省する。ロジカルな絹江にとって太極府の存在をあまり重んじていなかった。口には出さないが、国家の大事を、占術に半分以上請け負わせていることを軽く軽蔑していた。まだ王が祭司ではなく政治と分離しているので神権政治とまでは言わないが、非科学的なもので信憑性はないと思っていた。


「星羅さんを見ていると占術も侮れないのかしらね」


 合理主義者だった高祖も占術を活用していたことがあったらしい。夫の慶明も、よく星羅の実母に占っていてもらったことを思い出す。

「私も何か占ってもらおうかしら……」


 そう考えたが、絹枝自身特に悩みはなく、占ってもらうことはなかった。


「そうだ」


 ひそかに息子の陸明樹の正室に星羅をと考えている。これがうまくいくかどうか、明樹、また陸家にとってどうなのかを占ってもらおうとかと思いつく。そう考えると珍しくウキウキした気分になってくるのが不思議だ。夫の慶明と結婚する時よりも心が躍っている。しかしまずこのことは慶明に相談してからと、冷静な絹江はいきなり行動には移さない。おそらく良い縁談だろうとは慶明も思うはずだ。

 明樹は男友達とつるんでいるばかりだから、親が縁談を決めても気にしないだろうし、星羅に対して好意的なので反対はないだろう。


「あら、これ悩みじゃないわよね」


 縁組がうまくいきそうだと思い始めると、わざわざ占ってもらう必要性を感じなくなってしまった。頃合いを見て話しを出すだけなのだ。いつも通りの鎮静された感覚になっていく自分につまらなさを感じつつ帰宅する。


「大きくなったわね」


 夫の陸慶明が医局長になってから、あらたに大きく屋敷を建設した。広い庭に色とりどりの草花に、流れる小川と珍しい魚が遊ぶ池。絹江は屋敷が大きくなり調度品が立派なものに変わっても、結局自分の書斎と食卓にしか赴かない。夫婦の寝台はこの屋敷になってから別になっている。客間も増えたが、どこに何があるのかよくわからず、使用人頭の春衣にまかせっきりなのだ。使用人も増えているが顔も名前をあまり把握していない。


「そういえば春衣は昔、反抗的な感じだったけど最近は丸くなってきたのかしらね」


 彼女にこそいい縁談話はないかしらと絹枝は考え始める。春衣が慶明に恋心を抱いていることなど、つゆほど知らず誰かいい人はいないかと知り合いを思い浮かべるが、いなかった。基本的に学問にしか興味を持つことがないので、俗っぽい人付き合いをしていないのだ。それこそ、慶明にあたってみるべきで、春衣にいい縁談があるか占ってみてもらえばよい。

 長い廊下を考えながら歩くだけで、柱の美しさや格子の窓の洗練された幾何学模様を、何一つ見ずに書斎に入る。


「あら?」


 庭の植木が一斉に植え替えられていることには気づかないのに、自分の筆立ての位置が違うことに気づく。誰かが掃除にでも入ったのかと周囲を見たが、昨日、削った竹簡のカスが床に落ちたままになっているのを見つける。


「気のせいかしらね」


 ここのところ天候があまり良くないせいか、頭が重いので気のせいかと気にしないようにした。


42 不調

 京湖の優しく置かれた肩の手に気づき、星羅はハッと目を覚ました。


「どうしたの? うたた寝なんかして。なんだか顔色が悪いわ。もう寝台で寝なさい」

「あ、ん。なんか眠くなっちゃって」

「書物の読みすぎで目が疲れてるんじゃないの?」

「そんなことないわ。今日も馬に――」

「馬? 馬に乗ってるの?」

「あの、ちょっと後ろに乗せてもらっただけ」

「本当? 危ないことはしないでね」

「大丈夫よ」


 心配そうな京湖に星羅は明るく返す。本当は馬で軽く遠乗りをしてきた。最近、陸家の息子の陸明樹に乗馬を教わっているのだった。京湖は、友人の胡晶鈴の忘れ形見のように星羅を大事に保守的に扱っている。そのため星羅は学問以外の、乗馬や剣術などのことを内緒にしていた。


「じゃあもう寝るわ」

「ええ、早くおやすみなさい」


 彫の深い顔立ちの京湖は、心配そうな表情の陰影を深く落としながら部屋を去った。


「ごめんなさい。かあさま」


 内緒にしていることを謝り、罪悪感のため、言われるとおりに眠ることにした。寝台で横たわり、うたた寝なのどしたのは初めてだと思った。ここのところなぜだか身体がだるくて、眠気がある。睡眠は足りているはずなのに疲れがとれない。絹枝老師も同じように倦怠感と頭痛が最近多いと愚痴をこぼしていた。


「季節のせいかしらね」


 自分の体調よりも、書物の中のほうに気が向いてしまう二人は体調の異変を深く気にすることはなかった。




 春衣は陸慶明から処方された睡眠薬を数滴、絹枝と星羅に出す茶に落とす。半年前に慶明に、不眠を訴えたところもらった薬だ。陸家にとって大事にな春衣だからと、特別に与えられた。医局長直々に脈をはかられ、診察されるのは王族や高官僚くらいだ。その身分の高い慶明に診察されることよりも、手首や、目の中を覗かれたりする際の頬への接触のほうが春衣にとって特別なことだった。

 簡単に薬をもらうことなどできないと思っていたので、春衣はあらかじめ一週間以上わざと夜更かしをして睡眠時間を削っていた。触れられるときの動悸もいい塩梅に働き、慶明は睡眠薬を処方してくれたのだ。


 服用は寝る前だけに限るとされている。日中は眠気のせいで事故を起こしやすく危険だからだ。春衣は日中に飲むことも、もちろん夜、寝る前に飲むこともない。

この睡眠薬は星羅に飲ませるためだ。本当は毒薬で一気に抹殺したいところであったが、毒薬など使おうものなら確実に慶明にばれてしまうだろう。毒薬でうまく星羅を抹殺し、自分だけが罪をかぶるのならまだ良いほうだ。このことが公に明るみになるならば、使用人が毒薬を持ちだしたとして、主人の慶明も罰せられる。医局長である彼の身分であれば罪は軽くないだろう。薬師の身分剥奪か、何年も刑に服すことになるかもしれない。

 そんなことを春衣は望んでいない。慶明にはいつまでも手の届かなかった胡晶鈴を想い、そのことを知っている自分と秘密の共有者でいてほしかった。彼を、晶鈴を愛している彼ごと愛している自分に、いつか気づいてくれるようにと願う。


 薬の使用量は大さじ一杯だ。それで数十秒以内に眠りにつくことができる。これを数滴にすれば、すぐに効果はあらわさず数刻後に現れる。つまり陸家の屋敷で飲ませると、星羅がここを出て、家路につくころから効果が出るということだ。

絹枝は規則正しく、決まった時間に星羅を帰し、自分はまた書斎に戻る。その書斎に戻る前に庭の小川にかかっている、太鼓橋を渡る。 普段でもその半円に張った橋が苦手で転びそうになっている。眠気のあるまま小川にでも落ちれば、そのまま亡き者にできるかもしれない。その時には薬の効果は切れていて、身体に残っていない。ただの事故死となるだろう。


 星羅がこの屋敷から家に帰るまでに、早馬や馬車が行きかう交通量の多いことがある。ふらふらしているところを、そっと肩でも押してやれば事故死は免れまい。

 絹枝はついでなので、星羅についていき、機会を伺い、より薬の効果が出ているときにそっと計画を実行するつもりだ。


「慶明さまは、晶鈴さまと、あたしのもの……」


 一番楽しかった若いころの下女時代を思い出す。胡晶鈴は、春衣にはきっといい人生が開けるからと明るく優しく諭してくれていた。時折訪れる陸慶明は、今よりも随分親し気で春衣とも気軽な口をきいた。優しい主人に仕え、あこがれの男に声を掛けられる日々は、欲望も妬みもわかない清らかで幸せな時期だった。

 失われた時間を取り戻すことなどできない。それを春衣は気づいていない。そしてその過ぎた時間よって変わってしまったものが合ったことにも、気づいていなかった。


43 事故

 橋の上で転びかけた絹枝を、さっと慶明は支える。


「あ、あなた」

「危ないな」

「すみません。ちょっとめまいがして……」

「めまい? 今だけか?」

「それが、ここの所毎日……」

「どうして早く言わないんだ」

「軽いものですし、もう年なのかと」


 近眼な絹枝は目をしばしば瞬きさせながら慶明に答える。慶明は彼女の手を引き、近くの東屋で休ませ脈を測る。


「今日はお早いんですね」

「ああ、今日は医局の整頓の日でな。私はいてもあまり役に立たないので帰ってきたのだ」

「役に立たないなんて」

 

ふっと笑む絹枝の目じりに細かい皴ができている。情熱的でもなく、喧嘩をするわけでもなく穏やかな夫婦関係だが、慶明は長く時間を共有してきたのだと、彼女の皴を見て実感する。そう思って絹枝の髪を見るとちらほら白いものも混じっていた。


「ともに白髪頭になるまで、か」

「何か?」

「いや。なんだか睡眠不足になっているようだな。身体の中を気がちゃんと巡っていない」

「そう?」

「病気はないが、どうもおかしい。何か心配事でもあるのか?」

「いえ、特に……」

「ご婦人特有の症状でもない。まあしかしこの太鼓橋は普通の平坦な橋に変えさせよう」

「あら、いいのに」

「いや、もっと早くにしておけばよかった。君は目が悪いからね。落ちるといけない」

「すみません」

「夕げまで休むといい」


 絹枝を寝室に送り、危ない箇所は他にないかと庭を散策しているとバタバタと息子の明樹がやってきた。なんとその腕には気を失った星羅が抱えられている。慶明はぎょっとして明樹のもとに駆け寄った。


「どうした!」。

「あ、父上。おいでになって、ちょうどよかった! 星羅が馬から落ちてしまって」

「何!? 早く寝台へ!」


 急ぎ一番近い部屋の寝台にそっと星羅を寝かせた。脈を測ると脳震とうを起こしているのがわかった。


「どうして落馬した?」


 今までで一番怖い表情をする慶明に、明樹の表情も硬くなる。


「それが、いきなりうたた寝をしてしまったようで……」

「乗馬中に寝たのか?」

「はい……」


 この屋敷から出る星羅を家に送りがてら、明樹は馬の乗ろうと誘った。歩くよりもずいぶん早く家に着くので少し遠回りをして並んで走っていると星羅の馬の速度が落ちた。 あれっと思い明樹が振り返ると星羅は馬の上で伏している。慌てて星羅のほうへ引き返したが、ずるっと彼女は馬上から落ちてしまった。手綱が緩んでいたので馬はほとんど歩いていた。おかげで目に見えるケガはない。


 押し黙る慶明の表情は険しい。その一方で冷水に浸した手ぬぐいを絞り、星羅の額に当てる手は限りなく優しい。


「ん……」


 瞼が動きはじめ、星羅は目を覚まし、明樹と陸明を認めすぐ起き上がった。


「ここ、あ、頭いたい……」


 明樹よりも素早く慶明が星羅の身体を支え、また横たわらせる。


「いい子だからじっとしていなさい」

「あの、ここは、明兄さまと、わたし……?」


 慶明が目配せすると、明樹が説明をし始める。


「馬から落ちたんだ。覚えてる?」

「馬から? 乗った後の記憶が……」


 どうやら眠ったことに気づいていないようだった。


「すみません。ご迷惑をかけてしまって」

「こちらこそすまない。体調が悪かった時に誘ってしまって」

「いえ、とくに体調が悪かったわけでは」


 星羅も自分がどうして落馬したのかわからない。馬車で眠ることがあったとしても、自ら手綱をもって御する馬の上で寝ることなど考えられなかった。

 慶明は夫人の絹枝もめまいのため橋から落ちそうになっていた。改めて星羅の脈をはかると、絹枝と同じ症状が出る。


「どういうことだ……」

「あの、おじさま?」

「ああ、心配しなくていい。特にどこも悪くない。もう少し休んだら明樹に馬車で送らせよう」

「平気なら歩いて――」

「だめだ。身体は平気でも眠気があったら、何かあったら晶鈴に申し訳が立たぬ」

「は、はあ」

「良いな。もうしばらく休ませて送っていくんだぞ」

「わかりました。父上」

「じゃあ星羅。あまり無茶をしないように」

「自粛します」


 叱られたとばつの悪そうな表情をする星羅が愛しく思えた。慶明は星羅と明樹を部屋に残し、自室へ戻ることにした。


「絹枝と星羅。同じころに眠気とは……」


 2人とも学問のための夜更かしをしがちなのは理解できるので、寝不足なることがあるのは知っている。しかし揃いもそろって同じ時刻に事故を起こしそうなほどの睡眠不足はおかしい。脈診では何も異常はないようだった。


「眠気か」


 眠りに関して考えていると、誰かが眠れないと言っていたことも思い出したが、誰だったか忘れてしまった。今の慶明は王族を含む何人もの診察を行っているで、診療記録をみないと誰が何を訴えてきているかわからなかった。幸い今重病人はいない。


「まあ何事もなかったのだが」


 すっきりしないが追求しようがなく、この件は忘れられていく。


 陰で一部始終を見ていた春衣は「もうこの薬は使えない」と悔しそうに唇をかんだ。今日に限って、慶明が早帰りし絹枝を助けてしまった。また陸家から帰宅するときに、ちょうど明樹が星羅を遠乗りに誘ったので、春衣が手を下すことができなかった。


「運のいい……」


 連続して睡眠薬を使えば、怪しんだ慶明が自分の犯行にたどり着いてしまうだろう。しばらく大人しくすることにして次のチャンスをうかがうのだった。

 

44 秘密

 2人で馬を走らせ、見晴らしの良い高台に上る。馬をつなぎ休ませる間に「ほら」と明樹は、星羅に剣を渡した。受け取った星羅はさっと構え、少し腰を低く落とした。


「やあっ!」


 明樹の張りのある掛け声に反応して、振り下ろされた剣を十字を組むように受け止める。上から押さえられた力をぐっと跳ね返し、すっといなすと星羅も明樹に切りかかる。しばらく剣が重なり合う高い金属音が聞こえていたが「あっ!」という星羅の声で終了した。星羅が剣を落としたのだった。


「星妹。もうちょっとだったな」

「はあ、はあ、はあっ。残念」

「ほら、水を飲むといい」


 明樹は竹筒の水筒を渡すと、星羅は喉を鳴らして飲んで返した。懐から手ぬぐいを出し、汗をぬぐうとちょうどやさしい風が吹いて爽快な気分になった。


「明兄さまは、学舎一番の腕前ですね」

「そりゃあ、学舎ならね。兵士見習いになったらどうなるか……」

「兵士見習いになってもきっと強いはずです」

「だといいな」


 学者肌の陸家なのに、親の期待とまるで違う兵士になることを明樹は希望している。学問においても彼に敵う者はいないので、国家の主要な試験には全て合格するだろうが、彼は筆ではなく剣をとる。

 兵士の試験は一応、読み書きができる程度の筆記があるが重要なのは、実技だ。剣でも槍でも弓でも何でもいいが、武器による実技がある。明樹は父親の慶明に似て大柄で細身であるが力が強い。武器は槍を選んでいる。


「星妹はもう話したのか?」

「いえ、まだ……」

「早いほうがいいぞ。俺ももうちょっと遅かったら医局の試験を受けされられただろうな」


 将来の進路の希望を星羅はまだ家族に話せていなかった。


「しかし女兵士は結構多いけど、軍師見習いとは難しいところに目を付けたな」

「ええ難しいのはわかってます」


 臣下は行政をつかさどる宰相が最高位で、軍事をつかさどる上将軍が次ぐ。大きな戦争がない今、古代ほどの活躍はないが軍師という地位がある。活躍がないといっても名軍師として世に名が出ないだけで、それは宰相も上将軍も同じことだった。

ただ軍師は常に世の中の動向に機敏に頭を働かせ、国家のためになる策を講じなければならない。膨大な知識と応用ができ、宰相にも上将軍にも献策する存在なのだ。戦争がないと言っても、兵法に強く実践もある程度できる必要があった。

 

 星羅が軍師という職業を知った時、これこそ自分がなりたい、なるための職業だと思った。高祖や古代の兵法家の書物を読みふけり、過去の戦乱と治世、処世術を学習してきた。おかげでその副産物か、囲碁が強くなっていった。

 学舎の催しに、男女混合の学生囲碁大会があり、星羅は準優勝だった。そしてその時の優勝者が明樹だ。


 このことが2人を急速に接近させた。明樹は、星羅が自分の屋敷を出入りしていることを知っていたが、最初から関心を寄せていたわけではない。囲碁で自分をかなり追い詰めた彼女に改めて関心を持ち、会話が増えていった。話していると他の女学生とも、また同級生とも違う刺激と面白さを感じていた。星羅が軍師希望なのを知っているのは明樹だけだ。知識は母の絹枝がいるので、実技を明樹がこっそり受け持っているのだ。


「星羅が軍師になったら囲碁は負けそうだな」

「どうでしょう。明兄さまには本当に強さというものを感じます」

「強い、か。それって強引ってことだろ?」

「さあ?」


 笑んでいる星羅に、明樹は照れ笑いをした。囲碁大会で正攻法でうまいのは星羅のほうだった。明樹は強引で力任せな勝ち方だったと思っている。しかしそんな勝ちかたをさせた星羅に一目を置かずにいられないのだ。


「で、軍師になってどうする?」

「母の行方を探れるかもしれないし、それに……」

「それに?」

「いえ、それだけ」


 星羅が口をつぐむが明樹にはわかっている。彼女の母、胡晶鈴が外国で不遇な目にあっていれば救い出すつもりなのだ。


「俺が上将軍、星妹が軍師になればどんな敵でも打ち破って、母君を救い出せるさ」


 嬉しそうに首を縦に振り頷く星羅を、明樹はまぶしく感じた。


「さて、帰ろう」


 吹く風がひんやりしてきた。馬も十分草をはみ帰ろうといなないている。夕日の中を馬を走らせていると、一番星がきらりと光っていた。


45 進路

 14歳になると女学生は進路を尋ねられる。15歳になると国の主要な試験が受けられる。この学舎の残るものは、将来教師の道を志すものと、役所に入るための試験に受かるまで居続けるものだった。それでも3年ほど教師と役人の試験に落ち続けると、あきらめて別の道へと進んだ。輿入れが決まっているものは、家庭学を学ぶべく花嫁学校へと移行する。庶民の娘の多くは、役所などの事務的な仕事に就いた。

 絹枝はそれぞれの女学生と個人面談を終え、最後に星羅と面談する。


「星羅さんはどのような進路を望んでいるの? あなたならどんなの道も考えられそうね」

「教師の仕事も素晴らしいですね。でも、わたしは、あの……」


 珍しくはっきり言わずもじもじしている。


「どんなことでもはっきりおっしゃいな」

「あの、軍師見習いの試験を受けたいと」

「え? 軍師見習い?」

「本気なの?」

「本気です」

「そう……」

「やっぱり無理そうでしょうか。わたしじゃ」

「いえ、無理ではないわ」


 星羅の学力なら軍師見習いの試験は合格できるだろう。軍師という職に就きたい気持ちも理解できるし、合っている気もする。時代が時代なら、国で最も輝かしい活躍を見込めるやりがいのある仕事だ。

しかし今の平安な時代では、昼行燈のようなぼんやりした窓際族のような職である。現在の数名の国家軍師は誰一人、公で名前を知られることがない。献策するほどの国難がないので、諸外国や従属国との交渉などを行う外交官のような仕事が主だった。


 絹枝にしてみれば、教師や薬師などはどんな時代にでも必要だと思うが、もう軍師は斜陽だと思う。なくてもよいのではないかと進言したいくらいだった。

 将来が明るくないのに、試験は国で一番難しい。この王朝を開いた武王が軍師を一番素晴らしいものとし、彼自身が最高の名軍師と呼ばれる所以かもしれない。軍師がなくなるということはこの国のアイデンティティも無くなることに繋がるのかもしれなかった。

 さらに軍師見習いになってから、主に寮生活になるが武芸を磨き、兵法書を読み、議論し、過去の戦のデータをもとに各々が国主となり中華を統一していくシミュレーションを行う。絹枝に言わせれば、机上の空論どころか遊戯にみえる。戦国時代ではない世の中に無用の長物とは軍師だろう。


 どの職業にも性より才が重要視されるので、女性の進出も目覚ましい。薬師も教師も兵士も半数近く女性がいる。しかし王朝が開いていらい今まで女性が軍師に着いたことはなかった。現実的な女性にとって、先細りの軍師職など全く魅力を感じないのであろう。


「学舎で試験勉強を続けてもいいけど、どうする?」

「ここだと兵法の勉強はできないので家でやります。先生から写させてもらった兵法書で」

「そう。剣技とかは? 馬術もあるでしょう」


 軍師試験には、筆記と武芸の実技もあった。


「あ、それですけど、明兄さまに稽古をつけてもらっています」

「まあ!」


 星羅が本気で軍師を目指し、兵士見習いになっている息子の明樹とともにひそかに準備をしていたことに、絹枝は苦笑した。


「すみません……」

「いいの。本気なのね……」

「明兄さまも応援してくれています」

「明樹さんもね……」


 若者というものは親の期待に応えてくれないものだと絹枝は改めて悟る。絹枝の希望では、星羅は教師になって明樹と結婚し落ち着いた暮らしをしてほしかった。軍師見習いになれば軍師にたどり着くまで、最短で何年かかるだろうか。絹枝が知ってる限り、20代で軍師になったものは知らない。


「あの、星羅さんは結婚についてどう考えているのかしら?」


 進路の面談だというのに、こんな話を持ちだしてしまった自分を恥じたが、聞かずにおれない。


「結婚ですか?」

「ええ」

「まったく考えてません」

「……」


 見習いでも助手でも、途中で結婚を禁じられていることはないので見習い同士で結婚することもあったが、星羅はそういう可能性がなさそうだ。明樹もきっとある程度の地位を築くまで、縁談には目もくれないだろう。


「婚約でもさせておこうかしら?」

「はい?」

「あ、いえ、こっちのこと」


 男しかいないところで紅一点の星羅は、もしかしたら明樹以外の男のもとへ嫁いでしまうかもしれない。明樹も積極的な女兵士に言い寄られてしまうかもしれない。自分の縁談には全く気を揉まなかった絹枝だが、子供のことになると色々考え始め、妄想が膨れ上がってしまう。


「あの、先生? ほかに何か?」

「軍師だけは女人がいないのよ。それが心配で」

「ああ、そのことですか。明兄さまにも言われました。なのでもし軍師見習いになったら男名をつけて男装しておくとよいと」

「ええっ!? 男装?」

「名前も星雷がいいんじゃないかと、明兄さまがつけてくれました」

「は、はあ、まあそれは良い考えね。軍師省も認めてくれそうだわ」


 婚約の話など場違いすぎてもう告げることはでいなかった。星羅の意志は固い。彼女の家族も反対することはないだろう。最後に絹枝は「何かあったら相談してね。合格を祈ってるわ」と微笑みを見せる。

 力強く頷き、煌く瞳を見せた星羅は、翌年トップの成績で軍師見習いの試験に合格した。過去最高の成績だった。


46 男装の乙女

 朱家ではまだ薄暗いが慌ただしい朝を迎えている。今日から星羅が軍師見習いとして、軍師省に通い始めるのだ。明るい空色の着物は星羅に良く似合っていて、清潔感と聡明さを引き出している。


「えーっと、こうかしら?」


 何度か練習したが、髪の結い方が今一つ決まらず、母の京湖も「上手くいかないわね」とため息をついた。父の彰浩は官窯で泊まり込みで窯を焚いているのでしばらくいない。何度かやり直していると、夜勤明けの京樹が帰ってきた。


「あれ? もう起きてたの? 早いね」


 珍しく明かりが灯っているので、京樹は星羅の部屋を覗く。


「京にい、おかえり」

「いいところに帰ってきたわ!」

「え? 何?」


 京湖は京樹を引き入れ、「髪が決まらないのよ」と眉をしかめる。


「ん? ああ、今日から行くのか」

「そうなの。男髪がうまくいかなくて……」


 星羅は、一応男装して軍師見習いとして勉強することにした。着物の着付けには困らなかったが、髪をまとめて布でくるむことが難しかった。女学生の時は基本的に三つ編みでそれを簡単に束ねていた。男装しなければ、もう少し大人びたまとめ髪に櫛などの髪飾りを挿せばよい。男のほうがすべての髪をまとめ結い上げるので慣れが必要だ。


「ほら、こうだよ」


 京樹がふわっと星羅の髪を束ねまとめ上げる。くるくると器用に一つの団子にして頭巾で巻き後ろにあまりを垂らす。


「わあっ! さすが上手ね!」

「まあね」


 すっと立ち上がって星羅はくるっと一周回る。京湖が「なんだか素敵ね」と微笑むが、京樹が首をかしげている。


「京にい、変?」

「ちょっと男装になってないな、どこだろうか」


 2人で下から上まで見ていると京湖が「わかったわ」とすっと星羅の腰に手を置く。京樹と星羅を見比べて違いに気づいたようだ。


「この帯が男の人だとこの腰骨にくるようね」

「ほんと!」


 星羅も京湖もくびれた一番細いウエストに帯を巻いている。女性ならではの美しいS字ラインが出ていた。いつの間にかすっかり京湖の背丈を越して青年となった京樹は、紺色の着物だが直線的なラインを描く。

 星羅と京湖は明るい高い声をあげながら着物を直し始める。その様子をあまり見ることなく京樹は「じゃあ僕は寝るから」と部屋を出る。


「ありがとう。京にい」

「がんばって」


 いそいそと京樹は自分の部屋に戻った。簡素な部屋は寝台くらいしかなく眠るためだけの場所だった。いつもは眠る前に太極府で見ていた星の配置を眼に浮かべるが、今日は違った。

 今、結い上げてやった星羅の絹のような髪の手触りと、娘らしくなってきた身体の曲線を思い描く。年頃の娘なのに化粧っ気もなく、さらには男装して軍師見習いになってしまった妹。倒錯めいた色香を感じ、京樹は慌てて布団をかぶって目を閉じ眠ろうと努力した。

 


 軍師見習いとして今回試験に受かったものは、星羅を含め3人だった。都の中で一番基礎の高い建物が、政が行われる朝廷でもあり王の住まいでもある『銅雀台』である。

その隣の、元々高祖の居城だった『金虎台』があり、そこに軍師省が入っている。遠くから見てもすぐにわかる高さなので、初めて訪れる星羅も一人で無事たどり着くことができた。

門番に、合格した際受け取った『軍師見習い』の札を見せる。若い門番は星羅をすこし不思議そうに見てから、馬をつなぐ厩舎と、軍師見習いの向かう学徒室を教えられる。


「ありがとう」


 練習した低めの声で星羅は頭を下げ、馬をつなぎにいった。『金虎台』は軍師省以外にも、軍事、財政、土木などを扱う省がいくつかあり身分の高いものは馬車や輿でやってくるが、見習いなどは歩きや馬だった。


「結構いっぱいね」


 馬を引いて歩いているが、空きがない。何十頭もの馬の尻を眺めて歩くことになる。


「ふう……」


 きょろきょろしていると「おい」と頭上から低い声がかかった。見上げたが逆光でよく見えず目を細めていると、その男は右斜め前を指さした。


「そこにつなぐといい」

「あ、か、かたじけない」


 星羅は男っぽく返事をして頭を下げた。頭をあげるともう男は馬と立ち去った。


 馬をつないでいると、馬の世話を焼く大男が順番に飼い葉を与えていた。


「ありがとう。これから世話になるよ」


 星羅が声を掛けると大男はびっくりして顔をあげる。


「お、おで、もう10年働いてるけど声を掛けられたのはじめてだ」

「え? そうなのか?」

「う、うん」


 大男は身体は大きいが童のように笑って喜んでいる。星羅もつられて笑んでいると「許仲典と申す」といきなり右手こぶしを左手のひらで包む拱手をし挨拶する。

「朱星――朱星雷です。よろしく」


 星羅も慌てて名乗った。


「で、星雷さまはどこいくだ?」

「さま、なんていらないよ」

「そうか? んじゃ星雷さんはどこいくだ?」

「わた、えっと僕は軍師省にいくんだ」

「そっかそっか。なら、そこの角を曲がって階段を上がるとすぐ着くだよ」

「へえ。ありがと。じゃ、また」


 馬の世話係の許仲典と知り合ったおかげで、星羅はこれからいろいろな情報を得られることになっていた。


47 顔合わせ

 他の省と違って人数の少ない軍師省は静かだ。星羅が履物を脱いで板間に上がると、すでに空色の着物を着た男が2人下座に座っているのが見えた。背の高い男と低い男が談笑している。


「失礼します。遅くなりましたか?」

「やあ。君が朱星雷くんか?」

「ええ」


 小さい男が朗らかで親しみやすい声を掛けてくる。


「よろしく、おれは徐忠正だ」


 背の高い男も「郭蒼樹だ」と名を告げる。聞き覚えのある声に星羅は「あの、さっき」と言いかけたがやめて「よろしくお願いいたします」と頭を下げた。


「まだ早いからおれ達だけだ。自己紹介してたのさ」

「そうですか。お二人はどちらから?」


 低めの声色で星羅は尋ねた。これから3人で協力したり競ったりする仲間になるので興味がわく。学舎では学問をしていても、誰かと志が同じではなかったので、親しくなることも切磋琢磨することもなかった。星羅にとって、徐忠正と郭蒼樹は初めての仲間になるのだ。


「おれは色々試験受けたら、難関のはずのここに受かっちゃってさ。ほかは全滅だったのに」

「家が代々軍師の家系だ」

「わ、僕は高祖にあこがれて目指しました」


 各々話してみると、どうやらみんな感性も感覚も目的も違うようだった。はっきり軍師になりたいのは星羅だけのようだが、やはり兵法の話になると面白い。会話に熱中していく自分がわかった。盛り上がりそうなところに「こほん」と咳払いする声が聞こえた。

 3人はハッとして咳払いのほうに振り向くと細い、高いというよりも長い柳の木のような老人が立っていた。雪のような銀白髪と白いひげ、目を患っているのか黒目も半分白く濁っている。幽鬼のような雰囲気に星羅は緊張した。


「わしは馬秀永じゃ」


 名前を聞いた瞬間に彼が軍師省のトップであるとわかり、3人は背筋を伸ばし頭を床につけ拝礼する。


「よい。面を上げよ」


 枯れ木のような雰囲気なのに、声は太く低く良く通る。


「えーっとそっちから、郭蒼樹、徐忠正、朱星、雷じゃな」


 指さしで確認したあと馬秀永はここでの役割を話始める。見習いは3年間のうちに何かしら献策をしなければならない。それは、政治経済、庶民の生活、土木、教育どんなジャンルのことでも構わなかった。何も出せなければ、もう一年猶予があるがそれを過ぎるとここを出ていくしかなかった。他には過去の政策の整頓、兵法書の写しなど図書館のような仕事もあった。


「わからんことがあるかの?」


 3人とも献策について考え始めたので他の質問など思いつかなかった。


「じゃあ、わしと会うのはこれで最後の者もおるじゃろう。あとはそこの孫公弘に聞くがよい。三年後を楽しみにしておるぞ」


 すーっと音もなく出ていったあと、ガタイの良い将軍のような男が入ってきた。癖が強い髪なのか、まとめ切れておらず、虎のようなもじゃもじゃとした髭を生やしている。


「教官の孫公弘だ。なにかあったらわしに言え。とくかく策を考えるのがお前たちの役割だからな」


 そういうなり、ごろりと横になった。


「えーっと教官。今日は何をすればいいですか?」


 徐忠正がそっと手を上げて質問する。ごろりと向きを変えた孫公弘は「うーん。そうだなあ」と唸る。


「この中で寮に入るものはいるか?」

「おれがはいります。家は都から遠いので」

「そうか。部屋は整ってるのか?」

「そうですねえ。そんなに持ち物もないので」

「じゃ、お前んとこに行って歓迎会するか」

「え!?」

「いくぞいくぞ」


 まだ日が高いが軍師省の近くの徐忠正が下宿している寮に行くことになった。途中で孫教官は一人一壷ずつ酒を買って持たせた。



 寮生活を行っているものは、見習いの立場のものだけだ。その上の助手の立場になると、給金が上がるので一人暮らしをすべく出ていくものが多い。軍師見習いのみならず、薬師、占術師、兵士などの見習いたちも住んでいるので大所帯だ。

寮は男女で場所が分かれているので、ここには男しかいない。なんだか妙に汗臭い気がして、星羅はこっそり袖で鼻を押さえる。

 徐忠正の部屋は一階の角部屋で静かな場所にあった。


「ほう、いいところじゃないか」


 孫教官が持ってきた酒の壷を床に置いて部屋を見回す。6畳程度のワンルームで寝台と机がある。見習いたちは寝に帰るくらいなので不便さはなかった。


「厨房に行って杯を4つと、何かつまみをもらってこい」

「え!?」

「大丈夫大丈夫。孫がそう言ってると言えば、厨房のオヤジがちゃんと渡してくれるから、ほら行った行った」


 徐忠正は言われるまま部屋を出ていった。


「さて、お前たちはそこら辺に座れよ」


 星羅と郭蒼樹は適当に距離をとって座る。ほんのわずかな時間で徐忠正は盆を持って現れた。


「あのー、教官。なんかもう用意されてました」

「ほう。そうかそうか。気が利くじゃねえか厨房のオヤジのやつ」


 不思議そうな顔をする3人に孫公弘は説明する。


「昨日言っておいたのさ。今日は酒盛りになるかもってな」


 今一つよくわからない顔をしていると続けて孫公弘は「おれもここに住んでるんだ。この隣にな」と笑った。

 それを聞いた徐忠正はぽかんとする。


「寮生活、楽しそうだな」


 郭蒼樹が徐忠正の肩をポンと叩く。本当にそう思っているのか、皮肉なのか無表情なのでわからない。


「さあ、飲んで食おうぜ」

 

 孫公弘は大きめの杯になみなみと酒を注ぎ、乾杯と杯を掲げた。


48 頭痛

 軍師省の様子を絹枝に報告しようと陸家にやってきた。使用人に絹枝に会いたいと告げると、今来客中なので、しばらく客間で待っていてほしいということだった。馬を繋いでもらい、星羅は庭が見える客間で静かに待つことにした。


「なんだか頭重たいわ」


 昨日、初めて飲んだ酒が残っているのだろうか、なんとなく身体がすっきりしない。こめかみを揉んでいると陸慶明が通りがかった。


「おや、星羅」

「おじさまこんにちは。絹枝老師を待たせてもらってます」

「そうか。頭でも痛いのか?」

「いえ、痛いほどでもないのですが、昨日お酒を飲みまして……」

「ふふっ。酒か、どれ、少し診てあげよう」


 星羅の隣に、慶明はそっと座り、手首をとり脈を測る。


「まあ二日酔いではないらしい。女人特有の身体の調子によるものかもしれないな」

「ありがとうございます。医局長のおじさまに診察してもらえるなんて光栄です」

「それにしても、星羅は酒が飲めるのだな。晶鈴は酒を飲まなかったが」

「へえ。そうなんですかあ」


 慶明は遠い空を眺めながら晶鈴のことを話す。


「晶鈴は頭痛持ちだったから、もしかしたら君もそうかもしれない」

「うーん。どうなのかなあ」

「もう少し診ておくかな」

「え、いいですいいです」

「身体は大切にせねば、ほらここに持たれてごらん」


 慶明は自分の身体に星羅を抱き寄せるように、身体を預けさせる。星羅は言われるまま横向きになり顔を彼の胸に埋める。慶明は背中をとんとんと触診していく。


「おじさま、なんだか心地よいです」

「そうかね? 今度は前を向いて喉をみせてごらん」

「はい」


 口を開き喉の奥を見せる。


「綺麗なのどだ」

「よかった」

「少し胸元を開いてごらん」


 素直に帯をゆるめ、胸元を緩める。慶明は首筋を撫で、鎖骨に指を這わせ、なだらかにふくらみはじめる胸元にトントンと人差し指で叩く。


「健康的な身体だ」


 医局長の彼に言われると、とても安心だと星羅が思っていると「奥様のお客様が帰られましたよ!」と大きな声が聞こえた。

 振り返るときつい顔をする春衣が立っている。


「そうか。ではこれで、何かあったらすぐに相談するんだよ」

「おじさまありがとうございます」


 慶明がさっと立ち去った後、春衣も後をついていった。星羅は着物を直して絹枝の書斎へと向かうことにした。



 慶明の後を付いて行きながら、春衣は苦々しい思いを抱く。厩舎を通った時に、星羅の馬がつながれているのがわかった。星羅の馬は、慶明が軍師見習いの試験に受かったお祝いに彼女に与えたものだ。美しい栗毛をもち額に白い模様がある。その模様が星のようであるということでその馬を選んだ。気性はおっとりしていて人懐っこいので、星羅は『優々』と名付けている。


 絹枝が来客中で、慶明がいるのを知っていた春衣は何かあったらいけないと急いで客間に向かった。見ると慶明は診察という名目で星羅に触れていた。星羅は純粋に診察だと思っているだろうが、慶明は恐らく違う思惑があるはずだと春衣は睨んでいる。


「星羅さんはどこかお悪いんですか?」


 春衣はわざと慶明に尋ねる。


「ん、いや。健康そのものだよ」


 何事もないような言い方が、また春衣の神経を逆なでする。


「もうこの屋敷にはあまり来ないでしょうね。軍師見習いとしてお忙しいだろうから」

「いや、夫人に会いに来るだろう。それに健康診断のために月に一度は私の所へ来るように言ってある」


 春衣はそのことを聞いて目の前が真っ暗になる。健康診断はきっと絹枝のいないときを狙うはずだ。今は胡晶鈴の娘への親切心だろうが、そのうちどうなるか分からない。慶明が星羅を我が物にすることなど薬品でも使えば赤子の手を捻ることに等しい。

 春衣はまた早く次の手を打たねばと考え始めた。

 

49 媚薬

 月も星も出ない闇夜のなか、陸家では春衣だけが起きている。主人の陸慶明をはじめ、その妻、絹枝と息子の明樹、そしてすべての使用人の食事に、以前慶明からもらった睡眠薬を入れておいた。


「あとはこれを」


 小瓶をぎゅっと握りしめ、春衣は慶明の寝室に向かった。


 屋敷が大きくなってから、慶明と絹枝は都合の良いことに寝室を別にしている。しかも客間をはさみ離れているので、それぞれの部屋の物音がよほど騒々しくない限り聞こえない。

 皆、深い眠りについているだろうが、春衣は慎重に静かに歩く。そっと慶明の部屋に忍び込むと彼は静かに寝息を立てている。暑がりな彼は薄衣をはだけ、掛物も横にどかしてほぼ裸体のようだ。


「慶明さまったら……」


 立派な医局長の彼が、無防備であどけない少年のような寝姿を見せる。しばらく見つめていると「晶鈴……」と寝言が聞こえた。


「やはりまだ晶鈴さまを……」


 彼がつぶやく名前がまだ晶鈴でよかった。これが星羅だったら、春衣は烈火のごとく怒り、彼女に何をするかわからない。慶明の寝言で自分が何をしに来たか思い出す。小瓶の蓋を開け、中に太い糸を垂らす。

 中には以前、慶明が作った催淫剤がはいっている。瞬間的な効果しかないこの媚薬は、まだ若かった慶明が人に頼まれて開発したものだ。

 液体になっている媚薬を糸に含ませ持ち上げると、そっと慶明の唇の端のほうに触れないように置く。糸から小さな雫が垂れ始める。ほんのわずかの点々とした液体がじわじわ慶明の口の中に入っていく。根気よく春衣は慶明に媚薬を注ぎ続ける。しばらくすると慶明の息が少し荒くなってきた。身体も熱くなってきたのか、薄衣すらも脱いでしまう。


「ん、晶、鈴……」


 睡眠薬と媚薬が良い塩梅で効果を発揮している。春衣は小瓶の蓋を閉め、立ち上がり自分の衣をすべて脱いだ。そしてそのまま慶明の寝台に上がり慶明と肌を合わせる。


「慶明、私よ。晶鈴よ」


 春衣は晶鈴の声色をまねて慶明に囁く。目を閉じたまま慶明は「ああ、晶鈴……」とつぶやき春衣を抱きしめ続けた。




 まだ暗い中、目覚めた慶明は、身体に圧迫を感じて、そちらへ目を向けた。隣に眠る春衣を認めて息をのむ。


「こ、これは一体……」


 春衣は一枚の薄い着物でよく眠っている。そっと身体を起こし呼吸を整え、昨晩のことを思い返してみる。食事をしたあと部屋に戻り、眠気を感じたので早々に床にはいったところまでは覚えている。


「晶鈴……」


 晶鈴に対して思いを遂げた夢を見た気がする。


「まさか春衣を……」


 春衣を抱いてしまったのかどうかは、はっきり自覚を持てなかった。頭を抱えていると春衣がもぞもぞと起きだした。


「だんなさま……」


 身体を起こし春衣は慶明にすり寄ってくる。


「わ、わたしは……」


 どういえばわからない慶明に春衣は落ち着いた声で答える。


「だんなさま。わたしは晶鈴さまの代わりでも平気です」

「……。責任はとる……」

「だんなさまぁ。うれしゅうございます」


 粘り気のある声で春衣はささやき、慶明の背中にしなだれかかる。慶明は、絹枝ではなく晶鈴に対して謝罪したい気持ちになっていた。


50 側室

 たまには健康診断を受けるようにと、星羅は医局長の陸慶明に言われていたので数か月ぶりに陸家を訪れる。軍師見習いとして学んでいることや、献策について絹枝にも報告がてらだった。

 脈を測る慶明は久しぶりに会うと何やら表情は暗く元気がない様子だった。


「おじさま、なんだかお疲れね」

「いや、そんなことないさ」

「薬師の不養生じゃないかしら」

「ははは。これは星羅に言われてしまったな」


 星羅との一時は、慶明にとって和やかな時間だ。しかしその時間はすぐに過ぎる。


「旦那さま、奥様がお戻りです」

「そうか。わかった」


 春衣に言われて慶明は立ち上がり「では、これで」と星羅に寂しげなほほえみを見せた。春衣は逆に強気な態度でちらっと星羅をみてから慶明の後をついて去った。

 少しばかり居心地の悪さを感じながら、絹枝の書斎へと赴いた。いつの間にか小川にかかっていた太鼓橋は平坦なものとなり、幅も広く丈夫なものに変わっている。


「おかえりなさい絹枝老師」

「ただいま。どう? 慣れてきた?」

「ええ、同期生も面白い人たちで」

「そう。それならいいわね」


 慶明同様、絹枝もなんだか元気がない様子だ。


「あの、お疲れなんですか?」

「え? そう見える?」

「慶明おじさまも調子があまりよくなさそうでしたけど」

「あら、あの人は陽気になってもいいだろうにね……」


 少しとげのある言い方に、星羅は気まずさを感じる。


「お疲れでしたら、わたしはこれで……」

「いいのよ。もっと聞かせてちょうだい。生徒が希望の進路に向かっている話を聞くと嬉しくなるのよ」


 寂し気に笑う絹枝としばらく話をしてから星羅は席を立った。屋敷の門から出ようとするとちょうど息子の明樹が帰宅したところだった。


「やあ星羅。久しぶりだな」

「ほんと!」


 馬から降りた明樹は、兵士らしく簡易な鎧を身に着け腰に剣を挿している。カチャカチャと金属音をさせながら馬を撫で、門前の使用人に手綱を渡す。


「どうだ。軍師省は?」

「面白いわ。明にいさまは一等兵になられたとか」

「ああ、もうすぐ上等兵さ」

「さすがね! おじさまも老師もお喜びになるわね」

「ん、まあ父上も母上もほんとうは文官になって欲しかったろうから、どうだろうな」

「そういえば、お二人とも様子が変だったの。どうしてかしら」

「ああ、知らないのか」

「何を?」


 一瞬ためらいを見せたが明樹は星羅にそっと耳打ちする。


「父上が側室を迎えるのだ」

「え……。おじさまが側室を」

「すぐわかるだろうから隠さないが、春衣が側室になるんだ」

「まあ。春衣さんが」


 確かに医局長の慶明ならば、一人二人側室がいてもおかしくはない。しかし春衣を側室にするならばもう少し早くてもよかっただろうにと思う。


「実は春衣が身籠ったんだ。それで今頃、側室にするのだろう」


 ぽかんとする星羅に明樹は優しく笑う。


「男と女のことはよくわからないよな。しかも母上が春衣にいい縁談の話を持ってきていてさ。それが、ご破算になったからまた気まずいったらさ」

「絹枝老師はお辛いでしょうね」


 誰かをまだ愛したことはない星羅だが、自分の育ての父母、彰浩と京湖の仲の良さを思うと絹枝に同情した。


「どうかな。母上はもともと一人くらい側室を置いてもよいとお考えだったし」


 学業に熱心な絹枝は、夫婦関係にはドライらしく、他所で派手に遊ばれるより側室を抱えるほうが良いと考えるようだ。


「明にいさまに弟か妹ができるわね」

「そういえばそうだな」


 からっとした明樹もそれほど気にしていないようだ。一番慶明が複雑そうな雰囲気を醸し出していることが星羅にはわからなかった。


「そろそろにいさまも、ご結婚かしら」

「ああ、母上もそんなこと言ってたな」

「もう誰かを娶ってもよいころね」

「その辺は母上に任せるさ」


 軽い会話を楽しみ二人は別れた。陸家の使用人が、彼女の馬、優々を連れてきてくれた。礼を言い、さっと馬にまたがる。


「さて優々、帰りましょう」


 優々はヒヒンと返事をして駆け出す。西日を追いかけると星羅の空色の着物が朱色に染まる。


「わたしもいつか結婚するのかしら」


 全く想像ができなかった。それよりも軍師として身を立て、母、胡晶鈴を探し出すことが星羅にとって大事なことだった。


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