第1話「小さきものと少年」
日が沈みだし、空が赤橙と群青色を中心とした美しいグラデーションをなす。帰宅ラッシュ前であろうか、さほど通行人はいない。そんな頃、街路樹の下から周囲を見渡すと、今度は親子が私の傍に近づいてくる。
母親は二〇代中頃で、赤子を左腕で体の前に抱え、右手で五、六歳になる男の子と手を繋ぎながら歩いている。母親は、赤子の様子を伺いながら、息子に明るく話しかけている。一方の子どもは上機嫌で周りをキョロキョロしながら無邪気に答えている。
母親の世界には当然私は現れない。いや、正確には、現に母親が見ている世界の中にも私はいるわけだが、相も変わらず私を知覚し、特別に意識を向けることはしないのだ。まぁそれが普通で、皆そうである。本来なら最早わざわざそんな無視されたこと気にしなければいいのだが、時折このような少年が現れるせいで、私に目を向けない人がどうにも引っかかってしまう。
どういうことかというと、この如何にも何も考えてなさそうな少年は、あろうことかこの私に興味を示したのだ。私を認識していない母親は、当然のこととしてこの街路樹を素通りして前の信号を目指しているわけだが、少年は母親と繋いだその手を振りほどき、街路樹の下にいる私の傍に何故だか導かれるように小走りで寄ってきた。少年に繋いでいた手を振りほどかれた母親の方は、驚きながら自分から離れていく息子に目をやり、すぐさま何があったのか問うため声掛けをしたが、息子の耳はどうやらそれを受け付けなかったようで、反応は示していなかった。
誰かにリモコンでラジコンさながら操られているかのように一心不乱な少年を見るに、さしずめ周りの大人が無意識に私にするような攻撃を、意図的に仕掛けてくるのであろうと考えた。
しかし少年はその場にしゃがみ込み、私を右人差し指で突いてみせた。
蹴り飛ばされることばかりが日常の私にとっては、その少年の攻撃はあまりに優しく、てっきり痛めつけられると思っていた私は拍子抜けした。これまで私に興味を持った者の中で最も平和主義者だ。だから何かの悪戯のように思え、少年の真意を詮索したくなる。
私を小突いた後も追撃の様子はなく、しばし互いが向き合い静止していたが、足が疲れたのか少し膝を動かし、しゃがみ直した。
その後も、少年は私をただ見つめ続け、互いに停戦状態が続いた。不思議なほどに友好的だ。
母親は息子の行動が理解できないようで、何度も声を掛けるが、やはり息子には届かない。私は少年が近づいてきた時も、触れた時も、この何の変化も起こらない現在においても、微動だにしていない、いやできない。少年も母親も、私がこのように周囲を観察しているとは思っていないであろうし、当然動けるとも思ってはいない。だからこの現状においては、少年が何かしらの行動を起こす他に、この停滞を打開する術は存在しない。
年端もいかない少年にしては、随分と辛抱強く私とにらめっこを続けている。母親の方は、胸に抱えた赤子が目覚め、泣き声を響かせ始めた為、あやすことに集中しており、不動の息子のことはひとまず置いておくこととしたようだ。勝手にどこかに行かれるよりは、私と我慢比べしてくれた方がましと割り切ったのだろう。
少年は一体何を思っているのだろうか。表情からどうにか読み解けないものかと、改めて観察を開始する。少年の顔は、私を訝しんでいるようにも、心を奪われ無心になっているようにも見える。人生経験の少ない彼にとっては、私が際立って特異的に感じたのかもしれない。
この歩道一つとってみても、私のような存在はやたらといるわけで、大抵の歩行者にとって私とその他多数は区別もされず、個体差もない同類項とさえみなされている。だから彼らはわざわざ足を止めないし、手を伸ばすことも様子を窺うこともない。どうやら人間という生き物の多くは、成長の過程で余計なものへ関心を向けることをやめていくらしい。人間が興味を持つものは、専ら自分に有益なものと脅威なものに限られるようだ。せわしない日常を賢く生き抜くにはそれが一番なのだろう。
だがこの少年の世界はまだ穏やかで緩やかに進んでいる。そもそも何が自分にとって有益でまた脅威であるかなんて、到底理解していない。見える景色はすべてが新鮮で、彼の脳に取り込まれる情報はみな、彼の好奇心の刺激剤なのだろう。あらゆる情報を取り込み、その全てに目を向ける。大人なら意識に入り込む前に遮断される情報も、彼の脳には伝達され、それために彼は少数派の好奇心を持つこともあるのだろう。
そうであるから、彼は近くの歯医者の看板に描かれた子供向けのキャラクターより私に興味を持った。また、ここから一メーター程離れたところにある私の同族ではなく、この私の下に来たのだ。いや、彼の趣向次第では、そちらの同族に駆け寄ったかもしれない。私とそいつはカテゴリーは同じだが、本来厳密にはそれぞれの個性があるのだから。ともかく他の人とは違い、彼はなぜだか私に心惹かれたようだ。
この少年に私はどう見えているのだろうか。自分よりも遥かに小さく、見た目も全く異なる、どれほどこちらが願っても、動けもしないこの私を。彼の淀みない純な瞳に映るちっぽけな無機物の己の姿を見ていると、なんとも物悲しくなってくる。自分の思いを容易に言葉として発し、望み通りに体を動かせ、総合力において全ての生物の頂点に立つ人間という存在に思わず嫉妬してしまった。
彼らと違って私には明確な命はない。いつ自分が生まれたのかはっきりと覚えてもいない。いつまでもただ不動なまま世界を眺め続ける。人間はよく生の期限を嘆く。いかに長生きするかを考え、人によっては不老不死を目指す。私にしてみればこんな生き地獄の何がいいのか理解に苦しむ。私からすると、いつになったらこの修業は終わるものかと期待を募らせるほか楽しみもほとんどなくなってしまった。まぁ恐らく私も粉々に潰されれば、その生に終わりが来ると思う(というよりはそう信じている)が。いっそこの少年がその英知を絞って、どうにか私を破壊して、私の時間に終止符を打ってくれないものかと思考してしまう。
そういえば、私のような存在がこうして色々と思考を巡らせることはどうやら稀らしい。思考は自我の体現であり、自我なくして思考はありえない。そして私のような無機物にはどうやら本来自我なんてものはないらしい。目の前で私を見守るこの少年のように、頭や脳みそがあるわけでもあく、手足もない、口もないからここまでの考えを誰かに伝えることもできない。要は呆れるほど無意味な思考をいつまでも私は続けているわけだ。思考の浪費家だ。
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