華夏の煌き~麗しき男装の乙女軍師~
はぎわら 歓
第1話
1 少女と小石
しゃがんだ少女が小さな手のひらを広げ、3つの小石を地面に転がした。小石はそれぞれ小さな繭のような形だが赤っぽいもの、黄色っぽいもの、青っぽいものと三色ある。彼女は指さし確認をするように転がった石を確認している。
「赤と青が遠くて、赤と黄が近いから……」
小首をかしげ少しだけ考え込んで「わかった!」と嬉しそうに声をあげた。その瞬間後方で「何がわかった?」と声が聞こえた。
しゃがんだまま振り返り見上げ「あっ」と立ち上がった。立派な装いと品の良い少年に少女は慌てて頭を下げる。おそらく王子のうちの一人であろう。肩までかかる艶のある黒髪はきちんと櫛で漉かれ、絹糸より美しい。透明感のある声と同様に、肌艶もよく透き通った印象を受ける。
「よい。面を上げよ。で、なにがわかったのだ」
少女と年が変わらないはずであるが、もう威厳のある振る舞いに少女は恐る恐る答える。
「今日、友ができると……」
「ほう。そなたは占い師か」
「はい」
「どれ、私も一つ占ってもらおうか」
「え、あの、まだ人を、あの、若様を占うことなど許可されてません」
「かまわん」
「で、でも……」
「早ういたせ」
「あの、ハズレても、処罰はないでしょうか?」
「はははっ。そんな心配をしておるのか。処罰などせぬ。安心いたせ」
「で、では……」
少女は石を拾い上げ、両手に包み三回振った。
「それっ」
手の中から飛び出した小石は地面に散らばって落ちた。
「えーっと」
さっきと同じように3色の石の位置や角度などを確認する。
「あらっ」
「どうした?」
少しだけ心配そうな雰囲気を見せた王子に「申し上げます」と笑顔を見せる。
「ん。申せ」
「若さまにも今日、ご友人ができるようです」
「ほう。なるほど。しかしもう、これからは寝殿にもどるだけだ」
「そうですか……」
「ということはつまり、そなたが私の友になるということだな」
「え? そ、そんな恐れ多い」
「そなたの卦にも同じことが出たのだろう?」
「確かにそうです」
「では、そういうことだ」
「はあ……」
「名は?」
「胡晶鈴と申します」
「そうか。晶鈴か、私は隆明だ」
「隆明さま」
「さまはいらぬ」
「で、でも」
「友にさまなど付けぬであろう」
気さくに言われても、王子を呼び捨てにするなど死罪も免れぬ不敬罪に問われると思い、晶鈴はうつむく。
「晶鈴はいくつになる?」
「11です」
「ふむ。私は12だ。隆兄と呼べ。私は晶妹と呼ぶことにする。それならどうだ」
「そ、それなら。あのほかの人がいなければ、そう呼びます」
妥協するような気持で晶鈴は頷いた。小石を拾いあげていると遠くから女官の声が聞こえた。
「若君ー。どこでいらっしゃいますかあー」
「やれやれ、ここで見つかると面倒だ。じゃあ、またな晶妹」
隆明はぱっと衣を翻し、茂みの中に入っていった。晶鈴はほっと胸をなでおろす。
「はあ、緊張した。あとで老師に若さまのことを聞いてみようかしら」
まだ占うことを許可されていないので、そのことは伏せて隆明のことを尋ねてみようと太極府へと戻った。
2 医局の少年
中央の朝廷から東に太極府は位置する。晶鈴は道の途中にある、医局の周りの様々な薬草を眺めながら歩く。
「医術と占術ってどこか似てるわね」
ぶらぶらしていると、かすかに叱咤されている声が聞こえた。声のほうにちらっと視線を向けると、軽装で裸足の少年が、年配の薬師に怒鳴られているところだった。
「あら、新しい見習いかしら」
初めて見る顔だった。がみがみ叱りつける薬師に少年は頭を垂れてはいるが、無表情だ。しばらく叱って気が済んだのか薬師は、茶色い衣の裾を翻し、去っていった。少年は立ち去ったのを見計らって、ぱっと晶鈴のほうへ走ってきた。
「こんにちは」
「あ、やあ」
晶鈴に気づき少年は声を返す。
「大丈夫だった?」
「なにが?」
「叱られてたでしょ? 何か失敗でもしたの?」
「ああ、食える草が生えてたからとって食っただけだ」
「まあっ。それは叱られるわね」
「らしいな。生えてる本数まで数えて管理してるってぎゃあぎゃあ言われたよ。今日来たんだから知らねえよ」
叱られているときは無表情だったが、目の前の彼は表情豊かで、率直な物言いをし飾り気がない。
「そうなのね。わたしは胡晶鈴。占い師見習いよ。あなたは薬師見習い?」
「俺は陸慶明。昨日試験に合格して、今日ついたとこだ」
「へえ。じゃあ、まだ見習いの宿舎は行ってないの?」
「これから行こうって矢先にさっきのあれさ」
「わたしが案内してあげるわ」
「そうか。悪いな。じゃ、荷物もってくるから、ちょっと待ってて」
素早い身のこなしで、慶明は小さな包みを持ってきた。
「これだけ?」
「うん。ここでなんでも揃うから、荷物はいらないって言われたから」
「まあ、そうね。こっちよ」
晶鈴は指をさして歩きだす。背格好の似ている二人は故郷はどこか話し合った。晶鈴はこの都のずっと北西からやってきたことを話す。
「占い師見習いも試験があるのか?」
「ううん。太極府で毎年、星の位置と易で見習いを選出するの。だけど、毎年出てくるわけじゃないみたい」
「そんな選び方なのか」
「わたしが来てから、まだ新しい人がいないからちょっと寂しいわね」
占い師見習いは、年によってばらつきが多い。、晶鈴が選ばれる前年に数名見つかったが、ここ最近めぼしい人材がいない。
「慶明さんのほかの合格者はいるの?」
「慶明でいいよ。同じ見習いだし。確か5人いるって聞いた」
「それは賑やかでいいわね」
「でも来年になるとどうかなあ」
「ああ、医局は厳しいものねえ」
占い師は一度選ばれ、入るとほぼずっと太極府にいることができるが、医局は毎年、試験があり、たとえ入局できてもふるい落とされることがあるのだ。
話しながら歩く慶明は時々視線を下に落とす。
「どうかしたの? 足が痛むの?」
裸足の慶明に、遠慮がちに尋ねる。
「いや。逆逆。これだけ滑らかな道じゃあ、ますます履物がいらないと思ってさ」
朝廷を中心にした王の宮殿には、医局と太極府、王、直属の軍隊の寄宿舎、後宮などがある。万が一の時、王のもとへ素早く馳せ参じるために、常に道は舗装されてあった。
「でもそのうち履物を履かされるようになるわよ」
「それが一番窮屈なことだよなあ」
慶明は南方の民族で、履物を履く習慣がないらしい。暖かい地方のようで衣も薄い。日に焼けた健康的な肌に、素朴で荒い生地が良く似合っている。貧しいから粗末な装いになっているわけではなかった。
「今はいいけど、ここは冷えるからきっと履くようになるわよ。あ、そこよ」
宿舎が見えてきたので晶鈴は指をさした。ほかの建物と違い、門も装飾はなく大きな箱のようだ。
「晶鈴はどこに住んでる?」
「ああ、わたしは女人用の宿舎が反対側にあるの」
「そうか。随分遠くまで案内させてしまったな」
「いいのいいの。こういうこともわたしには必要なことみたいだから」
「ふーん。そういうものか」
「じゃあ、ここで。またね」
「ああ、体調が悪くなったら俺が薬作ってやるよ」
「あははっ。また勝手に薬草とったりしないようにね」
踵を返し、晶鈴は来た道を戻った。袖の中の小石をまた手の中に戻し、こねるように撫でまわす。カチャカチャなる石たちの音を聞き、ふと今日の占いの卦を思い出す。
「あら? 友というのは、王子じゃなくて今の慶明なのかしら」
王子と友達になることよりも、薬師見習いの慶明と友達になるほうが自然なことのような気がする。
「まあ、どちらでもいいわね。やっと年の近い知り合いができたんだもの」
今度こそ、太極府へ戻ろうと着物の裾をまくり、小走りで道を進んだ。
3 太極府
門の前に兵士が二人槍をもって立っている。晶鈴は着物の汚れを簡単に払い、首から下げていた札を兵士に見せる。
「どうぞ」
「ありがとう」
兵士たちとは顔見知りで、お互いのことを知っているが、規則にのっとり太極府への通行札を見せるのだ。敷居をまたぎ石畳を歩く。医局は薬草などの植物だらけの場所と違い、太極府は庭は主に石で構成されていた。細長い黒い石と白い石が、易の卦を表している。晶鈴はポンポンっと一つ飛ばしに黒い石だけを歩いていく。今はまだ日が高いので、みな屋内にいるが、夕暮れ時からは星読みがぞろぞろと外に出てくる。
晶鈴は青色の厚手の靴を脱ぎそろえる。太極府のものはみな青い靴を履くことになっている。慶明は医局の色である白の靴を履かされるだろう。そういえば王子の隆明の靴の色を見る余裕はなかったことを思い出した。おそらく王子、王女の身に着ける黒であろう。今頃になって隆明の瞳と髪が、漆黒であったことを思い出す。
「わたしや慶明みたいな庶民とはやはり違うものねえ」
少し栗色をした毛先を眺め、慶明の黒いがゆるくくねった髪を思った。
「もし、ほんとうに友達になれたら……」
漆黒の絹のような髪に触れてみたいと思うのだった。
「これ、晶鈴。帰宅が遅いぞ」
長い白いひげを蓄えた、長身のほっそりした陳賢路老師が声をかけてくる。
「すみません。陳老師。今日は出会う人が多かったものですから」
「ほうほう。どれこっちで話を聞かせてもらおうかの」
老師のあとについて晶鈴は占術の邪魔をしないように静かに歩いた。隔てる壁やついたてはなく、占い師たちは各々研鑽している。細長い棒を何本も持つもの、水晶の玉をのぞき込んでいるもの、札を何枚も扱っているもの様々だった。
話をするときだけ、小部屋に入る。
「で、今日はどうであったかな」
優しそうに孫娘に語り掛けるようなまなざしを向ける。この太極府で一番権力を持つ彼だが、晶鈴は緊張することなく安心して話すことができる。
「えっと、あ、うーんと」
「どうした?」
王子のことを占ったことをどうごまかそうかと思案しているうちに、老師に続きを言われてしまう。
「今日は二回占ったであろう」
「はっ、あ、はい……」
「だから遠慮せずに申すがよい」
老師には隠し事ができないなと、晶鈴は詳細を話した。
「なるほど。友が二人。一人は王子か」
「隆明さまはどんなお方なのですか?」
「隆王子はとても聡明な方でな。学問もよくお出来になるし。この曹家の長子であるが、生みの母であった王后が亡くなられておる」
曹隆明は王の嫡男で王太子の身分ではあるが、現在の新しく建てられた王后に次男の博行が生まれたところだった。老師の暗い表情に晶鈴も不安になる。
「隆王子の代で、この曹王朝はますます発展するはずだが……」
「大丈夫ですよ」
「隆王子はお寂しいはずじゃからな、陰ながらお仕えしなさい。表にはあまり出ぬように」
「わかってます」
幼いながらも晶鈴には自分の立場がよくわかっている。孤独をよく知っている晶鈴は、隆明の孤独もよくわかった。今度誰もいないところで会えたなら、「隆兄さま」と呼ぼうと頭の中で練習した。
「さて、そろそろ石を増やそうかの」
陳老師は棚から小さな濃紺の包みを取り出す。晶鈴の目の前で、そっと包みを広げていく。中には透明感のある紫の小石が多くある。
「これはなんですか?」
初めて見る美しい宝玉のような石に晶鈴はうっとりする。
「これは流雲石というものじゃ、ほらここに文字があるじゃろう」
老師は印が刻まれたほうを上に向け説明を始める。色々な印があり、それぞれに意味があるようで、偶然を使って占い卜術の道具だった。
「こんなにきれいな石を占いに使うんですか」
「うむ。この石は霊力のある石で、むしろ占いにしか使えない。下手に装飾品などにすると、体調不良を起こしかねん」
「へえ」
綺麗な石よりも、輝かせる瞳で晶鈴は流雲石を眺める。老師はやはりこの道具を扱えるものは晶鈴しかいないと思っていた。
「晶鈴の住んでいた村よりもはるか西方のかなたから伝わったものだ」
「わたしの村よりも、もっともっと西……」
故郷の草原に思いを馳せ、さらに心を西に旅させる。手のひらに一つ紫の石を置いてみると、ひんやりとして硬いが、柔らかさも感じた。晶鈴の持つ力をこの石はより増幅させていくのだった。
4 北西の村
辺境にある小さな村では、あらゆる民族との交流があったので、逆に侵略におびえることも、戦乱に巻き込まれることもなかった。晶鈴の母は彼女を生んですぐ死んだ。父親もすでに他界していたので、晶鈴は、両親の顔を知らなかった。母親の兄夫婦に育てられるが、子だくさんの家族の中、十把一絡げの扱いで特に楽しくもなく辛くもなかった。兄妹に交じって家畜の世話をし、繕い物をする毎日だった。
彼女が7歳になった時に生活が一変する。この村では見たことのない華麗な馬車が到着する。馬車の前後には騎馬隊もついている。村人がざわざわ馬車に注目していると、馬車は広場に停まり、中から濃紺のつややかな衣に身を包んだ陳賢路老師が出てきた。白いひげを一撫でし村人たちに発令する。
「わしは中央から参ったものである。今日、太極府に招かれるものを探しにまいった。この村で母親を亡くした10歳以下の娘を広場に集めよ」
騒めく村人たちはああでもないこうでもないと話し合いながら、該当する娘を3人連れてきた。一人は最近、母を亡くした娘。もう一人は3年前に母を亡くした娘。そして自分の命と引き換えに亡くなった母の娘、晶鈴だった。
陳老師は3人を見比べる。二人の娘はもう10歳になるところなので、これは好機だとわかっていた。中央にいけば生活の保障はもちろんのこと、過分な望むを得ることさえできるかもしれないのだ。
晶鈴はぼんやり立ったまま、さっき草原で転んで、こすった緑と茶色の汚れた頬を撫でていた。
老師は懐から何個かの小石を取り出し、3人に見せる。手のひらには小石とヒスイやメノウなどの玉が混じっている。
「石の違いがわかるかね?」
一番年長の娘が、まん丸のヒスイを指さす。
「これが一番高価です」
二番目にもう一人の娘が四角いメノウを指さす。
「これが一番美しいです」
ぼんやりしている晶鈴に陳老師が尋ねる。
「君はどうかね」
「これが」
「これが?」
「えっと気持ちがあります」
すべすべして滑らかだが河原で拾ったような石を晶鈴は指さした。
「気持ち?」
「はい。なんか石にもしたいことがあるというか……」
まだ語彙の乏しい彼女はうまく説明ができなかったが、陳老師は目を細めて喜ぶ。
「うんうん。石は意志に通じる。よかったよかった。このような遠方まで来たかいがあったわい」
こうして晶鈴は、将来、国家に仕えるべく占い師見習いとして中央に向かうことになった。伯父夫婦や兄妹たちに別れを告げるが、お互いに感傷的になることはなかった。陳老師から多少の金銀を受け取り、伯父は丁重に頭を下げる。
「身体に気をつけてな」
「おじさん、おばさん、みんな、さよなら」
「元気でね」
平坦な感情であいさつを交わし、晶鈴は、陳老師とともに馬車に乗り込んだ。
「辛いか?」
「特に、辛くはないです」
「では、嬉しいかね?」
「さあ……」
感情的なことを問われても、よくわからなかった。毎日、同じ生活を繰り返し、何かを考えることも感じることも特になかった。貧しい村ではなかったので飢えることもなく、邪険にされることもなく自分の役割を黙々とこなして生きてきた。環境が変わることが、晶鈴にとってどんな変化が訪れることなのか想像もつかなかった。
「自分がどうして生まれてきたか。自分の天命など考えてきたことがあるかね?」
「テンメイ……?」
全く聞いたことのない言葉だったが、少し心に響いた。不思議そうな様子に陳老師は優しいまなざしを向ける。
「占い師は感情的にならず、思いこむこともないほうが良い。時間はたっぷりある」
晶鈴には何もわからなかったが、とりあえず委ねるしかないので考えることはしなかった。ただこの草原の景色はもう見られないかもしれないと思ったので、馬車の窓から同じ景色を見続けた。
5 晶鈴の日常
外敵と戦乱もなく穏やかな数年が過ぎる。晶鈴は着実に力をつけていき、朝廷にわずかながら貢献していった。彼女の専門は数か月の状況を繊細に観ることができた。本来は、王族に関することのみを観るが、こっそりと心付けを渡し、個人的なことがらを観てもらうものを多数いた。その行為は暗黙の了解で、とくに禁じられていなかった。彼女の技術も向上するし、多少の臣民の把握にもつながることだったからだ。相談してくる内容が、反政府に関することでなければ特に問題はない。
「晶鈴どの、晶鈴どの」
ふらふら歩いている晶鈴に茂みから、手をこまねくものがいる。腰まで伸びたつややかな栗毛を翻し、晶鈴は澄んだ泉のような瞳を向ける。振り向くと、昇進したばかりの図書を管理する張秘書監が赤ら顔で明るい顔を見せる。
「張秘書監、どうしました?」
「ちょいとお礼に。おかげさまで長官になることができました」
もそもそと懐から布にくるまれた金でできた貝貨をとりだす。
「ああ、もうそんなにいいわ。わたしが何かして長官になったわけじゃないから」
「いえいえ、どうぞどうぞ。もう一つ相談が……」
「そうなの? 何かしら?」
張秘書監はきょろきょろして、袖で隠すように耳打ちする。
「娘に縁談が来てまして、それが3件いっぺんに来たのですよ。どこを嫁ぎ先にしたらいいものかと……」
「どこでも選んで大丈夫? お断りできないとこはないのかしら」
「それは大丈夫です。娘も私の判断でよいと言っておりますし」
「そうなのね。じゃあ観てみます。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます!」
占い師見習いから占い師助手になっている。もう数年すれば占い師女博となり、後進を育てる立場にもなるだろう。今は見習いの宿舎から小さいながらも一つの小屋を与えられている。そして一人だけ身の回りの世話をする年若い下女がついていた。静かな庵の周囲には、色々な花が植えられているが、香りのするものはない。草原育ちの彼女にとってかぐわしい香りは、占いの邪魔になるのだった。
「そちらへどうぞ。春衣。ちょっと外で邪魔が入らないように見張ってて」
「わかりました。晶鈴さま」
晶鈴は中に張秘書監を案内し、下女の春衣を外に出す。二人は履物を脱ぎ、低い卓の前に腰掛ける。小さな小屋ではあるが、硬くしなやかな材木のおかげで、きしむ音はしない。防音されているようで全くの無音の部屋になっている。長い袖の中から、濃紺の絹織物の包みをとりだし、丁寧に広げる。広げた布の中にはまた一つ布袋が入っている。手のひらの乗るほどの布袋を膝に置き、晶鈴は婿候補の名前を尋ねる。
「苗字は言わなくていいわ。余計なことは知りたくないから」
「は、はあ。じゃ、じゃあ申し込んできた順に――幸、凱、頼です」
うんうんと聞きながら、晶鈴は小袋に手を差し込み、一つ、また一つと紫色の小石をとりだす。3列に3段並べ見比べる。
「そうねえ。幸さんはあまり出世はしないけど家を大事にします。凱さんは出世するけど家にあまりいない。頼さんは食うに困らないけど、人任せにするわ」
晶鈴の言葉を聞きながら、張秘書監はうーんと唸る。
「これは誰を選べばいいんじゃ」
「そうねえ。三者三様ねえ」
「晶鈴殿なら誰にします?」
「えー。私? さあー。聞かれても困るわ。私のことじゃないし。決めるのは当事者でしょ」
「まこと、まこと。おっしゃる通りで」
ふうっと大きなため息をつき張秘書監は立ち上がる。
「あら、お帰り? お茶は?」
顔の横で手を振り、張秘書監は「ちょっと夫人と相談します」と難しい顔で頭を下げて出ていった。晶鈴は静かに笑んで恰幅の良い後姿を見送った。
石を片付けていると、春衣が戻ってきた。晶鈴よりも一つ若い彼女は、尊敬のまなざしを向ける。
「晶鈴さまのように何か才があれば、結婚で夫選びに困ることはないんでしょうね」
「そう? どうして?」
「夫がいなくても生活ができるからですよ」
「うーん。確かにそうだけど、だれかと一緒のほうがいいと思うわよ?」
「そうですか? わたしの母は、父が酒にだらしない人でしたから苦労の連続でしたよ。母に生活の糧を得る手段があればよかったのですが」
春衣は母が夫の経済に頼るしかできない生き方を見てきたので、宮廷で下女という職を求めてきた。
「晶鈴さまなら、殿方に勝るとも劣らない出世が見込めますしね」
「さあ。このまま助手かもよ」
この王朝を開いた武王によって、男女問わず才を優遇される時代となっている。女の身であっても高官を望むこともできるのだった。ただ晶鈴には出世欲は皆無だった。
「ああそうだ、さきほど慶明様がいらしたのですが、占い中とお伝えしておきました」
「そう。なにか用事があったのかしら?」
「いえ、通りがかりだそうです」
「そっか。慶明は忙しいのかしらね」
「籠にたくさんの薬草を摘まれてました」
「また何か新しい薬が出来上がるかしら」
時々、新薬を作り出し慶明は自分の身体で確かめているようだった。また確かめる前に晶鈴に効果の有無や害を尋ねる。彼のほうは順調に出世街道を歩いているようだった。晶鈴は周囲の人たちの願望や欲望を静観してきた。みんな何かしら目的があるようだ。決して冷めているわけではないが、常に平常心である自分は他の人と違うと感じている。その平坦さが、占い師たるゆえんであるが自己分析をすることはなかった。
6 慶明の新薬
棗の粥を食べ終わったころ、慶明が湯気の出ている椀をもってやってきた。すらりと高い背を屈め、小屋に入ってくる。出会ったときは同じくらいの背丈の少年が、今では頭二つ分大きく、更には立派な体格を持っている。履物には慣れたようで、もう部屋に入って直ぐ脱ごうとはしなくなった。
「晶鈴。これが安全かどうかみてくれ」
向かいに腰を下ろし、慶明は椀を差し出す。ふわっと青臭さが立ち上り、口の中に苦味を感じさせる。
「危険なものを調合しないでよね」
「しょうがない。組み合わせの相性があるのだから。人もそうだろ?」
薬草同士でも組み合わせによっては毒になることもあり、毒草でもまた薬になることがあった。椀の中身について占うために粥の椀を春衣に下げさせ、手洗いの桶を持ってこさせる。
手を洗い、少し気持ちを落ち着けて流雲石を並べる。
「大丈夫そうよ」
「よかった。じゃ飲んでみるか」
椀をぐいっと傾け、一気に流し込む。
「うーん。味は今一つだなあ」
目を細め、顔をしかめる慶明にこの薬の効能を尋ねる。
「今回の薬は心に効くものだ。暗い気持ちが明るくなるんだ」
「酒ではだめなの?」
「酒は冷めるともう気分が沈むし、体質的に飲めないと無理だろう? これは常用すると気疲れと不安症がなくなるんだ」
「へえ……」
なんだかよくわからない薬だと思っていると、慶明は鼻でふふんと笑う。
「何よ」
「晶鈴には必要にない薬ってことさ」
「まあ!」
馬鹿にされたと思い、晶鈴は膨れる。
「さて、依頼主に渡してくるか」
慶明も晶鈴同様に、医局の仕事以外での調合も引き受けることがあった。ほかの薬師も調合をするが、慶明と違い従来の伝統的な調合しか行わない。慶明は自分の調合を創り上げている。禁止された行為ではないが、危険を伴うため、まず自分で飲むことを義務付けられている。何年か前に、新薬で命を落としたものがいるようだ。
慶明はその者に対して、自分のように占ってもらえばよかったのにと思う。彼は新薬を作り出したい気持ちが湧いたとき、飲む前に晶鈴に観てもらおうと考えていた。彼女には内緒だが、最初は試すつもりで、新薬と偽り、既存の薬や、下剤などを観てもらった。薬には安全が保障され、下剤には不安な結果が出た。今では彼女の出す結果を、自分の薬の効能よりも信じているぐらいだ。
「じゃ、お礼」
「あ、ありがと」
慶明は小箱を渡す。中には月に一度、ひどい頭痛を起こす晶鈴のための鎮痛薬が入っていた。
「それではまた」
軽い足取りで去っていく慶明を見送った後、そっと春衣が耳打ちをする。
「今日の慶明さまも素敵でしたね」
「そう?」
青年になってからの慶明しか知らない春衣には好ましい男性のようだ。少年時代、履物も着物もすぐ脱いで、落ち着きなくうろうろしていた姿を知っている晶鈴は、春衣のように憧れる気持ちを持てなかった。
「面白い人だけどね」
役に立つかどうかわからないような新薬も作り続ける慶明は、ほかの人とはやはり変わっていた。二人は幼なじみのような親しさで、仲良くやってきた。そのため周囲は勝手にこの二人がいつか夫婦になるだろうと思っている。春衣も、晶鈴に仕え始めた時、慶明と一緒の様子を見ててっきり恋人同士だと思っていたが、今ではすっかり晶鈴にその気がないことを知っている。ただ慶明はどうかと問われると、晶鈴に対して幼なじみ以上の思いがある気がする。一度、そのことを晶鈴に言ってみたがそんなことはないと笑い飛ばされてしまった。
「慶明さまのお気持でも占ってみればよいのに」
なんでも見通すことができる晶鈴は、自分のことはまるでご存じないのだ、と春衣は温かい気持ちで眺めた。
7 立太子
王である曹孔景は、長子である隆明を太子に立てることを決め、その儀式を執り行う日を定めるべく陳賢路を呼びつける。陳賢路はすでに吉日を用意して王に謁見する。王に三回拝礼すると「面を上げよ」と声がかかった。
「どうだ。よい日は」
「大王、こちらをご覧ください」
恭しく書状を差し出すと、側仕えの文官が受け取り、孔景に献上した。孔景は巻かれた紙をさっと広げ右から左へ目を通す。
「実はこの日は王后の誕生日なのだ」
どうにかならないものかと、孔景は目で陳賢路に合図をおくる。現在の王后は気が強く、長子の隆明の立太子に反対することはもちろんないが、自分がないがしろにされたと思えば、機嫌は悪くなるだろう。孔景は先祖代々の教えを受け継ぎ、安定した治世を行っている。王后の機嫌や気分などで、朝廷が不安定になることは避けねばならない。
実際にどんなに良い治世であっても、王の死後、王后とその親戚などによって王朝が傾くことが多々ある。現在のこの王朝はその歴史から学び、後宮における王の妃は多くても5名までである。それ以上の数を置いても、維持費や後継ぎ、寵愛の有無など、問題が増えるばかりになる。先の王后が亡くなったので、年功序列で今の王后が繰り上がったのだ。
袖の中から別の書状をとりだし「では、こちらを」と陳賢路は差し出す。このようなこともあろうかと、吉日は複数選んであった。
「好い! この日に儀式を行う」
「ははぁ」
孔景は満足し、ほっとした表情を見せていた。
「では、下がってよい。次の手筈も頼むぞ」
「御意にございます」
陳賢路は丁重に拝礼をして朝廷を後にした。石の階段を、足を踏み外さないようにゆっくり降りていると、太子となる王子の隆明が目に入る。立派な青年となり、王はもとより臣下からの太子への呼び声は高かった。
「博行さまも立派ではあるが、隆明さましかおるまい」
博行も隆明に劣らず、文武両道で美丈夫であるが、身弱であった。剣の腕に優れているが、長く鍛錬すると微熱を伴い床に臥すことも多かった。最近は、医局のホープ、慶明が献上している、強心剤のおかげで安定した健康を保っている。
先の王后と、現在の王后は2つしか年は離れておらず、王子たちも同じ年の差だった。このわずか2年の差に、現王后が歯がゆい思いをしているのは誰の目でも明らかだった。しかし占術の結果でも、隆明が太子となり、王となることは王朝の安定に必須だった。隆明の星は王の星であり、人を統べる星なのだ。その王の星を持つ王子を生むべく選ばれたのが、もちろん先の王后だ。残念なのは、彼女が早世してしまったことだ。
陳賢路はより白くなった長いひげを撫で、青い空を見上げ夜空の星を思い起こす。
「昼間は星が見えん。見えないものがあるのは仕方がない」
常々占術によって最善の選択をしてきた王朝だが、やはり予想外のことも起きてしまう。人々や物事が、宿命によって決まった末路をたどることはないが、星読みの陳賢路にとってのジレンマでもあった。また老いてきた自分の残された時間も気になっている。医局には慶明のような次世代を担う人物がいるが、太極府ではとびぬけたものが出ていない。的中率の高さでは、晶鈴が群を抜いているが彼女は短期間のことしか観れない卜術使いだ。できれば長期間観ることができる、星読みを後継者にしたかった。
「これも天意だろうか」
10年に一度は出ていた突出した存在が今は現れぬ。今夜も夜空を見ながら、星の瞬きに尋ねるしかないと陳賢路は太極府へと向かった。
8 太子
一人だけ従者を連れて、隆明は太極府を訪れた。
「ここはいつも静かだな」
太極府には人がいても、じっと探求と考察を続ける場所なので、雑音が少ない。今聞こえるのは、カタ、カタと算木を置く物音や、書物のめくれるかすかな摩擦音ぐらいだった。従者を外で待機させ、勝手知ったる太極府の中をどんどん進む。かといって、王子が来たなどと権威を示すようにずかずか上がり込むことはない。そっと忍び足のように『卜』とかかれた部屋に入った。部屋には一人、晶鈴だけが隅のほうで座って石を並べている。囲碁の石を置く音よりも優しい、コトリ、コトリという音を、心地よく隆明は聴く。
熱心な晶鈴は、隆明が来たことに気づかずに石を並べ眺めている。邪魔をしないように隆明も彼女を眺める。出会ったころの幼い少女はすんなりとした肢体を持つ清らかな乙女となった。ほかの女人と違い、彼女は捉えどころがなく感情もつかめない。青年になった隆明を見つけると、女人たちは好意的な、何か含みのある目線を送ってくるが晶鈴にはまるでない。それが安心感でもあり、不満でもあるむず痒い感覚だった。丸かった顔も面長になり、聡明さがより顕著になってきた。しかし瞳の無垢さだけは出会ったころのままだったと思い出している最中に「隆兄さま」と声がかかった。
「ああ、晶妹」
「ぼんやりなさって。もう太子になられるのですよ? しっかりせねば」
「口うるさいなあ。そのようなことを言うのは、そちだけだぞ?」
「このようなところを陳老師に見られたら……」
「大丈夫だ。さっき父王のところにいたし、ここまで帰るのにまだまだ時間がある」
隆明は、美しい萌黄色の着物がしわになるのを気にせず横たわっている。彼にとってリラックスできるの晶鈴の前だけだった。まだ、まとめて結い上げてない漆黒の髪はつややかに床に流れている。何百年と続く王朝は代を重ねるごとに、髪を豊かにし、闇のような黒さをもたらせる。潤った肌はきめ細かく白い。隆明はまるで、この王朝の集大成のような美しさを持っていると噂されている。
「もうここへ気楽には来れませんね」
珍しく感情的なことを言う晶鈴に、隆明は少しばかり明るい気持ちになる。
「寂しいか?」
そう尋ねられても晶鈴にはわからなかった。しかし隆明の残念そうな表情を見るのは嫌なので「ええ……」とあいまいに答えた。
「太子となってもまた来る」
「それは……」
確かに太子となっても、本格的に政治にかかわることは先なのである程度は自由の身だ。ただ太子の儀式の後、太子妃選びが待っている。彼が妃を召せば、晶鈴に気軽に会う行為を咎められることもあろう。法によると、太子になってまず正室を娶り、その翌年側室を2人、入内させることになっている。
晶鈴も隆明もまだ少年少女と大人の狭間で揺れ動き、男女の情念には疎かった。お互いに対する感情にもまだ名称はなかった。
「とうとうその髪も結い上げるのですね」
「そのようだな。このままでも冠を被ることができるだろうに」
「でも、結い上げた髪にかぶったほうが恰好がいいですよ」
「そうかなあ」
「でも、兄さまの綺麗な髪が見られなくなるのは残念」
そっと長い毛先を撫でながら晶鈴がつぶやくと「ここに来たら冠をとるさ」と隆明が明るく言う。
「だめですよ。他所で冠を脱いで帰ったなんてことがばれたら」
「はははっ。そちが結えばいいだろう?」
「無理です。私はあまりそういう器用さはないんです」
本当に太子になってもこうやって楽しく会えるのかどうかわからない。公的な場で、太子が占い師として晶鈴を召すことは可能だ。
「時間が経つのはあっという間だな」
出会ってから数年間は自由に2人は会って楽しい時間を過ごすことができた。王子や姫たちの境遇は、何らかの立場が決まるまで比較的自由だった。
「そういえば今まで何も占ってもらったことがないな」
「ああ、そうかも」
なにも悩みのない隆明は占いを望んだことはなく、晶鈴も占おうかといったことはない。占ったのは初めて出会った時だけだった。会えば、庭で毬を蹴ったり、石を飛ばしたり馬に乗ったりと子供らしく遊んできた。年の近い弟の博行とは、王后がまだ幼いからと一緒に遊ばせなかった。隆明にとって気兼ねなく遊べる、年の近いものは晶鈴だけだった。
「遠乗りでもするか」
「だめだめ。儀式が控えてるのでもし怪我でもしたら……」
「はあっ。つまらん」
「儀式が終れば遠乗りもできますし、もっと楽しいことがお出来になりますって」
「例えば?」
「えーっと。もっといろいろな演奏や舞踊を観たりととか」
儀式が済めば、国中が賑やかな祭り状態になるだろう。すでに数多の舞踊団が、披露のために鍛錬しているはずだ。
「やかましいのが楽しいのかなあ」
「もうっ。ちょっとはお立場も考えていただかないと」
「はいはい。晶妹は太子師傅よりうるさいな」
「師傅どのが、甘いのでは?」
率直に臆せず話す晶鈴が、隆明にとって一番居心地の良い相手だと改めて思う。もう少し一緒に過ごしたいと思う頃、正午の鐘がなる。
「もうお帰りにならないと」
「そうだな」
するっと立ち上がり、名残惜しそうに隆明は部屋を一通り眺める。
「何か、欲しいものはないか?」
晶鈴は笑んで首を横に振る。隆明も返事がわかっていて聞いた。この穏やかな時間がもう少し欲しいだけだった。
9 王太子妃
地方官からの推挙にて、年齢、教養、美貌、品性、そして特技のあるものがプロフィールと共に絵姿が届けられる。中央の大臣の娘から正室を選ぶことはない。王妃の親戚の権力によって、王朝が覆ることがあるため花嫁は中央の権力から遠いものが選ばれる。また王妃になったからと言ってその家族が、おのれの能力の発揮以外で権力が与えられることはなかった。
初代の王、武王によって才能のあるものは尊ばれており、家柄や、重臣の家族とい理由で高い地位を得られることはない。おかげで地位を保つために大臣たちは、己の子息子女を甘やかすことなく教育している。また貧しい家庭でも何かに秀でていれば、どんな出自であろうと地位や出世が保障される。国家の基盤になっている『唯才是挙』は求賢令で出されたときに混乱を招き、うまく適合されないものだったが今ではすっかり定着している。
発布された当時は目に見える技術だけに限定されがちであったが、時間をかけ、ゆっくり浸透していき、人々は己の適材適所を見つけることができている。誰でも何か一つはできるものがある。幼いときから『才』を意識していることによって、それを育み自己実現が伴うおかげで、今の王朝は全盛期を迎えている。
数多居る花嫁候補の中から東の地方長官の娘、呂桃華が選ばれた。桃華は豊かな艶のある黒髪を持ち、透明感のある肌に小さな赤い唇がさくらんぼのように愛らしく乗っている。そして美しい指先は楽器の演奏も巧みだった。
王太子妃決定の知らせを受けた夜、家族は喜び大宴会を行う。近隣の庶民たちにも酒と馳走を振る舞い、小さな村は新年のようなお祭り騒ぎになった。
その喧騒の中、当人の呂桃華は青い顔でため息をついている。
「姉さま、もっと喜ばないと」
双子の妹である李華が声を潜めて耳打ちする。
「まさか、選ばれるなんて……」
「名誉なことだわ。いずれ王妃になるのよ?」
「王妃なんて……」
姉の桃華が暗く沈む理由は、杏華にもよくわかっていた。桃華には下っ端役人の恋人がいるのだ。このことは両親も知らない。杏華のみ知っていることだった。
「一ヵ月もすると中央から迎えが来るわ。今のうちに話し合っておかないと」
「……」
桃華は首を横に振り「やっぱり嫌だわ……」とつぶやき、杏華の手を取る。
「ねえ。杏華が行ってくれないかしら?」
「えっ!?」
「父上も母上も区別がつかないときがあるのよ。あなたが行っても絶対にばれないわ」
「で、でも。この王太子妃選びは、占術ででも選ばれてるのよ? 人が違えばいくら双子だとは言え……」
合理主義で現実的な政治と、占術による神権政治が結びついていることを地方長官の娘といえども重々承知している。
「だって、だって生まれた時間がほんの一刻違うだけなのよ?」
「で、でも、欺くのよ? それも王や王子、国をよ?」
あまりにも畏れ多いことに杏華は震える。
「じゃあ、もう、彼と駆け落ちするしかないわ……」
「姉さま!」
目の前の恋に冷静な判断ができない姉の桃華を、杏華は心配しながら、反面呆れてしまった。桃華が駆け落ちなどしてしまえば、家族全てに責任が降りかかる。今では、身を割くような極刑はなく、父親の職を剥奪されることもないであろうが、この王太子妃を選ぶために使った莫大な経費を要求されることになる。そうなれば杏華はとにかく裕福な商人のもとへ嫁ぐことになるだろう。
「ねえ、お願いよぉ」
昔から桃華は自分の意見を曲げることはなく、すべて押し通してきた。本人に悪気はないようだが、これは杏華にとって脅迫とも思えるお願いだ。
「姉さま……」
国を欺くか、賠償金で苦しむか。なぜ自分がこのような選択を強いられているのか杏華には訳が分からなかった。ただ姉に対して、今まで積もっていた鬱憤が憤怒に変わることがわかる。
「いいわ。代わりに行ってあげる。でも、後でもう一度入れ替わることは絶対にできないのよ?」
「もちろん、承知してるわ」
青白い顔がみるみる桃色に紅潮し喜びにあふれてくる。事の重大さをまるで分っていないような姉に杏華は殺意すら覚える。若い身空でもう墓場まで持っていく秘密を抱えてしまった杏華は、とにかくばれないことだけを考え始めた。
10 婚礼
無事に王太子妃になる呂桃華が後宮に送り届けられた。婚礼の儀までの3ヵ月ほど、彼女は王妃と教育係によって後宮の礼儀作法などを教え込まれている。
王子よりも先に、薬師の陸慶明が第一夫人を娶っていた。めでたいことに夫人は懐妊したようだ。
「よかったわね。これで跡継ぎに心配がないかしら?」
胡晶鈴は新薬の安全性を占いに来た慶明に、笑顔を見せる。
「さあね。能力はわからないしな」
「あら。慶明と才女である奥方のお子なら申し分ないでしょう」
「どうだかな」
王女たちや大臣の娘たちの教育係である女傅と慶明は結婚した。
「今年はおめでたいことが多いわ」
心からそう思っているようなそぶりに、慶明は苦い思いを感じる。自分が結婚するかもと、話をした時も屈託なくおめでとうと言われた。幼いときから長く過ごしてきた晶鈴に特別な気持ちを抱いてきた慶明にとって、彼女のあっさりとした祝いの言葉は胸を痛めた。
結婚話が来たとき、家柄と地位の安定している女傅は慶明の野心にとっては魅力的だった。お互いに会ったことはなく、女傅の父親が将来有望な慶明を気に入って持ってきた話だった。女傅は教養はもちろん高く、性格もおとなしくて従順だ。お互いに仕事に誇りを持ち穏やかな生活を築いている。この結婚を失敗だと思うことは一生ないだろうと慶明は感じている。
しかし、晶鈴と結婚したらどうであったのか、それをついつい考えてしまう。彼女にプロポーズする勇気はなかった。全くその気がないのがわかっていたし、友人としての位置さえなくすのが怖かったからだ。
太極府の者は生涯を独身で過ごすものが大半だった。特に結婚を禁じられているわけではないのに独りでいる。晶鈴を含む彼らは自分の血統を残したいと思わないものらしい。それゆえに『観る者』なのかもしれない。
「晶鈴は結婚したくないのか?」
「さあ。あまり気にしたことがないわね。今のままで何も困らないし」
「求婚されたらどうする?」
「占ってみてから考えるわ」
「そうか」
明るく気さくな晶鈴は、慶明の野心をフラットなものに変えてしまう。自分の意志を変えてしまいそうな影響力の強さも、慶明が彼女を得たいと思う気持ちにためらいを見せるのだった。
慶明には目標がある。流行り病で子供たち、つまり慶明の兄妹を次々と亡くし心を病んでしまった母を救うことだった。一時的に感情を回復させることもできたが持続はしなかったし、子を亡くしたことだけを忘れさせることも難しかった。枕のような布切れの塊をいつも二つ抱いて歌を歌っている。父はそんな母を疎ましく思い、家に寄りつかない。
母を回復させるには、知識とともに経済力と地位が必要になってくる。金があれば貴重な薬草を調合することもでき、地位のおかげで遠方の珍しい素材を手に入れることができるのだ。母に効果的な薬ができれば、早馬を飛ばし飲ませに行っている。
前回は貴重な龍の髭と、人の形をした西方の薬草、万土等胡等というものを組み合わせ煎じて飲ませた。効果は高く、うつろな目に光が戻り、子を亡くしたことと、慶明を認識した。母は慶明の医局での様子を聞きたがり、話すと顔をほころばせ「出世したのね」と慶明の頬を撫でた。
10年ぶりとも思える母との触れ合いはとても嬉しいものだった。もう青年であったがその日は母に甘えに甘え、一緒に眠ったが朝になると、また母は布切れの塊を二つ抱いていた。
母のことは晶鈴にも話していない。晶鈴が両親を亡くし、母親の兄夫婦に大勢の子供たちと雑多に育ったことは知っている。そのことに比べれば、心の壊れた母でもいる自分はまだ良いのだろうかと思う。晶鈴と自分は孤独を知っているが違うものなのだろうか。
「難しい顔をしてるわね。これからお子も生まれて賑やかになるでしょうし、仕事も順調なのにね」
「あ、ああ、まあな」
いつの間にか考え込んでいた慶明は、はっとして我に返る。咳ばらいをしながら「ちょっと今後のことで占ってもらえるか?」と空気を換えるように晶鈴に頼んだ。
「いいわよ。今後の、何?」
「うーん。これってことはないが」
「漠然とすると漠然とした答えが出てくるわよ?」
「それでいい。俺自身の今後ってことで」
「あら、そう? 珍しく適当な内容ね。じゃあ、観てみるわ」
晶鈴は小袋を両手で優しく包み込むようにもんだ後、中から紫色の流雲石を一つとりだし台に置く。コトリ、コトリと5つ並べてじっと観る。
「どうだ?」
「そうね。何か新しいことがおこるわ」
「新しいこと? 子供か?」
「いえ。もっと元々あったことに変化がありそう」
「それは良いことか? 悪いことか?」
「おそらく良いことよ」
「ならばよいか」
「でも――」
「でも?」
「そのあと別離があるわ。悪いことではないけど」
「別離……」
まさか母ではあるまいなと考えるが、彼女は身体はいたって健康だった。もちろん慶明の薬の効能も大きい。出産時に夫人の身に何かあるのではないかと心配になってきた。その気持ちを察したのか「大丈夫よ。命には関係ないと思うから」と晶鈴が笑顔を見せた。
「そうか。それなら。別離つきものだからな」
ほっとした慶明は「さて、そろそろ」と腰を上げる。
「お疲れ様。自分のことも養生してね。ちょっと働きすぎじゃない?」
「ははっ。それは大丈夫だ。強壮剤を飲んでいるからな」
「まったく薬ばっかりに頼っちゃって」
「それが仕事だからな。じゃあ、また」
「またね」
いつもと何も変わらないと思う晶鈴を眺めると、慶明は安心した心持になる。もう少し着飾れば、後宮入りもできそうなのになと素朴な彼女と、彼女そのもののような質素な住まいを後にした。
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