コータ


 自宅に入ると、とりあえず濡れた衣服を洗濯機に脱ぎ捨て、一直線で風呂場へと向かった。もちろん黒猫も一緒だ。

 わたしは浴槽の方でシャワーを浴び、黒猫には洗面器にぬるま湯を張ったものに浸からせた。暴れるかなと思っていたが、黒猫は存外おとなしく、小さな湯船を楽しむかのように目を細めている。


 水を怖がらない猫というのも珍しいのではないだろうか。もしかしたら、この子は飼い猫で、飼い主ともこうしてよく風呂に入っていたのかもしれない。


 そこでふと大事なことに気づく。


 そうだ。この子は飼い猫なのか、それとも野良なのか。いったいどっちなのだろう。


 わたしは、洗面器のふちに顎を乗せている黒猫の頭をそっとなでる。


 首輪はつけていないし、ほかの猫との喧嘩で怪我でもしたのか左耳が少しだけV字に欠けている。だが、それだけで野良と決定づけるのは安直であろう。毛並みはつやつやで綺麗だし、人に慣れているようだから飼い猫という可能性も十分ある。

 もし飼い猫なら、きっと飼い主は心配しているに違いない。それならば明日にでもこの子の家を探してあげるべきだろう。


 でも――

 できれば野良であってほしいと思っていた。


 わたしは、元々動物が好きなほうだ。

 猫は飼ったことはないが、実家ではゴールデンレトリバーを飼っていたし、小学生の頃はウサギの世話をする生き物係もやっていた。

 だが、一人暮らしを始めてからペットを飼ったことがなかった。学生時代は自分の時間を大事にしたかったし、仕事を始めてからは忙しくてそんな余裕がなかったのだ。このマンションだってペット可の物件だったのだが、今まで飼おうと考えたことすらなかった。


 しかし、こうして動物と触れ合ってみると、やはり癒される。特にこの黒猫には運命的なものを感じていた。

 雨宿りのために偶然このマンションに入り、何十とある部屋の中からわたしの部屋の前でくつろいでいたのだ。なにか特別な縁というのものが、この黒猫とわたしを結びつけているように思えてならなかった。


 それに、今日この日に出会ったことに意味があるのだ。

 だって……だって、なんだっけ? なにか大きな出来事があった気がしたが、それがなんだか思い出せない。


 ……まあ、いい。


「なあ、お前、うちの子になるか?」


 黒猫を湯船から上げ、バスタオルで丁寧に拭きながら、わたしはそう尋ねる。すると、くすぐったそうな表情をしながら黒猫は「みゃあ」と小さく鳴いた。


「そっか。お前もうちの子になりたいか。嬉しいこと言ってくれるじゃないの」


 鳴き声を都合よく解釈して、黒猫の頭をくしゃくしゃとなでてやる。

 頭をなでられるのが好きなようで、黒猫はゴロゴロと喉を鳴らし始めた。


「しかし、あれよね。こうして『お前』なんて呼ぶのも味気ないわよね。本当に一緒に暮らすことになるかはまだわからないけど、少なくとも一晩は一緒にいるわけだから、なんか呼び名が必要よね」


 わたしは、なにかいい名はないかと思案する。そして、すぐにひとつの名前を黒猫に提示した。


「コータ!」


 特に理由があったわけではない。ただ、この名前がぱっと頭に思い浮かんだだけ。そう、理由なんかない。

 だけど、なぜかこの黒猫にはなにがなんでもコータと名付けたかった。


「どう? コータ。いい名前でしょ? これからお前はコータよ」


 わたしの宣言に対し、コータはくるりと後ろを振り返ると、大きなあくびをしながらしっぽを天井の方にピンと伸ばした。その体勢だと自然とコータのお尻が視界に入るわけなのだが、そこでわたしは驚愕の事実を目の当たりにしてしまう。


 コータのお尻の穴の下には男性のシンボルともいえる『あれ』がついていなかった。


 つまり、コータはメスだったのだ。

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