第8話 退屈令嬢とメイド。

 ハンナの淹れてくれたお茶のおかげで少しばかり緊張が解けたのだろうか、先程まで気にしていなかったことにふと思い当たる。


「そういえば……ハンナはいつの間に来ていたのですか? ここは、王城の客間かどこかですわよね?」


 見慣れない天井は高く、その装飾は華美でなく、それでいて手の込んだもの。

 置かれている調度類も、派手さはないが実に品の良い物で揃えられている。

 正直なところ、実家であるプレヴァルゴ伯爵邸の内装の一段も二段も上をいっていた。

 そんなことが出来る家など限られているし、公爵や侯爵の家に運び込まれる道理もない。

 となれば、簡単な推理だった。


「流石のご賢察でございます、お嬢様。

 この部屋は王城内の客間の一室。私は、お嬢様が目を覚まさないとあって、お世話をするよう旦那様がお呼びくださったのです」

「お父様が……それは、ハンナには悪いことをしました。……けれども、少し、安心もしました」

「安心、ですか?」


 言葉通りにほっと表情を緩めたメルツェデスに、ハンナが不思議そうな顔を見せた。

 そんな彼女へとメルツェデスは小さく笑って見せて。


「ええ、安心、です。あなたのことです、意識の無いわたくしの着替えだとか身体を拭くだとか、してくれたのでしょう?

 きっと王宮の侍女方も優秀なのでしょうけれど……必要な世話と言えど、私の身体はあなた以外に預けたくないですもの」


 メルツェデスが冗談めかして言えば……ハンナは硬直したように沈黙。

 数秒後あれ? とメルツェデスが小首を傾げれば、ハンナはどばっと涙を溢れさせた。


「勿体ないっ、勿体ないお言葉っ! このハンナ、お嬢様にお仕えしてきてこれ以上のお言葉はございません!!

 お任せください、お嬢様のお体お心、全て私、このハンナにお任せください!

 必ず、必ずやご満足いただけるようご奉仕いたします!」

「待ってハンナ、お願いだから待ってくださいまし!?

 おかしいですわ、あなたそんな激情を迸らせるタイプではありませんでしたよね!?」


 ずずいと迫り来るハンナを押し留まらせようと、メルツェデスは両手を突き出す。

 流石に主の意向に背くことはしないのか、ハンナはそれ以上迫ってはいかない。

 いかないが、距離は詰めたままである。

 その距離で、ハンナは重々しく口を開いた。真顔で。


「左様でございますね、私、僭越ながらお嬢様のお側にお仕えさせていただくとあって、日頃は感情を抑えて冷静に、為すべき事を効率よく、とお勤めさせていただいておりました。

 ですが、お嬢様のお命が危うかったこの緊急事態、それがようやっと回避できたと安心したところに、先程のお言葉です。

 この私に、全幅の信頼をお寄せいただいているかのようなお言葉を賜りました!」

「え、それは、確かにハンナのことは信じていますけども」


 ぽそりと答えたメルツェデスの言葉に、ハンナがまた動きを止めた。

 プルプルとその言葉を味わっているかのように身震いした後に、くはぁ、とメイドとしてあるまじき吐息を零す。


「この上さらにそんなことまでおっしゃいますか、お嬢様!

 流石はお嬢様、このハンナ、もうお嬢様に永劫の忠誠を、いえ、幾度生まれ変わろうとも変わらぬ忠誠を誓わせていただきます!」

「そこまでいくと、いくら何でも重すぎですわよ!? お願いハンナ、もっと自分を大事にして!」

「大事にしております、お嬢様にお気遣いいただいているこの身を傷つけるわけにはいかぬと、大事にしております!」

「大事にする方向性が違いますわ!? もっとあなたの幸せを考えて欲しいとかそういうことですのよ!?」


 これまでにない勢いで語るハンナに対して、必死に言い聞かせるメルツェデス。

 しかしハンナは、きょとんとした顔で小首を傾げて見せる。


「何をおっしゃっておられるのですか? 私の幸せは、メルツェデス様にお仕えすること、ただそれだけでございますよ?」

「ですから重いのですわよ! わたくし、そこまで忠誠を尽くせとは言ってませんわ!?」


 悲鳴にも近いメルツェデスの必死な言葉に、何を当たり前のことを、と言わんばかりにハンナは小首を傾げている。


「はい、おっしゃっていません。ですからこれは、私の内なる心が溢れた結果でございます」

「できれば溢れさせないで欲しかったですわね!?」


 抗議するも、ハンナの表情は全く崩れない。むしろ不可侵の信仰を体現する聖職者のような趣すらあった。

 そのことに気付いたメルツェデスは、ゾクリと背筋を震わせる。

 彼女がその信仰を向ける対象は果たして誰か?

 わかっているからこそ、逃げたくもなってしまう。


「大丈夫でございます、溢れてしまっても、お嬢様へと危害を加えることは決してございません」

「そこはある意味信じていましたけども、そこはかとなくまだ不安が残るのはなぜでしょう……」


 ハンナの仕事ぶりに疑念など一切無い。彼女が自分に嘘を吐かないこともわかっている。

 それでも感じるこの不安感。長い付き合いであるハンナのことで、まだ知らないことがあったのだと思い知らされた気分だ。

 そして、その不安はある意味的中する。


「さて、話も一段落いたしましたし……旦那様が戻ってこられるまで、もう少しかかるかと思われます。

 今のうちに軽く汗をお流しして、お着替えもしてしまいましょう」

「あ……それは、確かに……ハンナのおかげでましな方でしょうけども、やはり出来れば着替えてしまいたいですわね」


 ハンナの言葉に頷くと、軽く袖の匂いを確認してみた。

 一応臭いはしないが、人間自分の体臭には慣れて鈍感なものだとも聞く。

 となれば、一応軽くでも流してしまうのが得策だろう。


 それを聞いたハンナは、恭しく頭を下げた。……その目の光を隠すために。


「かしこまりました。それではお嬢様、お湯は既に準備できておりますので、浴室へご案内いたしますね」


 頭を上げた、と思った次の瞬間、メルツェデスは抱き上げられていた。

 横抱きの姿勢、いわゆるお姫様抱っこの格好で。


「えっ、ちょっ、ハンナ!? な、なんで抱き上げてますの!?」

「なんでも何も、今のお嬢様は長き眠りからお目覚めになったばかりのお体。

 無理に身体を動かして、お体に障りがあってはいけません。であれば、私がお運びするのが妥当なところかと」

「び、微妙に納得するような、できないような主張ですわね!?

 わたくし自分で歩けますから! 大丈夫ですから、降ろしてくださいましっ!

 いくらハンナでも、重たいでしょう!?」


 ジタバタとメルツェデスはもがくが、ハンナの腕はがっちりと掴んで離さない。

 その抵抗を意に介した風も無く、ハンナは不意に微笑みを見せた。


「重いだなんてとんでもない。天使であらせられるお嬢様は、羽よりも軽いですよ?」

「ほんとにどうしてしまったんですの!?

 そんな歯が浮くような台詞、言ったことありませんでしたよね!?」


 メルツェデスの知るハンナは、常に冷静沈着、どんな仕事にも抜かりの無い完璧侍女だ。

 だが、いまやその面影はまるでない。

 己のエゴをむき出しにして、ひたすらメルツェデスにご奉仕しようとするその姿は、いっそ狂的ですらある。


「はい、今まで一度も申し上げたことはございませんでした。

 しかし、此度の騒動の中で、考えを改めたのです」

「考えを……それは、一体どういう……?」


 いつもの無表情よりも晴れやかなハンナに、メルツェデスは恐る恐る問いかける。

 そしてハンナは、普段はレアな微笑みを大盤振る舞いである。


「私が今申し上げたようなことは、常日頃から思っておりました。

 しかし、それを口に出すなどはしたないこと。主であるお嬢様のお耳に入れるなどとんでもない。

 そう、思っておりました」


 ハンナは、そこで一度言葉を切ったと思えば小さく身震いをし、両の腕に収まっているメルツェデスの身体をぎゅっと愛しげに抱き寄せる。


「しかし、死んだように眠るお嬢様のお姿を見て、もしも、万が一にも二度と目覚めることがなければ、私がいかにお嬢様のことを大事に思っているかもお伝えできない。

 そのことが、酷く恐ろしく思えてしまいました……」

「ハンナ……」


 どこか怯えたようにも見えるハンナの姿に、メルツェデスは思わず瞳を潤ませてしまう。

 大事にされてきた自覚はあったが、ここまでとは思わなかった。

 今こうして突きつけられて嬉しくもあり、ありがたくもあり、面映ゆくもあり。

 そんな表情を見たハンナの顔が蕩けそうになっているのは、見ない振りしつつ、続く言葉を待つ。


「ですから今後は、できるかぎり率直にかつ赤裸々にお伝えしようかと思います」

「その気持ちは嬉しいのですが、できれば節度を持ってくださいまし!」


 悲鳴のような声で至極当然の要求をするメルツェデスに、しかしハンナは残念そうに首を横に振った。


「節度、美しい言葉です。

 ですが……その枠に収まらなかったものにとっては、ただの枷でしかありません」

「なんだか良い風に言ってますけど、単に我が儘を通すってことですわよね!?」

「いえいえ、あくまでもこれは、お嬢様へのご奉仕ですから」


 そう言うとハンナは、もがくメルツェデスを意に介さず浴室へと運ぶ。

 そして極めて効率よく……色々な意味で効率よく、メルツェデスの身体を洗い清めたのだった。

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