第44話 壁に耳あり。
「お寛ぎのところ申し訳ございません、お嬢様。急ぎお耳に入れたいことが」
そう言いながらジェイムスがメルツェデスの自室へと入ってきた。
窓の外に見える街並みはすっかり紅く染まり、もうしばらくすれば夜の闇が訪れるであろう頃合い。
普段ならば夕食までの間メルツェデスの自由時間と放置しているはずのジェイムスが、しかも急ぎと言ってきた。
途端、椅子に座り本を読んでいたメルツェデスの表情が改まる。
「あなたがそう言うのならば、相当に急ぎなのですね。構いません、報告なさい」
若干固めの口調と表情になるメルツェデスに、事態の深刻さを既に理解しているのだとジェイムスもまた理解した。
流石、主であるガイウスが目に掛けるだけはある、と感心しながらも、おくびにも出さず促されるまま報告する。
「はい、今し方、報告がございました。
リヒター・フォン・エデリブラ様が拉致された模様。
それからしばらくの後、ヘルミーナ・フォン・ピスケシオス様が失踪なさったとのこと」
「……はい?」
ジェイムスの告げる、あまりにあまりな報告に、メルツェデスは間の抜けた声を出して固まった。
つい先程わかれたばかりのリヒターが誘拐された。それはまさに、寝耳に水である。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい、リヒター様が拉致された?
そしてヘルミーナ様が失踪って……ええと……二人で駆け落ち、だなんてことはないですわよね?」
「左様でございます。もしそうであれば、暖かく見守りこそすれ、緊急のご報告などいたしません」
「……ジェイムス、あなたも大概ですわね……。
いえ、それはともかく。模様、ということは確定ではないのですね? どうしてそう推測できたのですか?」
混乱しながらも、人情としてはわかりつつ貴族に仕えるものとしては若干どうなのだと思うような言葉にツッコミを入れつつ、メルツェデスは問う。
それに、公爵令息の拉致誘拐など王都を揺るがす大事件であるはずだが、それを当主であるガイウスに報告する前にメルツェデスに報告するとは、どういうことなのか。
視線で促されたジェイムスは、恭しく頭を下げた後、報告を続ける。
「はい、実は判明した順番が逆なのです。
初めに、お嬢様のご友人であらせられるヘルミーナ・フォン・ピスケシオス様が、紋章無しの馬車に乗り込んだと密偵から報告がありました。
当初は追跡しようとしたのですが、馬車の速度が速く、断念。
その後情報を集め、エデリブラ家でも何かあったらしいと掴み調査したところ、未だリヒター・フォン・エデリブラ様がご帰宅されていないと確認。
状況から判断して、恐らく拉致ではないか、と」
「なるほど……しかしそれでしたら、エデリブラ家の密偵なりが動くのでは?」
「どうやら、下手に動けばご令息の命はないと脅迫する手紙が届いたようです。
故に王城で会議中の公爵様、旦那様にも話は伝わっておりません。
伝えられない、と表現した方が正確かも知れませんね、恐らく王城周辺は見張られているでしょうから」
「そういうことですか……」
ジェイムスの報告に幾度か頷くと、メルツェデスは考え込んだ。
彼女の知る限り、ゲームの『エタエレ』にこんなイベントはない。
というかゲーム開始以前では、メルツェデスが額に怪我を負う、王都でエデゥアルドと主人公が邂逅する、以外の大きなイベントはなかったはずだ。
だというのに、リヒター誘拐とヘルミーナ失踪という大事件が同時に起こってしまった。
この二つは繋がっている可能性は高いし、だからこそジェイムス達はリヒター誘拐にたどり着けたのだろう。
問題は、どうしてそんなことが起こったのか。
ゲームうんぬんを抜きにすれば、公爵令息の誘拐などそうそう成功するものではない。
確かあの時、リヒターは十分な質と数の護衛を付けていたはず。
なのに、なぜ拉致が成功してしまったのか。
「……拉致現場などはわかっているのですか?」
「恐らくここだろう、という現場はわかっております。
ピスケシオス邸からエデリブラ邸へと向かう道筋の途中で、護衛達が倒れているのが発見されました。
全員、命に別状はございません。ただ、どうにも奇妙でして」
「奇妙、とは? いえ、もうすでに奇妙過ぎるくらいではあるのですが」
「はい、実は……それなりに人通りのあるはずの道であるにも関わらず、犯行を目撃した者が一人もいないのです」
促されて答えたジェイムスの言葉に、メルツェデスの眉間に皺が刻まれた。
多少傾いていただろうとは言え、まだまだ明るかったであろう初夏の夕刻。
であるにも関わらず、目撃者がいない。これは、言うまでもなく奇妙な現象だった。
「聞き込みを行ったところ、何故か急にそこに表れたように見えた、元々そこに居たはずなのに、とどうにも要領を得ない答えもございました」
「……しかし、そこに真実がある、と見ていますのね?」
「流石お嬢様、左様でございます。
恐らく、認識を阻害するような魔術を事前に仕掛けていたのでございましょう。
これは、騎士達が煙状の眠り薬で眠らされた、という証言からも窺えます」
「かなり用意周到に仕掛けている、と。どうにも嫌なものを感じますわね……あまりに、相手がリヒター様のことを知りすぎている……」
エデリブラ家は、公爵家という貴族の最高峰に位置する家。
当然防諜の類いも備えているし、密偵や護衛はもちろん、メイドや従者に至るまで質は確かで情報を漏らす者などいはしないだろう。
それなのに、リヒターの情報が漏れ、護衛は不意を打たれて制圧された。
どうすればこんなことができるのか、今のメルツェデスには想像もつかない。
「いえ、何故起こったのか、は後回しですわね。今はお二人の身柄を確保しなければ」
「そうおっしゃると思いまして、手の者は動かしております。
ですが……本日は諸侯会議で旦那様が登城中、その護衛に相当数配置しております故、普段程の情報は入ってきておりません」
「それは仕方のないことですわね……」
ジェイムスの言葉に頷きながら、メルツェデスは考える。
少しでも多く、少しでも早く情報が欲しいこの状況、プレヴァルゴの密偵が使えないのはどうにも苦しい。
恐らく、エデリブラやピスケシオスの密偵も、同様だろう。となると。
「……ねえ、ジェイムス。エデリブラ家には動くなという脅迫が来ており、恐らくピスケシオス家にもいっていますわよね?
当然、王城に連絡も取れず、騎士団や衛兵を動かすこともできない、と」
「はい、恐らくそうではないかと思われます」
メルツェデスの問いに答えながら、ジェイムスの目には若干諦めにも似た色が浮かんでいた。
この後、敬愛するこのお嬢様が何を言い出すのか、よくわかっていたから。
「でも、例えば酔狂な令嬢が夕刻の散歩と洒落込むくらいなら、気にされませんよね?」
「……それに関しましても、恐らく、としか答えられません。
少なくとも我がプレヴァルゴの邸宅周辺に、見張りのような連中は確認されておりませんから」
メルツェデスの言葉は予想していたのだろうジェイムスが、ふぅ、とため息を零した。
そして、さらに続く言葉も想像がついている。
「であれば、夕食前の退屈しのぎに、少し散歩でもしてまいりましょうか」
そう言ってメルツェデスが立ち上がれば、その傍へとハンナが寄り添った。
「お嬢様、でしたらこちらもお持ちになった方が」
「流石ハンナね、気が利くことだわ。……できれば使わないに越したことはありませんが……恐らく、無理でしょうね」
ハンナが差し出したのは、一振りの長剣。
片刃の直刀で片手でも両手でも扱える、という独特な形状のそれを、メルツェデスは愛用していた。
それを持って出かけるということの意味を、ハンナもメルツェデスも、ジェイムスもよくわかっていた。
「お嬢様、誠に申し訳ございません。現状、お嬢様に付けられる密偵は3名のみ。
後はハンナだけにございます」
「十分です。お二人の安否を確認する、それを優先するのですから」
二人の安全を確保する、まずはそれが優先事項。
密偵の三人を加えた五人であれば、余程の相手と数でなければ、不足することはないだろう。
「ああ、念には念を入れて……クリスにも声を掛けておきましょうか」
「でしたら、クリス様をお呼びして参ります」
そう言ってジェイムスが出て行き、しばらく。
すぐにクリストファーが、ジェイムスに伴われてやってきた。
「姉さん、また厄介事に首を突っ込むんですか? 僕はいいんですが、そろそろ落ち着いてもらわないと……。
って、なんで剣なんて持ってるんですか!?」
事情を知らないクリストファーは、メルツェデスが手にした剣を見て、ぎょっとした表情になる。
それに対してメルツェデスはクスリと小さく微笑んだ。
「ええ、少しばかり厄介なことになりそうだから。クリス、あなたも自分の剣を持ってらっしゃいな」
「……僕まで? そんな荒事に巻き込むつもりですか?」
メルツェデスの言うことならば何でも聞いていたかつてのクリストファーは、もういない。
この五年の間、メルツェデスと供に様々な厄介事に首を突っ込む羽目になった彼は、色々と学習した。
そのため素直だった性格には、かなり懐疑的な色が混ざってしまっている。
しかし。
「ええ、今人手がどうにも足りなくて……頼りに出来そうなのがあなたしかいないのよ」
「わかりました、お供させていただきます」
メルツェデスにこう言われてしまえば、イチコロだった。
そのどうにも悲しい性に、ジェイムスなど哀れみを禁じ得ない。
ちなみにジェイムスは、当主ガイウス不在の今、邸宅を預かる立場であるため、直接は動くことができないのだが。
ともあれ。こうして、リヒターとヘルミーナを救出するための『お散歩』が始まった。
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