黒猫の名は。
笛希 真
豪雨と黒猫
ゲリラ豪雨というやつだろうか。
日も暮れて、辺りが薄暗くなる中、不意に強い雨が地面を濡らした。
バケツをひっくり返したような雨とはよくいうが、これは風呂の底が抜けたような雨といったほうが的確かもしれない。それくらいの土砂降りだった。
そんな豪雨にさらされながらも、わたしは傘もささずに家路を歩いていた。
もちろん服はびしょ濡れだ。白いワンピースを着ているから下着が透けて見えているかもしれない。そんなことを考えながらも、わたしは歩みを速めることもなく、のろのろと左右の足を交互に動かしていた。
雨はいい。
――いや、普段なら雨は嫌いだ。
低血圧なので雨の日は大抵頭痛に悩まされる。髪の毛も上手くまとまらないし、靴だって汚れてしまう。なによりも、面倒くさがり屋のわたしとしては、傘を持って出歩かなければならないのが一番の難点といえた。
でも、今日は――今日だけは違う。
突然の雨を降らせてくれた神様に感謝しているくらいだ。
この雨はすべてを洗い流してくれる。
楽しかった思い出も。
振り返りたくもないつらい出来事も。
目からこぼれる涙すらも。
上空から散弾銃の如く降り注ぐ雨粒ひとつひとつが、ままならない現実を打ち抜いてくれるような気がした――
――そして、自宅のマンションが見えた頃には、本当に気分が晴れやかなものへとすり変わっていた。
「
浮かれ気分でエントランスホールに入ると声がかかった。このマンションの管理人である
マンション管理人なんて聞くとおじさんというイメージがあるかもしれないが、ここは女性専用マンションということもあり、瀬野さんも女の人である。年齢は聞いたことはないが、おそらく四十代。姉御肌でマンション住民のよき相談役といえた。
管理人室の小窓から顔を出し、瀬野さんは言葉を続ける。
「ホント、急に降り出したもんね、雨。天気予報じゃなんにも言ってなかったら、傘を持って出た人は少ないんじゃないかしら。てか、タオル使う?」
「いえ、大丈夫です。わたしの家ここですから」
「そりゃそうだ」
そんなやりとりをして、わたし達は笑い合った。
わたしはどちらかというと人付き合いが得意な方ではないが、瀬野さんとは時々こうして冗談混じりの会話をする。やはり瀬野さんの接しやすい人柄のおかげであろう。
「それより遥ちゃん、お早いお帰りじゃない? 今日ってデートだったんじゃなかったっけ?」
「え? 違いますよー。今日はひとりでショッピングに出かけただけですって。誰かと勘違いしているんじゃないですか?」
「あれ、そうだっけ? うーん、マンションの住人とは大概世間話する仲だから、誰かと間違えちゃったかな……。なんかゴメンね」
「気にしないでください、間違いなんて誰にでもありますから。……それじゃ、このままじゃ寒いので失礼しますね」
「あ、そうよね。ごめんなさいね、引き留めちゃって」
「いえいえ。それじゃあ、おやすみなさい」
恐縮する瀬野さんに軽く頭を下げると、わたしはその場を後にした。
普段なら自宅のある三階までエレベーターを使う。しかし、今日のわたしはすこぶる機嫌がいい。雨水を吸い込んで重くなったワンピースのスカート部分を太股までたくしあげると、エレベーターの横に設置されている階段を一段飛ばしで駆け上がった。
とはいえ、今年で三十路になる体に、その行動は少し無理があったようだ。三階までたどり着くと、膝はガクガクで息も切れ切れの状態だった。
「や、やっぱり素直にエレベーターを使うべきだったかも……」
そんな後悔をしつつも、わたしは自宅の305号室に向かったのだが、扉の前に思わぬ来客が立っていた。いや、思わぬ来客が丸まっていたというのが正確か。
――猫だ。
猫がわたしの帰宅を阻むかのように扉の前でうずくまっていたのだ。
真っ黒な猫である。その毛色とは対照的に、きらりと光る黄色い瞳で、にらむようにこちらの様子をうかがっていた。
「なによ、あんた」
きっと雨宿りでもしていたのだろうが、わざわざわたしの部屋の前でする意味がわからない。わたしは「しっしっ」と追っ払う素振りをしてみせるが、黒猫はどこか冷めた目で見返すだけだった。
「ああ、もう。しょうがないわね」
わたしはため息をつきつつ黒猫に手をのばす。予想とは裏腹に、すんなりと抱きかかえることができた。
……思っていた以上に重い。猫にそこまで詳しいわけではないが、この大きさなら子猫というわけではないだろう。とはいえ、毛並みも綺麗で
この感じだと二、三歳くらいかな、と勝手に予想してみたが真偽のほどは不明だ。黒猫に尋ねたところで答えてくれるわけがないのだから。
「一人暮らしの女の子の部屋に入れてあげるんだから感謝しなさいよ」
本来なら黒猫をどかすだけでよかったはずだ。だが、今日はなぜか気分がいい。それにずぶ濡れの猫をそのまま放置するのも心が痛む。
そんなわけで、わたしがその黒猫を抱いたまま帰宅したのは必然といえた。
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