第3話
21 陶工夫婦
宿屋に住まいが見つかるまで滞在させてほしいと頼むと、主人は快く承知してくれた。前払いできちんと部屋代を支払う上客の晶鈴を断るはずがなかった。行き交う人は多くても、案外宿にちゃんと泊まるものが少ないらしく、部屋が完全に埋まることがないらしい。一番奥まって静かな部屋を選ばせてもらった。ロバの明々も一所に落ち着く気配を感じたのか、のんびりした顔がさらに間延びしている。
「たまに散歩させなきゃいけないわね」
馬小屋に預けっぱなしもよくないだろうと、朝、一緒に出勤することにした。都に比べると勿論小さい町だが、活気はすさまじい。洗練されていてシックな都とは違い、サイケデリックなカラフルさとモードがある。
用意した紺色の布を小さな丸い机に掛け、座って客を待つ。隣ではロバの明々がのんびり草を食べている。前を通り過ぎる人は多く、チラチラ晶鈴を見るが腰掛ける者はいない。
「そりゃあ。そんなに占いが必要な人もいないわよね」
半日じっと座っていたが誰も来ない。こんなものかと思っていると、ロバの明々とは逆隣から声がかかった。
「あの、占い師さん?」
声のほうを向くと、滑らかで甘栗のような艶やかな茶色の肌に、黒い眉と瞳を持つ女性が微笑んでいる。彼女の隣には重ねられた白い器が大量にある。
「え、ええ。あなたは陶工?」
「うふふ。主人がね。私は店番なの。どうせこのおなかじゃ身動き取れないし」
「あら、お仲間ね」
「まあ! 子供たち同い年になるわね」
「そうね」
お互い自己紹介をする。彼女は朱京湖と名乗り、もっともっと南方から来たのだという。おっとりした雰囲気がなんだか曹隆明を思わせ懐かしさと親しみを感じた。そのうち彼女の夫が帰ってきた。がっしりとした体格に鋭いまなざしを持ち、やはり南方出身なのであろう、浅黒い肌に墨のような黒い髪と瞳を持っている。
「あなた、占い師の胡晶鈴さんよ。お友達になったの」
「はじめまして」
男はじっと一瞬晶鈴を見据えた後名乗る。
「朱彰浩と申す」
一言だけだった。ぶっきらぼうな雰囲気だが、悪意も敵意も感じられないので晶鈴はとくに悪い印象も持たなかった。
「一人で平気だったか?」
「ええ」
朱彰浩は妻の京湖には優しいまなざしを向け、そっと頬と腹をなでる。愛情深い様子に晶鈴は好感を抱いた。
「ねえあなた。晶鈴さんもお住まいを探しているのですって」
「ああ、そのことだが。町の外に大きな空き家があるらしい」
「まあ大きいほうがいいわよね。町の中じゃ窯も焚けないし」
「うん。都合は良いんだが少しばかり金が足りないのだ」
「そうなのね……」
2人の話を聞きながら、晶鈴は「あのー」と声をかける。
「その家は、部屋数は多いのかしら」
「2家族住んでいたようだから、部屋数も広さもある」
「私もそこへ住まわせてもらえないかしら。不足分を支払うから」
「え? し、しかし……」
突然の提案に、もちろん朱彰浩は戸惑う。妻の京湖が明るく「いいんじゃないかしら」と夫の手を取った。
「晶鈴さんもお子が生まれるし、ここに着いたばかりみたいなの。私たちとおなじだわ」
朱彰浩は勿論警戒している。会ったその日に一緒に住もうというのだから当然だと晶鈴も思うし、自分もなぜそんなことを言い出したのかわからない。
「あの、これを」
晶鈴は身分証ともいえる通行手形を見せる。
「読めるかしら?」
「ああ、大丈夫だ」
朱彰浩は手形を見て、頷いた後、京湖にも見せる。
「すごいのね」
嬉しそうに言う彼女に「いえ、『元』だから」と、恥ずかしそうに言いながら、そうだとまた陸慶明の札も見せる。
「これがあると薬屋と役所に融通が利くと思う」
「ふーむ」
「あなた、こんなにすごい方と出会えるなんて何かの縁よ」
慶明のおかげでさらに晶鈴の株が上がる。
「もっと私のこと、話したほうがいいかしら……」
どうしてここにいるのか、子供の父親は誰かなのど疑問に思われることは多いだろう。
「いや、いい。妻がこんなに親しみを覚える人も早々にいないだろう。怪しんですまなかった」
「当然のことだと思うわ」
こうして3人は共同生活を行うことになった。
22 穏やかな日々
晶鈴は身支度をすると町へ行き占いをする。客は2,3日に一人くらいだった。それでも十分な稼ぎとなった。辺境の町の占い師は、来た時に観てもらった金髪碧眼のカード使いと、小麦色の肌と灰色の髪をもちサイコロを振るもの、赤茶けた波打つ髪を持つ青白い顔色の振り子占い師と、流雲石をつかう晶鈴の4人だ。
4人は東西南北にそれぞれ分かれて商売をし、客層がかぶることもなく、奪い合うこともないので競争心はわかなかった。むしろ気の合う仲間として、時々食堂で一緒に集まる仲間になっていた。太極府と違う占い師たちに晶鈴は刺激されていた。
「みんな卜術なのね。命術の占い師がいないって面白いものね」
太極府では晶鈴のように偶然性を必然として使う占い師のようなタイプよりも、星の動きや生まれた日時で占う方法のほうが圧倒的に多かった。
「あら、あたしは手相も観るわよ」
赤毛の振り子占い師は大きな手のひらを見せる。晶鈴も自分の手のひらを思わず見ると、微妙に手のひらの線が違うことに気づいた。
「ほんと。この筋ってみんな違うのねえ」
感心している晶鈴に金髪のカード使いが「手相も卜術とかわらないでしょ」と大げさな笑顔を見せる。灰色の髪を持つサイコロ振りが静かだがよく通る声で発言する。
「近未来を観るのに卜術のほうが的中率が高いから。宿命がある人間はそうざらにない。運命は心がけ次第で変わるから」
「そうそう。考え方ひとつで天国にも地獄にも変わるものよ」
「へえ」
天国や地獄、神や仏、いろいろな話を聞けるこの占い師の集まりは晶鈴にとって刺激的だった。
「そうだ。そろそろ産休に入ることにするの。また復帰するときはよろしくね」
晶鈴はそろそろ来月、産み月に入る。
「そうかい。元気な子を産みな」
「がんばって」
「仕事がなくなることはないからいつでも帰ってくるといい」
流れ者の多い町では、だれも事情を聞かないし、詮索もしない。それでも付き合いやすく、親切で明るかった。情報通である彼女たちは一番赤ん坊を取り上げるのが上手な産婆も教えてくれた。
ロバの明々を伴って夕方、関所が閉まってしまう前に町を出た。顔見知りになった兵士は「気を付けてな」と声をかけてくる。
「またね」
宵の明星を眺めながら家路につく晶鈴は、生まれてくる子どもに『星』の字を使おうと考えていた。
馬のいない馬小屋にロバの明々を入れ、水を汲みに井戸へ向かった。ちょうど朱彰浩が手を洗いにやってきていた。
「ただいま」
「おかえり。水は俺が運ぶ」
「ううん。いいわよ」
「いや、もう臨月だろ。無理しなくていい」
「ありがと。じゃあお願いするわ」
ぶっきら棒だが親切な朱彰浩の厚意に甘えることにした。自分の小屋に行く前に、京湖の顔を見に行く。
「京湖さん、ただいま」
「おかえりなさい。今日はどうだった?」
「まあまあかしら。みんなには明日から休むって言ってきたの」
「そろそろ身動きが取れにくくなってきたわよねえ」
「ね」
わずかに京湖の腹のほうが大きく、予定日は彼女のほうが早そうだ。
「ご主人に色々お世話になって申し訳ないわ」
「あら、こちらこそ。お互い様よ」
世間話をすこしして晶鈴は帰った。寝台に腰掛け腹を撫でると、内側からぽこぽこと蹴られた。
「アタタ。なかなか強くけるのねえ。男の子かしら? 京湖さんは女の子かもしれないわ」
楽しみのような不安のような怖いような複雑な気持ちが駆け巡る。いろんな思いをすることに晶鈴は不思議な心持だ。占い師たちの言葉を思い出す。
『運命は心がけ次第で変わる』『考え方ひとつで天国にも地獄にも変わる』
自分の人生は自分で切り開いていくものなのかと肝に銘じて晶鈴は目を閉じた。
しばらくのんびりとした日々を送る。京湖と一緒に赤ん坊の産着を縫い、寝かせる籠も編んだ。朱彰浩は朝から晩まで忙しく窯を作り、やっと完成したところだった。今はその窯で焼く器を制作している。
京湖と二人で彰浩が稼働する円盤を蹴って回す、ロクロの作業を眺める。粘土の塊がぬるぬると伸び縮みし、収まり、鉢や壺になった。
「面白いわねえ」
「今度やってみたら?」
「ううん。見てるだけでいいわ」
朴訥とした彼から、優しい陶器が生み出されるのを見ていると晶鈴は心から和む。作品が窯に一杯になったら三日三晩不眠不休で焚くそうだ。
「不眠不休なの?」
「ええ。火を絶やせないから」
「焚くのって難しいのかしら。難しくないならお手伝いするけど」
「難しくはないのだけれど、温度がすごいのよ」
「そんなに?」
詳しく聞いていると、鉄さえも溶けるという相当の高温らしく晶鈴には想像のつかない温度だった。
「ちょっと怖いわね」
「せめて子供が落ち着くまではやめておいたほうがいいと思うわ」
安穏とした日々はそろそろ終わりを迎える。とうとう二人が母になる日が近づいてきた。
23 新しい命
もう間もなく京湖から新しい命が誕生する。真夜中に産気づいた彼女のために、朱彰浩はいそぎ町へと向かった。真夜中の訪問者に関所の兵士は尋問するが、晶鈴の通行証と、薬師の陸慶明の札が役に立ちすぐに通してくれた。更には馬車も融通され、素早く産婆を連れ戻ることができた。
「もう少しでごじゃいましゅよぉ」
しわくちゃの年を取った産婆が、悲鳴とうめき声をあげる京湖をなだめるように声をかける。
「頑張って!」
晶鈴は自分の手を血がにじむほど強く爪を立て握る京湖を励ます。夫の彰浩は外でうろうろと落ち着きなく待つだけだった。一刻で赤ん坊が大きな産声とともに誕生した。
「生まれたわ!」
感動に震えながら、晶鈴は外の朱彰浩に声をかけた。彼は勢いよく転がり込むように中に入ってきた。
「あなた……。男の子よ」
普段も優美な京湖はさらに、かがやくような笑顔を見せる。
「そうか。息子か」
放心状態で彰浩は母子を見つめた。お湯で綺麗にされた赤ん坊にさっそく乳を含ませる。温かく和んだ空気が流れる。安堵もつかの間「こりゃいかん!」と産婆が声を荒げる。その声にハッとし晶鈴も破水していることに気づき、痛みを感じる。
「う、ううっ、うぅ」
「と、隣へ。あんたはまた外で湯を沸かして」
「わ、わかったっ」
息つく間もなく朱彰浩は急ぎ外へ飛び出した。腰を押さえながら呻き、晶鈴は京湖の隣に横たわる。
「ごめ、ん。邪魔しちゃって――」
「気にしないで、今度は自分のことだけ考えて!」
母となった京湖は力強い瞳で見つめ、晶鈴がしたように彼女も強く手を握った。脇に赤ん坊を抱えたまま。
「もう、頭が出とる! いきみなされ!」
「くうううっ――」
「ほれ! もうちょい!」
「あああっ!」
「――!」
またまた激しく大きな産声が小屋を震わせる。外で湯を沸かしていた彰浩の耳にも届く。
「これはまた元気の良い女の子で」
痛みから一気に解放され晶鈴も喜びに包まれる。声にならないまま赤ん坊を抱く。仲良く並んだ晶鈴と京湖はうるんだ瞳と喜びを交換し合う。
「あっという間でございましたなぁ。まるで双子のようでございましゅよ」
安産ではあったが、二人取り上げるということは大変なことのようで、老婆は随分疲労したようだった。
「これを……」
彰浩が礼金の入った小袋を渡す。
「こりゃあ、どうも」
頭を下げて恭しく受け取ると、老婆の疲労が少し軽減されたようだった。
「ありがとう、おばあさん」
「なんの、なんの。まあしかしこうも同じ時間帯に生まれるとは……」
ちらっと彰浩を見上げて「まあ、そういうこともあろうか」と納得したように頷く。
「町へ送ってくる」
彰浩はもう一度赤ん坊の顔を覗き込み、満足した様子で老婆と外へ出ていった。
京湖はくすっと笑って「産婆のおばあさん、きっと誤解してるわね」と晶鈴の赤ん坊を見つめた。
「何を?」
「きっと晶鈴のことも、夫人だと思ったのよ」
「え、あら、困るわね。気を悪くしないでね」
「ううん、全然。あなたと姉妹のようで嬉しいわ」
「ありがとう。私も京湖を姉のように思うわ」
出産を機にますます友情が深まる二人だった。
「この子たちが仲良く育つといいわね」
「ええ、本当の兄と妹のように」
心から明るく願う晶鈴に、一瞬表情に陰りを見せる京湖は「そうね、そうね」と自分自身に言い聞かせていた。夜明け間近の空には星が二つ輝いている。
24 新薬の開発
薬師の陸慶明は、最近手に入れた異国の薬草の効果を自分で試してみていた。身体に害はないだろう。爽やかでスーッと抜ける清涼感を持つ香りがあたり一面に込められている。椀の中の薬湯の水面を眺め、ふうっと息を吐きだしてから一気に飲んだ。後味もすっきりとして悪くなかった。
「晶鈴……」
薬問屋の男から、薬草とともに胡晶鈴の名前が出てくるとは思わなかった。手紙一つよこさず、心配で彼女の故郷に人をやって探させたが帰っていなかった。薬問屋の話では彼女は故郷に向かっているということだが、気まぐれを起こさないとも限らない。また彼女に出会うことがあれば、手紙を書くように伝えてほしいと頼み、さらにどこにいたか、教えてほしいと二重に頼む。しかしこの広い国土で、一度見失えば砂の中の砂金のように見つけることが難しいだろう。
順調に出世し、経済的にも地位も安定してきた慶明は誰から見ても幸福に見える。物静かな才女である妻に、利発そうな跡取り息子。彼ほど恵まれた人物もそうそういないと一目置かれる存在だった。また慶明は、野心家ではあるものの、貪欲さはなく、気さくな人柄は人に不快感を抱かせることはなかった。努力と精進を怠らぬゆえの出世だと、周囲からも認められアンチは皆無だった。しかし彼の心が常に明るいわけではなかった。虚ろな母といなくなってしまった晶鈴のことが彼を重く沈ませている。
薬湯を飲んで横たわっていると、少しずつ気分が晴れやかになってくることを感じた。現実を生きていない母のことを考えると、いつもよりも苦痛も感じず、何とかなる気がし、晶鈴を想うとまたいつか巡り合えると楽観視できるようになった。
がばっと身体を起こし「やっと完成したのか」と転がっている椀を眺めた。
「いや、このまま2,3日様子を見よう」
調合を確認し、残りの材料を確かめる。十分な量ができるので大丈夫だと安心した。
晶鈴の下女であった春衣が夕餉の支度ができたと慶明を呼びに来た。
「だんな様、今日はなんだか楽しそうですね」
「ん? そうか?」
「ええ、いつもより明るいです」
頬を染め嬉しそうに春衣が慶明を見つめる。慶明はすっと視線をそらし「早くいかねば、夫人と明樹が待ちくたびれてしまうな」と微笑み返した。
すでに食卓で待っている夫人の絹枝は息子の明樹をあやしていた。
「待たせてすまない」
「いえ」
静かに返答する夫人から、明樹を抱き上げ「よーしよーし」とあやす。明樹はキャッキャと明るい声上げ喜んだ。歩き始めた明樹は抱いてやらないとすぐにどこかへ行ってしまう。
「ほらほら、ちゃんと座りなさい。母上が困ってしまうよ」
優しく諭し、明樹を食卓に着かせる。並び始めた青菜に明樹は手を伸ばした。
「お前は、青菜が好きだな」
「あなたの香りに似ているのですよ」
いつもふわりと薬草のにおいが漂う慶明に夫人は静かにほほ笑んだ。
「そうかそうか。父上が好きか」
いつもより機嫌がやはり良いと春衣は慶明の様子を観察していた。慶明と絹枝と明樹の3人をみると、春衣は気持ちが暗くなってくる。彼女は主人である慶明に恋をしていた。彼の妻が晶鈴だったら、このような気持ちにはならないのにと唇をかむ。春衣にしてみると絹枝は新参者なのにさっとやってきて慶明の夫人の座に就いた感覚なのだ。
「わたしのほうが、先に出会っているのに……」
はっと思わずついた言葉に、慌てて周囲を見渡した。
「わたしは何を考えているのかしら……」
身の程をわきまえ、多くを望むつもりはないはずなのに、春衣は胸の奥のほうで何かどす黒いものがうごめている気がした。
絹枝は春衣の気持ちを知ってか知らぬか、彼女を最初から快く思えなかった。慶明が知り合いの使用人を、ここでつかうと春衣を連れてきたときに、直感的に自分の味方にはならないと思った。
従順で気の利く春衣は、使用人の中で頭角を現し、気が付くと直接慶明の世話役になっている。絹枝にも従順な態度をとるが、なんだか角がある。一度、春衣を近くに置きすぎているのではないかと遠回しに言ったことがあるが、慶明は他のものではあまり気が利かないと絹枝の気持ちを察してはもらえなかった。
ふと見ると、春衣は絹枝が指示する前に茶を運ばせている。自分が教壇に立っている間に……。思わず余計な妄想をしてしまう自分が嫌だった。
明樹を抱いてあやす慶明を見ながら、いつまでも家族仲良く過ごせるようにと心から願うばかりだった。
食後も慶明は安定した感情の感覚を実感し、薬の効果を帳面につける。精神に影響する薬を開発するのはこれで10回目だった。今度こそ、うまくいくと実感があった。心を病んでしまった母に効果的だろう。そして、この薬を必要とするもう一人の人物にも。
おそらくこの薬によって慶明の医局長就任は約束されたものになるだろう。
「そうなったらもう少し広い屋敷に移るか……」
ほどほどの広さを保つ屋敷だが、装飾品の類は乏しく、簡素だ。贅沢な趣味はないが、地位が高くなるとそれなりの外見も整えなければならない。夫人の絹枝も飾り立てることをしないので、いつもまとめ上げた髪に、教師である身分を示す翡翠のついたかんざしをさしているだけだった。今度、王族の屋敷に行ったら調度品と装飾を参考にせねばと考えた。
「色々窮屈になるな」
目的を達成していくことによってより、自由が減っている気がする。しかたなく慶明は履物を脱ぎ、足先に自由を感じさせることにした。
25 薬の効果
慶明は出来上がった薬をもって母のもとへ行く。虚ろな母はぼんやりと空を見ながら枕を二つあやしている。使用人を下げ二人きりになり、そっと温かい薬湯を差し出す。
「かあさま。さあ」
「ん? なあに?」
「これ、美味しいですよ」
「んー。あまり飲みたくない」
「そんなこと言わずに」
「んん。じゃあちょっとだけ」
飲んでもらわないと始まらないので、飲む気になった母に安堵する。飲みやすいように甘みをつけているので喜んで飲むはずだった。ごくんごくんと喉を鳴らして母親は飲み切った。ふうっとため息とついて彼女はまた枕を抱いて何やら子守唄を歌う。そのうちに変化が見られ始めた。虚ろな目が慶明を直視し始める。
「慶明? あら、どうしたのかしら。なんだか頭が軽くなったような」
「かあさま……」
「まあまあどうしたの。そんな顔をして」
また正常な母に会えた嬉しさで慶明の表情は崩れる。母親はそっと両手で彼の頬を包み込んだ。
「そろそろ、あなたの兄と妹が亡くなって20年になるのね。かあさまもいつまでもこのままじゃいけないわね。孫の面倒も見なければ」
彼女の中では、時間の経過や現状がどうなっているか理解しているようだった。慶明は自分のこともちゃんと知っていてくれているのだと安堵する。
「そうだよ。かあさま。孫の明樹はおばあさまに会いたいと言ってる」
「まあまあ。あなたに似ているのかしらね? 早く会いたいわ」
「うん。かあさまさえ良ければ都で一緒に暮らしましょう」
「そうねえ。でも、ここから離れたことがないし、何より二人のお墓を見てあげないとね」
寂しそうな笑顔を見せるが、母とまともに会話ができるだけで慶明は満足だった。
「不自由があったらすぐに言って」
「ええ、ええ、そうするわ」
「かあさま……」
思わず抱きしめると「まあまあ、こんなに大きくなったのに甘えん坊ねえ」とまた優しく頬を撫でるのだった。朝になっても母の様子は安定したままで元に戻ってはいなかった。目が覚めた時、なつかしい粥のにおいが漂った。いつもより沢山食べてからまた都に戻ることにした。薬湯はしばらく5日に一度飲ませることで、より効果の安定を図ることができるのは自分で立証していた。3ヵ月続けると、もう薬湯は必要になくなる。
使用人に薬湯の投与を任せようかと考えたが、やはり自分でやることにした。少し前までは多忙を極めていたが、今の出世した慶明にとって、時間の余裕があった。部下も多く持ち、調合さえしておけばどんどん薬は作れるのだ。また母のこの状態をよくするために費やしてきた実験の時間はもう必要にないのだ。
これからはのんびりと医局を運営したり、後進を育てていくことになるだろう。
母親に3か月の投与を続け、容体が安定したことを確認して、次の患者へと向かった。相手は王太子の曹隆明だった。
重々しく美しい私室をそっと眺めながら、隆明の寝台へを恭しく参る。横たわっている隆明は少しやつれてはいるが、それがまた退廃的な美しさになっている。
「お薬の時間でございます」
「もう、そんな時間か……」
重そうに隆明は身体を起こした。彼は国家占い師だった胡晶鈴が都からいなくなってしまったのを機に、心に深いダメージを負ってしまった。陸慶明の母親ほどの壊滅的な状態ではないが、王太子妃の寝室に向かえない。男児を望まれているので、妻の寝室に向かえないことは王族として致命的なことだった。王太子妃が男児を産めなくても、次に来る側室のもとへも通ってもらわねばならない。この王太子の状態は王朝にとって、大きな問題なのだった。
この状態を喜んでいるのは、男児が生まれなければ自分の子である博行が王を継ぐことになるかもしれないと王妃だけはひそかに喜んでいた。博行はすでに夫人を娶り、男児を儲けているのだ。
椀を空け、隆明はそっと口元をぬぐう。その様子を慶明は静かに見守る。そろそろ効果が出るころだと見計らっていると隆明の頬に赤みがさす。
「久しぶりに庭を歩いてみようか」
よし。と慶明は効果を実感する。ずっと屋敷の中でこもっていた隆明が外に出ると言い始めたのだ。
「では、私はこれで……」
下がろうとする慶明に「待て」と隆明は止めた。
「忙しいのか?」
「今はそれほどでも」
「では、付き合え」
「は、御意」
隆明の言葉に勿論逆らうことなく、慶明は彼の後について庭の散策をすることになった。
26 思い出話
今まで気が付かなかったのか、不思議なほど花が咲き乱れていた。四季の移り変わりにもともと敏感なほうではないが、いつの間に春が訪れていたのだろうかと、明るい庭を隆明は見渡した。
胡晶鈴が去ってから、心の中は鉛色で重く沈み、揺れ動かされることはなかった。王太子といっても、政治は王と大臣たちが行い、彼は政の勉強中という身になるので、参加しているわけではなかった。そして王太子妃も彼に打ち解ける風ではなく、義務的な笑顔を見せるばかりだ。生まれた女児が、彼を父親として慕うにはまだまだ時間がかかる。隆明にとって心から打ち解け、親しんだものは晶鈴しかいなかったのだ。
「そなたも晶鈴と親しかったのか?」
「ええ。お互い見習いでしたし、歳も近かったので」
「そうか」
隆明は、薬師の陸慶明を通して晶鈴を懐かしむ。
「晶鈴からそなたのことを聞いたことはなかったな」
「まあ、彼女は占い師ですので、他言はしないのでしょう。もちろん王太子様のことも、まったく話に聞いていませんでしたし」
隆明も慶明も、晶鈴の守秘義務を守る強固な態度に苦笑せざるを得なかった。
「せめて慶明のことでも知っておれば、このような思いはしなかったかもしれないものを」
苦し気に悲し気にしかし美しく笑む隆明に、晶鈴はまこと罪作りだと、慶明は苦笑した。
「でも晶鈴は誰よりも王太子様をお慕いしてました」
「ふふっ。気を使う必要はない」
「そんなつもりは……」
「よいのだ」
のどまで、あなたの子を孕んでいたと言いかけるがぐっと慶明は飲み込む。王朝に混乱を招く真似を自分がするわけにはいかなかった。
「故郷にいるのだろうか」
「恐らくそうでしょう」
隆明の発言に対し、どんどん嘘をつき続けねばならないのかと慶明は心苦しくなってきた。
「そなたは友人のようだし、もし晶鈴から手紙でも届いたら様子でも教えてほしい」
「あ、ええ。まあ晶鈴のことですから筆不精でしょうね」
「ふふふっ。そうかもなあ。まあ良い。付き合わせて悪かったな」
「とんでもありません」
「またよろしく頼む」
「もちろんです。喜んでお供します」
「私はもう少し外の空気を吸うことにしよう」
「では私はこれで」
立ち去る慶明からまた庭に目を移す。色取り取りの花々の美しさや香りに目を奪われるが、ふと晶鈴は花をめでることはしなかったことを思い出す。
女人なら花が好きで部屋に飾るのかと思いきや、香りが邪魔だと言っていた。彼女が嫌いじゃないと言っていた花を目に浮かべる。紫色の桔梗だった。形も星のようで良いらしい。水仙はどうかと尋ねたら香りが強すぎるということだった。
「残念ながら今は咲く季節ではないな」
秋風が吹くころ桔梗は咲き始める。さりげなく静かに咲く桔梗は晶鈴のようだった。
「秋に向けて桔梗をたくさん植えさせるかな」
部屋を出ればすぐに桔梗を鑑賞できるように、庭師に整えさせることにした。それまでは桔梗の代わりに星でも眺めようとまだ明るい空を見上げた。
27 王太子妃と側室
王太子妃に次の子が恵まれぬまま、二人の側室が曹隆明に仕えることとなった。一人は東方の役人の娘で申陽菜といい、もう一人は北西の商人の娘、周茉莉だった。
地方性があるのだろうか、周茉莉は北西の村から来ていた晶鈴に似た栗色の髪と濃い茶色の瞳をしている。また美しいというよりもかわいらしいと思える顔立ちだった。そして隆明は、この北西から来た娘、周茉莉を好むようになる。
妃のもとへ通う順序は、王であっても自由にできない。王太子である隆明も勿論同じで、気に入った妃ができても、彼女たちを平等に扱わねばならなかった。年齢は東から来た申陽菜のほうが一つ年上なので、もしも側室二人に男児が生まれたら、申陽菜の息子が世継ぎとなる。王太子妃の桃華は次の子供の兆候が見られず、太極府の占いによっても望みが薄いと出ていた。できれば確執が生まれないように、申陽菜に男児が生まれてほしいと望まれている。
夜に通うのは規則的な制約があっても、昼間に共に過ごすぶんにはある程度自由があった。国家の行事や、祭りごとなどは王太子妃の桃華を連れ立つ必要があるが、庭を眺めたり、音楽を奏でたりするときには隆明は茉莉をよく伴っていた。
茉莉は歌が得意だった。声の質もよく滑らかで小鳥のさえずりのようだ。池のほとりの東屋で、隆明は「さあ、茉妹よ。歌っておくれ」と袖から横笛をとりだした。
「隆明様。またわたくしを妹とお呼びになって」
「嫌か?」
「まさか。嫌だなんて。でも妻として扱われてない思うと……」
「そのようなことはない。そなたがとてもかわいらしいだけだ」
「それなら……」
機嫌をよくした茉莉は甘い声でさえずるように歌い始める。その歌声に合わせて隆明は笛を吹き添えた。
笛を吹きながら、茉莉に自分を「隆兄さま」とはさすがに呼ばせられないだろうと思った。そこまで彼女を晶鈴の身代わりにしてはいけないことはわかっている。茉莉は晶鈴と同じ北西の出身で顔立ちは抜ているが、やはり中身は全然別だった。
商人である彼女の父は、豪商で羽振りが良かったようで、娘には財産ではなく教養を与えたようだ。前例がないわけではないが、役人以外の娘が、王太子の妃候補に挙がってくることは少なかった。
豪商も豪農も、娘に教養を身につけさせる発想の持ち主がまだまだ少なかったからだ。商売人がそのような教養を身につけようと思うと、周囲から気取り屋と陰口をたたかれることもあるようだ。
茉莉は複数いる兄弟たちの末っ子のおかげで、商人の娘という育ち方ではない養育がなされた。簡単に言えば、父親の跡継ぎはもう決まっているので、彼女に商売のことで期待することは何もなかったのだ。ある意味裕福層の道楽のように、彼女に教養を与えた。
それが王太子の側室に選ばれるという名誉なことになり、父親は調子よく娘をそういう高貴な方へ嫁がせるべく教養を与えたと言い歩いているらしい。
娘が妃になったとしても、直接的な恩恵を受けることはない家族だが、その地方の人々からの注目は必然的に高くなる。特別に地位を与えられることも、権力を得ることもないが、やはりおのずと羽振りは良くなっていくものだった。
王太子妃の桃華は、眠る娘を眺めながら静かに平穏に時間が過ぎていくことを願っている。一度、姉から手紙が届いた。入れ替わった彼女たちは、自分の名前を名乗ることはもうない。妹の李華として届いた手紙には、結婚したのち、息子が生まれつつましいが幸せに暮らしていると書かれてあった。何も問題がないことは良いことだが、自分がこれだけ毎日気を使い、神経をすり減らしているのにと、能天気な姉に怒りを覚えずにはいられなかった。
せっかく美しく聡明で優しい隆明に出会えても、身代わりだということがばれないかと、素直に身を委ねることができないでいる。
「きっと、隆明様は、わたしを無感情なつまらない女だと思っているでしょうね……」
いつか思い切りあなたを愛していると告げ、抱き合えたらなんと素晴らしいことかと、隆明が通ってこない夜は涙を流しながら眠りについていた。
東から来た申陽菜は、細身であっさりとした風貌で髪も細く繊細な美貌だった。彼女は舞が得意で、一たび舞えばまるで風に乗っているような身の軽さを感じさせる。大臣たちからの受けもよく、隆明はこの娘を気に入ると思っていたので、周茉莉を好んでいることは不思議に映っていた。
申陽菜はあっさりとした風情とは逆に、内面は誰よりも情熱的だった。しなやかな肢体を駆使し、隆明の寵愛を得ようとしている。彼女はなかなかの策略家で受け身な性格ではない。王族の診察を行っている、薬師の陸慶明に目をつける。
「なんだか。ちょっとめまいが……」
「あ、陽菜さま……」
よろけるふりをして、陽菜は慶明にしなだれかかる。薬師とはいえ、気軽に触れてはいけないので慶明は慌てて手を取り、寝台に座らせる。彼女の繊細な美貌とふわっとした軽さに、慶明でもドキリとする。
「手を失礼して……」
脈を診るが、貧血などの症状はなかった。心配ないと告げると、陽菜は「そう……」と伏し目がちに答える。考えている慶明に囁くように陽菜は頼みごとをする。
「体臭を甘い香りに変える薬を作っていただけないかしら?」
「体臭、ですか?」
「なんだか閉じ込められているような気分になって気が滅入るわ」
確かに一度後宮に入ったならば、もうこの狭い世界で一生を終えるしかなくなる。
「あなたは新薬を作るのが上手だと聞いてるわよ」
「はあ……」
目的の薬を作り終えている慶明にとって、久しぶりの新薬開発に心が躍る。
「お願いね」
頼りなさげな様子を見せる陽菜の要望に慶明は思わず応えてしまった。
「しばらくお時間をください」
「ええ、待ってますわ」
心の中では、もう一人の側室、茉莉が身ごもる前に早く作れと言いたいところだったが弱々しいほほえみを見せ、慶明を下げさせた。
28 家族
無事子を産んだ後、朱京湖は体力をかなり奪われたようで、しばらく胡晶鈴が二人の赤ん坊の面倒を見た。京湖の夫である朱彰浩は、体調が戻るまで仕事を休み家事をしている。
「面倒をかけてしまってすまない」
「そんなことないわ。こちらも助かっているもの。今はとにかく京湖が元気にならなければね」
「あの札のおかげで、いい薬が手に入っているから、時間の問題だと思う」
薬師の陸慶明の札が役に立ち、薬局で上等な薬を手に入れることが出来ている。晶鈴は都を出る前に、無理やりにでも持たせてくれた札を今はとても感謝していた。
二つ並んだ小さな籠からがさっと音が聞こえすぐに「ふぁうぅー」と赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「あ、目が覚めたみたい」
「京樹のほうか」
「ええ。さきにそっちから乳をやるから、星羅が起きたらあやして待たせて」
「わかった」
晶鈴はそっと彰浩と京湖の息子、京樹を抱き寄せ乳を含ませる。赤子にしてははっきりとした目鼻立ちで、眉も濃く男児らしい力強さがある。吸い付く力は星羅よりもかなり強い。
「京樹は元気ねえ」
ごくごくと飲み、片方の乳房では飽き足らずもう一方の乳房にも吸い付いた。晶鈴は厭わずに、彼が満足するまで乳をのませた。ぷっくりとした唇を離したので、背中をさすりげっぷをさせてからまた籠に戻す。服装を直してから、彰浩に声をかけた。
「たくさん飲んだわ。星羅は?」
「まだ眠ってる。すまない。京樹にばかり……」
彰浩は星羅の分まで飲み干してしまっているような、京樹の様子にすまなそうな顔をする。
「気にしなくていいの。ちゃんと星羅も足りてるのよ。どうやら私は乳がたくさん出る質のようね」
「ありがとう……」
晶鈴は自分でも想像しなかったことだが、母乳がよく出るようで子供二人に十分に与えることができていた。丸々とした健康的な二人の赤ん坊を眺め胸元に手を置き笑んだ。
しばらくすると星羅も目を覚ます。すぐに泣くことはなく目をぱちぱち瞬かせている。そっと籠に近づいて晶鈴は星羅の表情を見る。顔立ちは自分に似ているようだが、髪が父親の曹隆明の血を受け継いだらしい。まだ短くまばらだが、黒く濃く艶のある髪をしている。
「あなたの髪が伸びたら、毎日触っていたくなるんでしょうねえ」
晶鈴は、隆明の滑らかでしっとりとした髪の毛の感触を思い起こす。会うたびに彼の美しい漆黒の髪に触れていた。手のひらを見ながら、そこに髪が流れていることを想像する。
「もう二度と触れられないかと思ったけれど……」
甘い思い出が胸に広がった。しかし晶鈴はその想いに浸ることなく、星羅を抱き上げ乳をのませることにした。
ひと月立つ頃に京湖もまともに起き上がることができた。残念ながら彼女はあまり乳が出ず、十分に赤ん坊に与えることができなかった。
「ごめんね……。だめな母ね……」
京樹の黒い瞳を正視できずに京湖は自分を責めている。
「もう少し体力がつけばきっと出るようになるわよ。そんなに自分を責めないで」
慰める晶鈴に、京湖は力なく首を横に振る。
「あなたに負担をかけてごめんなさいね。たぶん家系的にあまり出ないのだと思う」
「そうなの?」
「ええ。うちは、あの、私も、兄弟も人の乳をもらって育っていたし……」
「そうなのね」
それ以上の話は聞かずに晶鈴はそっと、京湖のそばに座り、二人で赤ん坊を抱いてあやした。
同じ年の子を育てる、胡晶鈴と朱京湖はますますきずなが強まり、信頼関係も増していった。陶工である朱彰浩は陶器が焼きあがると町へ売りに行っている。日が暮れる前に帰ってきた彼は彼の馬と、ロバの明々を小屋につなぎ食卓に着いた。
「今日もありがとう。明々はいい子にしてたかしら?」
「ああ。明々がいると売り上げが上がるようだ」
「そうなの? 邪魔してなければよかったけど」
今では食卓を5人で囲んでいる。晶鈴と京湖はお互いの子を預けあいながら、家事を行っていた。乳がよく出るようになるという煎じ薬で、京湖も息子に十分な母乳を与えることができるようになった。おかげで彼女は明るい笑顔も取り戻す。
「そうだ。町の占い師たちに晶鈴の復帰はまだかと尋ねられた」
「あら、忙しいのかしら」
「特別忙しくなってはいないようだが、晶鈴を訪ねて来るものがいるということだ」
「うーん。そうは言われてもねえ」
「一応伝えておくとだけ言っておいたから」
考え込んでいる晶鈴に、京湖が提案をする。
「午前中くらい星羅をみてるから、仕事してきたら?」
「え、でも……」
「もう体は心配ないし、ちょこっとだけ行ってくるといいんじゃないかしら。彰浩もほとんどここで仕事しているし」
「そうねえ。京湖がそう言ってくれるなら行ってみようかな。お客は一人くらいだろうし」
「気晴らしでもしてきたらいいわよ」
「あら、京湖こそ、いいの? 町へ行きたくないの?」
勧められて晶鈴も少し町の空気を吸ってみてもいいと思うが、京湖はあまり町へ行きたがらない。出産前に晶鈴が町へ占いの仕事をしに出かけているときも、京湖は町へ行きたいと一言も言わなかったし、様子も聞きたがらない。
「人混みが苦手なの。ここで彰浩と晶鈴と子供たちだけでいるとホッとするのよ」
「そうなのねえ」
星羅も京樹もまだ眠っているばかりで大人しく、腹が減っていたりする身体的な不満がある以外ぐずることがなかった。こうして久しぶりに占いの仕事をするために町に行くことにした。
29 町と家と
久しぶりの町は相変わらず雑多で賑やかで埃っぽかった。3人の占い師たちに会いに行くと、晶鈴の元気な様子にみんな安堵し、また仲間として歓迎させる。しばらく赤ん坊の様子やら雑談をしてから、晶鈴は自分の商売の場所へと向かった。
ロバの明々は晶鈴のとなりで大人しく草を食んでいる。椅子に腰かけ、ぼんやりと行きかう人たちを眺める。目の前を様々な人種、色、香りがうつろっていく感じが好ましかった。久しぶりに一人になったと気が緩みかけた時「おや。久しぶりだな。ちょっと観てもらおうか」とふっくっらした中年の男が腰掛けた。
「お久しぶりね。今日は何を?」
「あんたの言う通り、麦の収穫が良かったもんだから貯えが増えたよ。そうだなあ。今特にこれってのはないが……」
「無いならいいじゃない」
「そうだが。ついついなあ」
男は愛想よく照れ笑いをする。気取らず、率直で媚のない晶鈴は商売っ気のなさが逆に好感度を上げているようで、こうして悩みがなくても何か占ってもらおうとする者がいる。座っただけで、料金が発生する占い師もいるなかで、このように占わない晶鈴は珍しい存在だった。
「せっかくだし、健康でもみておくれ」
「わかったわ」
こうして、3人ほど鑑定して、昼になったので町の食堂で食べて帰ることにした。
食堂に訪れるのも久しぶりで、子供のことを気にせず食事をするのはどれくらいぶりだろうと人心地着く。この店の名物の平たく長い辛味噌味の麺を啜る。ふと気づくと器は白い陶器で青い小花模様が描かれている。
「あら、彰浩の器なのね」
食堂なのに、家にいるような不思議な感覚もあった。改めてこの町に来てから、色々な出会いがあったなあと感慨深いものがある。占い師仲間に、生活を共にする仲間。
「いつまでもこのまま過ごせるといいわねえ」
そうだと思いつき、みんなへのお土産にふかし饅頭を持って帰ることにした。
ロバの明々が引っ張る荷台に横たわっていたが、揺れが止まったので晶鈴は身体を起こした。
「ありがとう。もう着いたのね」
道を覚えている明々は「ホヒィ」と誇らしげに啼いた。形ばかりの木の柵のような門を開き、庭を通って馬小屋に明々をつなぐ。草をたらふく食べたようで、水を少し飲むと足を折って座りくつろぎ始めた。
「ごめんね。遅くなって」
家の扉を開けると、ちょうど子供たちが寝付くところだったようで、京湖が「しっ」と人差し指を唇に当ててみせた。息をのんでそっと中に入り、2つの籠を交互に覗く。赤い頬の丸々とした子供たちが穏やかに寝息を立てている。
晶鈴は隣の部屋に行こうと、京湖に指で指示した。食卓に饅頭を置くと、京湖が水を持ってくる。
「お土産。食べて」
「おいしそうね。疲れた?」
「お客はいたけどこっちは全然疲れてないわ。京湖こそ二人も面倒を見て疲れたでしょう」
「二人とも大人しいから平気。星羅にも私の乳を飲ませてやれるようになったから良かったわ」
「じゃあいっぱい食べて」
ふっくらしてきた京湖は嬉しそうに饅頭を頬張った。水を飲みながらふっと思わず晶鈴がため息をつくと「やっぱり疲れたんじゃないの?」と京湖は心配そうな顔をした。
「そうじゃないの。なんだか暑いのよねえ」
「ああ、そうなのね」
この地方で迎える初めての夏は、晶鈴にとって初めての暑さだった。都も、出身の北西の村も雪こそ降らないが、夏でも涼しい日が多く乾いていた。この町の初夏は蒸して暑い。
「私の着物を貸すわ。その着物は確かに暑苦しいでしょう」
「ああ、そういわれてみればそうねえ」
冬の間には大して気にならなかった服装の違いに改めて気づく。晶鈴は、都の太極府で支給された、厚手の濃紺の絹織物の着物を着こんでいる。保温保湿には優れているが、風通しは悪く汗をかくとじっとり不快な気がした。
京湖は織り目が粗く、風通しが良い着物を着ている。寒いときは枚数を重ねてきているようだが、風通しの良さと軽くざっくりとした生地は蒸し暑い夏に適しているようだ。
「服装は民族の個性というか、地方の気候にあっているものなのね」
「そのようね。都にいくとそんな着物が合うのね」
ファッションではなく便利性なのだと二人で再認識しながら頷いて笑いあった。京湖は寝室の衣装籠から、数点着物を持ってきた。
「遠慮しないで着たらいいわ」
「ええ、でも」
「着物を今から仕立てるのも時間がかかるから」
「そう、じゃあ、借りようかな」
「ちょっと着てみたら?」
勧められ、晶鈴は寝室で着替えて戻ってきた。ふわっとした生地の着物は薄い青色で、重厚な印象から軽やかな印象に変える。袖は晶鈴のものよりも長くひらひらと風に舞う軽さを持っている。丈もひざ下あたりまでしかないので、やはり薄手のひらひらしたズボンをはく。歩くと足の運びがするするといい。
「どうかしら? ちょっと透けてない?」
「透けてないわ。よく似合ってる」
「そう?」
「そうだ。これもよかったら」
京湖はまた奥から持ってきた玉の腕輪を、晶鈴にはめる。
「まあ、素敵な玉ねえ」
真っ白い玉は、濁ったところも、傷もない完璧な円形だった。
「これはちょっと高価すぎないかしら? 壊したら大変」
「いいのいいの。よく採れる玉なの。あなたに持っていてもらいたいの」
どうやら感謝のしるしとして、玉を贈りたいようだった。元々、素直に受け取る晶鈴は彼女の厚意と一緒に受け取ることにした。
「ありがとう。これで過ごしやすくなるわ」
しばらく自分の着物は着ることがないだろうと、綺麗に洗濯をして仕舞うことにした。新しい民族に生まれ変わったような気持ちで晶鈴は占いの仕事に取り掛かるのだった。
30 運命
日が落ちたのに晶鈴が帰らないので、彰浩が町まで馬を走らせた。途中でロバの明々がうろうろとその場を行ったり来たりしているのを見つける。
「明々! 晶鈴は!?」
答えはずもない明々に問う。荷台にはもち米の入った麻袋と晶鈴の通行証が転がっていた。
「これは……?」
何かトラブルでもあったのだろうかと、とりあえず明々を引き連れたまま、町まで行き顔見知りの門番に尋ねる。年若い門番はいつも通り晶鈴は帰ったという。
「それが帰ってこないのだ……」
心配した門番も、町の警備兵に晶鈴が行方不明になったことを伝え探してもらうことにした。町の周りから家まで周辺を数名の警備兵と犬が捜索する。彰浩は一度家に帰り、状況を京湖に伝える。
「ま、まさか……」
青ざめる京湖に、彰浩は希望を持つような言葉を投げ掛けることはできなかった。もう一度探しに行こうとすると、警備兵の男がやってきた。
「これがロバがいたあたりの茂みに落ちていたんだが晶鈴さんのものかい?」
大きな茶色い布は、四角に折りたたまれ手のひらほどの大きさになっている。京湖はその布切れがもちろん晶鈴の持ち物ではないことが分かった。むしろ自分が良く知っている布切れだった。縦糸が太く、横糸は細い、独特の織物で京湖の出身地特有の織物だった。京湖と彰浩の着物も同じ生地の織物だ。
「いいえ……」
首を振る京湖に、警備兵の男は「ちょっと苦そうなにおいがするんだよなあ」と布切れをひらひらさせる。ますます京湖は顔を暗くさせる。彰浩が警備兵の男に町には何か変化がわずかでもなかったかと尋ねた。うーんと小首をかしげながら「ああ、そうだ」と男は掌をこぶしでたたく。
「あんたたちと同じ民族の人がここ数日増えていた気がするなあ。そのひらひらした衣装の男をよく見たよ」
その言葉を聞くと、京湖はへなへなと土間に座りこんんだ。
「京湖……」
「大丈夫かい? 奥さん。一応もう少し探すが、野犬や獣が出るといけないから適当に切り上げるよ。見つけたら報告に来るから」
「よろしく頼む」
警備兵が帰っていったあと、京湖は涙をはらはら流しながら「着物を貸さなければよかった……」とつぶやいた。彰浩は何も言わず、彼女の身体を起こし椅子に腰かけさせる。
晶鈴は、京湖と間違えられてさらわれたのだと二人は確信している。さらった相手に晶鈴が人違いだと言ってくれたら、なんとか戻ってこれるかもしれないが。
「きっと晶鈴は黙って私の身代わりをしてしまうわっ!」
彼女の性格だとそうだろうと、京湖は申し訳なさで胸がつぶれそうだった。そこへ「ふああぁあんっ」と京樹の泣き声が響く。
「ああっ! 乳をやらねば!」
動揺と不安から子供の命を確保することに尽力する。京樹と星羅に食事を与え、育て上げねばという強い気持ちが彼女を支配する。彰浩も晶鈴を救い出すことと、京湖と子供たちを守るための手段を考え始めた。
着心地の良い着物は晶鈴をより身軽にさせる。カード使いの占い師にもよく似合っていると言われた、それと同時に最近その服装の人間を何人か見かけるとも聞いた。あらゆる民族が交流する、国境なので晶鈴は特に気に留めず、ロバの明々を伴って占いの仕事をしていた。
何人か鑑定をした後、食堂に寄り、土産も持った。赤ん坊だった星羅と京樹はすくすくと育ち、乳から粥へと食事が変わり始めている。町から家までロバの足で、半時ほどだった。顔見知りの門番に別れを告げ、しばらく歩き見えなくなる頃、荷台にごろんと横たわった。
「遠慮しないで明々をもらっておいて良かった。ふああ。ちょっと眠い、かな。着いたら教えてね……」
晶鈴は揺れる荷台に眠気を誘われ、そのまま眠ってしまった。少しだけのうたた寝のつもりがかなり眠ってしまったと思ったときに、これはうたた寝ではなかったことを思い出す。
眠りについて目を閉じたころ、顔を大きな布切れで覆われた。苦そうな薬草の匂いだったと思う。そして手足を縛られていることにも気づいた。体中が痺れているようだった。
「ここ、どこ、なの……」
真っ暗で光も差さない。木のきしむ音で、自分は木箱に入れられ運ばれているのだとわかる。暴れて大声を出そうにも、身体の自由が利かなかった。
「星羅……」
一瞬の木の隙間から見えた光で、子供の顔を思い浮かべる。しかし意識はまた途切れ、晶鈴は暗闇の中に落ちていった。
やっと薬が抜けたようで再び目を覚ますと、ひそひそと話声が聞こえる。手には力が入り、声も出せそうだがここはおとなしく外の様子をうかがうことにした。
「褒美はどれぐらいもらえるだろうか」
「あまり期待するな。大臣はがめついから」
「しばらくは遊んで暮らせるさ」
どうやら誰かの依頼で自分はさらわれた様だ。しかし、まだ理由はわからなかった。
「そろそろ箱から出して女に飯でも食わせないと」
「ああ、そうだな。丁重に扱えと言われているからな」
乱暴なことはされないようで少し安心した。がたがたを蓋がとられ外が見えた。ベージュ色のテントらしい天井が見える。
「さて、お嬢さん。起きてくんな」
野太い男の声のほうに目をむけると、京湖と彰浩と同じ民族であろうガタイの良い男が見えた。手足を縛られているのでにじっていると「ああ、それを外してやらんと」とすんなり手と足を自由にされた。
「ここは、どこなの?」
「さっきコーサラを通過したんでさ。今日はここで野営ですな」
「こうさら……」
晶鈴は頭の中に地図を描く。確かその場所は、最後の町から更に南西に向かった他国のはずだ。地図には『交沙良』と書かれていたはずだ。
「ガンダーラでだんながお待ちかねですよ」
にやにやした男が付け加える。どうやらここから北西に進路を変えるつもりのようだ。
「どこに逃げてもだんなからは逃げられやしないですからね。お嬢さんもあきらめたほうがいいですよ」
男たちは『だんな』と呼ぶ人物から自分をさらうように命令されているのだろう。なぜだろうと考えると、一つだけ思いつくことがあった。自分を朱京湖と間違えているのだ。『願陀亜羅』は晶鈴にとって縁もゆかりもない国である。
男たちは京湖の顔をどうやら知らないようだ。ここで、人違いだと言えば解放されるかもしれない。しかし、男たちは報酬を目当てに京湖をさらおうと町に向かうだろう。そうなれば、京湖と彰浩、そして京樹はどうなるのか。『だんな』はおそらく京湖のみを欲しているだろうから、彰浩と京樹がどうなるかわからない。最悪のことを考えると晶鈴は言い出せずにいた。
「私が京湖の振りをしていれば時間が稼げる……」
晶鈴自身よりも、京湖たちのほうがこうなった事情をよく理解しているだろう。すでに町を出てどこかへ逃げているかもしれない。
「星羅……」
子供を粗末に扱うことはおそらくないだろう。
「また会えるかしら……」
幻だったような家族を思う。今、自分のそばに親しい人は誰もいない。晶鈴は目を閉じて一人きりになったことを感じる。
「占うときのよう……」
占いをするときには、だれも自分のそばにおらず、ポツンと空中に浮いたような心地になる。それが晶鈴にとって自然なことだった。寧ろ、誰かと愛着していた時のほうが夢の中の出来事のように感じている。
肌を合わせた曹隆明も、親しかった陸慶明もいつの間にか人生から消えた。胎内からずっと密着していた星羅もまるで仮想現実のような感覚に陥る。
「そう。私は占い師なのだ」
俗世に交じることのない孤高の占い師、胡晶鈴は、穏やかに自分の運命を受け入れるのだった。
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