知りたくない『なにか』


 居酒屋を出たその後はどこにも寄らず真っ直ぐ自宅へと向かった。


 理央はいったい何を言おうとしていたのか。そんなことを考えると、言い表せぬほどの不安が足下からわき上がってきていた。


 早く家に帰って安心したい。そう思っていた。

 しかし、こういう時に限って誰かに出くわしてしまうものである。マンションのエントランスに足を踏み入れたところで、そこを掃除していた瀬野さんに声をかけられてしまったのだ。


「遥ちゃん、おかえりー」


 瀬野さんのことは嫌いではない。色々と相談にのってもらったこともあるし信頼している。だが、今は一刻も早くコータに会って、この気味の悪い不安感を払拭したかった。

 とはいえ、いつもお世話になっているというのに挨拶を無視するわけにもいかないだろう。わたしは仕方なく足を止めると「こんばんは」と頭を下げた。


「こんばんはー。……あら、今日はお酒を飲んできたの?」


「ええ。本当は朝まで誘われたんですけど、コータのことも心配で断って帰ってきたんです。……ていうか、わたしの顔、赤いですか?」


 わたしは自分の頬をなでて尋ねる。

 アルコールに弱いつもりはないのだが、少しお酒を飲んだだけですぐに顔が赤らんでしまう。わたしは、そんな自分の体質がたまらなく嫌いだった。


「少しね」


 瀬野さんはふふっと微笑む。


「でも平気なの? コータが可愛いのはわかるけど、そんなに猫ばかり優先させちゃったら彼氏さんがやきもちを焼くんじゃない?」


「いえいえ、今日はアラサー独身女子の飲み会ですから大丈夫です。そもそも、わたし、彼氏なんていたことないですから」


「え?」


 わたしの言葉に瀬野さんは目を丸くした。


 それは居酒屋での理央や紀子と同じ反応だ。いったいなんだというのだろうか。どうして、わたしが口を開くと、みんなこうも驚くのだろう。


「瀬野さん? どうされたんですか?」


「え……いや、遥ちゃんって彼氏いなかったっけ?」


「いませんよ」


「え、でも、前に……」


「いないって言っているじゃないですか。また誰かと勘違いしているんじゃないんですか?」


 瀬野さんがしつこいので、ついついトゲのある言い方になってしまう。反射的にとはいえ、普段よくしてくれている人にそんな態度をとってしまったことに、わたしは少し自己嫌悪に陥っていた。

 しかし、当の瀬野さんはそんなことを気にしてはいないようだった。ただ、未だに納得がいっていないようで、しきりに首をひねっている。


「そうなのかな……。いや、でも、遥ちゃん本人から付き合いの長い彼氏がいるって話を聞いたと思うんだけどなぁ……」


 なにを言っているんだろうか、この人は。現時点でわたし本人がそれを否定しているのだから、その話は瀬野さんの記憶違いで間違いないではないか。


 そう。瀬野さんの記憶違い。

 そのはずなのに――どうしてこんなにも居たたまれない気持ちになるのだろう。


 酔いはすっかり醒めていた。代わりにわたしの心拍を速まらせているのは恐怖だ。底知れぬ恐怖により、全身から冷たい汗をかいていた。


「し、失礼します!」


 わたしは瀬野さんから逃げるかのようにその場を去っていた。


 なにかがおかしい。


 どうして、わたしの発言と周囲の反応にこんなにもずれが生じているのだろうか。


 絶対になにかがおかしい。


 でも、その『なにか』を知りたくなかった。それを知ってしまったら自分が不幸になる気がしていた。


 わたしは、豪雨のあったあの日と同じように、コータと出会ったあの日と同じように、エレベーターは使わず階段を一段飛ばしで駆け上がっていた。気分がいいからではない。体を酷使すれば恐怖を紛らわすことができるんじゃないかと思っていたのだ。

 しかし、そんな考えもむなしく、三階にたどり着いても、わたしの胸中に渦巻く恐怖心はこびりついたままであった。

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