The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 7

 ライブハウスが揺れている。自分も揺れている。世界を揺らすものがある。それが音かそうでないかもわからなかった。心臓はドラム、喉は電子オルガン、永遠に刻み込まれてこの先自分の体はロックのリズムでしか生きられないのではと思うほどの麻薬。びりびりと痺れる魂。

 鶸は、頷いていた。

 男のほうが驚いたように少し鶸から身を離した。ローリング・ストーンズのマークが歪む。

「いいの? 初めてでしょ」

 鶸は口を開いた。「いい。いく」

 朔の額の傷跡を思い出していた。自分にもきっと必要なのだ。傷跡が。

 男も、やわらかでつかみどころのない笑みを消して、鏡のような黒い目で鶸を見つめた。鶸の幼い表情がそのおもてに映っていた。

「……後悔しても知らないよ」



 男の部屋は近かったが、けれどどこをどう歩いて辿り着いたのか判然としないほど雑多な夜の町の奥にあった。安アパートの二階。外付けの階段を一歩ずつ上がる金属音を聞きながら、もうどうにでもなれと鶸は捨て鉢な気分になっていた。ロックが毒となって全身に回っているようだった。知らない人についていっちゃいけないと言われたことは数えきれないほどある。親からも、教師からも、朔からも。

 部屋の前まで来て、男は立ち止まった。扉に手をかける前に、鶸に向き直る。

「やめるなら、今だけど」

 白い肌のなかの黒い目が、じっと鶸を見つめていた。

「俺は悪い大人だよ。嫌がってもやめてあげないよ」

 悪い大人、という言葉に、あの金髪の男がよぎった。

 鶸はかぶりを振った。やめない、という意思表示だった。

 もうなんだっていい。

 こんなに暗い感情を抱いているのは生まれてはじめてだった。最後かもしれないとも思った。

 彼は鶸の表情に何かを読み取ったらしく、無言で鍵を開けた。かちりという音が響いて、つめたい扉が開いた。

 ワンルームの狭いアパートは存外ものが少なく、あまり散らかっていなかった。甘ったるいような、煙草の匂いがする。

 椅子ないから、ベッドで、と男が言う。鶸は言われたとおりにベッドに座った。朔のものとは違う感触がした。

 地獄の黙示録のDVDと、ELPのタルカスがシーツの上に放り出されていた。ローテーブルに置かれた新しい映像再生機器の隣にはブルーベルベットとかマルホランド・ドライブとかのDVDが並べられていた。ロックのCDを探したが、見当たらなかった。

 無言で男は小さなペットボトルを投げてきた。受け止めると、飲みたければどうぞと投げやりに言われた。腹の中でジンジャーエールがさざなみ立って、鶸は首を振ってペットボトルを返した。どこか女のような白い首筋に、黒髪がかかっている。鶸の胸がじりじりした。

 若い男は取り繕うようなことは何もしなかった。シャワー入る? と尋ね、鶸がどうすればいいのか戸惑っているとまあいらないかと勝手に解決して、隣に座った。ベッドのスプリングが軋んで沈んだ。DVDをどけると、シーツの上には大き目のタオルが敷いてあって、男の手がゆっくりと鶸の肩を押した。ぽすん、と軽い音をたてて、鶸はベッドの上に横たわった。男も鶸の体の横に手をつき、半身だけ覆い被さるような体勢をとった。

「こういうことは好きな人としなくちゃいけないって、教わらなかった?」

 鶸は投げやりに首を振った。兄ちゃんはそんなこと教えてくれなかった。もう何もかもどうでもよかった。男はふふっと笑った。「悪い子」

 そう呟いて、キスをした。無味無臭の唇。硬くもないけど、柔らかいとか積極的な感想を抱かせるような唇じゃなくて、あ、触れた、みたいなキス。でも、角度を変えてもう一度されたとき、舌を入れられた。人間の舌は思ったより水っぽくて、不快で歯を食い縛ってしまった。前歯の歯茎と唇の間ににゅるっとその唾液まみれの舌がちょっと這入りこんで、すぐに出てった。鶸が嫌がってるのがわかったのか、男はそれ以上キスはしなかった。鶸はそれでも唇を引き結んで、男がズボンに指をかけても自分では動かなかった。きゅ、とタオルケットの裾を握る。男の指が足の付け根のくぼみを這ったとき、びくっと体が勝手に震えた。そのまま手は、ズボンをずらして、けれど焦らすように、白いおなかや脇腹、肋骨の上をなぞるようにゆるやかな動きを繰り返す。

 好きな人。

 その言葉が頭のなかで反響していた。

 記憶の白い花びらが、はらり。




 七歳の夏だった。

 あの、頬の傷から少し経った頃だった。

 今まで、意図的に思い出さないようにしていた。当時の鶸にとっては、奇妙で、不可解で、おそろしいような…そんな記憶。

 夏休みだったのかもしれない。ぎらぎらと白い昼間だった。玄関先で靴を履いていると、洗濯物を干している母が声をかけてきたことを覚えている。

「鶸、あんた、でかけるの」

「うん! 兄ちゃんとこいく」

 あら、じゃあと言って母は一度母屋へ引っ込んだ。やがて早足で戻ってくると、これ渡しといて、ご迷惑だから長居しちゃだめよと念を押した。

 母が持たせたのは、デパートの紙袋に大きなグレープフルーツを四つ。淡い桃色がかった黄色く輝く果皮に、朔が白い指でそれにナイフをいれるところを想像して、唾液が込み上げる。

 暑い道すがらは特に記憶にない。普段通りだったのだろう。神の視点のように、俯瞰した状態から、白い十字架を目指して、とことこと小さな鶸は歩いていくシーンが脳内に浮かぶ。だめだ、だめだ、行ってはいけない。十二歳の鶸はたまらず呼びかけたくなる。

 銀木家のベルを鳴らしたあたりから、記憶が鮮明になる。返事はなく、おやいないのかな、めずらしいな、と諦めきれない気持ちで、鶸は玄関の扉をいたずらにいじってみた。

 ノブをつかんで回すと、古い鍵のかかりが甘かったのか、カチャンという貝殻が割れるような音を立てて扉は開いた。ぎ、と、本当にわずかな音が指先から体内に響いて、鶸は少し怯えた。そのまま、中をそうっと覗き込む。

 廊下はしんと静まり返っている。ふしぎな竹の林のようなかすかな匂い。そこにひとすじ、霧のように何か…別のものが漂っている気がした。

 なんだか不吉な予感がして、鶸はきびすを返した。またそうっと扉を閉める。

ふと思い立って、隣家の塀と銀木家のそれとの隙間に入れれば、朔の部屋が覗けるのでは? と考えた。すぐに移動する。紙袋のなかでグレープフルーツが転がった。

 敷地を仕切るフェンスに面した朔の部屋の窓は開けられていた。路地というには細すぎる塀とフェンスの隙間に、子どもの鶸は難なく入り込むと、ちらっと朔の部屋の中をうかがった。

 部屋には本当に小さな音で音楽が流れていた。U2のElevation――朔兄ちゃんが前にきかせてくれたやつだ、と鶸は思った。

 二人の人間がベッドの上にいた。

 髪を金に染めた男。耳にはあのときのようにいくつもピアスが光っていて、赤や銀のそれがぞわぞわと目を射る。

 男は朔の両足を抱えて覆い被さり、何かをしていた。二人の体は絶え間なく揺れて、休みなく絡み合っている。

 鶸は黙ってその様子を見ていた。何をしているのかわからなかった。朔の細い腕が男の背に絡みつき、引っかくように腰のあたりを撫でる。男の動きが大きくなり、朔が苦しそうな声をあげた。

 鶸は茫然と突っ立っていた。動けなくて、目も離せなかった。

 二人しばらく抱き合っていたが、やがて男が身を起こすと、朔に何か囁いた。震える手で体を起こして、ぺたりとベッドに突っ伏した朔の背後から男が覆いかぶさった。朔がかすかに呻く。息をきらして反らした華奢なおとがいを、男は掴んでそのまま唇まで指でたどった。朔はわずかに首を振り、猫が甘えるような声を出してぶるっと震える。男が息を乱して朔の体を抱きすくめた。腰の動きが激しくなる。肉が叩かれる音がいくつも響いて朔が仰け反りびくびくと震えた。掠れた声が甲高くなり、打ち付ける動きに合わせて断続的だったのがやがて悲鳴のように尾を引く叫びに変わる。上気した頬を涙がすべり落ちてどきっとした。兄ちゃん、痛いの? 悲しいの?

 男が不意に体を離し、体を起こす。震える腕で朔が身体を持ち上げると、あぐらをかく男の上にもたれかかるように座った。苦しそうに息を洩らす。男がまた体を揺すり始めると、朱に染まった切れ長の眦が濡れて光り、黒い髪がぱさぱさと揺れた。男にしなだれかかり、男の肩に頭を擦り付けて青白い喉をさらして朔は掠れた声で叫んでいた。いい、そこ、そこ、もっと突いてお願い、あ、あ、あ、だめいく、もういっちゃう、あぁ、あぁ、あっ、あっあっあっ…

 下半身ががくがくと震えて小刻みに前後し、びくっびくっと腰を何度も突き上げた。腹につくほどそりかえったぺニスに、男の手がかぶさる。そのままぐちぐちと音を立てて擦った途端、白い体が限界まで仰け反って感電したように大きく跳ねた。男がその首筋に噛みつく。ぎらりとピアスが輝いた。

Elevation,

Elevation,

Elevation...

 CDが小さく歌い上げる。それに重なる悲鳴。なぶり殺される女のような。押し殺していた音がだんだん引っかき傷のように高く響く。ゆるして、ゆるして、いかせて、あ、あ、……甘ったるい味がする血をまき散らすような声。男の手が速くなると朔は涙をこぼして悶える。彼が手のひらで口を覆おうとすると、男がペニスに触れていない手で朔の手首を掴んでやめさせた。ひねり上げるような動きに鶸の全身が竦んだ。男が低く呻く。朔をばたりとベッドにうつ伏せに押しつけ、片足を抱えて、男は激しく腰を動かした。露になったその箇所に、鶸は脳を焼かれたように頭が真っ白になった。なにをしてるの。あれはなに。あの男は、朔に何をしているのか。それがわかるような年齢ではなかったが、それがけして見ていいものではないことだけは解った。足が震える。腹の奥が熱くなって、くらりと視界が溶けた。

 片足を抱えあげていた姿勢から、息も絶え絶えの朔を仰向けにさせて男が体を倒す。最初のように、手足や体がみっちりと絡み合って溶け合うような形。そのまま、男は朔に口づける。黒い髪と重なる金の髪が目を射る。激しく肉のぶつかる音。荒い息遣い。男の腕に力がこもり、朔の足が痙攣する。声にならない絶叫。

 すべてがスローモーションに感じた。

 ぼとぼと、グレープフルーツが落ちる。ピンクがかった黄色の果皮が夕暮れにてらてらとひかる。

 男は身を起こして、髪をかきあげた。つめたい顔立ちをしていて、ピアスが変わらずぎらり、と鶸を射抜いた。

 朔はシーツの上に死んだように倒れている。

 なにもかも蹂躙され尽くしたような無造作な肢体。けれど、陶然とした、潰れた果実のように甘い気配がじっとりと立ち込めている。

 鶸は、落ちて潰れたグレープフルーツを拾って、音をたてずに通りへ走り出て、それらを側溝に捨てた。



 鶸はいつの間にか泣きじゃくっていた。若い黒髪の男は下着越しに這わせていた手を止め、そっと鶸の足やお腹をなでた。

 怖い? ときかれ、首を振った。怖いのではない。気づいたからだ。朔がしていた行為。

 朔は、あの男が好きだったのだ。

 目の前のこの若者は、あの金髪の男と少し似ている気がする。そう思うと体が強ばった。

 知らない男の手が、下着の中で蠢いている。ずる、とズボンを下げられて、腰骨と擦れた。空気がそろりと敏感な肌を撫で、全身が緊張した。

 男は骨盤をなぞり、くぼみを指でたどって、そこに触れた。鶸の足が跳ねて男を蹴りそうになるが、慣れた手つきでゆっくり包まれると、てのひらのあたたかさにぞくりとした。男はそのまま、そっと上下に擦りはじめて、震える鶸の頬にもう一度キスをした。だんだん手つきが速くなる。足の間に俄にひどくもどかしいような熱が生まれて腰を焼く。頭の奥が痺れて、呼吸が荒くなっていた。

 痒い。足の間がじんじんする。つま先までじりじりしてんーっと鼻から声が洩れて、喉の奥が乾く。咄嗟に糸切り歯でたたまれたタオルケットの端を噛んでいた。知らないとこで神経がつながってて、あれをいじられると妙な場所ばかり疼く。つま先、歯、腰の奥。先をこすられるとたまらなくなってぎゅっとシーツを掴む。指に力がこもるのがなんだか熱くて気持ちいい。男は指先で、ゆっくり先の方に円を描く。絶え間ない刺激に涙がにじんだ。タオルケットを噛み締めながら必死で息を吐いて、ふーっふーっと獣のようにうなる。俺は兄ちゃんと同じことをしてる。あれをいじられてタオルを噛んで泣いてる。頭が痺れててなにも考えられない。

 尖端に人差し指が添えられ、長いストロークで速めに擦られると、強すぎる刺激に太腿が震えてつま先がひくんと収縮する。やばい、なんかでる…と呂律の回らない口調で呟くと、男は少し微笑み、体を離した。一時的に性器を解放され、くったりと鶸が脱力していると、男はローリング・ストーンズのTシャツを脱ぎ捨てながら鶸の上にまたがった。ジーンズに手をかけながら、反対の手でもう一度鶸の体に触れる。

「痛かったりしたら言って」

 そう言うと、鶸が何をする間もなく、男は鶸に覆い被さってがくがくと揺すぶり始めた。まるで闇が覆い被さってきたような恐怖に鶸はないていた。男の反り返った硬いものが太腿や下腹部に擦り付けられて、濡れた跡を残す。未発達の性器を握り込まれて鶸は叫んだ。いやだ、こわい、声にならない声で叫びながら身をよじる。足の付け根の内側に熱いものを押しつけられた。こね回すような動きに男が息を荒くし、鶸をもてあそぶ手つきを速める。擦り、握り、扱く。鶸は男の腕に爪を立てて叫んだ。悪魔に喰われているような気がした。黒い髪が鶸の喉を掠める。兄ちゃん、あ、やだ、やだ、たすけて、や、こわい、やだ、でちゃう、兄ちゃん、ごめんなさい、やだあっ…

 苛烈な愛撫を加えられ続けている、未発達の桃色のぺニスの先端がばら色に膨れ上がり、新芽のように硬く反り返っていた。それを見た男は満足げに唇をなめ、鶸の両足を大きく広げさせる。この、姿勢は、あの日、二人がしていた、……

 足の間を蹂躙するように男の赤黒いものが激しく擦りつけられ、鶸のそれも一緒に握り込まれたとき、何かが弾けた。甲高い悲鳴をあげてのけ反った鶸を見つめて、男は震える鶸の腰を抱え込んだ。脳髄を直接殴打されたような感覚に意識が飛びかけていた鶸はされるがままに揺さぶられた。何度も押しつけられる、身を貫くような塊、振動、熱、全身が蕩けてしまうような感覚――ああまるでロックンロールを聴くときのように、全身にあの音を浴びるときのように、犯される、すべてを犯される、絶頂!

 Elevation!!!

 脳内で響く。世界が揺れる。暴力的快楽と黒々とした絶望一歩手前の衝動が脊髄から心臓へと駆け抜けて、薄い腹に白濁を撒き散らして鶸は失神した。

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