六章 『きしのめいよ』
マギーの残した手記は全体で一〇数枚しか無い。残り四、五枚と言う処だ。
分厚く古い紙の上に書かれているから量がある様に見えるがこうやって見るとたったこれだけの中にマギーの人生の欠片が数多く書き記されている。
当時は確か紙自体が希少な物で簡単に入手出来る物では無かった筈だ。何より当時の紙は今の物よりも品質が低くザラザラとした表面で荒い。これは植物繊維の密度が余り細かく無い上にムラがあってインクの定着もよろしくない為だ。その分紙は丈夫だが書き辛い。
そんな物がこうやって残っていると言うのは奇跡と言って良いかも知れない。あの家は換気も良くて室内が適度に乾燥している。マギーが火を怖がっていた事もあって必要以上に火を使う事も無かったから大きな湿度差が起こらなかったのだろう。それに同じ理由から火災による焼損焼失や腐敗による劣化が起きなかったのも相当に大きい。
私が次に手にした手記は断片的でなく最初に読んだ物の様に普通の言葉が書かれていた。
恐らく一つ前の手記からは数年が経過してから書かれた物なのだろう。
○マギーの手記・その一二
私はルウがずっと安らかに眠っていられる様に、丘の上にたくさんの花の種を撒いた。
ルウが好きだと言っていた木春菊の花も沢山植えてある。
こんな風にまた花を見て綺麗だと感じられる様になるだなんて思ってもいなかった。
ハワード家は有名過ぎるからロジャーはエヴァンスの姓を名乗る事になった。
あの後、まさか私が彼と所帯を持つだなんてルウが知れば『それ見たことか』と言ってきっと笑ったのでしょうね。私もこんな事になるなんて思っていなかったわ。
だけど彼は人を肩書だけで見ない、とても善い人よ。ルウから見れば苦手な人だったのかも知れないけれど誠実で優しさを持った人だわ。
何より、あなたを助けられなかった事を今もずっと悔やんでる。
何も出来なかった私も、それは同じね。
*
この手記はそれ程長くはないが落ち着いた文章になっている。断片的で殴り書いた様な片言ではなくて、それだけで私は少し救われた気分になった。これまでの物と比べると随分と最初の方に近い。そして内容はルーシア姫自身に語り掛ける様に変化していた。
これが書かれた頃もまだ母達が生まれていない時期だろう。考えてみればもし子供が生まれていれば育てるのに忙しくて手記を書いている暇なんて無かった筈だからだ。
そして花の種を蒔いた丘はあの家の裏にある『王女の丘』に違いない。やはりあの場所は王女の首が弔われている墓所でもあったのだ。
そんな場所でマギーはロジャーと共にずっと暮らしてきた。決して離れようとせず寄り添う様に静かに。そんな場所と知らず私は眠る王女様の傍でその物語を聞いていたのだ。
私は今年で二十九になるが祖母は十三の頃、革命直後から眠りにつくまでの長い時間、あの土地でずっと人目を避けて生きた。やがて娘達が生まれて末娘の母が私を産んでから預けられる様になった。私が生きた時間より遥かに長い間、あの場所を離れなかった。
そしてロジャーはやはり身を隠す為にマギーの姓『エヴァンス』を名乗る様になった。
マギーの実家は没落貴族だと書いてあった。それに当時の時点で家自体が既に火災で失われている。貴族とは襲名した親が貴族なだけでその子供は該当しない。没落した貴族で親が他界しているから他家に嫁入りしていなければ貴族だとは気付かれない。
今でも有名とされる『ハワード』を名乗るより遥かに安全だ。下手に名乗っていれば生き延びた貴族達が集まる目印になったかも知れない。それ程ハワード家の存在は王国でも有名な家系だった。もしかしたら平民より貴族を避ける為だった可能性もあり得る。
そう考えるとやはりこのマギーの手記は私が最初に考えてしまった何かを覆す為の物ではなく、純粋に友人のルーシア姫を想って自分達が幸せだった頃の記憶を書き綴った物であるのかも知れない。手記の体裁だがまるで王女に宛てた手紙の様でもあるのだ。
そして今になって思うと私はもっと祖父ロジャーと向き合えば良かった。幼い頃だから仕方ないかも知れないが、私は祖父を嫌いだったのではなく怖かっただけなのだ。無口でしわだらけの顔からは何も読み取れなくて、祖母と違って表情から感情すら見えなかったから私は怖かった。過酷な人生を垣間見て初めて理解出来た今だからこそ強くそう思う。
母から聞いた昔話と今回の手記を擦り合わせると、ロジャーは元々無口で余り言葉数も多くなかったらしい。将軍の息子らしく思案が多く落ち着いている。恐らく革命の経験で一層無口になったのだろう。秘密を守る為に必要以上の事を話さなくなったに違いない。
そして私の思い出の中で祖父が怖くなかったのは遊戯盤に向かう時だけだ。普段は感情も分からないのに楽しそうに見えた。だから幼い私は楽しいのかと祖父に尋ねたのだから。
ルーシア姫もきっと思慮深く言葉数の少ないロジャーが苦手だったんだと思う。私がそんな推測を口にすると教授は目を細くして珍しく笑った。
「祖父と言うのは大抵がそんな物だ。特に孫から見れば恐ろしく見える物らしい。ロジャー氏もそれは充分分かっていただろうよ。幼い頃のお前がちゃんと話せれば分かっただろうが数度あっただけならば仕方あるまい。幼い孫を見られて幸せだったと思うぞ?」
そんな物だろうか……そう言われてみれば確かに老人は男女で印象が違う。女性であれば柔和な雰囲気が強くなるが男性は厳しい印象が強くなる。教授の言う通りロジャーが私と会えた事を喜んでいてくれたなら素直に嬉しい。それで少しだけ心が楽になった。
そう言えば祖父が眠りに着く際、祖母に一言だけ残したと聞いている。その内容は簡単な物で『あの子には伝えるから、君はのんびりしてきなさい』――確かそんな言葉だった筈だ。きっとロジャーはマギーが幸せな時間を過ごせる事を祈っていたに違いない。
しかしそれを伝えた途端、教授はその言葉すら用紙の上に書き殴った。他にも何かを聞いていないかとしつこく詰問されたがそれが私自身ではなく母からの伝聞だと聞くと教授は『母君に手紙を出して問い合わせろ』とまで言い出した。
そう言われてみると随分長い間母親に手紙を出していない。祖母の危篤を知らせる手紙を受け取りはしたが時既に遅く、落ち込んだ私は返信を出さなかった。
長い間連絡を取っていない事もあったので、私は了解して母へ手紙を出す事となった。
*
話を手記に戻そう。祖母の手記に目を通す上で一つだけ気になっている事があった。
これはあの『革命の直前』と思しき手記からずっと続いている事だ。
それはマギーがずっと後悔をし続けている、と言う事だった。
王女の処刑以降、特にそれが顕著でマギーの後悔が手記に綴られている。助けられず傍にいられなかった事、王女を一人にしてしまった事――それらに対する後悔と懺悔の思いが特に強く記され続けている。最初の手記は私に語りかける様な調子だったが革命の前後から自問自答に近く、誰にぶつければ良いのか分からない感じだ。そしてここに至っては亡くなった王女に向けた手紙の様な語りへと変わっている。
革命直後はマギーが十三歳だった頃だ。革命から現在まで六〇年近くが経過しているがその間に書かれたと思しき物にもずっと後悔の念が漂っている。
私自身余り考えたくないが、幼い私が昔語りをねだっていた事でマギーを苦しめ続けていたのだとするとやはりそれは私にとっても激しい後悔を伴う辛い事だった。
母親から聞いた、祖母の最期を看取った時の話を思い出す。マギーは苦しまず穏やかで満足した様に、まるで眠る様に息を引き取ったそうだ。母親はそう言っていたが本当にそうだったのかと疑ってしまう。こんな風に手記を書いて後悔を続けたマギーが果たしてそれで解放されたのかと言うととてもそうだと思えない。もしかしたらマギーは苦悩を胸に抱いたまま眠ったのかも知れない。それが私へ遺言を残してくれなかった理由かも知れないし、これ程長い間縛られ続けた思いが簡単に霧散しただなんて私には思えなかった。
やはりマギーは私と会いたくはなかったのかも知れない――そう思うと憂鬱だった。
さて、母親への手紙をしたためる段になって教授が私の手元へ何かを差し出した。見てみるとそれはこの国、グリゼルマ共和国の高額紙幣だった。私は非難する様に見上げるが教授は底意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「これを母君の手紙へ同封しろ。その上で必ずこう記せ。『職場の上司、現場責任者が是非とも知りたいと望んでいる。だから必死に思い出せ。これはその上司からだ』とな?」
流石にやり方が汚い気がして私は抗議したが聞く耳は持ちあわせていないらしい。教授は実に愉しそうに人の悪い笑みを浮かべて続ける。
「いいか? 母親と言う者は子の、特にお前の様な娘の言う事に何の見返りも無く協力の為に努力なんてしない。普通にやっても同じ事を繰り返し言うだけか、『忘れた』の一言で終えようとする物だ。そこに報酬と他人の存在が見えて初めて努力を試みるのだよ」
その理屈は分からなくも無いが金で解決しようとするのが気分が悪く感じる。不機嫌になりながら母親への手紙を綴っていると教授は今度は良い事を思いついた様に、
「そうだ。どうせだから司書院最高責任者の要請と言う文言も使うか?」
と言い出したが、私もそこまでは聞き入れる気はなかった。
手紙を差し出すと教授は『司書院最優先文書』の印と封を押して部屋を後にした。
○マギーの手記・その一三
ロジャーがあの日、私に思い出を綴る様に言った理由がよく判ったわ。
小さくなってしまったルウを抱えて逃げて、多分私はおかしくなる寸前だったのね。
こうして子供が出来た後になって読み返しても痛みは変わらない。時間が開く程にあの時の気持ちは一層強く想い出される。
涙が止まらなくなるけれど、あの時の様に死にたいとは思わない。
生きなければ。生きて子供を産み育てなければ。
もし激情に駆られて命を落とせば、絶対あの子に叱られる。
例えそれが苦しいとしてもあの子が望んだ事だもの。
あの時何も出来なかった私に出来る唯一の事だもの。
私はきっと成し遂げて見せる。いつか死んで、あの子と笑って再会する為に。
その日が待ち遠しい。
*
教授が手紙を掴んで喜々として部屋を出て行った後も私は一人で手記を読み続けた。
一人となった事で緊張が緩んで昨日からの疲れが一気に吹き出した様だ。研究室の窓から差し込む陽光も程なく夕陽へと呼び名を変える頃合いだろうか。目の奥に鈍痛を感じながらも私は手記へと視線を走らせ続けた。
ここまで読んでマギーの手記の正体――いや、目的がやっと分かった気がする。これらの手記はマギーが自主的に書いたのではなく、ロジャーが書かせていたのだ。
その目的はマギーが冷静さを取り戻す為だ。気が狂いそうな状態でも心に溢れた感情を文字にする事で何が辛くて苦しいのかがはっきりする。爆発しそうな感情も言語化する事で一旦思考しなければ書けない。ロジャーはそうさせる事でマギーを落ち着かせた。
自分も苦しかったろうに、十八歳のロジャーは気が触れそうだった少女を的確に元の状態へと引き戻した。きっと若い頃から祖父は本当の天才だったのだろう。
考えてみれば酷い精神状態のマギーが自分から書き記せた筈がない。気が触れそうな人は論理的な行動を取らない物だ。ロジャーが記す様に指示しなければ何もせずにそのままいつか自害していただろう。何よりマギーは元来書き記す様な性格ではなかった筈だ。
私が知るマギーは普段から何かを書き付ける習慣が無かった。例えば母が子供に人気のある新しい料理を聞いた時も口頭だけで全て覚えてしまったし実際に一緒に作った時も手が止まる事が無かった。きっとマギーもロジャーに劣らず頭が良かったのだろう。
かと言って文字の読み書きが出来ない訳でもない。実際に私が初等学舎に通う前、文字や計算を教えてくれたのはマギーだ。人に教えられる位の学力を持っていた事になる。
ただ、目を悪くしてから書かなくなった、と言う話を後から母に聞いた。
しかしロジャーは本当にハワード将軍の息子だったのだと今更ながら感心する。
こうやってマギーは手記を書く事で思考が戻っている。気が触れそうな人間を正気に戻すと言うのは困難極まりない事なのにそれを達成している。革命付近からこの手記に至るまでの変化を見てみればロジャーのやった事は的確だ。とても十八の若者の発想ではない。
ただ、こうやって残した事でマギーは何度も読み返しただろう。かつての自分が書いた内容を繰り返して読んだ筈だ。その都度当時の痛みも思い出したに違いない。そしてそれがマギーの心に後悔を根深く刻み込む事になったのだと私は推測した。
確かにロジャーの選んだ方法でマギーは自分を取り戻した。けれどその記した物を何度も見返す事で地獄の様な苦しみも伴った筈だ。当人ではない私が読んでも精神的に追い詰められそうになったのだ、書いた本人が読めば更に過去の悲劇を思い出した事だろう。
読むたびに記した時の思いが蘇る。正気に戻っても読み返す事で傷は深くなる。だからマギーも当時のロジャーを冷酷で薄情だと感じたのかも知れない。それでもマギーがこの手記を書いた頃には苦しみながらも生きる事を決意している。ロジャーはマギーの生きる世界を最後まで守り通したのだ。私の母達や私が今を生きているのは全て祖父のお陰だ。
実際に手記にはマギーが自分から命を捨てる事を否定し始めている。生きて子を育てなければ、と言うのは恐らく最初の子供、長女の叔母が生まれた後だろう。だけどそれでもマギーの心は死を望んでいる事は変わらない。それが私には悲しくて仕方なかった。
生きる事が苦痛でも生きなければならない。それは処刑された王女と再会する為に死ぬのではなく、約束を守る為だけに苦しい今を生きていつか死ぬ事を望んでいる。一見改善した様に見えても根っこの部分は変わっていない。結局死ぬ事が救いで生きる事が苦痛だと言う感情が見える。それが祖母が安らかに眠った最期と重なって胸が苦しかった。
それは結局、冷静になっただけで全く救われていないのと同じだと感じるからだ。
果たしてそれは本当に生きると言う事なんだろうか。マギーは確かに自ら命を捨てる事を辞めて生きる努力を始めた。だけどそれでも絶望からの解放を待つ為でしかない。
先に読んだ手記では王女様――ルーシア姫はマギーが生きる事を望んだと言う。けれどそれは王女が本当に望んだ生き方では無いと思う。そう考えた時、ふと脳裏を過った。
なんだろう……確か、何処かで似た話を聞いた気がする。あれはいつ、何処で――。
私は想い出す様に目を閉じて椅子の背凭れへ背中を預けた。
*
私は顔まで布団を被り、目だけを出してじっと話を聞いていた。
直ぐ側で同じ布団に入るお祖母ちゃんの体温が暖かくて、それが心地良い。
――私は本物の王女様とお友達だったの。これは、そんな昔の頃のお話ね。
そんな言葉が聞こえる。
ああ、昔のお話の始まりだ。
――ある時ね、王女様が先生と喧嘩をしたの。
――私は傍で聞いていただけなのだけれどね。
――最初はとてもくだらない事だったのだけれど、それでもどんどん激しくなって。
――アニーは騎士って知ってるわよね?
――弱い人を守って戦ってくれる、正義の使者ね。
――それで先生が怒って言ったの。
――騎士は、大事な人を守るために戦うのです。
――その為なら死んでも構いませぬ。
――大事な人を守れるなら死ぬ事も怖くない。
――それが騎士の名誉なのだから。
――先生はそう言うのだけれど、王女様はとっても怒ったの。
――死ぬなら勝手に死になさい。
――だけど守ってもらった人が可哀想ね。
――守ってくれた人が死んじゃうんだから。
――凄く怒ってそういう王女様に、先生はとっても驚いたの。
――では私はどうすればいいんでしょうか、と言って。
――アニーなら、どうすればいいと思う?
私はそんなおばあちゃんの言うことをいっしょうけんめい考える。
もし私がお姫さまなら、王子さまが守ってくれるのはとってもうれしい。
だけど王子さまが死んじゃうのはいや。
だったら、きしのめいよ、なんていらない。
いっしょにしあわせになる方がいいもの。
おばあちゃんは私がそう言うとすごく驚いた。
だけどすぐにっこりと笑って、私をぎゅっとした。
――ええ、そうね。アニーはとてもやさしい子ね。
――おばあちゃんはそんなアニーが大好きよ。
――王女様もね、アニーと同じ事を先生に言ったのよ。
――死ぬために生きる事はお辞めなさい、って――。
*
まどろむような心地良い中で誰かが私の頬を突付いている。
思わず私は手で払いのけるがそれでも繰り返して突付かれる。
――何、折角気持ちがいい処なのに。
そう思いながら目を開けるとそこには眼鏡を指で押さえた教授の顔があった。目の前にムスッとした教授の顔と禿げ上がった頭が見えてぎょっとする。そのまま椅子ごと倒れそうになってしまう私の肩を教授は支えると妙に優しい怖い声で言った。
「ここは研究室で寝る処では無いんだが。疲れたのなら仮眠室に行くかね?」
恐縮しながら私は謝罪すると軽く背筋を伸ばし固まった身体を解した。
いつの間にやら私は研究室で眠ってしまっていた。そう言えば昨日、あれから私は余り眠る事が出来なかったのだ。落ち込んだり泣きそうになったりと疲れが相当溜まっていたに違いない。きっとここへ来て、教授に話を聞いて貰う事で多少落ち着いたからだろう。
未だ眠気は拭えないがそれでも多少体力は回復していた。
私が両手を顔に当てて口元が見えない様に大きく欠伸をすると教授が睨んで来る。それで慌てて欠伸を噛み殺すと教授は何も言わず手元へ目を向けた。これ幸いと私は目元を指で押さえながら先程まで見ていた夢を思い返す。
その途端私ははたと気付いてそのままで動きを止めた。
――そうだ。確か騎士の話だ。
昔、幼い頃に聞いた話で王女と先生――ロジャーが言い争うお話だ。好きな二人が喧嘩するのが嫌だと思いながら聞いた憶えがある。
幼心にも印象が悪く、その所為ではっきりと憶えていなかったのかも知れない。
一般に世で言う『騎士』とは何よりも名誉を重んじる人々だ。よく耳にする騎士とは死を恐れぬ勇気を持ち名誉を守る為に命を賭ける。各地にある童話でも語られていて男児は騎士に、女児はお姫様に憧れるのが普通だ。これは私が幼い頃であってもそう変わらない。
なのに私の王女様は『騎士が名誉の為に死ぬのは悪い事だ』と断言したのだ。
そんな事をそこいらのお姫様が言えるものか。ルーシア姫は何も騎士精神のあり方を否定したんじゃない。恐らくこれは男女での考え方の違いだと思う。男性は最後には自分の命を消費して何かを守る覚悟を持っている場合が多い。それに対して女は最後まで共に生きて幸せに過ごせる事を望む物だ。これは今よりも当時、この国が王国であった頃程顕著だと言える。今でこそ女であっても私の様に働く事が出来る。でも当時は女とは家を守る場合が多く男性が先に死んでしまえば守られたとしても女の身ではどうにもならなかった。
男と女では覚悟の意味自体が大きく違っているのだ。
そしてそんな中でルーシア姫は『死ぬ事を覚悟に据えるな』と言ったのだ。
幼い頃は分からなかったが今ならとてもよく分かる。今の世でも王女様の様に正面から否定出来る女はいない。私が憧れた王女様はそんな風に考えて口に出来る人だったのだ。
あの頃、あの時、幼い私の言葉に祖母マギーが驚いた顔が思い出される。
あれはきっと……そう言う事なのだ。
あの時、幼い私にマギーは確かに言った。
王女様も『死ぬ為に生きる事はお辞めなさい」と言った――と。
騎士精神では如何に道に沿って生きる事が出来たかを誇りとする物だ。それがいつの頃からか『如何に死ぬか』と言う部分に向かっていった。だからルーシア姫はロジャーの言葉を否定した。もしこれを書いた頃のマギーを見れば『私の王女様』も同じ様に考えていた筈だ。同じ生きるのであれば『生きる為に生きろ』と彼女ならば絶対にそう言う。
黙りこんだまま手で額を押さえて動かない私が気になったのだろう。教授は「本当に疲れているなら明日でも構わないが」と再び声を掛けてきた。そんな教授に私はその姿勢のままで目だけを向ける。きっと私は今、相当疲れた顔色をしているのだろう。教授は普段そんな優しい言葉を他人に向けて言う人では無いからだ。
けれど今ここで休んでは折角思い出の中で王女様が教えてくれたひらめきを無駄にしてしまう。もう少しで何かに気付く事が出来そうなのだ。時間を空ける訳には行かない。
私は変に私を気遣う教授にお構い無く、とだけ断って紙面に視線を向ける。恐らくこの時マギーは後悔が強すぎて王女の言葉を失念していたのだろう。
マギーの親友、ルーシア姫がそんな事を望む筈が無い。本当に大切だと思う友人が幸福に過ごせる事を望まない訳がない。王女はマギーが幸せに生きる事を望んだ筈なのだ。
――王女は……ルーシア姫はマギーの幸せを……望んだ?
そんな何気ない一言が私の脳裏に浮かんでそれまでの思考が一斉に静止する。私の頭の中ではそれまで分からなかった『死の間際で微笑んだ王女』の姿が浮かんだ。
――……いや、そんなまさか……。
そんな考えを、しかし『お姫様らしくない王女』と言う姿が上書きして行く。
処刑の際、命を奪われる直前に微笑んだルーシア姫。まさかそれは『マギーの幸せ』を望んだから? 微笑んだのはそうする事で大切な友人が幸せになると確信出来たから?
いや、しかしそれで処刑された王女を見てマギーの心は実際に一度潰れたのだ。ルーシア姫がその事に前もって気付かなかった筈が無い。けれどマギーは穏やかに眠る様にその人生を最期まで終えた。そしてロジャーが死の間際に言ったという言葉が頭の中で響く。
『――あの子には伝えるから、君はのんびりしてきなさい――』
私の事を大好きだと笑いながら言ってくれたマギー。手記に記してあった大好きな祖母のフルーツパイのレシピ。幼い頃に幸せそうに笑ってくれた祖母の笑顔が脳裏に蘇る。
マギーは……不幸にはなったけれど、幸せにもなった――不意にそんな事が私の頭の中でぐるぐると回り始める。
――ルーシア姫はその事を選び、そうなると確信したから微笑んだ?
自分の顔から血の気が引いていくのと同時に思考の結び目がほつれていくのを感じる。
そんな深刻な顔をしている私に教授は思い出した様に愉しげに話し始めた。
「――ああ、そうだ。先程お前が書いた手紙は先程使者付きで直ちに出たぞ。あの辺りならば距離にして二日程だから、そのまま使者に回答を聞き出して書きつけて戻る様に指示を出した。使者付きならば母君も必死に想い出そうとするだろう。もう逃げられまいよ」
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