第2話「コロ」
少年が私を小突いたその時から、一体どれ程の時間が経ったのだろうか。気づけば母親の胸に抱かれた赤子は泣き止み、時折笑顔を見せている。母親としてはもう一度寝かしつけたいのか、幾らか緩やかに赤子を抱えた腕を揺らし眠りに誘っている。少年は足が痺れるのか、時々しゃがみ方や軸足を変えたりするが、私には特に干渉してこない。だがいつまでも私の傍を離れないあたり、興味が失せたわけでもないのだろう。美術館で厳かに展示物を鑑賞するかのような様だ。
次第に赤子の瞼が重くなってきたようで、母親が再び少年の方を向き、何をしているのかを尋ねた。
すると少年は少し首を傾げ私に手を伸ばし右手で拾い上げた。そして私をその掌に載せ、それを母親に差し出し、尋ねた。
「この子なんて言うの?」
しばらくの沈黙が流れた。母親は予想外の答えに思わず目を丸くしている。だが子ども特有の突飛な言動にはある程度耐性があるのか、直ぐに我に返った。それからまずは息子の問いに真面目に答えようと、幾らか言葉を並べ始める。ところが母親にとってはどうにもこの息子の問いが可笑しく感じたようで、少しばかり笑みをこぼし、息が漏れ出す。
だが当の少年は大真面目なのか、母親の破顔する様をキョトンとした表情で見つめている。何がおかしいの?と言わんばかりの顔だ。
母親は自分を落ち着かせ、ひとまず笑い交じりに言葉を紡いだ。「ごめんね。でも可笑しくって。」息子はしばし怪訝そうな顔になる。その顔に母親の表情に苦笑が混ざったが、そのまま続けた。「だってね、その子?には名前なんてないから。それはただの石っころだよ。」
少年は私に視線を移し直し、難しい顔で黙り込んでいる。母親の言葉をどうにか理解しようと、幼いなりに幾度も反芻を繰り返しているようだ。恐らく少年は、母親が自分と全く同じ世界を見ていると信じて疑わなかったのだろう。
しかし私に言わせれば、先ほどの通りこの少年と母親では見える世界が違うわけで、彼にとって浮き出て映るものが、母親にとっては何てことない石っころにしか見えないのだ。大人同士でも同じ方向を向くわけではないのだから、子どもなら尚更、大人を超越した視点を持ち得るだろう。
また、母親は大人であるから、自分の常識的価値観を外れた言動・行動に滑稽さを覚えるのだろう。まぁこの母親の場合は、単に我が子を愛らしく思っただけかもしれないが。私は所詮道端に転がる石っころであるから人間の生態を詳細には知らないが、何やら人間というやつの中には自分の主観世界の範疇に収まらないものへ過剰反応を示す者が一定数いるらしい。自分の常識の埒外にある存在は、滑稽に或いは脅威に感じたり、頻りに否定・拒絶を目論むようだ。
だから私には、少年の言葉もそれに係る母親の反応もどちらも驚くに足らないもので、両者は至極人間的に思える。母親は凡そ自分と我が子の視点に差があることを感得しており、そのために息子を笑わないように努めてみたのだろう。だが母親はわざわざ息子にそんなことを説明しない。そもそもこの少年はまだそこまで理解する必要もない。その為母親は息子が納得する答えは何かと、息子の思案顔に目をやりながら思考を巡らせている。何かと沈黙の多い親子だ。研究に没頭する学者の如くすぐ考え込む。子どもに考えさせ、脳を育てているのかもしれない。
私と親子の横を沢山の車が行きかっている。夕食時となったのか、ファストフードのデリバリーバイクもやたらと通る。歩道の方も帰宅ラッシュに入り、随分と人が増えた。飲み屋情報を共有しあう仕事終わりのサラリーマン集団やサークル終わりの大学生らしい男女数名の姿などが目立つ。
喧噪に包まれた街の様に、しばらく思案に耽っていた母親は我に返り、「もう夜だね。そろそろ帰らないと。…お腹空いたでしょ?今日はハンバーグにしよっか。」と息子の方に膝を折り、投げかけた。
少年はその言葉から数拍沈黙を貫き、その後合点のいった顔をした。そして漸く母親に笑顔を向け、「じゃあ、コロだね。」とだけ言った。
母親は息子が何を言い出したのか状況が飲み込めずにいる。自分は夕飯の話をしたというのに、息子の返答はその脈略からは明らかに外れているではないか、と戸惑っているのだろう。止む無く息子に、「何それ、どういうこと?」と平然を装い自然な笑顔と柔らかな笑い口調で尋ねた。
息子の方は無垢な顔でその問いを受け止め、「この子のこと。この子名前ないんでしょ?」と答える。
母親はこの言葉でやっと腑に落ちた顔になった。息子は母親の夕飯の話など耳には入っておらず、母親の石っころである私に名前がないという告白がいつまでも脳を巡っていたらしい。母親は「ふふ、そういうことね。でも名前なんて付けてどうするの?ワンちゃんと違って生きてるわけじゃないよ?」と、息子に理解を示しながら、改めて私が生きていないことを念押しした。
「うんん、生きてるよ、コロ。」首を左に傾げ左足を軸足に体を倒しながら息子はそれに答えた。「どうしてそう思うの?」当然のこととして母親が問う。「んー?分かんない。なんとなくそんな気がする。」眉間に軽く皺を寄せながら息子が答える。
根拠もなくただ感覚だけで物言うというのは子どもらしくもあり、特権的であるようにも思える。独創的な大人ともまた違う純な感性、一度濁ると如何にその淀みをいくらろ過しようと見ることのできない世界、そんな世界をこの少年は生きている。少年はその偉大な感性で私の自我を感じ取ったのだろうか…。
「そっか、なんとなくねぇ。その子どうする?翔ちゃん。ウチに持って帰る?」改めて母親は私の処遇について息子に判断を委ねた。ちなみに今更だがこの少年は「翔ちゃん」と呼ばれているらしい。私に伝わってきた情報では翔太という名らしい。「うん、連れて帰る。」息子はあえて言葉を選んだ様子で答えた。母親の方は自然と私を無機物と扱っているが、息子は意識的に生あるものとして強調したいようだ。
「そ、じゃあ落としちゃいけないからポッケにしまっときな。」母親は息子の意向を受け入れ助言し、手を繋ぐために右手を差し出した。息子は「うん、分かった。」と溌剌に返し、私を灰色のスウェットパンツの右ポケットに深く押し込み、左手でその母親の手を握る。私の視界は随分と陰ったが、スウェットパンツのその色味や柔らかな感触がわずかに伝わってくる。
どうやら私は、今からこの少年らの住処へ誘われるようだ。ここ数十年は遠出もできず、ずっと歩道に転がり生きてきた私にとっては、少しばかり不安がよぎる。だがそんなものが霞むほどに、楽しみな思いの方が強いわけだが。これまではいつも代わり映えのしない日常だった。誰からも見向きもされず、ただ痛めつけられる。それが当たり前だった私だ。期待せずにはいられない。いや、期待するだけの権利があるだろう。これからどんな世界が待っているのか、高揚感が不安を包み込み、明るさに満たされる。彼らにとってはいつも通りの帰宅だが、私にとってはコロンブスが大西洋へ漕ぎだした時のような大冒険の幕開けに感じられた。
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