八章 王女殿下の遊技盤

「――しかしこれは……予想以上に厳しい処だな」


 そう言って盛大に汗を掻きながらそれでも教授は私のすぐ後ろを付いてくる。早朝から司書院を出て私の祖母の家へ向かう道中だ。教授はふとっちょにも関わらずかなり体力があって驚かされた。スリムになればもっと女性に受けがよくなるのに何とも勿体無い話だ。

 そんな事を考えながら教授が暇つぶしに語る益体やくたいのない話に耳を傾ける。


「私はリーゼン騎士の家系と言う事もあって、昔から遊技盤はよくやっていたのだ。遊技盤は面白いぞ。先を予想し己の打つ手から次の相手の動きを予測する。その場で思いついた様な刹那せつな的な思考では絶対に勝てん。流れを予測し、己がどう動けば相手がどう考え行動するのか、互いの人間性を見つめ合う遊びだ。開幕、中盤、収束という、まるで人生を覗く様な物だ。だからロジャー・ハワードは私にとって幼い頃からの英雄ヒーローだったのさ」


 そう言う教授は本当に愉しそうに見える。

 こうしてみると今までこんな会話を教授とした事が無い。いつもは大抵、研究に関する話ばかりで、何が趣味だとかそういった雑談なんて殆どした事がなかった。


 祖父のロジャーにしても同じだ。幼い頃にほんの数回しか会った事は無いがそれでももっとちゃんと話して居れば優しい人だとちゃんと理解出来ていたのかも知れない。

 やっぱりあの時怖がらずにちゃんとロジャーと話していれば良かった。そして遊技盤を教えて貰っていれば楽しい思い出と成ったかも知れないのだ。私はいつもどうにも出来なくなってから気付いて悔やんでいる気がする。特にこの三日間はずっと後悔してばかりだ。


 一時三刻(三時間半)程掛けてぼうぼうと伸びた草をかき分けて進むと祖母の家が見えてきた。幼い頃からマギーと一緒に沢山の王女様の思い出を話してもらった場所だ。一昨日前には怖くてもう戻れないと思った処だ。色々あったけれどそれでも私は何とか戻ってくる事が出来た。つい先日訪れたばかりだと言うのに懐かしさの様な物がこみ上げてくる。


――……また来たよ、マギー。


 幼い頃、いつも訪れた時に口にした言葉を小さく呟く。

 そうして私は教授と共に入り口へと足を向けた。



 全ての手記を読み終えて一段落が付き、その日の作業は一旦終わる事になった。

 教授は上機嫌で夕食を奢ってくれると言う。恐らく予想以上に作業の進み具合が良かった事もあったからだろう。予算の面もあったから私は素直にその誘いに乗る事にした。

 司書院を出てから教授の行き付けの店を訪れる。

 そこで私は色々と困った事実を知ってしまう事となった。


 何より驚いたのが実は教授は今年で三十四だと言う事だ。私が二十九だからたった五つしか変わらないと言う事になる。マギーとロジャーと同じ歳の差だ。禿げ上がった頭にでっぷりとしたお腹、黒縁の眼鏡と言う出で立ちではっきり言ってうちの両親より貫禄があるから、てっきり年配者だと思っていた私は相当驚く事となってしまった。

 それに私の就業予定についても話す事となったのだが、なんと私は教授補佐を任されるらしく、新人としては異例の大抜擢と言える待遇だと言う事だ。

 道理で職員達の私に対する態度が新人相手のそれでは無かった訳だ。はっきり言って破格の待遇過ぎて流石に辞退を考えてしまう。


 しかし詳しく話を聞くに連れ、実は単に面倒事を押し付けられただけだと判明した。

 何せ教授は相当に癖が強い人だ。まともに遣り合える人間が純粋に居なかっただけで、そんな教授が珍しく他人を推挙した為にこれ幸いとばかりに擦り付けられたらしい。


――……まあ、学院時代も似たような感じだったから、別に構わないけれど――。


 その分給金も増えるらしいので能力手当と考える事にした。但し私に不名誉なあだなが付いた事が不満だった。今まで普段は『エヴァンス』と姓で呼ばれる事が多く大抵お前呼ばわりだったのに新しく『小さなアニー』とも呼ばれる様になってしまったのだ。

 普段、人前では呼ばれないだけマシだがそれでも微妙に屈辱的に感じる。


「取り敢えず後は報告待ちだな。お前の母君の件、リーゼン王家の回答。これらは報告書が届くのを待つしかない。手記に関しては私が補助に付くが、この後はどうする?」


 ワインをちびちびと舐めている私に教授が尋ねてきて考え始める。

 教授のお気に入りの店らしいのだが食事が並んでから驚く事となった。平気で二、三人前を食べる。どうやら一日で食事の時間を殆ど読書、調査、研究へと費やしている様で纏めて食べているらしい。それも夜に食べるから体重だけが増えていく。見ているだけで気分が悪くなってしまい空腹の筈なのに食欲が無くなる。

 就業したら食生活の徹底管理をしてやろう――そう胸に誓った。


 今後の私の行動についてだが実は私に出来る事は多い様で少ない。先ず明日は祖母の家にある王女殿下の遊技盤を確保し保存処置を行う。これは司書院で最近行われてる『物品の保存』として申請する事となっている。

 祖母の家にまだ何か残っているかも知れないが出来れば私だけでやりたい。ルーシア姫の頭蓋が眠る『王女の丘』も、出来れば掘り返す事は避けたい処だ。歴史的研究価値はあるかも知れないが出来れば三人共静かに眠らせてやりたかった。

 そんな事を話す私に教授は当然と言う顔で口元をナプキンの内で拭って言う。


「それは心配無い。我々は研究者ではなく守護者なのだよ。人の想いに関わる事が多い仕事だからな。真相究明は司書院の目的とは違うからその点は安心しても良いぞ?」


 そう応えると教授はワインのグラスに手を伸ばしてやっと一息付いた顔になった。

 そう言えば教授は母国のリーゼン王国に喧嘩を売った経歴があった筈だ。詳細については聞き及んでいないが教授は一体何をやらかしたのだろう。自分の抱えている問題が解決に向かっている事もあって不意に気になり始めた。

 教授は私の抱いた疑問に対して首を竦めて苦笑する様に答える。


「まあ、お前のやった事より下らぬ事だよ、小さなアニー。人とは自分が信じたい事しか信じないし、理解出来る物しか理解出来ないのだ。それを突き付けただけの話だ」


 それだけ言うと教授は私の今日の宿泊先について話をし始めた。


 どうやらそれ以上は教授も語る気は無いらしく、流石に『無闇矢鱈と知りたがる』と言う事の本当の怖さを思い知った私もそれ以上尋ねはしないしその気もない。司書院の一室を借りる事が出来るらしく、その日は結局そのまま泊まる事となったのだった。



 扉をそっと開くと室内は一昨日前に掃除したままで全く変わってはいない。

 誰も訪れた様子は無いし掃除が終わった時のままで室内の空気も清浄だ。私はリビングの机の上に荷物を置くと部屋の中を見回すが後ろに続いていた筈の教授が扉口の辺りで止まったまま続いて入って来ていない事に気付く。一体何をしているのかと思うと律儀に私の許可が出るのを待っていた様だ。私が促すと教授は『失礼する』と言って頭を下げ、室内へと入ってきた。


 私にとっては見慣れた室内だが教授から見ると違ったらしい。予想以上に質素だと感じたらしく口を開いたままで部屋の中を見回している。

 そんな教授を放ったままで私は自分の鞄の中から手記の入った封筒を取り出した。封筒の中は三重構造になっていて間にはろう引き紙が挟んである。これは水気や油分を避ける為の物でこれ以上手記が傷まない様にする為の物だ。


 マギーの手記はその内容が意味を持つのであって既に複写されている。司書院の教授の研究室にちゃんと保存されているから問題は無い。ならば私としては手記はちゃんとこの家に持って帰りたい。この手記はマギーの心が記された物だ。ならば王女の傍に連れ帰りたいと考えるのは当然の事だ。そう言うと教授がわざわざ準備してくれたのだ。

 想い出は在るべき処に――と、そう言って。


 私は手記を手に祖母の寝室だった部屋へ足を向けた。

 一昨日前に訪れたばかりなのに随分久しぶりに帰ってきた様に思うのはきっと、やっと本当に帰ってこれたと言うさっぱりした気持ちがあるからだろう。もし教授が助けてくれなかったらきっと私はここへは戻れないままだっただろう。そう考えると教授の元で働けるのも師事した事も全てが運命的だ。全てが今、ここへ繋がる為にあった事の様に感じる。

 私が奥に進んで鎧戸と窓を開くと先日の様に『王女の丘』の風景が広がった。部屋に差し込む陽光を浴びながら教授が扉の前で立ち止まっている事に気付く。


「全く……例え身罷られたとは言え、御婦人の寝室へ入ると言う事は男にとって許されん事なのだ。許可があっても入り辛いと言うのに、もっと世の女性達は理解すべきだ」


 そんな事をぶつぶつと言いながら教授は仏頂面のままで入って来た。何とも礼儀ただしい事だ。さすが騎士の家系だと感心しつつも笑ってしまう。そうやって教授と共に手記が入っていた棚を確認するが中にはもう何も残ってはいない。


 そして残っているのは問題の遊技盤だけとなった。

 部屋の片隅、窓のすぐ近くに小さく丸いテーブルがあり上には布が掛かっている。私はそれに近づきそっと布を取る。するとそこにはあの遊技盤が置いてあった。間違いなく幼い頃に何度も見た、祖父が愉しそうに触っていたあの遊技盤だ。そしてルーシア姫の宝物、王女殿下の遊技盤だった。

 それは思ったよりも大きい物で厚みだけで拳一つ分近くはあるだろうか。全体の大きさは厚みがある分、子供が何とか抱えられる程度に大きい。赤い様な深みのある焦茶色の木目で表面はまるで磨かれた様に滑らかに窓から差し込む陽光を映している。

 盤面は縦横八マスずつのチェックの模様になっていて遊技盤を知らなくても綺麗だ。何よりもその装飾がまるで年代物の高級な家具の様でとても美しい。厚みの中程が少しくびれた様になっていて全体的に仄かに丸みを持たせてある。

 これは遊技盤を全く知らなくてもきっと欲しくなるに違いない。

 側面の一箇所にだけ小さな取手がついていて引き出しになっているらしい。教授がそっとその取手を摘まんで引き出してみると中から精緻な形状の駒が現れる。確かこれは遊技盤で使う駒だ。王冠や馬の様な形状を模した物が白黒の二色でそれぞれ綺麗に収納されていて、興味がない私でも思わず見とれてしまう程の物だった。

 引き出しの奥に見える目の細かい布地は恐らく手入れに使う為の物だろう。

 開いた窓の外から柔らかく差し込む日差しを背景にそれは浮かび上がって見えた。


 これが王女様の、ルーシア姫が愛用していた遊技盤。幼い頃のルーシア姫が唯一父王から賜ったと言う物だ。きっと王女様にとってはとても大切な宝物だったのだろう。

 そしてそんな王女様が死んだ後もロジャーが大切に守ってきた物だ。

 王族の使っていた物だけに装飾も美しいがそんな外見的な理由だけでは無い。ここまで美しいのは持ち主の愛情が込められているからだと思う。


 教授は腰を屈めて遊技盤の形状や状態を確認している。

「うん? これは何だ……糸?」


 そう言って引き出しの奥を触っていた教授が小さな包み紙を見つけた。その包を開くと中から銀色に光る細い糸の様な房が現れる。紙の帯で留められていて束ねられたそれを見た時に私はすぐ気付いた。


――これは、ルーシア姫の銀髪だ……ルーシア姫を弔った時にマギーが少しだけ貰ったという、王女様の遺髪だ――。


 教授が私の顔色に気付いて目を見開く。教授もそれが何なのか理解したのだろう。手にそれを持ったまま、ただ無言でじっと私の方を見ている。

 私はと言うと今までマギーの昔語りでしか知らなかった人の現実の痕跡を見て色々な思いが心の中で荒れ狂っていた。嬉しいのか悲しいのか自分でも判断がつかない。


 あの王女様が現実にいて、この遊技盤に触れていたと思うと涙が溢れてくる。記録の殆ど残っていない彼女がちゃんと生きていた証でもあるのだ。そんな物を目の当たりにして心中穏やかで居られる筈なんて無い。

 やはり王女様は『悪姫』なんかじゃなかった。十三歳で処刑されるまでちゃんと同じ世界で生きていて、祖母のマギーと親友だったのだ。そしてロジャーと三人一緒に――。


 教授も思う処があったのだろう。

 涙をこぼす私に怒ったりせず、ただじっと黙って見つめていた。



 昼前の日差しが差し込む部屋の中でどれくらい黙っていただろうか。教授は王女の遺髪の包まれた紙で同じ様に包み直し同じ処へ戻した。そっと引き出しを閉めて深く溜息をつく。何も言えずただ黙ったまま私は動けなかった。色々な思いが頭の中で溢れかえり自分でもどうにも出来ない。それは教授も同じだった様で言葉に詰まりながら話し掛けてきた。


「何と言うか……私もこんな経験は初めてだ。物語の登場人物が実在し、その生きた痕跡をこんな形で見る事になろうとは……いや、疑っていた訳ではないがそれでもどこか遠い世界の物語だと感じていたのだな。あの髪の持ち主が齢十三にして断頭台に上がったなぞやりきれんよ……すまんな、エヴァンス。これは私の方が誤っていたのやも知れん」

 それだけを告げると教授も私と同じ様に俯き黙ってしまう。


 いいえ、教授。そんな事はないわ――私は何とかそんな返答を返そうとしたが言葉を上手く出せない。声を出そうとして口を開いてもその瞬間胸が詰まって声を出せないのだ。

 きっと教授も実際に生きた少女の、その髪の存在感に圧倒されたのだろう。でもそれは私も同じで、幼い頃から聞かされてきた王女様の痕跡を直接目にして衝撃を受けている。

 私は今まで、幼い頃からルーシア姫の事を色々考え想って来た。時に笑い、時に苦悩し、時に悲しんで――散々悩んだ末にこうやって今、ここにいる。

 そしてこの髪の持ち主の少女が、祖母のマギーを救おうとしたのだ。


 昨日教授に叱られた時の事がより強烈な現実として心に重くのしかかる。実際に処刑された王女の遺髪を前にするともう何も口にする事が出来なくなった。

 この遺髪を前にしてもまだ何かを言える者なんている筈が無い。実際に少女は決断して、その結果命を失い、こうして目の前にその遺髪が残っている。

 それだけが全て。その結果がこれなのだ。


 私はマギーのベッドの木枠に力無く腰掛けた。頭の芯が麻痺した様になってしまい思考して言葉を出せる気力が起こらない。それどころか力が入らず座ったままで立ち上がる事すら出来なかった。窓から差し込む穏やかな光の中で静かな時間だけが流れて行く。


 同じ様に教授も壁に背を預けてずるずると座り込みそうになった、そんな時だった。

 ぼんやりとした顔で遊技盤を見つめていた教授がそのまま床へ腰を下ろすかと思った瞬間、いきなり両足を突っ張り遊技盤に顔を向けたままその直前で堪えて見せたのだ。

 俯いたまま視界の中でそれが見えて私はのろのろと顔を上げる。教授はそれでも壁に背を押し付けたままで丁度遊技盤の盤面辺りに視線を合わせ、腰を床につけずに踏ん張っている不自然な姿が見えた。


――この人は、一体何をやっているんだろう?


 そんな事を思いながら私は呆けた頭で考える。しかしそれでも教授は微動だにせずひたすら遊技盤の盤面を凝視している。良く見ると教授は自分の顔に掛かった眼鏡を手で押さえて目を見開いていた。やがて深刻な顔をしたまま教授は掠れた声で呟く。

 それが最初、何を言っているのか私にはよく聞き取れなかった。


「――おい、アニー……書くものを……そう、紙とペンだ、今すぐ持って来い」

 全く反応出来ない私に向かって再び呟く様にそんな事を繰り返す。


――そんな、またいきなり。教授は何を言い出すのかと思えば。

――また何かメモでもするつもりなのかしら。

 そんな事を惚けた頭で考えていると教授は焦れて大声を上げる。


「――ッ、いいから今すぐ紙とペンを持ってこい!!」

 その余りの剣幕に私は反射的に飛び上がり、鞄のあるリビングへと飛び出した。



 私がその手に紙と筆記具を掴んで戻ってみると教授はテーブルの傍で膝をついてしきりに眼鏡を弄っている。その目線は先程と同じで盤面の高さだ。

 一体何があったのだろう、教授はこう言った怒鳴り方はしない筈なのに。教授はいつもなら怒れば怒る程に静かに冷たくなっていく性癖の人だ。


 そんな脇へ行き私が紙とペンを差し出すと教授はそれを乱暴にひったくる。そのまま脇目もふらずに紙面に升目を描き始めた。かと思えば再びしゃがみ込んで顔を上下させて遊技盤を何度も見始める。その奇妙な行動に私は一体何をしているのかと尋ねるが、直ぐに応えてはくれない。暫くすると今度は紙の上に書いた升目の上に何やら記述し始めた。

 訳が判らない私がそのすぐ傍でしゃがみ込んでいると教授は煩わしそうに言う。


「遊技盤の上に字が記してあるんだよ! 光の加減でしか見えない染みの様にな!!」

 それだけ言うと教授は眼鏡をつけたり外したりしながら同じ動作を繰り返す。


――遊技盤の表面に……文字?


 眼を凝らしてみるが私には特に何も見て取る事が出来ない。遊技盤はただ窓から差し込む太陽の光を映しているだけでその盤面はつやつやとしていてどこにも文字らしい物があるとは思えなかった。しかし教授には見えている様で着々と用紙のマスを埋めていく。

 私は仕方無くその直ぐ側で再びベッドの木枠に腰掛けて眺めているしか出来なかった。


 やがて床の上から立ち上がって教授は手に持った用紙をじっと睨みつける。立ち上がって横からそれを覗き込むが私には意味が分からなかった。


 上からM、次の行にG、O、三行目にはY、A、F、最後にRと書かれている。

 果たして升目に書かれた物が文字であるのかどうか。そもそも私からは盤面に書かれていると言う文字自体が見えないのだ。それではもうどうしようも無い。


「いや、まて……ルーシア姫はロジャー氏から遊技盤を習っていた……」


 教授はそう呟くと用紙の上に書いた自分の記述をペン先で指していく。それと同時に教授の表情が険しく変化してゆき、最後に息を深く吐き出した。左手で眼鏡を取ってそのまま右手で目元を押さえてしまう。まるで疲れた目を休める時の様に、しかし教授の肩が僅かに震えている。一体何をしているのか全く訳が分からない。

 問い詰めようと私が教授の肩へ手を置いたその時だ。教授は震える声で誰に言うでも無くゆっくりとした口調で話し始めた。


「――ああ……ロジャー氏はやはり、『騎士』だったのだ……」


 そう呟くと教授は目元を拭い服の袖で顔を拭くが目元が真っ赤になっている。それはまるで泣いていたかの様で私はぎょっとして言葉を失った。こんな風に男性が泣く様な姿を私は見たことがない。何より世間一般では男性は涙を人に、特に女に見られる事を望まない物だし教授は騎士の出で有り得ない事だ。

 しかし教授はそんな動揺する姿に構う事なく私に向かって厳かに告げた。


「――教えてやる、アネット・エヴァンス。お前の祖父ロジャーは騎士として王女の下命を最後まで守り、お前の祖母君を生涯を懸けて守り通したのだ。王女はお前の祖母君を守る為に命を賭け、ロジャー氏に託した。全てが全て――その為だったのだよ」


 私は、教授から告げられた言葉で頭が真っ白になった。

――王女が祖父に、マギーを守る様に……命じた?

――支えあって生きたんじゃなくて、守り通した?

――祖父が騎士で……マギーを?


 そんな話は聞いていないし何処にも書いてなかった筈だ。それまで考えて積み重ねて来た事が私の中で音を立てて崩れて行く。それは今までに考えもしなかった、ロジャーを軸とした流れだったからだ。


 酷い話だが私の中での主軸はマギーと王女様で構成されていた。そこへ突然ロジャーを中心とした流れが割り込んで来て思考が追いつかない。

 そんな中で視線の中に小さな丸いテーブルの上の遊技盤が飛び込んできた。私は目が離せなくなり言葉も出せず口を開いたまま思考が停止した。


 結局の処、私は女だ。聞いていた物語で共感を抱けるのはマギーと王女様だけだ。ロジャーはあくまで男性であり好意は持っていても共感してはいなかった。その事がこの時の私にある種の混乱を引き起こすきっかけとなったのだった。

 教授から提示された全く別の流れを受け入れられず思考が次々にばらけていく。恐らく教授から見ればロジャーの方に共感したのだろう。何せ教授は男性で騎士だ。だからあの時教授はそれに強く共感して感動を憶えたのだろう。

 逆に私は何をどう考えればいいのか判らなくなってしまったのだ。


 そこからは暫くの間、余りはっきりとは憶えていない。教授が私の肩を支え、リビングの椅子にまで連れられていった事だけは憶えている。私を椅子へ座らせると教授は申し訳なさそうな顔をしていた。


「……本当にすまん。お前は祖母君の記録を読み、相当に衝撃を受けていた筈だ。お前が祖母君と王女に憧憬の念を抱いているのは知っていたし、相当に疲弊していた事も気付いていた筈なのに、私は興奮するまま話して混乱させてしまった。本当に申し訳ない」


 恐らくここまで私が情緒不安定になった原因はこの三日間の食生活と疲労だろう。濃厚な情報に精神だけが興奮状態にあった所為で自分でも気付いていなかったのだ。


 人間は自分の立っている場所が理解出来ないとその場所に立ち続けてはいられない。

 教授は私に見えない物が見えると言って私の知らない話を語った。それがきっと私が軽い混乱状態に陥った原因なのだろう。それでも私は思考を纏めようと悪戦苦闘していた。

 私は今、ここで何をして、何の為にいるのか――テーブルの上に肘を付いて両手の掌で目元を押さえてその事だけに集中する。


 ここは大好きな祖母の家で祖母と王女様の物語の思い出の詰まった処だ。王女様はマギーの友達で世間で酷い言われ方をしている。だから私はマギーの為にも、王女様の悪い噂を否定しなければならない。そうやって私は、『王女様』を助けなければならないのだ。

 私は大好きなマギーが悲しむのは嫌だ。しかし教授はその王女様がロジャーに命じてマギーを守らせたと言った。


――命じて、守った……? それは何をどうやって? 私は……それを、知りたい。


「――ちゃんと順を追ってお前が分かる様に説明してやろう……」

 掌から顔をあげた私に、隣に座る教授がそう言った。



 私は昔からマギーの話を聞き、手記を読み、祖母の主観に沿って物事を見てきた。私は祖母に対して余りにも強く入れ込み過ぎている。だから手記に沿って衝撃を受けるし祖母の感情にも過剰に反応してしまう。

 つまり全く公平に物事を見てはいなかったのだ。私が見て考えていたのは結局マギーたった一人の視点や立場でしか無い。


 王女は革命が起きると言う事を早い時期から知っていた。

 恐らくロジャーが二人を守りたいと考え、王女とマギーの二人に伝えたのだ。

 そして王女とマギーはそれぞれお互いを助ける事を考え、それぞれロジャーに伝えた。

 きっと先にマギーが、そして王女はギリギリまで相談をしなかった筈だ。何故なら王女は、二人が自分を助けようと考える事を理解していたから。自分がそう思う様に、二人も自分を思ってくれている事をちゃんと知っていた。

 王女は自分の選択が二人を深く傷付ける事が分かっていたが、それでも祖母を助けたかった。きっと王女にとって誰にも見て貰えない自分と対等に接してくれる親友だったから。


「恐らく、王女はロジャー氏に命じた筈だ。リーゼンへ革命を伝えろとな。ロジャー氏は王女の教師で、将軍の息子で、彼からみて彼女は王族だ。王女の願いは下命も同じだから騎士として主君の願いを優先する。それが例えどんなに辛い事であってもな」


 王女はリーゼンへ救援ではなく、革命直後の収束をさせようと考えたのだ。王女にとっては二人だけが『民』であり、一緒にいる処だけが『国』だった。だから誤魔化す様にマギーには『国と人が好きだ』と言ったのだろう。そして王女はロジャーと言う若者の考え方をよく理解していた。それは祖母の昔語りでの二人のやり取りで分かる。

 騎士の名誉に関する逸話でも分かる通り、ロジャーは『騎士の名誉』を重んじる若者だ。

 王族である王女が願えば、それを遂行する事だけを考え成し遂げようとするだろう。

 そんな『覚悟』こそが彼の騎士としての名誉であり誇りなのだから。


 そして革命の当日、王女は最後の王族として断頭台に上げられた。

 死の迫る恐怖の中、正に刃が落とされる直前に王女はマギーの姿を見つけた。

 その瞬間、十三歳の少女の想いは迫り来る死の恐怖を上回った。

 だから王女は、ルーシア姫は大切な親友――マギーに微笑み掛けたのだ。



「……ここから先はお前にも分かるだろう? 祖母君の手記の通り王女は処刑され、ロジャー氏は祖母君と添い遂げた。二人で王女を弔い続けてな。恐らくロジャー氏は祖母君がやっと幸せになれたと安心して眠りについたのだと思うぞ。祖母君の手記にはちゃんとそう書かれている。小さなアニー。お前はとっくの昔に二人、いや三人を救っていたのさ」


 教授は優しい目をしながらそう言って話を締め括った。私はただぼんやりとした頭のまま、黙ってそんな話を最後まで聞いていた。


 しかし、もしそれが真実だとして、私の知らない事を教授が知っていた理由は何だ?

 遊技盤の盤面に文字が書いてあると教授は言ったが、書いてあったのは十文字にも満たない、ほんの僅かな記号だけと言っていい。そんな物だけでそこまで詳細が判るだなんてどうしても思えなかった。未だはっきりしない頭で何とか尋ねた私の疑問に教授は応える。


「あの遊技盤の上には文字が書かれてあった。恐らく王女自身の血だろうな。子供の様な小さな指で擦った様な、七つの文字が記されてあったのだ。ロジャー氏が管理していたそうだから、恐らく消さない様に、残る形にして置いたのだろうな」


 そう言うと、教授は自分で書いた升目のメモを私の前に置いて広げる。


「遊技盤には開幕、中盤、収束がある事は話したな? 開幕では定石と呼ばれるパターンが存在する。ロジャー氏ならすぐに気付いただろう。彼が一人で愉しそうに遊んで見えたのはきっと、王女からの言葉を繰り返し自分に言い聞かせていたからだろう」


 もしそうだとすると、盤面には何と、王女は何と祖父に命じたのだろう。

 私がそう言うと丁寧に紙の上に書かれた文字をペン先で辿って見せてくれる。

 先程見た升目に上から順番に数字を追記していく。


 四M、六G、二O、七Y、五A、一F、三Rと、それぞれに数字が書き込まれる。


「恐らく、最小の文字数で伝えられる様に限界まで絞り込んだのだろうな。民衆には遊技盤なぞ普及していない時代だから、革命を起こした者達には全く意味が分からん筈だ」


 そんな教授の説明を聞いて、私はその数字の順番に書かれた文字を口にした。


――マギーの為にfor magy……。



 昼下がりの暖かな日差しの中で私と教授は『王女の丘』に立っていた。

 丘の上は沢山の小さな白い花で埋め尽くされていてまるで純白の絨毯の様だ。そんな丘の片隅に大きな樹があって、その脇に二つの墓標が立っている。一つは祖父ロジャー、もう一つにはマギーが眠っている。眠る二人はまるで寄り添う様に、丘の上で佇んでいた。


 昔、幼い頃に祖母と一緒にこの場所で遊んだ。まさかそんな処に王女様が眠っているとも知らず、無邪気に。そしてこの咲き誇る美しい花々もマギーが蒔いた物だった。

 もしかしたら、マギーが私をここへ連れて来て一緒に遊んでくれたのは、王女様に自分がちゃんと幸せになった事を伝える為だったのかもしれない。


 そんな風に考えながら、私は教授と共に二人の墓標の前に立った。

 不意に隣で教授が左膝を立てて座り、右手を胸に添える。それはまるでお伽話に出てくる、物語に出てくる騎士の儀礼の姿の様にみえた。


 私もそんな教授の隣に膝を抱える様にしゃがみ込んで、教授の顔をじっと見つめる。

 しかし教授はそんな私の視線に構わず、目を閉じて黙祷を続ける。そのまま厳かな口調で教授は呟いた。


「騎士ロジャーよ。王女の若獅子よ。生まれた国と生きた時こそ違えど志を同じくする者、同じ騎士の信念を胸に抱く者として、私はあなたを尊敬する」

 そう言って再び黙祷する教授から私は視線をマギーの墓標に向けた。


――ねえ、マギー。マギーは私と一緒にいられて幸せだったのかな。

――もし本当にそうなら、とっても嬉しいな。だって私も幸せだったから。

 

 暖かく柔らかな日差しの中、小さく白い木春菊の花がそよ風に優しく揺られていた。


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