第4話

31 上京

 

 国の南西にある最後の町から、朱彰浩と京湖、京樹そして胡晶鈴の娘、星羅は都までやってきた。医局にいる薬師、陸慶明を頼るためである。晶鈴の残した身分証と、慶明の札のおかげで面会は容易に叶った。

 寺院と同じ建築だが大きな門構えと大きく反った屋根は、徳の高さよりも豊かさを象徴しているようだった。

 使用人に案内され客間で待っていると、陸慶明が現れた。


「よくいらっしゃいました」


 次期医局長として威厳が身についているようで、堂々と重々しい雰囲気に彰浩と京湖はより緊張する。そろそろ2歳になる京樹と星羅も親の緊張を察したのか、彰浩と京湖の懐でそれぞれ身を固くする。

 京湖に抱かれている星羅に、ふっと慶明は視線を注ぐ。


「もしや、その子は……」


 表情がゆるんだ慶明を見て、京湖も緊張を解いた。


「ええ。晶鈴の子です」

「そうか……」


 懐かしむような愛しむような視線を星羅に注ぎ続ける。優しいまなざしをみると、彼が晶鈴を友人以上の思いで愛していたのがわかる。


「それで、どのような状況でしょうか」


 深々と椅子に腰かける慶明に、京湖が説明を始めた。


――京湖の国は、この中華の西から南にかけて位置する王国だ。この中華とも友好国として交流が盛んである。京湖はその国の王に次ぐ最高権力者の末娘である。権力者である父は、京湖より年上の兄や姉が一族の結束のための婚姻を十分に結んでいたため、京湖には強いる婚姻はなかった。

 しかし自由に明るく美しく育つ京湖は、父の政敵の息子に見初められてしまう。その息子は長い時間かけて父の権力を奪ったうえで、有無を言わさぬ婚姻を京湖に強いる。政界の中心から追いやられた父は引退し、婚姻は京湖の自由にしてもよいと言った。

 一度は今後のことも考え、その息子と結婚する決意を持つが、だめだった。蛇のようにしつこく嫌らしい感じがどうしても好きになれず、正室に迎えるとは言われているが、側室と妾が数多居た。

 そこで京湖は病で亡くなったことにし国から逃げ出した。同じ年ごろの病で亡くなった娘を、彼女の身代わりにし立派な葬式をあげたのですぐにはバレなかったようだ。

 この広い中華に逃げ込む前に、陶工の朱彰浩に出会い結ばれた。



 思わず、自分と彰浩の出会いの話をしそうになったが、やめてその息子が今、自分が生きていることを知り追いかけてきたこと、そして自分が晶鈴に衣装を貸したことで、京湖と間違えられて捕らえられたであろうと話した。


 話を聞いた慶明は大きくため息をついた。


「晶鈴は……すぐに人違いだとは言わないだろうな……」


 彼の言葉を聞き、京湖も彰浩もやはりそうなのだとうつむく。


「昔からそうだった。自分が損をしているのがわかってないというか、状況を楽観視しすぎているというか……」


 慶明は晶鈴が都から追い出されたことを思い唇をかむ。能力を失ったとはいえ、彼女が悪いわけではなかった。王太子を責めることも勿論できないが、黙って引き下がることもなかろうにといまだに思う。


「すみません。私のせいです。彼女を巻き込んでしまった……」


 大きな黒い瞳が潤んでいることに気づき、慌てて慶明は手を振る。


「失礼した。あなたを責めているわけではないのだ。とりあえずここにいてもらったら大丈夫だ」

「いえ、お世話になるつもりは……。こちらに来れば、晶鈴を救い出せるかもと」

「晶鈴が人違いだとわかったらどうするか……」

「あの、星羅の父親は」

「星羅の父親か……」

「やはり、あなたではないのですか」

「ええ、そうだったらよかったのに」


 愁いを含む笑顔に京湖も切ない気持ちになった。


「とにかく今日はもここでお休みください。もう少し話し合いましょう」

「いえ、宿を探しますわ」

「ふふ。もう二人とも夢の中ですよ」


 慶明の視線の先には、彰浩に抱かれた二人の子供たちが抱き合って眠っているところだった。慶明は、使用人に合図をして家族を泊まれるように手配し案内させた。


 これからどうしようかと慶明が考えているところへ、下女の春衣がやってきた。彼女はもう女中頭で屋敷の中のことをほとんど取り仕切っている。


「慶明さま、もしかして先ほどの子供は?」

「ああ、気づいたか。晶鈴の娘だ」

「まあ! やはり! で、晶鈴さまは?」


 春衣は懐かしさで胸がいっぱいになる。


「それが、さらわれたようで行方が分からんのだ」

「そんな……。これからどうするおつもりですか?」

「しばらく考える。――このことは夫人には内緒にしておいてくれ」

「え、ええ。もちろんです」


 さらに慶明と秘密を共有しているという優越感を得る。学問ばかりの夫人よりも、自分のほうがよほど慶明と近しい関係だと春衣は自負している。



32 安住

 一晩考え、こういう問題はとりあえず太極府で相談するのが良いだろうと、陸慶明は陳老師のもとへ赴いた。薬草だらけの医局と違い、石で構成された硬く無機質な雰囲気ではあまりリラックスはできない。このような場所に延々といられる者はやはり変わっているのだろうなと晶鈴の顔を思い浮かべた。石畳は履物の底からでも、硬さを伝えてくる。

 集中を妨げないためか、ここには音を奏でるものはなかった。声を掛けるときも静かに囁くように気をつけねばならぬ。静寂の中を一人の占い師がやってきたので「陳老師に取り次いでもらいたい」と呼び止める。


「どなたですか?」


 長身の痩せた男は無表情で尋ねる。ここには来客というものは基本的になかった。


「医局の次長で陸慶明と申す」

「わかりました。ただお会いできるのは正午でしょう」

「そうか。では昼にまた参る」


 ずいぶん待たされるが、その日に会えるだけましだろう。陳老師は国家占い師でも最高位にある。医局の次長である慶明がギリギリ会えるラインだろう。


 医局に行ってから、部下に指示を出しまた屋敷に戻る。客人である朱彰浩と京湖、そして子供たちのもとへ訪れた。広々とした庭で星羅と京樹がしっかりした足取りで走り回っている。


「どうですか? よく休めましたか?」

「ええ。おかげさまで」


 彰浩が深々と頭を下げると京湖も丁寧にお辞儀をする。


「いやいや。不足があれば、そこの春衣に言ってください」

「何から何まですみません」


 恐縮する彰浩に慶明は話題を変える。


「そういえば、陶工でしたね。どのような焼き物を?」

「ああ、少しあるので持ってきましょう」


 これまであちこちの町に滞在して、陶器に適した粘土を求め、作って焼くことを移動しながら行ってきた。本来は一か所に落ち着いて行う職人仕事であるが、京湖と出会ってから、彰浩はあちこちで作陶をしている。

 荒い布を慶明の座っている台のまえで開く。丸い手のひらサイズの深鉢のようだが、すべて色が違っている。慶明は一番上にある青白磁の器を手に取った。


「これは美しい。どれどれ」


 その下にあった飴色の器を眺める。


「うーむ。これも味わい深いものだな」


 鑑賞され満足する彰浩に慶明は尋ねる。


「どうしてこんなにいろいろな作風なのですか?」

「移動先で手に入れた材料を使うからです」

「なるほど」


 彰浩は、行った先々で粘土を求め、釉薬になる木灰や顔料を手に入れ、簡易窯で焚いてきた。そのため、焼き閉まる鉄分の多い土や石質の磁器などいろいろなタイプの焼き物になった。それでも造形は彰浩の誠実な性格が表れているのだろうか。触り心地は優しく温かい感じがする。


「どうだろう。都の郊外に官窯がある。暇だったらそこで時間つぶししてもいいと思うが。ああ、勿論うちでのんびりしてもらって構わない」

「官窯! そんな政府御用達しの陶工場に!?」

「この腕ならいいでしょう。良ければすぐにでも推薦状を書くから」

「それは、願ったりです」


 彰浩は二つ返事で了承した。彼の家は代々陶工だったが、庶民の雑器をつくるいわゆる民窯だ。宮中で使われる陶器や、儀式用の祭器を作ったことはなかった。逃亡生活であることをうっかり忘れるぐらい、彰浩は官窯での仕事に心を躍らせた。


 星羅と京樹の手を引いてやってきた京湖が「なんだか嬉しそうね」と彼女も明るく微笑んだ。彰浩が明るい顔を見せるのが京湖はとても嬉しい。晶鈴のことや京湖の身の上のことを思うと心から喜べない二人だった。


「うちにいてもらっても良いが、気を遣うのでしたらどこか空き家でも探しましょう」

「そうね。ここにいつまでとどまれるかわからないけど……」


 男が追ってくるのではないかと思うと、安住することはできないと京湖は顔を曇らせた。


「さすがに都までは追ってこられますまい。役人に顔も効きますから安心していいですよ」


 慶明の言うとおりに都で保護された京湖を拉致することは難しいだろう。ここまでやってきて彼女をさらうものなら外交問題にも繋がりかねない。この国の民として生きていけば安泰だと思われる。


「辺境のほうが中央の目が届きませんからね。都におられるのが宜しかろう」


 彰浩と京湖は、慶明の勧め通りに都に落ち着くことにした。

 


33 資質

 再び太極府に訪れた慶明は、陳老師に取次を頼み、建物の一番奥まで案内された。長い廊下はどんどん薄暗くなり、まるで洞窟を進むような不安感のある通路に慶明は息苦しさを覚える。先を歩く案内の占い師がかすんで見えるくらいぼんやりし始めると「こちらです」とかすかな声が聞こえた。


「う、うむ。では」


 意識をはっきりさせ、返事をすると「ではわたしはこれで」と案内はまた暗く長い廊下を下がっていった。目の前の重々しい濃紺の間仕切りの布をすっと横に寄せ、「失礼します」と部屋に入った。入口以外の壁は書物できっしりと埋まっている。


「ようこそ。どうぞここへお座りなさい」

「ありがとうございます」


 遠目でしか見たことがなかった陳老師は、思ったよりも若々しく人懐っこい様子だった。慶明も晶鈴もこの都に来た時に、もう陳老師は最高位で相当な高齢のはずだった。まるで仙人のようだという感想をもっていると「で、なんのご相談かの?」と柔らかい声で尋ねられた。


「晶鈴が人違いでさらわれてしまい、彼女の娘が都まで来ています。晶鈴を救う方法などあれば教えていただこうかと」


 慶明はとにかく晶鈴をこの国に戻すことを望む。陳老師は白い長いひげをするすると撫で、静かに口を開く。


「晶鈴はそういう運命じゃろう。もし会うことが叶ったとしてもこの国で留まることはないかもしれん」

「そんな……」

「わしも晶鈴の行方をずっと追っていたんじゃ。最後の報告で国から出てしまったことを聞いた」

「えっ? 老師は晶鈴の行方を知っていたのですか?」

「うむ。医局は知らんが、太極府にはそれなりに情報網があるのでな」


 能力を失った彼女を、使い捨てるように誰も関心を持っていないと思っていたが、そうではなかったようだ。太極府を去った者の行く末が安定するまである程度は見守るらしい。


「情報と予知ができても、防げるわけではないのだが……」

「そうですか……」

「そう心配する出ない。晶鈴の身が危なくなることはないようだから」

「はあ……」


 一定の期間を空けて、晶鈴のことを太極府の卜術占い師に観させているようだ。今はそれを信じるしか慶明には手立てがなかった。


「晶鈴の娘か。何かしら才があるやもしれぬな。生まれた年月日などはわかるのじゃろう?」

「ええ。控えてきました」


 星羅の生年月日と出生時刻、そして町の場所が書かれた紙を陳老師に渡す。じっと紙を眺めた後、陳老師は立ち上がり棚から巻物を一つとりだし、机に広げる。何やら数が隙間なく書かれているが、慶明には何の数値かわからなかった。

 巻物を下に置き、今度は無地の紙を台に置き筆をとった。さらさらと何か図形を描き始める。円形を12に分割し、いろいろな記号を書き込んだ後「よし」と陳老師は筆をおく。


「名は?」

「星羅です」

「晶鈴め、良い名をつけたの」


 嬉しそうに目を細め陳老師は、図形を眺める。


「これはな生まれた時の星の配置図じゃ……。これでその人物の才、人格、運命などがわかる」

「これで……」

「生まれた時間まではっきりわからんと正確な配置図を描けんのでな、晶鈴は観てやれなかったの」

「なるほど……」


 生年月日に加え、出生時間や出生場所の明確さを求めると、庶民には無理だろうし、このような高度な占術はやはり王族などの一部のものにしかまみえることはできないのだろう。


「うんうん。晶鈴とあの方のお子だけあるの……」


 父親を知っているかのような口ぶりに慶明は息をのむ。しかし黙って触れないことにした。


「この娘はどのような者でしょうか。これからどうすれば……」

「星羅はこの華夏にとってなくてはならん存在じゃよ。あと10年すれば才は花開く。3つになったらそなたの夫人の学舎へ入れてやるがよい」

「は、はい」

「ところで、もう一人星羅より先に生まれた子がおるじゃろ?」

「ええ。星羅を育てている朱夫婦の息子、京樹がほんの1刻くらい先に生まれたようで」

「ほうっ」


 陳老師はまた無地の紙に新たに星の配置図を描く。


「どうしてじゃろうか。この子も華夏、いや、太極府にとって大きな存在になるような資質を持っておる。おかしい。どうして見つけられなかったのだろうか」


 占術の大きな資質を持つ者がいると、星の動きや、太極府の占い師たちによって見出されていたのに、この朱京樹の存在を知ることができなかったことに、陳老師は首をかしげる。慶明は、ああとつぶやき進言する。


「京樹はこの華夏民族ではないからでしょう。西国の紅紗那民族ですから」


 はっと目を見開き陳老師は呻く。


「民族か。なるほどのう」


 確かに本来なら、この中華にいる民族ではない。しかし民族は違えど今はこの国にいるのだ。


「その京樹とやらを連れてきてもらえぬかの。いや、わしが行こう。両親に話をせねば」

「え、今ですか?」

「ああ、これは国家の大事じゃからの」

「では、ご案内します」


 星羅も京樹もこの国にとって重要な人物であるようだ。納得をする反面、晶鈴の娘には平凡な幸せを得てほしいと願う慶明は複雑な思いを胸に抱いていた。


34 星羅と京樹


 双子同然に育ててきたので、彰浩と京湖は星羅の生い立ちについては何も触れずに来た。京樹が陳老師のもとに通うようになって突然「僕と晶鈴は顔が違うね」と言い始めた。


 京樹は太極府で占星術を陳老師について学んでいる。自然と観察力と洞察力が幼いながらに身についてきているようだ。

 星羅ももう陸慶明の妻、絹枝の学舎に通い勉学を始めているが、読み書きしている大勢の子弟の中のそばで落書きなどをしているだけだった。


 彼の言う通り、兄妹のはずなのに星羅と京樹は明らかに容姿が違う。

 朱京樹は両親の彰浩と京湖に良く似て、艶のある浅黒い肌と刻太い黒い髪、くっきりした彫の深い顔立ちをしている。鼻梁も高く唇も厚く大きい。

 星羅の肌は白く、髪は艶やかな漆黒だが繊細な絹糸のようだ。丸く黒めがちな瞳は愛らしいが、額は広くりりしい眉をしている。小さな唇はふっくらとして淡い桃色だった。

 都の気候は西国と違い、乾燥して寒い。京湖と彰浩も以前の衣装はすでにしまい込み、しっかりと織られた目の細かい漢服を着ている。随分とこの国になじんでいるが、やはり異国の民である。




 隠すつもりはないが、もうそろそろ星羅の身の上について話さねばならないかと、京湖は決心し家族4人で話し合うことにする。

 慎ましい夕食を終え、あたりを片付けたのち京湖は話があるとみんなに告げる。


「なあに? かあさま」


 興味を持つ愛らしい瞳の星羅の頭を優しく撫でると、話すことがためらわれた。複雑な話は難しいかもしれないが、ある程度の事情は理解するだろう。


「星羅。実はあなたのお母さまは別の方なの……」

「え?」


 唖然とする星羅と、なんとなくそんな気がしていたという表情をする京樹の顔を京湖は見比べ、真剣な表情の彰浩に視線を送った。


「とうさまは?」


 星羅は、彰浩のほうを向いて尋ねる。


「とうさんも、ほかにいる……」


 彰浩は残念そうに答えた。


「星羅のかあさまととうさま……」


 迷子になったような心細い表情をする星羅を、京湖はすぐに抱き上げる。


「心配しないで。あなたのお母さまはちょっと遠くに御用時に行ってて、今私たちがあなたのとうさまとかあさまには違いないのよ」

「そうだ。星羅は私たちの大事な家族だよ」


 彰浩も優しく言葉を続ける。

 強い力で星羅は、京湖の身体を抱きしめ「ほんとね。かあさまととうさまと星羅と京樹は家族ね」と尋ねるようにつぶやいた。


「そうよ、ずっとそうよ。でもお顔が少し京樹と違うのは、星羅を産んだのは他のお母さまなの」


 傷つけてはいないだろうかと京湖は心配しながら説明をする。しばらく黙って考えていた京樹が口を開く。


「そうか。星羅には父さまと母さまが2人ずついるんだ。僕と兄妹で、星羅は6人家族になるね」

「とうさまとかあさまが2人ずつ? 」

「そうさ。星羅、いいことだよ」

「うん! いいことね!」


 京樹の言葉を聞いて、明るく答える星羅に、京湖と彰浩は少しホッとする。京湖たちの身の上は、また二人が成長してから話さねばならないと、とりあえず今を乗り切れたと胸をなでおろす。

 わずか1刻ほど先に生まれただけなのに、京樹は母がいない星羅を兄として守らねばと幼い心で決意する。その決意はいつか、家族の情を越え一人の女性として星羅を見つめることとになるとは、まだ誰も気づいていなかった。


35 咖哩

 都に住み十年たつが、朱家を脅かす存在は現れず平穏な日々を過ごすことができた。陳老師が密偵の商人に西国を探らせているが、胡晶鈴の行方は相変わらず不明、でそのことが朱京湖に暗い影を落とし続けている。言葉には出さないが、娘の星羅も本当の母親に会いたいはずだろう。

 周期的に不安の襲われると、京湖は自国の香料がふんだんに使われた、薫り高く刺激的な料理を作る。小さな屋敷には使用人はおらず、京湖は家の中をすべて取り仕切っている。外からでも漂う刺激的な香りに、星羅は夕食が咖哩だとわかると、胃が刺激され空腹を覚えた。


「かあさま、ただいま。いいにおい!」

「おかえり。今日の勉強はどうだった?」


 頭一つ背の低い星羅の美しい髪を、京湖は一撫でする。京湖の身体をぎゅっと抱きしめ、星羅は輝く瞳で見上げてくる。


「楽しかったわ! 歴史を学んだの! 」

「歴史は大事よね」

「何か手伝いは?」

「今はないわ。とうさまと京樹が帰るまでゆっくりしてらっしゃい」

「明々と遊んでくる!」


 星羅は布でくるまれた勉強道具を棚にしまうと、また出ていった。


「随分と晶鈴に似てきたわ……」


 まだまだ幼い少女だが、顔立ちははっきりと晶鈴に似ていた。


「どこに行ってしまったのだろう。あなたの娘はどんどん大きくなるわ……」


 今でも鮮明に晶鈴のことを思い出せる。初めて会った時から飄々として屈託なく、明るく前向きな彼女はいつも京湖の心の支えだった。夫の朱彰浩と違う安心感で彼女が「大丈夫よ」といえば心からそうだと思えた。気分が沈みそうになると、ちょうど彰浩が帰ってきた。


「今日は咖哩なのか」

「ええ」

「いい香りだ」


 無理をして作った笑顔を見せる京湖に「あまり心配するな」と彰浩は抱擁する。


「ん……」


 彰浩も京湖の不安な気持ちはよくわかっていた。しかし今はどうすることもできない。不安は尽きないが皮肉なことに、彰浩は官窯勤めに落ち着き、陶工職人として生活自体は安定している。民族が違えども、控えめで誠実な彼の仕事ぶりはよく評価されており、また色々な粘土と釉薬を扱ってきた知識は重宝されている。ただ好きなものを作ることはできない。決められた意匠で、同じものを延々と作り続けるのだ。高温で焼かれた磁器は、硬く強く美しいが、京湖は以前行く先々で作っていた低温で焼かれた軟陶が好きだった。ちょっとしたことですぐに縁が欠けてしまうが、優しい手触りと柔らかさは彰浩の心を表しているようだった。


「いつかまたあなたの器で食事ができるといいわね」

「いつかな」


 作って焼いては売ってきたので、サンプルのような陶器しか残っていなかった。京湖は初めて彼の作った器で食事した日を思い出す。いつの日か心配事がなくなり、彰浩の作った器で食事ができるような幸福な日が来るように京湖は祈り続けている。


36 出会い 

――死んだことにして逃げ出した京湖は、国境にたどり着く。貧しい身なりで顔を汚し、髪を埃だらけにしていると時々小銭を恵まれる。気候は温暖で豊かな国なので、凍えることも、飢えることもないが生涯このまま流浪の身であることに、不安は尽きない。かといって戻って、あの蛇のような生理的嫌悪感を感じる男と結婚するのも嫌だった。何不自由のないお嬢様であった京湖が、このような乞食同然の生活をおくることになるとは誰にも、本人にも想像ができない。何度何度も以前の清潔で美しい生活を懐かしんだ。


 ぼんやり歩いていると、町から随分離れたようで、あたりは静まり返っていた。日も暮れ始め薄暗い。


「どうしよう。こんなところで……」


 凍えることはないだろうが、獣の遠吠えが聞こえ京湖は怖くなった。かさっと茂みが鳴るたびにびくびくと京湖は身を固くする。あたりはすでに暗闇になっている。そのうえますます山の中に入ってしまい、途方に暮れたころ小さな明かりが見えた。急いでその明かりのほうへ向かうと、小さな小屋と大きな土の塊が見えた。それが朱彰浩の陶房だった。


 人がいると思った京湖はゆっくり近づいて様子を見る。長身の若い男がもうあたりも暗いのに土の塊の周りをうろうろしている。土の塊だと思ったのは、高さのある焼き窯だった。どうやら窯の中から器を出しているらしい。灯籠を片手にもち、出した器を眺めている。チラチラと灯籠の明かりが男の顔を照らす。


 器を見る瞳は温かく、そっと触れている指先はとても優しい。大柄なのに、繊細なイメージをその若い男から感じた。


「そこに誰かいるのか?」


 声を掛けられて、京湖はそっと立ち上がる。


「すみません。どこか隅で良いので今夜過ごさせてもらえないでしょうか」


 あたりを見回して男は「困ってるようですね。いいでしょう。どうぞこちらで」と小屋の中に案内する。いきなり現れた不審な人物に、警戒することもなく、事情を聞くこともなく京湖を泊めてくれるようだ。

 案内された小さな小屋のなかは土間を上がるとすぐ寝台になっている。


「あの、あなたはどこで?」

「心配しないでいいです。ああ、湯が使いたかったら外のかまどで沸かせるのでどうぞ」


 汚れている様子を改めて自覚すると、京湖は赤面した。しかし顔が赤いことは汚れのせいでわからないだろう。急に京湖は顔を洗って以前の美しい清潔な肌を男に見せたくなる。言われるようにまた外に出て湯を沸かし、身体をこざっぱりとさせることにした。彼は窯から陶器を出すことに専念しているようで、京湖の行動をチェックすることはなかった。


 桶の中の湯で顔を洗い髪も洗った。荒い布で手足もこする。濁った湯を何度も換えて体中をこすり上げる。こざっぱりした後、荷物の袋から、唯一の美しい衣と玉の腕輪を出して身に着ける。胸に手を置き、深呼吸して男の様子を伺うと、彼は陶器をすべて出してしまったようで、窯の入り口に木の板で蓋をしている。


「あの……」


 京湖の声に、振り向いた男は彼女の姿にアッと声をあげる。月明かりが彼女を照らしている。明るいミルクチョコレート色の肌は輝き、大きな黒い瞳は潤んで光る。濡れた髪は豊かに波打っている。時間が止まったように二人は見つめ合った。先に言葉を発したのは男だった。


「あなたは……。ラージハニ様?」

「わたしを知ってるの?」

「ええ。先日陶器の買い付けの商人から噂を聞きました」

「こんなとこにも……」


 愚かにも正体を現してしまったことを後悔する。彼が自分を都に連れていけば、莫大な報奨金を得られることだろう。


「しばらくはここで匿えると思いますが……」

「え? 」


 意外な言葉に耳を疑って聞き返す。


「あの、わかってるでしょう? 匿うって……」

「あなた様のお父様の政治は素晴らしかった。皆、あなたの味方だと思います。今の大臣は……」

「そうね……」


 高潔な父と違い、欲深い一族が今政権を得ている。このままでは国民は重税に苦しむことになるだろう。


「一緒に行きますか? 陶器の検品と手入れを終えたら行商に出ます」

「行商?」

「隣の中華国にも行くつもりです」

「東国へ……」

「とにかく今日はもう寝るといいでしょう」

「ありがとう」


 久しぶりにぐっすり眠ったと身体を起こす。小屋の外に出て、男の姿を探したがなかった。


「やっぱり、気が変わって通報しに行ったのかしら……」


 不安な気持ちで小屋の周りをうろつき、ふと焼き窯に目が向く。山土で作られた小高い窯は肌色で触るとざらついていてほんのり暖かかった。窯の入り口に目をやると、足が出ているのが見えた。どうやら男は窯の中で眠ったらしい。

 ほっと胸をなでおろし、窯の中を覗く。薄暗い空間を目を凝らしてみているとぼんやり中が見えた。


「結構広いのね」


 男を起こさないようにそっと入ってみた。暖かく安心感のある空間だ。じっとうずくまっている自分がまるで胎児になって母親の腹の中で永年の安眠を得ている錯覚を起こす。じっと何もせず、話さすこともなく過ごす時間は穏やかで安らいだ。


「退屈じゃないですか?」


 声を掛けられてハッと声のほうを向くと男が体を起こしていた。


「不思議ね。窯の中って落ち着くのね」

「ええ。窯は母の胎内ともいわれてます。作品を生み出す場所でもありますから」

「そうなのね」

「今、粥でも作りますから」


 男が窯から出たので京湖も後に続いた。


 食事がすむと男は陶器の傷の有無や割れなどを調べる。京湖も何か手伝いたいと申し出ると男は嬉しそうに、陶器のざらつきを砥石でそっととってほしいと頼まれた。陶器はすべて日用雑器で大きさが色々な碗が多かった。壷なども作るが、今回は遠出をするつもりだったので、重なる碗を数多く作ったということだった。


「ラージハニ様は中華国に行ったことはありますか?」

「いいえ。国から出たことはないの。ところで様はつけないでわたしはもう乞食同然なのよ」

「では、これから中華国に行くことですし、京湖とお呼びします」

「京湖?」

「あなたの名前を漢風にしてみました。都の湖という名前です」

「綺麗な名前ね。あなたの漢名は?」

「彰浩。朱彰浩です」

「彰浩。京湖」


 新しい名前を得て嬉しくて何度かつぶやいた。


「夫婦だと国を出やすいので、名を聞かれたら、朱京湖と答えてください」

「わかったわ。でもその言葉遣いはやめて。夫らしくないわ」


 笑う京湖に彰浩は「あ、そうですね」とまた答えた。


「お互いに練習が必要ね」


 しばらく時間がかかったが言葉の変化とともに二人のかかわりも変化していった。


 辺鄙な町の国境は検問が緩く、彰浩と京湖はすんなり国を出ることができた。荷車にめい一杯積んだ陶器を見て兵士は「稼いで来いよ」と声援とともに見送ってくれる。顔の汚れた京湖をちらっと見て「もう少し楽をさせてやれよ」といたわる兵士もいる。恥ずかしいと思いながらも、京湖はまだまだこの国の人たちの温かい気持ちに触れることができ嬉しかった。

 国を出た時、京湖は振り返って石造りの大きな関所をみる。壁面には巨大な仏が何体かほられている。


「お守りください」


 仏に祈り、新たに中華国の土を踏みしめた。荷車は重いのでゆっくりゆっくりと進んでいく。押している京湖に彰浩が「少しあの木陰で休憩しよう」と休ませてくれた。


「足手まといよね……」

「そんなことはない。助かってるよ。もう少しすると最初の町に着くから、そこで今夜は休もう」


 休んだのちまた黙々と荷車を押して歩く。このような肉体労働をしたことがなかったが、京湖は楽しかった。小さな町に着くと彰浩はまず宿を探した。宿屋の主人は夫婦だということで、当然のように一部屋用意する。


「俺は床で寝るから、京湖が寝台を使うと良い」

「そんな。疲れてるだろうから寝台で寝て」

「平気だ。窯の中でも寝られるくらいだし」


 夫婦といっても形式なので彰浩は京湖に遠慮する。


「彰浩。わたしたち本当の夫婦にはなれないかしら」


 背を向ける彰浩に京湖はそっと頬を寄せる。後ろからすっと細い腕をまわし、彰浩のたくましい胸を撫でる。


「だめだ。そういうつもりじゃない」

「わたしは、あの、そういうつもりだわ。きっと会った時からそうしたいと思ってた」

「京湖……」


 大臣の娘である京湖は、幼いころから性愛について学んでいて、夫と決めた相手には情欲を隠さない。すっと彰浩に向かい合わせとなり、唇を突き出し口づけをねだる。彼女の情熱的でセクシーな誘惑をはねつけることのできる男はいないだろう。

 濡れたような紅い唇に彰浩は自分の唇を重ねた。


「彰浩、寝台に行きましょう」


 京湖は彼の手を取り、微笑みながら寝台へと腰掛ける。並んで座り京湖は彼の肩から腕を何度も撫でる。


「陶工はとても逞しいのね」

「あ、ああ。力仕事も多いから」


 緊張を隠せない彰浩に、京湖は大胆に胸の中に飛び込む。


「妻にしてほしいわ……」


 ごくりと彰浩の喉が鳴る音が聞こえ、京湖はそのまま彼の胸の早まる鼓動を聞いた。


 夫婦となった二人はどんな生活になっても寄り添いあっていきたいと願う。京湖は最愛の夫を得て、無上の喜びを感じていた。たとえ国に帰ることができなくても、彼さえいればそこが京湖の生きる場所だった。


 

37 星

 星羅がロバの明々の綱を引き散歩させているところに京樹が帰ってきた。


「京にい、おかえり」

「ただいま」


 明々も「ホヒィ」と鳴く。


「今日ね。この王朝の高祖について学んだの。分裂したこの華夏を統一するためにね色々な戦略やら、工夫などがあってね――」


 学んだ内容が面白かったのか、いつも快活でよく話す星羅はさらにおしゃべりになっている。


「よほど高祖が気に入ったみたいだね」

「ええ、策略もすごくて本当に非凡な方だわ」


 どうやらとても尊敬に値する人物になっているようで、星羅は心酔している。何かにいつも夢中になる活力のある星羅を京樹はとても好ましく思っている。彫が深く表情もはっきりしている民族である京樹は、意外にも内向的で物静かだった。父の彰浩に似たのか物静かで、一つのことに集中して探求するタイプのようだ。行動的で明るい星羅と違って、長考してじっと動かない。その資質は、太極府の星読みとして大いに力を発揮するのだった。

 2人の性格の違いのおかげか、二卵性双生児のような育ち方をしているのに、兄妹げんかをすることはなかった。活動的な星羅に、静かな京樹が見守り役のようだった。


「さあ、帰ろう」

「そうね。今日は咖哩よ!」

「ん。さっきいい香りがしてた」

「かあさまの作る咖哩は最高ね」


 さっきまで熱心に勉強の話をしていたかと思うと、星羅はもう食事のことに目が向いている。恐らく入っているだろうスパイスの名前を羅列し始める。次から次へ好奇心を発揮するような彼女の姿は、京樹にはない感情なので見ていて楽しい。


「明々も帰りましょ」


 年老いて緩慢な動きをするロバの明々を小屋に入れると、空には一番星が輝いていた。


「今日も綺麗な星」

「ああ、そうだな」


 空を見ながら単純にきれいだと感想を言う星羅と違い、京樹は星の瞬きと色、見える位置を観察している。


「そろそろ僕は夜に太極府に行くようになるかもしれない」

「そうなの?」

「星は夜にみえるからね」

「そっかあ」


 学舎でまだ学生である星羅と違って、京樹はすでに占い師見習いとしての職を得ている。太極府の最高責任者である陳老師から、京樹を占い師として太極府へ来てほしいと言われたとき、彰浩も京湖も反対はしなかった。しかし占い師であった親友の胡晶鈴が、能力をなくして太極府を追われたことを知っているので不安だった。

陳老師が言うには、京樹は星読みとして知識と洞察力を要求されるため、能力をなくすことはないと教えられた。確かに突然、占えなくなるのは偶然性を使って占う卜術の占い師たちだった。それでも心から京樹の太極府入りを心から喜ぶことはできなかったようだ。


 京樹も、もちろん星羅も今は胡晶鈴のこと、京湖の出自やこれまでのことは理解していた。かといって何かをどうする事もできない。請われるまま、太極府で京樹は占星学に励んでいる。彼自身はこの仕事は自分に合っていると感じており、星を見ることは好きだった。


「空の星も、地の星も……」


 一番星と星羅を交互に見る。どちらも輝いていると京樹は心を温かくしていた。



38 想像 

 家族4人で食卓を囲み、いつまでも続いてほしいと願う団らんの中、京樹から、これから夕方から明け方にかけて太極府に通うようになり、そのうち太極府の寮に入るかもしれないと話を聞かされた。今までの生活が変わっていくのかもしれないと京湖は不安を覚えたが、京樹には明るい未来が見えているのか明るい表情だ。京湖はふと息子の京樹の、星羅に対するまなざしが特別のものに感じる。兄妹として互いに思いやりを持ち合う仲の良さはあったが、今夜は特別京樹が星羅に対して優しい気がする。


「ほら、また口の端に咖哩のつゆがついてるよ」

「えー、どこどこ」

「ほらここだよ」


 胸元から出した、手ぬぐいで京樹は星羅の口元をぬぐう。


「どうして京にいはつかないのかしらね」

「さあね」


 他愛もないやり取りなのに兄妹のそれとは違うように感じる。2人はお互いが兄妹でないことを知っているが、兄妹として育っている。いつか男女の情が湧いてもおかしくないかもしれない。京湖は、二人が良ければ大人になって結ばれてもよいと思った。同じ年なら女の子のほうが恋愛に対して早熟なのではと思うが、星羅のほうは全くその気配がない。京樹と星羅が結ばれて、孫の世話をすることを想像して思わず京湖は笑んでいた。


「どうかしたのか?」


 気づくと夫の彰浩が見つめていた。出会ったころから変わることのない誠実で優しい目だった。


「ううん。今とても幸せだと思って」

「そうか」


 大臣の娘として甘やかされ、何不自由なく天真爛漫に育ち、自分の両親、兄姉たちにも可愛がられた京湖は、誰かに依存することも執着することもなかった。国から逃げ出した後も、国の家族を恋しく思ったことはなかった。しかしこの今の家族だけは失いたくないと思っている。

 いつの間にか、鍋がすっかり空になり食器が下げられていた。


「かあさま。茶乳をどうぞ」


 京湖のまえに、すっと星羅が甘い香りを放つヤギの乳を入れた紅茶を差し出した。朱家では咖哩を食べた後はこの甘い茶乳と呼ばれる飲み物を楽しむ。砂糖は貴重なのでこの飲み物に少しだけ入っている。


「上手に淹れられるようになったのね」

「ほんと?」

「とっても美味しいわ」


 この温かくほんのり甘い幸福感をいつまでも味わっていたい京湖だった。




 星羅はまとめて結い上げた髪のリボンをほどき頭を振った。絹糸より滑らかで黒い豊かな髪の中に指を入れすっと梳く。満足した一日だったと、靴を脱いでごろっと寝台に横たわる。今日の歴史の授業はとても面白かった。


「絹枝老師の説明はとても分かりやすかったわ」


 学舎では星羅の母の友人である陸慶明の妻、絹枝に学んでいる。彼女は物静かで理性的で穏やかな人である。授業に熱心な星羅をかわいがっていてくれた。

 学舎にきているのは王族や官僚の娘が多いが、彼女たちは親に入れられ適当に学問を修めているだけでやる気があるわけではなかった。向学心があるのは星羅などの庶民の娘であった。星羅は、陸慶明の推薦で学舎にいるので完全に庶民といった風でもなく、かといって官僚の娘でもなく微妙な位置にいる。そのせいか何組かある女子のグループには所属していなかった。そのおかげか、煩わされることなく勉学に励むことができている。


「特に逆境を好機に変えたことがすごかったな」


 高祖のエピソードを思い出し、星羅は胸がわくわくしている。


「わたしにもいつか大きな壁がやってくるかな」


 英雄譚はまだまだ星羅にとって夢物語のようだった。しかし星羅は二人の母と違う気質を育てていくことになる。

 育ての母、京湖が自分に降りかかったことを生みの母、胡晶鈴に起こると彼女はどうするだろうかと話したことがある。京湖曰く「晶鈴は受け入れる」とのことだ。私は逃げてしまったけど、と京湖は申し訳なさそうにつぶやいた。

 星羅は、相手の男に立ち向かい戦いたいと思ったが、それを京湖に伝えることはしなかった。


39 殺意


 陸家の使用人頭である春衣は、最近この屋敷によく招かれる客である朱星羅に心をざわつかされている。主人である陸慶明が、星羅の生みの母である胡晶鈴を好いていたことは知っている。そのことを春衣と慶明は二人の秘め事のように隠してきた。慶明に恋してきた春衣のささやかな、彼の妻、絹枝に対する優位な事柄である。

 最初の主人だった胡晶鈴のことは尊敬の念もあり、彼女が別の男を愛していたようなので恋敵ではない。気に入らないのは後から出てきた絹枝だ。


 若いころの春衣の夢は、晶鈴が慶明と結ばれそのうちに妾にでもなれたらというものだった。医局長である陸慶明なら、正室に加え側室の一人や二人ぐらいいてもおかしくはなかった。春衣の夢は叶うことがなかったが、大それたものではない。

 慶明が絹枝を大事に丁寧に扱っているのはわかるが、それだけだ。彼の心はいまも晶鈴に向いている。共通の秘密をもつことで親密になり、慶明が自分を好いてくれるのではと期待した。しかし期待はある意味叶い、ある意味裏切られる。


 ここ12年で春衣は使用人頭となり、十分な評価と報酬と信頼を得ている。つまらない男にすがってでも生きるしかできなかった母親とは、まるで別の生き方だった。自立したいと願っていたのは嘘ではないが、慶明の愛を得たいのも事実だ。


「まさか、星羅さんを晶鈴さまの身代わりにする気じゃ……」


 女教師である絹枝が、私物の書籍を見せるべく、勉強熱心な星羅をここに招き始めて数か月になる。忙しい慶明はすぐに星羅と顔を合わせることはなかったが、一度合わせると、うまい具合に都合を合わせ星羅が来ると屋敷に帰っていたりする。時には絹枝と星羅に交じって書物について話し合っていることもある。


「慶明さまの目つきが尋常ではなかった……」


 熱く燃えるようなまなざしを、少女に向けているのだ。自分に対しても、もちろん絹枝に対してもそのような視線を送っているところを見たことがない。絹枝はそういう男女の機微に疎いのか、慶明の星羅に対する熱視線に気づかないようだ。


「学問だけの女だもの」


 家事も、使用人に対する采配も絹枝は不得意のようで、今ではこの陸家を取り仕切っているのは春衣であるともいえる。


「あんな小娘に……」


 愛されていない形だけの絹枝は敵ではなかった。尊敬していた晶鈴の娘、星羅が強敵になって登場してきた。もう2,3年もすれば星羅は少女から花が咲き誇るような麗しい乙女となるだろう。その時に慶明が星羅に対してどう出ていくかわからない。星羅の育ての親は、慶明の口利きで都での生活が安定しているのだ。実の親子でないなら余計に、星羅を側室にと求められたら家族は拒むことはない。聡明そうな星羅も、正室の絹枝と仲が良いようなので嫌がらずに輿入れするかもしれない。


「こっちは老いる一方だというのに……」


 かさついた指先を見てこすり合わせ唇をかむ。


「早すぎてもだめだし、遅すぎてもだめ」 


 医局長で薬品のスペシャリストである慶明のそばに仕えているおかげで、春衣も薬草に詳しくなった。もちろん毒草にもだ。即効性のあるものも遅効性のあるものもよくわかっている。さらに容易に手に入れることができる。

 慶明が星羅を女として欲する前になんとかしなければと、春衣は手筈を整え始めた。

 


40 陸家

 星羅が陸家に出入りするようになると、教師の絹枝だけではなく、彼女の夫である陸慶明と息子の陸明樹にもよく顔を合わせるようになった。

 池のほとりの東屋で陸慶明は若いころは晶鈴によく世話になっていたと話してくれた。育ての母、朱京湖も知らない晶鈴のことを知っている彼に、星羅は熱心に話を聞く。


「それで、慶おじさまはその薬をどうしたんですか?」

「晶鈴の占いを信じなかったばっかりに、飲んで腹を下したよ」

「へえ!」

「それからは晶鈴の占いを一度も疑ったことがないんだ」


 陽気もよく、庭を眺めながら話が尽きないような雰囲気の中、書物を持ってきた絹枝が声を掛ける。


「あら、あなた。星羅さんの相手をしてくれていたの?」

「ああ、ちょっとだけね」

「今おじさまから母の話を聞いていたんです」

「ああ、晶鈴さんの。お会いしたことはなかったけど太極府では抜群の的中率だったらしいわね」


 こほんと咳払いをして慶明は席を立つ。


「では、私はこれで。いつでも気軽に遊びにおいで」

「ありがとうございます」


 去っていく後姿をすこし眺めて、星羅は絹枝の持ってきた書物に目を走らせる。学舎の図書室は古代思想家の哲学書と歴史書しかなかったが、絹枝は兵法書を所持している。


「これは高祖がわかりやすく書き直したものなんですよね」

「ええ。こっちは写本だけど本書は王宮図書館にあるの。それはもう保管されるだけの代物ね」

「じゃあまた写させてもらいます」


 星羅は布袋から筆巻きと竹の書簡をとりだし机に広げる。


「墨はここにあるから」


 絹枝はことりと墨壺を机に乗せる。絹枝には庭を愛でる趣味はあまりないらしく、何の花が咲いているのかも知らない。勉強がしやすい環境が大事だった。今日は室内よりも屋外のほうが程よい気温で、湿度もあり筆を走らせるのによいと思っている。星羅が写している間、絹枝は授業の進め方について考察し、メモを残している。さらさらと筆が静かに進む音だけが流れる穏やかな時間だった。


 それを打ち破るような春衣の声が聞こえた。


「ぼっちゃま、おまちください!」

「ほっといてくれて平気だから」


 賑やかなほうに目を向けると、陸家の長男、明樹が髪を振り乱し走ってこちらにやってきた。3つばかり年上の彼は、慶明によく似て背が高く、日焼けした肌は健康的だ。艶のある黒い髪はウエーブがかかっていて華やかに見える。


「お母さまただいま。やあ星羅」

「明樹さん幞頭はどうしたの?」


 髪をまとめ上げる赤い頭巾を懐から出し、「剣先が当たって破れちゃったんだ」と机に置いた。


「え? 剣先が頭に?」


 ぎょっとする絹枝に「実践じゃなくて型の稽古だから心配ないよ」と笑って手を振る。後ろに立っている渋い顔をした春衣にその頭巾を渡す。


「というわけで、縫っておいて」

「今はどうなさるんです? そんな好き放題の頭で」

「ん? これはこれで楽だからなあ」

「奥様からもおっしゃってください。身なりをもっときちんとする様にと」

「ああ、そうね。明樹さん、春衣の言うとおりになさい」

「へいへい。じゃ部屋に戻る。またな星羅」


 父の慶明も、母の絹枝も明樹にはあまり口やかましくないようで、彼は自由気ままに明るい性格をしている。使用人頭の春衣が一番熱心にあれやこれやと世話を焼いているのだ。

 口笛を吹きながら部屋に戻る明樹を、春衣が追いかけて去っていった。


「誰に似たのか騒がしいわね、明樹さんは」

「いえ、明兄さまはご学友にも人気で、私たちのあこがれの人でもありますよ」

「あら、そうなの? 気づかなかったわ」

「剣術がとても見事で」

「まあまあ。本当に誰に似たのか……」


 インテリ家系のはずなのに明樹は学問よりも剣術、武術に秀でていた。将来は父親のように医局へ入るか、母親のように教師になるかと幼いころは期待されていたが、明樹本人は武官を目指している。


「今は大きな戦もないのにねえ」


 明樹が武官を目指していることを星羅も知っていて、彼の希望には肯定的な感情があった。絹枝は親の後を継がぬとも、せめて文官を目指してほしかった。幼いころに机に座らせすぎたのがいけなかったのかと、愚痴をこぼす。


「きっと明兄さまには、絹枝老師のようなかたが奥方になるんですよ」


 絹枝の気持ちを慮って前向きな意見を述べる星羅に、その手があったと絹枝は顔を明るくした。


「そうね、そうね」


 目の前の学問に熱心で素直で明るいこの少女がいると絹枝がひそかに考え始めたことを、星羅は何も気づかなかった。

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