The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 8

 アーモンド形のぼやけた世界、にじむ光を順応した瞳孔が吸いとれば、海の底から浮かび上がるみたいに、視界に飛び込む……見知らぬ部屋。

 鶸は燻る火のように、ふわふわとした意識で目覚めた。ああ、自分は、見知らぬ若い男についてきたのだと、遠い出来事のように考えた。頭も体が重かった。

 若者はベッドに腰かけて煙草を吸っていた。鶸はぼうっと、横たわったまま、斜め下からの男の横顔を見るともなしに見ていた。窓が開け放たれ、異臭と、春の宵のじっとりした桜の気配が、窓際から覗き込んでいた。肉体を撫でる指先は花びらと風の混ぜ物をした、つめたい夜の熱っぽいような吐息だった。

 意識を飛ばしたのは少しの間だけのようで、腹にまだ湿り気が残っていた。男がティッシュで拭ったらしく、白い繊維がわずかに腹についていた。鶸はその瞬間のことを思い出してぞくっと身を震わせた。自分はあのとき何をされたのだろう。

 男は横目でちらっと鶸を見ると、大丈夫? となんでもないように訊いた。鶸は急に恥ずかしくなり、身を起こして頷いた。

「あの…その…」

 お腹をさすって、粗相の始末をしてくれたことに礼を言った。

 男はぽかんとした表情で、鶸の言いたいことを考えているようだった。口許を押さえ、低い声で言った。

「……もしかして、初めて?」

 鶸はこてんと首を傾げた。仔犬じみた仕草に、若者の白い頬が強張った。

「精通、きてなかったってこと」

 今度は鶸がぽかんとする番だった。せいつう、と呟く。

 事の最中はあれほど悪魔的に思えた若者は、年相応の、弱さの滲んだような呆れたような妙な表情をして頭をかいた。「……まじか」

 さすがに青田買いすぎた、と呟くと、もう一本煙草を取り出した。

「セックスの初めてはいいのに、せいつうはだめなの」直截な言葉も、さめたようなとろけたような、ぼんやりしたままの頭では口に出せた。男は気まずそうに煙草をくわえる唇をとんとん、と指で叩くと、「……まあね」と、歯で煙草を噛んだ。

 これが本物のセックスではないことは、なんとなく鶸にもわかっていた。ずり下ろされていたズボンを穿きなおすが、横着して座ったままやろうとしたので、時間がかかった。

「ロック、あんまりないね」タルカスの不気味なポップアート風のジャケットをみながら、鶸はかすれた声で言った。若者は目を細めて、CDは本当に気に入ったやつしか買わない派、と返す。「今はネットで配信聴けるし」

 ああ、状況は異なるけれど朔も似たようなことを言っていたなあ、と思い出してしまい、駆け抜ける思い出の質量にぐわんと頭が鳴った。

「帰りなよ」

 若者は肩をほぐしながら言った。床に落ちていたローリング・ストーンズのTシャツを拾い上げ、小さな洗濯機に入れながら「親とか、探してるでしょ」と、タオルを投げてきた。鶸が時計を探して壁を見上げると、携帯の表示を見せてきた。11:58とデジタル数字が告げる時刻は鶸にとっては未知のものだった。

 男はシャワーを浴びにいこうとして、襟足をかき上げ、不意に鶸を振り返った。「俺また出かけるけど。さっきのとこまで送ろうか」道わかんないだろ、と言う。投げられたタオルを膝の上に放ったまま、動きもしていなかった鶸は、慌てて顔をあげた。何か返事をする前に、若者は小さな浴室へ引っ込んでしまった。

 口止めもされなかった。奇妙な男だなと思った。絶対に鶸がこのことを話さないことを確信している口ぶりだった。

 もしかして人間じゃないのかもな、なんて考えながら、鶸はのろのろとタオルで適当に体を拭いた。腹を拭って、腰を拭って、そして、足の間。…男が始末をしたのか、痕跡はないが、感覚はまだ残っていた。あんなことをされたのに、悲しくも、悔しくもなかった。自分が望んだからなのかもしれない。変わってしまいたいと思ったのだ。子どもじゃない何かになるために。

 若者がシャワーを浴び終わって、また、新しいローリング・ストーンズのシャツを着た。同じのを二枚持ってるのか…と、鶸は得体のしれないふしぎな生きものを見るつもりで彼を見ていた。若者は鶸に立ち上がる促して、部屋を出るとき、扉を閉める音にまぎれて何かつぶやいた。「ごめん」と聴こえたような気がしたが、よく聴こえなかった。

 また、雑然とした混沌のなかをふらふらと泳ぐように歩いていく。驚いたことに、夜の街はこれから活気を増していくようで、鶸は震えた。男は黙って歩き続けて、やがて不意に速度を落として前を指さした。「あそこ」言われて視線をやると、そこには、見覚えのある細長い扉が見えた。開いている。そこからは、階段が下まで伸びているように見えた。若者と出会ったライブハウスだ。

 その時、そのライブハウスの入口から、四つん這いの獣が奔り出てきたように見えて鶸はぎょっと立ち竦んだ。しかしそれは突き飛ばされて地面に手をついた人間が、反動で身を返して二三歩進み、勢いで起き上がった姿勢だと解ってほっと息を吐いた。

 まるで子どもをもてあそぶような手つきで突き飛ばされたその人物は、ばらんと金色を振り乱した極彩色のまぼろしの獣に見えた。傲然とあげた顎から横顔のラインを見て初めて、鶸はそれが、あの"べんがらごうし"で歌っていた少年だと気がついた。その彼を踏みつけるような真似をしながら、入口から姿を見せた見知らぬ男が何事かを口に出す。影絵劇場のようだった。

 少年は獲物を狙う狼の目つきで、男の抱えたつぎはぎの水玉模様のギターをねめつけた。そのまま、奇妙にしわがれた声で、少年はうなった。「いいかっ……よく聴け、人体模型よ……僕はだなあ……」絶対に、ほしいものを手に入れるのだ、と彼は叫んだ。けれどその声は哀切に満ちていて、月が欲しいと泣く子どもとよく似ていた。

 そのまま少年はこちらへ向かってさっと駆けだした。極彩色の布地が浄土の風のようにネオンの中を流れ、ぎらりと一瞬、ピアスのような瞳が鶸と交差する。

 メタリックな、アプリコットの稲妻。

 ひらりとそれが春の宵に流れ、うなじがあらわになる。少年のうなじ。傷だらけの魂の、紙の月のように白いうなじ。刹那の邂逅の瞬間、鶸は息を止めていた。

 まぼろしの白い花が、あたりを覆い尽くしたような気がした。

 アプリコットの夜風は、まぼろしの花吹雪が消えたときには跡形もなかった。いずこか、夜のどこかへ去ってしまったらしい。同じだ。あの別離の時と。

 何もかも消えていく。花吹雪の向こうに。

 ここまでくればわかるでしょ、と若者の声がするまで、鶸は自分が歩いていることすら気づかなかった。遠くに見えていたライブハウスの入口の前に、いつの間にか立っていた。貼り紙のあった扉は開け放たれ、まだそこからあの振動が響いてきて、体を持っていかれそうになる。なんだかすべてが夢のようだった。ネオンに混ざって、くるくる虹色に輝く円が回転する。視界がきらきらしている。

 恋も、悲しみも、セックスも、ロックンロールも、すべてが渾然一体となった魂の高揚。

 Elevation.

 いつかわかる日が来ると言って、そして自分はもう中学生になる。世界を押し流すような衝動。

「ロックって…なんだろ」

 よくわかんない、と呟いた鶸の肩を、男がぽんと押した。ふらっと灯りのもとにまろびでた鶸が振り返ると、ネオンサインの瞬く闇に消えていこうとする黒い影が、一瞬だけ、夜の火に照らされて金色に見えた。

 わかんなくったっていいだろ、と、溶けるような薄っすらとした声が、ぼわんと体内に響いた。

「魂が震えりゃロックンロールなんだよ」

 煙草の匂いがふわっと漂った。男の姿はなかった。どこにでもいる若者のシルエットは人の群れに溶けて、どこにもいなくなってしまったようだった。黒い髪と白い肌と、茫洋とした輪郭がふわっと記憶のなかで薄れていった。今日の夜の空気だけで出来た、なにかの化身のように。

 鶸はしばしそこで立ち尽くして、今来た暗い道を見つめていた。そしてから、きびすを返して、夜の街に背を向けた。

 ライブハウスから、なんとなくこっちかなという道を辿っていけば、すぐに駅の裏に出た。そのまま高架下を下り、歩道にはみ出た雑草をまたいで、ゆっくりと気怠い体とふわふわしたままの心をもって歩き続けた。

 兄ちゃんは怒るだろうか。迷子になったときのように。

 でも、俺は今日、望んで迷子になったのだ。

 月のない夜だった。家路は宵闇にじっとりと浸されていて、つめたい光が肌を灼いた。夜気が、純潔を失った肉体を包む。

 ネオンよりもずっとまばゆい、銀の灯りがともった交番の前に辿りついたとき、鶸はぽろぽろと涙をこぼしていた。

 


 警察からの連絡に飛んできた両親に連れられて帰宅して、山吹家にいた朔と顔を合わせた。朔は何も言わなかった。何も言わずに鶸を抱きしめた。怒るのは両親の役目で、朔はけして鶸に何も言うことはなかった。それがすべてを表しているようで、鶸は泣いた。

 ライブハウスに行ったんだよ、と言わなかった。ひとりで行って、その記憶は胸の奥にしまい込んだ。

 代わりに、天袋に隠し続けてきたCDを、母がお詫びにと用意していた早生の枇杷と一緒に袋に入れて、何も言わずに玄関先に置いておいた。朔が帰ったあと、空っぽになった天袋を覗いて、Elevation, と口ずさんだ。狭い闇に反響した声が確かにかえってくる。鶸はぐっと手を握りしめた。

 朔は変わってしまった。けれど、自分も変わったのだ。

 この気持ちはずっと上昇、高揚を続けていて、冷えて去ってしまうことはなかった。まだ胸の奥を焦がす白い光が、ぎらりと鋭く研がれる。

 十二歳の夜以来――心臓がロックンロールのリズムで鼓動している気がする。五年間、たとうとする今も。

 あの春の宵、こころの形を変えた気がした。

 火は消えていない。ますます強く、紅く、燃え上がる。記憶を糧にして。音のない胸の世界で銀色の火の粉が散る。心臓のなかで、くるくると回る白い花を咲かせている。それはまるで、月の上にいるような光景。

 ―――ぼやけてにじむ、白い花吹雪。




Say, its only a paper moon

Sailing over a cardboard sea

But it wouldn’t be make-believe

If you believed in me

 ―――「It’s Only A Paper Moon」Harold Arlen/E.Y.Harburg

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