第2話

11 太子と王太子妃

 呂李華は真紅の婚礼衣装に身を包まれ、結い上げられた黒い髪には金と玉でできたかんざしがこれでもかというほど刺さっている。衣装と装飾品の重さは、姉、桃華の身代わりになっている重責に比べると軽いものだった。

 侍女たちに衣装の裾を持たれ、赤い靴の先が見える。慎重にやはり赤い布を敷かれた石の階段を上がる。最後の段を上るとき、よろけてしまった。


「あっ」


 転ぶ寸でのところで、さっと李華の手を取るものがいた。


「大事ないか?」

「はい」


 凛と張りつめ低いが透明感のある声がかかる。目の前は赤い布で覆われているので、声の主がわからない。しかし、王太子妃に触れられる男は太子しかいない。李華は支えられた大きくて硬い、しかし白く美しい手にため息が出た。この世の中にこのような美しい手の持つ男がいるだろうか。足元に気を付けなければいけないと思いながら、ついつい彼の手を見てしまう。

 そのまま手を引かれ「そこがそなたの席だ」と座らされた。そして目の前の赤い布が彼の手によって、顔から取り払われる。


「太子さま……」


 都に着いたときの煌びやかな様子に李華はとても驚いたが、目の前の太子、曹隆明の美しさにはかなわなかった。黒髪の艶と豊かさ、肌のきめと白さ、美しい血色の頬と唇。黒い瞳の中はまるで夜空の星が輝いているようだ。


「よくぞ参った」


 一言、隆明が言葉をかけ、席に着くと楽団がぞろぞろとやってきて華やかな演奏が始まった。赤い布が取り払われ、大きな広間に大臣たちと、楽団、舞踊団がひしめき合っていることに気づいた李華は驚くが、それよりも隣に座る隆明の存在のほうが大きい。雅な音楽も美しい舞も目に入ってこなかった。美しい太子がまぶしすぎて、李華はまた身代わりであることに心が重くなってくるのを感じた。


「もうじき終る」


 李華の暗い表情を見て、隆明は疲労だと思ったのだろう。いたわる声は優しい。


「ありがとうございます」


 2人のまた奥の席には王と王妃が座っている。変に思われてはいけないと思い、李華は姿勢を正し、舞を楽しんでいるそぶりを見せる。目の前をカラフルな薄絹が、滑らかな弧を描き、花が開いたり閉じたりするような舞踊はとても美しい。今の時代に奴隷も、宦官もなく、舞踊を生業とする者の地位は低くない。裕福な家の娘でも舞踊団に入っていたりする。艶やかな舞姫たちを眺めると、ますます李華は居心地が悪くなる。双子である桃華とは一卵性でそっくりな美貌を持つ彼女だが、あか抜けた都の女性たちには引け目を感じる。そもそもが姉と違った控えめな性格だからだ。ここまで来たからにはとにかくボロを出さず、自分は『桃華』であると言い聞かせた。


 宴が終り、李華は湯殿に連れていかれ、入浴することになった。熱い湯の表面は真っ赤な薔薇の花びらで埋め尽くされている。花の香りに酔いそうだ。ぼんやりと湯につかっていると、世話係の侍女がやってきて身体を洗い始めたので「自分で――」と、洗う布をとろうとすると「いえ、私の仕事なので」ときっぱりと拒否される。


「そうね。ごめんなさい」

「お許しください。王太子妃さま」

「あとで、洗うのがすごく上手だったと伝えておくわ」

「ありがとうございます!」


 風呂係の侍女は顔を輝かせる。自分の仕事を持ち、評価されることは当然賃金に結び付くのだ。これからは日常的に行っていたこともすべて、侍女たちにさせ彼女たちの生活の糧を奪わないように気を付けようと李華は、身を委ねた。そして李華の仕事は太子をよい気分にさせ、子を産み、育てることになる。自分の役割を考えていると、そろそろ湯から上がる時間だと告げられた。


 寝間着に着替えて、寝台に腰掛ける。敷かれた布団は最高の手触りで柔らかく温かく滑らかだった。初めての触り心地に李華は夢中になり何度も手を滑らせていると「太子さま、到着」と厳かな声がかかった。

 はっと顔を上げると、軽装になった太子の隆明が現れた。彼も入浴の後だろう、麗しい清涼感がある。


「下がってよい」


 供をしてきたものに声をかけると、侍従たちは寝所に入ることなく去った。より静かな空間になる。


「なにか不自由なことがあればすぐに言うといい」

「ありがとうございます」

「今日からよろし頼む」

「こちらこそお願いいたします」


 李華は姉に憤り、身の上を嘆いたが、美しい太子に触れられることによって幸せを感じられた。姉の頼みごとを聞いて、生まれてから初めて良かったと思う。甘い香が焚かれ、若く美しい太子夫婦を包み込んだ。



12 失われた能力


 いまだ明けきらぬ薄暗い空の下、晶鈴はすでに目が覚めて日の出を待った。冷たい風がそろそろ秋なのだと知らせるが、まだまだ着物を替える必要はないだろう。毎朝、晶鈴は日の出より早く起きて、出てくる一番の光を浴びている。なぜだか理由はないが物心ついたときからの習慣だった。

実は太極府にいる占術師たちもみなそれぞれ何かしらの習慣がある。太極府の長である陳賢路は決まった時刻にどんな場所にいても、どんな時でも北極星のほうを向く。ほかにも満月の日は一切食事をしない者、雨が降ると必ず浴びに行くものなどがあった。奇行に見えるような行為を行うものは、みな太極府のものだとさえ思われる。この行為は占術の精度を上げるための儀式かもしれなかった。

 日の光が晶鈴を照らし始め、彼女は目を細める。


「今日も一日が始まるのね」


 納得して小屋にはいろうとすると、茂みがガサガサと鳴った。猫でもいるのだろうかと近寄るとぬっと大きな影が動いた。


「誰?」

「私だ」

「あ……」


 太子の隆明だった。髪も結い上げられておらず寝間着のままだが、その格好にも風情がある。


「どうして、こんな時間に……」


 晶鈴にはまったくわからなかった。彼が婚礼を終えて3ヵ月になる。王太子妃の懐妊のニュースに宮中は明るい喜びで満ちている。それなのにこの暗い表情は何があったのだろうか。 数か月ぶりに会う隆明は少しやつれているようだ。


「会いたかった……」

「お立場をもっと考えないと……」

「よく考えたし、我慢もした。もう一生会えぬかと思った」

「そんな……」


 隆明の言うことはあながち大げさではない。王や王妃、太子など王族の中でも身分の高いものに会うためには、高い身分が必要だった。たとえ、占術を所望され太極府から派遣されても、晶鈴では無理だ。太極府長の陳賢路と次長の2名ほどだ。晶鈴が次長になるためには、相当の年数を要するだろう。


「王太子妃さまはどんな方なのです? お美しいと聞いてます。もう来年にはお子様も生まれますし」

「そうだな。王太子妃は美しいと思う……」


 王太子妃の桃華は美しく、琵琶の名手でもあった。しかしいつも仮面のような表情で、生まれた国のことを聞いてもあいまいな答えしか話さず、進んで寄り添ってこようとはしなかった。美しい人形のようだ。

 最初は、緊張のためにそのような態度だと思い、隆明から寄り添ったが、まるで打ち解ける様子はない。子供ができても彼女の様子に変化はない。体調の変化に気分を悪くしているのか、寝台に伏してばかりだった。


「王族の結婚とはこのようなものなのだろうか」


 隆明の生みの母である先の王后はなくなっているため、父王と母の睦まじい姿を見たことはなかった。もちろん、父王と今の王后とのプライベートな関りも見たことがない。


「隆明兄さま……」


 晶鈴にも彼が一日中、形式の中にいて、伴侶を得ても、結局王族の婚姻の形式が増えただけなのだということが分かった。民族と大陸の統一がなされ、戦争や貧困が起きない今、命を脅かされることが減っている。やっと安心を得た時代だ。それでも自由のない籠の鳥の隆明は我慢を強いられている。王族に生まれた天命であると理解していても、まだ若い彼には辛いことだった。


「また、来年には2人嫁がれますからそれまでの辛抱ですよ」

「側室か……」

「ええ、きっと兄さまと気の合う人がいますわ」

「そなたが入内できれば良いのに……」

「兄さま……」


 辛そうな隆明をみると、晶鈴もそばにいてあげたいと願うが彼女が側室に選ばれることはありえないだろう。


「そろそろ空が明るくなってきました」


 気が付くと夜が明け周囲を明るく照らしている。


「また来る」

「……」


 だめだとも待っているとも言えず、晶鈴は隆明の後姿をしばらく眺め立ち尽くした。


 隆明が太子になる前よりも、高い頻度で2人は会うようになる。さすがに下女の春衣にも早朝に彼が会いに来ていることばれてしまった。しかし彼女は晶鈴に誰が来ているのか尋ねることもせず、誰かに吹聴することもない。ただ心配そうに見ているだけだった。

 皆が眠りこけ、夜が明けてしまうまでのわずかな時間を、2人は大事に過ごしていた。その貴重な時間は数か月に及んだが、王太子妃の出産が迫り、具合もよくないということで隆明は住まいの自宮から出してもらえなくなった。深夜になると眠りこけていた兵士は、交代制となり抜け出せなくなった。またしばらくの辛抱かと、隆明は耐えることにした。


 訪れなくなった隆明の事情は重々承知している晶鈴は、もうこのまま会えなくてもいいと思っていた。数か月であったが、晶鈴には人生で初めての心が躍りまた安らぐ不思議な時間を経験した。まるで夢のようだった。

 ぼんやり黄昏ていると「晶鈴どの! 晶鈴どの!」と野太い声が聞こえた。


「あら。張秘書監どの」


 息を切らして赤ら顔の張秘書監が小走りにやってきた。彼は晶鈴の占術の顧客ともいえる存在で懇意にしている。俗っぽい人間だが、悪人ではなく小心な男だ。


「晶鈴どの、実は……」


 先日占った娘婿の仕事の具合がどうやら外れたらしい。


「おかしいわね」

「もう一度観てくださらんか」

「ええ……」


 張秘書監を招き入れ、占い、結果を伝えると、彼は変な顔をする。


「うーん。そんなことになるとはありないのだが……」

「そうなのね。でもそう出てるのよね」


 さんざん唸って張秘書監は出ていった。占いを外してしまったので、今回謝礼を受けとることはしなかった。


「どうしてかしら……」


 晶鈴にもわからなかった。今まで占いが外れたことがなかったからだ。太極府からそろそろ前回占った王族の近未来の結果が伝えられるはずだ。今まで、占ったことの結果を気にしたことがなかったが、今回初めて不安を覚えた。


 太極府長の陳賢路の厳しい表情を晶鈴は初めて見る。


「そこに座りなさい」


 黙って晶鈴は座り次の言葉を待った。


「一体どうしたんだ。すべて外れている。面白いぐらいに逆の結果だ」

「――」

「ふざけてるわけではないだろう」

「私にも、なぜだか……」

「このままだと……」

「わかってます……」


 占術師として機能しない晶鈴はこの太極府にいることはできないだろう。


「もう一度だけ機会を与えるが……」

「はい……」


 チャンスを与えられたが、晶鈴にはもう無理だということがわかっていた。これで本当に会えなくなると、隆明のことを想った。

 

13 脈


 隆明に会えぬまま、晶鈴は太極府を出ていくことになった。能力や技術を失い、中央から離れることになるものは少なくなかった。太極府では、観察し、知識を深め理論的な占術の技術を高め予知する陳賢路のようなタイプと、晶鈴のようにインスピレーションを得て予知する直感的なタイプがいる。陳賢路のような手堅い予知を、晶鈴は時に凌駕するが外れ始めると瞬く間に崩壊する。

 彼女のようなフィーリング型の占い師はこのように突然観えなくなることがあり、太極府を離れていった。つまり珍しいことではないので、騒ぎにもならず宮中の噂になることもなかった。

 薬師の陸慶明は、晶鈴本人よりもショックを受けている。さっきからじっと握りこぶしを膝に置いたまま黙って、晶鈴の前に座っている。


「お別れね。明日、出立するわ」

「……」

「そんなに怖い顔しないでよ」

「行く当てはあるのか」

「一応、親戚もいるし故郷に帰ってみようかなって」

「帰ってどうするんだ」

「そうねえ。羊の世話をしてもいいし。市場で占いをして生計を立ててもいいし」


 晶鈴の占いはこの太極府では通用しないが、一般人には十分役に立つレベルではあるだろう。


「お金もしばらく困らないから旅してもいいわね。今までの貯えもあるし、退職金も結構もらったし」


 むっつり押し黙る慶明に、晶鈴は明るく話す。実際にもらった給金や、謝礼などを含めると、晶鈴は数年は何もしなくても生活ができる。遊ぶことも着飾ることにもあまり興味がなかったので、自然と貯えが増えていた。


「こないか……」

「え?」

「俺のところに来ないか?」

「慶明のところに? 何しに?」

「それは……」

「まさか側室になれとか言わないでしょうね?」


 慶明は本当は晶鈴を正室にしたかったとは言わなかった。


「同情してくれるのは嬉しいけど……。もうあなたのお子も生まれるし、私がノコノコ行ったら奥方も困惑するわよ」


 晶鈴の言葉を聞きながら、慶明はやはり彼女にとって友人以上の存在にならないのだと実感する。


「何かできることはあるか?」

「ううん。大丈夫よ」

「せめてこれでも」


 月に一度ひどい頭痛に見舞われる彼女に薬を多めに渡す。


「ありがとう。でもそういえばここの所頭痛がないのよね」

「ん? そうなのか? どれちょっと手を出せ」


 職業柄ついつい脈をとってしまう。晶鈴の細い手首に指を乗せ脈を診る。その脈から異変を感じる。その異変は慶明の良く知っている異変でもあり、胸を痛めるものだった。


「晶鈴――」

「何? どこか悪いの?」

「いや――」

「はっきり言ってよ」

「子が、子がいる……」

「え?」


 今度は晶鈴が慌てる番になった。隆明との蜜月を思い返す。


「相手は、相手は誰だ」

「それは、その――」


 自分が一番親しいと思っていた慶明は、晶鈴に自分より親しい、しかも友人を超えた存在がいることに衝撃を受けている。晶鈴と太子、曹隆明の間柄を、慶明は知らなかった。隠し事をしない晶鈴と慶明だが、お互いの仕事柄、守秘義務を伴う。そのせいでお互いの交友関係を探ることも、自分にかかわった人たちの話を、世間話のように話すことはなかった。


「言えないのか」


 今までで一番怖い顔をしている慶明に、子供の父親は絶対言えないと晶鈴は思った。彼女が辞めることなどより、太子の子を身ごもっていることなど知られたら大騒ぎになるだろう。


「ごめんなさい」


 頭を下げて、また顔を上げると今度は涙を流す慶明を見ることになった。


「慶明……」

「どうりで……。わたしのほうには向かぬと思った……」


 彼の涙を見て、晶鈴はやっと彼の気持ちに気づく。


「ごめんなさい……」

「謝るな。みじめになる……」


 さっと涙を袖で拭い、立ち上がった慶明は「何時に立つ?」と晶鈴の顔を見ないまま尋ねる。


「門が空いたら出るわ」

「早いな」

「早朝は気持ちがいいものよ?」

「明日、見送るから顔を見る前に出ていくなよ」

「ありがとう」


 晶鈴は帰っていく慶明の後姿にもう一度ありがとうとつぶやいた。



14 都を後にして

 日の出を前にして薄暗い外から、住んでいた小屋を眺める。


「もうここに住むことはないのね」


 子供のころに故郷を離れる時よりも少し感傷的になった。


「隆明兄さま……」


 平坦な腹をさすり曹隆明を思う。彼に何も告げることなく都を出ていく自分をどう思うだろうか。彼はもっと孤独になってしまうのだろうか。今まで考えたこともないような心配がいっぺんに晶鈴の胸に押し寄せてきた。占ってみようかと思い立ったがやめた。心が騒めいたままで占ってもどうにもならないことを知っているからだ。


 現在の後宮は、正室に側室4人と人数が決まっていて、王と過ごす期間もほぼ決まっている。正室に子供ができれば、次々に側室と過ごし、5人まで子ができればまた正室と過ごす。

 太古の後宮のように数多くの女人たちが、寵愛を競うことはなく、王が寵愛をローテーションで与えていくことになるのだ。順番が確実にやってくるので、妃たちに不満は出ず、競い合うことも、蹴落とすこともなくなった。

 王のほうも、気に入った妃を贔屓することはできない。お気に入りの妃ができても、その者との蜜月は期間が決まっている。このシステムのおかげで王朝は長らく安定している。


 隆明も即位し王となり5人の妃がいれば、気の合うものも出てくるだろう。 腹の子の父親が明らかになっても、王族から認知してもらえることはないだろう。過去には嫉妬に狂った妃から毒殺される王子や王女がいたが、今は王朝そのものから、計算外の子として抹殺されるかもされない。

 王朝の安定は、計画と計算と予知の賜物でもある。太子の隆明には自由な恋愛、選ばれていない女人と子を成すことはあってはならないことだった。


 髪飾り一つつけず、丈夫で質素な着物と履物をそろえた。荷物は風呂敷包みに一つだけだ。とりあえず路銀と流雲石があればなんとかなるだろう。物思いにふけっていると少しずつ日が差してきた。


「朝ね。門が空くわ」


 日の光を背に、関所に向かった。


 まだまだ静かなくらい都の中を、目に焼き付けながら歩く。店の扉は硬く閉まっていて、人々はやっと床から身体を起こすだろう。関所に着くとちょうど兵士たちが交代するところだった。若い青年兵士たちは目をこすりながら、槍をもって門の前に立っている。


「もうじき開くかしら?」


 晶鈴が通行手形を見せながら尋ねる。


「もうじきです」


 しっかり通行手形を確認することなく、兵士は答える。平和な今は関所は形ばかりだった。危険な人物を排除するというより、安全な旅のために関所は機能している。民族が統一されてから国は大きく豊かになったので、外敵から大きな戦争を仕掛けられることはない。もっともっと遠くの国々も、同時期に戦国時代を抜けているのだろう。


 開き始めた大きな門に近づくと「晶鈴」と声をかけるものがあった。


「慶明……」

「見送るといっただろう」

「ああ、そうだったわね」


 慶明の後ろから、下女だった春衣がそっと出てくる。


「晶鈴さま……」

「来てくれたの、春衣。ごめんね」

「いえ、わたしのことなど。次の職場を紹介してもらっただけでも……」


 春衣は慶明のところで働かせてもらえるように頼んでおいた。


「春衣のこと、頼むわ。とても働き者で気が利くの」

「ああ、よく知ってる。それと、これを」


 大きな袖の中から慶明は青銅の厚みのある板を一つとりだした。『中央医局 薬師 陸慶明』と書かれている印章だ。


「何かあれば、これを使うといい。便宜が図りやすくなる」

「いいわよ。使うことないと思うから」

「持っておけ。何かにはなる。地方でも役に立つから」


 遠慮する晶鈴に、慶明は無理やりにでも持たせる。手の中の印章の文字を晶鈴はそっとなぞる。


「それと、春衣」

「はい」


 春衣はさっと縄を手に持ち、慶明に渡す。縄の先には荷台を引いたロバがいた。


「これも持っていけ」

「宿場町には昼過ぎには着くだろうから、のんびり歩こうかと思ったんだけど」

「その身体でか……」


 身重の身体を心配して慶明が用意したのだった。


「邪魔になったら売れ」

「ありがと……」


 慶明の心遣いを素直に受け取ることにした。気が付くともう周囲は明るく、門は完全に開き、外から、内から、行き来するものが数名いた。


「そろそろ、行くわ」

「ああ……。困ったらすぐ便りをよこせ」

「ええ。ありがとう。春衣さよなら」

「晶鈴さま……。お元気で」

「またね」


 明るい笑顔をみせ、手を振りながら晶鈴は門の外へと出ていった。


「新しい日が始まるって感覚は何年振りかしら?」


 都には、陳賢路に連れられてやってきた。今度は、一人で好きなところへ向かうのだ。


「あ、一人ではなかったわ」


 まだ見ぬ子と、供のロバに笑んで遠くの青い空を見つめた。



 見えなくなるまで見送ったあと、慶明はふうっと大きなため息をついた。そのため息の意味を春衣はよくわかっていた。


「慶明さま。顔色がよくないです……」

「ふふっ。薬師の私がそう言われてはしょうがないな」


 慶明は、ふと春衣は晶鈴の子供の父親を知っているのではないかと考え、遠回しに尋ねた。


「晶鈴のもとに、男が尋ねてくることはなかったか?」

「さあ……。慶明さまくらいしか……」

「ふむ。では晶鈴が誰かにこっそり会いに行くことはなかったか?」

「実は朝早く出かけられることがありまして……」

「どこの誰と会っていた?」

「それは、わかりませぬ。後をつけて顔を見に行くわけにもいかず……」

「そうか……。誰かわからぬか……」

「あ、そうだ。御髪をすいて差し上げると、時々、晶鈴様のものではない綺麗な絹糸がついてました」

「絹糸……。色は覚えているか?」

「えーっと、黄緑色のようだったかしら?」

「黄緑色……」


 身に着けられる衣装の色は身分によってほぼ決まっている。晶鈴の絶対父親の名を明かさないという態度と、糸の色で慶明はもしや相手は王族ではと怪しんだ。若い王族の男は太子、王子など数名いる。慶明はひそかに父親を探り当てようと心に決めていた。 


15 宿場町

 行く当てはないがとりあえず故郷に戻ってみようと晶鈴は、針路を北西に取った。背中を日光が押しているようで温かい。石で舗装された道は都から離れるといつの間にか硬い土の道になっている。まばらだった木々も増え風がしっとりしてきた。


「都は乾燥していたわね」


 故郷の景色はどうだったか思い出せなかった。幼かった晶鈴には家畜に囲まれていた記憶しか残っていなかった。ロバの鼻面をなでながら「そうだ。名前をつけないと」と考え始める。


「えーっと何にしようかな。慶明がくれたロバだし――」


 慶明のことを考えながら隆明を思い出す。


「そうだ。明々(ミンミン)にするわ。よろしくね、明々」


 ロバの目をのぞき込むと明々は理解したのか「ホヒィ」と小さく鳴いた。


 のんびり歩き、空腹を覚えたので荷台の上に乗って焼餅をかじった。ロバの明々も茂った草も顔を埋めて食べているようだ。


「もう少ししたら、宿場町があるから今日はそこで泊まろうかな」


 北西の村まで歩きだとおよそ一ヵ月かかるだろう。馬だともっと早いがロバなので歩きと変わらない。急ぐことも目的もないので何も考えずに道を進む。

 遠目でもわかる関所が見えてきた。行きかう人はまばらだが、商人が多そうだ。荷車に色々積んでいる人たちが多かった。空っぽの荷台を積んだロバと一緒に関所に向かう。小さな町なのだろう。門も町を取り囲む壁もそんなに高くはない。この高さを見ると周囲に危険な獣も部族もいないことがわかる。そもそも国家が統一され、周辺の部族たちもほぼ従属国となっているので危険なのは、人よりも自然の獣だった。獣もこちらがテリトリーを侵すことさえなければ牙をむくこともない。


 通行手形を若い兵士に見せると「へえ!」と声をあげ、隣の恐らく彼より少し立場の上の者から「問題がないなら黙って通せ!」と叱られた。


「はっ! 通ってよろしい」


 姿勢を正し兵士は晶鈴を通した。通行手形には『国家元占師 胡晶鈴』と書かれている。引退者としての身分表記だが、初めて見た若い兵士は珍しくて思わず声をあげてしまったようだ。胸元にしまって晶鈴は町の中に入った。都と違ってこじんまりとした様子だが、明るく活気があり見たことのない果物もあるようだ。色々味見しながらふらふらと宿を探す。市場の端っこにやってくると一人の男が荷車のまえで難しい顔をしているのが見えた。


「おじさん、どうしたの?」


 男がよく自分に相談してきていた張秘書監に似ていたのでつい声をかけてしまった。


「ん? ああ、待ち合わせをしてるんだが相手が来なくてなあ。半日も待っているんだ」


 晶鈴を追い返すことなく男はため息をついて答える。


「あら、半日も。それは大変」


 袖口から晶鈴は流雲石の入った小袋をとりだし、つやつやした石を一つ選んでとりだした。刻み込まれた文字を眺めると晶鈴の頭の中にぼんやりと光景が浮かぶ。


「相手の方は反対の門で待っていると思うわよ」

「ええ? 反対? ちょ、ちょっとここでこの荷物見ててくれないか?」

「いいわ」


 晶鈴の言葉を聞いて男は慌てて走っていった。


「ふふふ。やっぱり張秘書監に似てる」


 あまり深く考えないが、善良で気の良い張秘書監は晶鈴が去ることを心から悲しんでくれた。図書を管理するものしか目にすることができない地図をこっそり模写して晶鈴にくれたのだ。

 さっき買った豆をポリポリかじっていると、汗だくになった男が戻ってきた。


「娘さんの言うとおりだった! これから取引に行くが、どうだろう後でお礼をさせてくれないか」

「いいのよ。お礼なんて」

「まあ、まあそういわずに。とりあえずそこに宿をとっているから、後で落ち合おう」


 髪を振り乱したまま、男は荷車を引いてまた急いで行ってしまった。


「まあ宿には泊まるんだけど」


 ロバの明々を引いて宿屋に向かうことにした。


 宿屋のまえに立っている若い男に部屋はあるか尋ねると、今はにぎわうシーズンではないらしく色々な部屋があると教えてくれた。

路銀に十分余裕があるが、贅沢をする気もないので個室で小さい静かな部屋を頼んだ。ロバを預けると若い男が案内してくれた。宿屋は二階建てで古い建物だが掃除が行き届き、柱などは磨かれて艶がある。階段も埃がたまることなくきれいだ。

 こじんまりした寝台と小さな机だけがある部屋に通される。中からは木を扉に差し込んで閉めることができるが、外からのカギはないので貴重品を残して出かけないように言われた。


「ちょっと疲れたかな」


 寝台にごろりと横たわる。平和なこの時代、旅は過酷なものではなくなり、女一人旅も珍しくなかった。今朝、別れた慶明と春衣には明日起きてももう会えないのだと思うと少し感傷的になってくる。初めて一人きりになったのだ。

 のんきだった朝と夕暮れの今ではなんだか心持が変わってきてしまった。


「これが、寂しいという気持ちかしら……」


 感傷に浸りそうなときに、一回の食堂から美味そうな肉のスープのにおいが漂ってきた。


「おなか減ってきちゃったな」


 自分の気持ちに浸る前に空腹を覚え、寝台から起き上がると食事をしに一回へと降りていった。

 

16 進路変更

 食堂に降りていくと、さっきの商人の男が座っていた、晶鈴に気づき手を振ってくる。


「ここだ、ここ」


 張秘書監にやはり似ているが更に気さくなのは職業柄だろうか。晶鈴は木の椅子を引き男の対面に腰掛ける。


「さっきは助かった。ばっちりだったよ」

「それは良かったわ」

「で、礼をしたいんだが相場の3倍でどうだろう」

「相場?」

「ん? 少ないか。じゃあ5倍」


 何の話か分からないまま進めていく男の話を遮り、相場のことを尋ねる。


「あんた占い師だろう?」

「ええ、一応……」


 国家専属の占い師だったことは伏せて晶鈴はあいまいに答える。


「あちこち渡り歩くけど鑑定料の相場はだいたいこんなもんだ」


 男は二本の指を立てた。


「へえ。銅貨2枚なのね」


 銅貨一枚で露店で麺を一杯食べられる。二枚あれば酒も飲めるだろう。確かにさっきの簡単な占いだと、礼に食事をおごられるくらい受け取ってもよいかもしれない。じゃあ受け取ろうかと思っていると男は眉をしかめる。


「銅貨じゃない。銀貨だよ」

「ええ?」


 一桁上がる料金に晶鈴は驚きの声をあげた。張秘書監は、いつもいいというのに金でできた貝貨を置いていった。彼の身分と収入であれば大した額ではないかもしれないが、庶民にとって銀貨2枚というのは結構な額だと思う。おそらく一ヵ月暮らせる額ではないだろうか。

「あんた銅貨2枚じゃどうやっていくのさ。毎日客がいるわけじゃないだろう? ああ、でもその腕前だと毎日客がいるかもしれんなあ」


 勝手に話を進め納得する男に、晶鈴もこのくらいの精度の占いであれば庶民には十分通用するのだと悟った。後で色々な町の占い師を訪ねるのも面白かもと思った。


「まあ、でもちゃんと銀貨で払うよ。取引はうまくいったし、儲かったからさ」

「あら、いいのに」

「いや。払うもの渋ると後で損するんだ。これは商人の鉄則だよ」

「なるほどね。確かに自分から出ていくものは良いものも悪いものも7倍になって返ってくるものね」


 晶鈴も男の前途を思い、素直に銀貨を受け取った。


「ついでに飯も食おう。ごちそうさせてくれ」

「そんなにしてもらわなくてもいいのよ? 困ってるわけじゃないし」

「まあまあ。これは単に一人より二人のほうが楽しいだろうからってことだ。それともあんたは男より食うのかい?」

「そんなことはないけど」

「じゃあ、いい。さあ酒でも飲もう」

「あ、酒は飲めないのよ」

「ん? そうか。じゃ俺だけ」


 平坦な腹をさすって晶鈴は酒を辞退する。そもそも酒を飲んだことはなかったし、飲みたいと思ったことはなかった。子もいることだし、酒には一生縁がないかもしれない。

 食堂もだんだんと客が増えにぎわっている。改めて見回すと雑多だが明るく活気に満ちていると感じる。静かだった太極府とは対照的だ。しかしこの生気に満ちた混沌が嫌いではなかった。


 商人の男は酒を飲むとますます気さくになって、自分のことを話し始めた。彼は薬草を扱っている商人で、全国を回って取引しているらしい。妻がいて一緒に全国を行脚していたが、子供が生まれたので今は単身で商売をしている。


「もう少し金をためたら、店を構えてじっとするつもりさ」

「そうね。子供も大きくなるし、自分も年を取ってくるしね」


 将来の自分のことを想像しながら、男の構想を聞く。どっちにしろ子が生まれたら晶鈴は身動きは取れなくなるだろう。


「いろんなとろにったことがあるのよね。どこか住みやすいいい町をしってる?」

「そうだなあ」


 東西南北それぞれの大きな町の特徴を教えてくれた。


「でもやっぱり都が一番かな。人も物も多いが荒くれたものが少ないねえ」

「都、ね……」


 男はこれから都に向かう予定だ。


「あんたはやっぱり遊学中かね?」

「まあ、そんなところ」


 太極府に見出され、そこで過ごしてきた晶鈴は知識は豊富だが実際の経験はなかった。張秘書監をはじめ、陸慶明などから相談を受け鑑定してきたので、世の中の雑事も多少は知っている。王族のこと国家のことにも知識がある。

 歩き方を知っているが、歩くのは初めてなのだと改めて思う。


「都の医局に行くこともあるのかしら?」

「ああ、今回はとっておきの異国の薬草を手に入れたので行ってくるよ」


 庶民の薬局では扱えないような珍しいものを、都の医局は調査のために買い取っている。


「もし医局で陸慶明という人に会ったら、晶鈴は元気にしていると伝えてくれるかしら」

「ああ、まかしてくれ」


 気のいい男としばらく食事を楽しみ別れた。晶鈴は急ぐ旅ではないが、男は門が開き次第、出発するということだ。部屋に戻り晶鈴は地図を開いた。

 中央の都から少し北西に進んでいる。故郷に帰ったところでどうだろうかと思案する。流雲石をとりだしてみる。


「占ってみようか……」


 東西南北の方位それぞれに卦を出してみる。北には水、南には人、東には火、西には母と出た。


「確か南西の町が温かくて食べ物も豊富だって言ってたかしら」


 さっきの会話を思い出し、自分の出した卦を眺め晶鈴は進路を南西に取ることにした。


「人と母……」


 自分のための占いはそこから何もイメージがわかない。当たっているのかさえ分からない。しかし彼女は自身のインスピレーションを信じることにした。 


17 町から町へ


 なだらかな道をロバの明々と一緒に進む。景色は草原からだんだんと砂漠に移り変わってきている。腹が目立ってきたが未だここに腰を落ち着けようと思える街には巡り合えなかった。

 それというのも、訪れた街には結構な確率で占い師が商売をしている。ほとんど詐欺まがいで、雰囲気だけだった。一般の占い師というものを体験してみようと、晶鈴もよく当たると評判の占い師に観てもらったことがある。


――町のはずれの一角に竹林で覆われた小屋がある。食堂で噂を耳にして晶鈴はロバを宿屋に預けて訪れた。なんでも見通すことができ、言った通りのことになるらしい。小屋といっても造りは頑丈で、小さな扉は艶やかな木材でできている。一人の若い下女が立っていて晶鈴に目を止め「占いを所望ですか?」と尋ねてきた。


「ええ。これからのことを観てもらおうかと」

「先生は今、おひとり観ておられますのでしばらくお待ちください。もう少しで終ると思います。どうぞそこへ座っててください」


 竹で編まれた椅子に腰かけると、下女が話しかけてくる。年齢や仕事、どこの生まれかなど根掘り葉掘り聞いてくる。元国家占い師であることを知られないほうが良いだろうと、隣町の農家の娘だと答えた。


「結婚はしてるの?」

「え、ええ」

「旦那さんも農家?」

「いえ、あの薬を売ってるわ」

「そうなのねえ」


 受け答えしていると、恰幅の良い男が満足そうな様子で出てきた。下女が「またお越しください」と頭を下げると「ああ、また先生に伺いを立てに来るよ」と懐から銅貨を出し彼女に渡した。ふと晶鈴に目をくれ「ここの先生の言うことを聞けば間違いないよ」と笑って立ち去った。


 「では、どうぞ」


 いよいよ晶鈴の番となった。中に通されると薄暗く、もやがかかっている。香が煙るほど焚かれているようだ。匂いに胸がムカムカするので晶鈴は袖で鼻先を押さえ席に着いた。暗がりで目を凝らすと頭から布を被った、恐らく老女が座ってこちらを見ている。しわがれた声で「名は?」と聞かれた。


「胡晶鈴です」

「夫の仕事を聞きたいのかな? それとも子供が授かるかどうかかな?」

「え、あ、えーっと……」


 下女から聞いた話をこの老女に伝えているのだろう。ここで普通なら夫や子供の相談に来たことが分かったと驚くのだろう。下女を使って情報をとりだし、誘導尋問によって当てていこうという方法なのだと晶鈴は悟る。


「あの、これから幸せな生活が送れるでしょうか?」


 ついつい漠然としたことを聞いてしまう。老女はしめた、という顔をする。おほんと咳払いすると「そなたの心がけ次第じゃ」と恭しく告げる。


「心がけとは?」

「自分より貧しいものがいたら施しをするとよい。徳につながるのでな」


 そのあと、商売には北東へ行くとよいとか、南の温泉には子を授かる効果があるなど教わった。礼を言い、銀貨二枚を支払って晶鈴は外に出た。

 下女がさっき恰幅の良い男に言っていたそのままのセリフを晶鈴に告げるので、晶鈴も男と同じように銅貨を渡した。


「相談する人はどれくらいいるの?」

「えーっと他の町の占い師は月に5人くらいでしょうけど、うちの先生は少なくても三日に一人は来ますよ」


 格の違いを見せるような言い方で下女を余裕のある態度をとる。月に5人でも十分な報酬になるが、ここの老女は評判通りよく儲けているようだ。


「これくらいでやっていけるのねえ」

「ん? なにか?」

「いえいえ、お世話になりました」


 頭を下げて立ち去った。占い師の老女は悪人ではなかったが、ただの話相手のようだった。


「そういえば、暗くてわからなったけど何か道具は使っていたのかしら?」


 何か道具を使えば、もう少し当たるだろうにと晶鈴は肩をすくめた。



 夕暮が広い平野を赤く染め始めた。


「今度の町はどうかしら」


 ロバの明々が鼻を鳴らす。


「あらあら、もう旅は嫌かしら」


 遠くない先では出産が待っている。そろそろ落ち着いて、子供との生活の基盤を作らなければならない。


「そろそろ落ち着けるといいわね」


 優しく鼻面を撫でると明々は嬉しそうに目を細めた。


18 宮中にて


 薬師の陸慶明は今回開発した新薬によって順調に出世していた。薬師長について、王族の診察にも同行することが可能となった。


「慶明でも緊張することがあるのだな」


 薬師長の田豊成が白いひげを撫でながらからかうように慶明を見る。


「それは、そうでしょう。初めて王太子の私室に参るのですから」

「まあ、すぐ慣れる。そのうち王太子妃も診てもらうことになるからよく精進する様に」


 薬草のにおいと、器具しかない殺風景な医局から、甘く濃厚な香が焚かれ、重圧な調度品が並びカラフルで目がチカチカするような布のドレープが慶明の目を覆う。きょろきょろする慶明に「わしも最初はそうじゃった」と田豊成は目を細めた。


「よく見ておくといい。自分の屋敷や、夫人への贈り物の参考になるじゃろう。手に入れることは叶わんとは言えな」


 ここに国で一番最高級で、最先端で最も美しいものが集められているのだと思うと、慶明はただただ圧倒されるばかりだった。王太子の私室のまえで、取次の男に田豊成は声をかけると、すぐに頭を下げたまま部屋に入っていきすぐに戻った。


「どうぞ」


 男が扉へ手を差し出すと、左右から戸が開かれ中へ促された。


「失礼いたします」


 恭しくこうべを垂れたまま二人は中に進み王太子、曹隆明のまえでとまる。


「面を上げよ」


 聡明な声がかかり慶明は顔をあげた。男なのに美しいと思わせる王太子の曹隆明に、慶明はまるでここの最高の調度品のようだと感想を持った。


「田医師よ。この者か? 有能であるようだな」

「ええ、陸慶明です。わしの後継ですな」


 改めて医局長の道を進んでいると自覚すると、慶明はますます意欲を燃やしていた。


「しばらくは見習いですが、すぐに王太子様や王太子妃様の体調の管理ができるようになるでしょう」

「そうか。頼んだ」

「はっ!」

「では、おかけくだされ」


 隆明が寝台に腰を掛けると、田豊成がまず脈を診て、慶明にも脈診をさせた。


「安定しておられます。心身ともに健やかなご様子で」


 慶明の見立てに、田豊成もうんうんと頷く。特に健康状態に異常は見られないため診察はすぐに終わった。緊張を解いた慶明はほっとしてまた王太子を眺めた。そして彼の着物が色づき始めたレモンのような美しい黄緑だと気づく。


「黄緑色……」


 下女の春衣が、晶鈴が逢引の後に黄緑色の絹糸を髪につけていたという話を思い出す。まさか相手が王太子であろうかと慶明はごくりと生唾を飲む。


「慶明、帰るぞ」

「は、はい」


 一瞬自分の世界に入っていたので、慌てて応える。


「では、また10日後に」

「よろしく頼む」


 毎日夕方になると、王族の健康診断を行うことになる。慶明はまだ王と王妃を診ることはないが、いずれ田豊成のように王を診ることになるだろう。彼が医局長となった時、王太子の曹隆明が王位についているかもしれない。


 10日後の、王太子の診察までに彼の弟妹たちである王子、王女を診察した。それぞれの私室に訪れたが、やはり隆明の部屋は別格に格調高く、人物も兄弟の中で一段と優れていた。


「やはり王となるものは生まれながらに違うのだろう」


 晶鈴の子の父親が王太子であればどうにかなるのだろうか。他の王子であれば、晶鈴は頑なに父親を秘密にしただろうか。


「もし、自分が父親だったら……」


 誰にも隠すことなく彼女は子の父親を人に告げるだろう。


「ありえないことを考えてしまったな」


 自嘲して慶明は晶鈴に思いを馳せる。そろそろ故郷に着くころだろうか。何か困っていることはないだろうか。国家の占い師としての技量は失われてしまったが、十分な金子と能力で生活はしていけるだろうし、故郷もどこかわかっているので何かあればすぐに駆け付けるつもりでいる。

慶明が渡した印章も、町の役所で見せれば彼女にとって便宜が図られるだろう。何よりも晶鈴自身の身分証明書ともいえる通行手形で困ることはないはずだ。特殊すぎる通行手形は使い道もなく、財産でもないので盗まれることはない。


 それよりも、王太子を含む王子たちはみな心身ともに健康で、思い悩んでいることはなさそうだった。晶鈴がいなくなっていても寂しくも悲しくもならない者だろうか。子を成すまで晶鈴と逢瀬を重ねていたのは、遊び心だったのだろうか。彼女を弄んでいたなら許せないとと慶明は思い、やはり父親が誰か探し出そうと心に決めていた。


 

19 空っぽの小屋

 無事に王太子妃は出産したが、生まれた子供は女児で世継ぎを産めなかったと呂桃華は落胆し、一層頑なさを増したようだった。曹隆明が心を砕きねぎらっても、彼女は無理に作った笑顔を見せるだけだった。

 太極府でも王太子妃から男児が生まれるとの兆しがあったが、女児なのでしばらくは雑然としていた。とはいっても、みな感情的になることはなくすぐに次の未来を占い始めた。


 祝いの儀や、臣下たちのあいさつなどが終りやっと曹隆明に一時の休息がやってきた。


「やっと会いに行ける」


 最後に晶鈴に会ったのはいつだったろうか。何年も会っていない気がするぐらい遠い過去のような気がした。まだ夜が明けきらない早朝、居眠りしている兵士や女官に気づかれることなくそっと寝室を抜け出す。裏道と茂みを潜り抜け、晶鈴の小屋までたどり着く。

 もうじき彼女は朝日を浴びるためにそっと抜け出てくるはずだ。遠くの空が闇を抜けようとしている。隆明は小屋の隣の大木の下で待った。


「遅いな……」


 もう日の光が小屋を射している。小窓から中を伺うが、暗くてよく見えない。耳を澄ますが物音ひとつしない。


「夜が明けてしまう……」


 どうしたのだろうと思っていると、後ろの茂みががさっと鳴ったので「晶鈴!」と振り向いた。


「あっ……」


 隆明の目に映ったのは、薬師の陸慶明だった。彼は深刻そうな、また哀れんだような眼を向けてくる。


「隆明様……」

「……」

「晶鈴はもうおりませぬ……」

「え? どういうことだ。なぜだ」


 美しく白い隆明の顔が苦痛に歪む。見るのがいたわしいと思いながら慶明が答える。


「実は……」


 彼女が占術の能力をなくしたがために、太極府から出ていくこととなり故郷に帰った話をした。


「どうして……」


 絶句している隆明に、彼女が子を宿していることは話さなかった。


「そうか……」


 身体から力が抜け、心から喜びが消えてしまった隆明は力なく笑った。


「晶鈴に何もやったことがなかったな……」


 いまさらながらに、何も贈り物をしたことがなかったことに気づいた。慶明は悲痛な言葉を聞きながらも、隆明は彼女に子を授けたのだと心の中でつぶやく。隆明の姿を見ると、兄妹をなくして心を壊した母を思い出してしまった。


「隆明さまは、そんなに晶鈴を……」

「そうだな。失って初めて気づくものなのだな」

「……」

「他言無用で頼む」

「承知しています」


 日の光でお互いの顔がはっきり見える前に2人は小屋から立ち去った。去り際、隆明の頬の涙が朝日に光っているのが見えた。


「晶鈴を追いかけるようなことは、なされないと思うが……」


 彼女の故郷を知っていても、王太子である曹隆明は立場上何かすることはないと慶明は思う。慶明とて彼女の安否を常々知りたいと思っている。


「もうそろそろ着いて居るだろうに。手紙の一つもよこさぬのか」


 ウェットな二人の男の気持ちに、まるで頓着のないカラッとした気性の晶鈴が恨めしい。それよりも気になるのは隆明の様子だ。


「お心を病まねば良いが……」


 母への薬作りがそろそろ完成しそうだ。その薬は王太子にも必要になるかもしれないと、分量を増やすべく急ぎ医局へと戻ることにした。

 

20 最後の町

 大きくなった腹をさすってロバの明々の引く荷台で横たわった晶鈴は、そろそろ本格的に落ち着き先を探そうと考えた。当面何もしなくても生活ができる資金はあるので、住まいをとりあえず求めることにした。


「随分と遠くまで来たわ」


 結局、最後の関所までやってきてしまった。ここを抜けてしまうと外国になってしまう。


「国の端までやってきたのねえ」


 狭く、俗世と隔たれてきた環境から、一気に広い世界へとやってきた爽快感があった。


「だけど、ここから先はもう無理ね」


 さすがに関所を越え、外国に行くには国からの許可が必要だった。行き来するのは国家間の主要人や外交官、許可された商人の身だった。まだまだ気軽に外国旅行はできない。もし無断で国外に出てしまえば、帰ることも叶わなくなる。晶鈴はそこまで冒険したい気持ちではない。


 毎度のことながら、身分証を見せると「ほうっ」と目を見張る兵士に笑みながら街に入った。国境の町は、人種も、飛び交う言葉も、衣装も、食べ物の何もかも雑多だった。混雑した状況に晶鈴は逆に安堵を覚える。


「みんなバラバラなのねえ」


 誰も自分を詮索しないし、する必要もない。訳アリの人物も多い町だろう。埃っぽい町をうろうろしてとりあえず宿を探すことにした。これだけ雑多で人の行き来があれば、宿屋に借りぐらしをしながら住まいを見つけることができるだろう。



 占い師の勘というべきか、これまでの経験というか、この町にいる占い師をすぐに探し当てることができた。今までは町に一人だった占い師がここでは3人もいる。皆、人種が違うようだ。

 晶鈴は初めて目の色が青く髪が金色の人を見た。占い師の一人にもそういう金髪碧眼の女性がいたので思わず席に座った。大柄でガタイの良い中年の女性は迫力がある。晶鈴は恐る恐る尋ねてみた。


「あの、言葉は通じるかしら」

「もちろん。ここは長いのよ」

「どうやって占っているの?」

「え? 占い方? そんなこと聞かれたのは初めてよ」


 豪快に明るい声でハハハッと笑う彼女に晶鈴は少し安心する。


「実は、私も占い師で」

「へえ! お仲間ね! 」

「この町は占い師が多いようだけどやっていける?」

「平気よ。客はかぶらないし。あんたもここでやっていきたいの?」

「ええ。面倒なことにならなければ……」

「ああ、ほかの占い師に遠慮してるのね。気にすることはないわ。役所にだけ商売の届けを出しておけば別にいいでしょう。ちょうど、前にいた占い師がいたところに席を構えるといいわよ」

「あら、そんなところがあるの?」

「出入りの多い町だからね。占い師だって入れ代わり立ち代わりよ」


 気さくなこの金髪の占い師は晶鈴に色々と情報をもらった。勿論、晶鈴は彼女の客として占ってもらい料金を払う。


「何観ようか?」

「まあ、一応、今後のこと」

「インテリーゴ(わかったわ)」


 黒い布の上に美しい絵が描かれた手のひら大の紙片が置かれる。


「この紙をつかって占うの?」

「そうよ」


 初めて見るカードというものに晶鈴は目を奪われる。カードを混ぜる彼女は爪が長く伸びていて、その爪は赤く染められていた。太極府では見ることができなかった、占術を目の当たりにし晶鈴は興奮する。陳賢路老師に見せてあげたい、と久しぶりに太極府を思い出した。


「いい出会いがあるけど、あなたの運命も変わるわ」

「いい出会い……。運命」

「その運命はあなたにとっては不運でもあるし幸運でもある」

「そう……」


 晶鈴の表情を見て、女は笑んだ。


「何にでも当てはまることを言われてると思ってるでしょう」

「えっ、あ、いえ……」

「いいのいいの。たいていの占い師はそうだから。でも聞いてカードの言葉を」


 女の目がうつろになり、視点が定まらない。空気が変わった雰囲気に晶鈴は緊張して次の言葉を待った。


「あなたは不運でも幸運でもあるけど、あなたのおかげで助かる人がいる。そしてあなたの子供は父親のもとへ行くでしょう」


 ふうーっと息を吐いて女は肩を上げ下げする。


「と、こういう結果ね」

「父親のもとへ……」


 子供が隆明のもとへとは考えにくかった。


「まあまあ。未来は変わることもあるんだからね」

「ありがとう、いろいろと」

「じゃあね」


 銀貨を2枚支払って、晶鈴はまた町の中へと戻っていった。さっき教えられたとおりに役所に商売の届けを出すとあっさり受理された。さらにその去った占い師がいたところには都合よく、ぽっかりと場所が空き晶鈴を待っているようだった。日差しをよけるための天幕と机と椅子を用意すればすぐさま商売ができるようだった。


「まるでここに導かれたようねえ」


 落ち着くときはすんなり落ち着くものだと、晶鈴は新しい日が始まると新鮮な気持ちを持った。 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る