The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 6

 細くて急な階段は奈落で、ずるずる底まで引きずり込まれて生まれる前まで戻ってしまうような暗がりだった。けれど、人の出入りが少しあるせいで立ち止まれず、下まで降りると、紫やピンクのケミカルなライトが目を、シンセサイザーやエレキギターが耳を射った。電光の暴力。電子音の攻撃。大きな男にぶつかられて鶸はよろめいた。

 ライブハウスだ、と確信した。ここが、ライブハウスというところなのだ。ロックンロール・アンダーグラウンド。地上の貼り紙を見たときに感じた気配は正しかった。

 兄ちゃんはこんなとこに来てたのか。

 あたりは大人や若者ばかりがいて、不思議な飲み物や煙草の烟なんかが混ざりあって、なんだか変な臭いがしていた。

 すれ違う男や女が、訝しそうな顔をしてちらりと鶸を見下ろす。鶸は壁沿いの蔭に身を潜めた。

 CDでしか聞いたことのない音が、今からここで演奏されようとしている。

 実際に始まるのはもう少しあとだろうけれど、ドラムやギターの音が蜃気楼のようにあたりにぱちぱち弾けていた。店員らしい若い男が近づいてきたときは追い出されるかと身構えたが、たまたま近くにいた集団の一員に数えられたらしく、ドリンクを頼めというようなことを言われた。ジンジャーエールを頼んで、また壁に沈む。かすかな振動が体に伝わってきた。

 しばらくそのままでいたような気がする。どうにも時間の感覚が曖昧だった。靴先にはまだオレンジの花粉がこびりついていて、それを見つめているうちに、ぼうっと頭の芯が痺れて自分の時が止まってしまうように感じられた。

 ……にわかに騒がしくなる。顔をあげれば、舞台の上に四五人の男が立っていて、女たちが舞台の下からそれに群がっていた。ああ始まったのだ、なにかが、と鶸はぼうっとしたまま思った。

 ポップスのコピーバンドが出てきて、いくつか薄っぺらい音で歌ったあと引きあげる。その次はインストゥルメンタルだった。キース・エマーソンみたいなプレイスタイルでハモンドオルガンを弾き鳴らすプレイヤーを見ているうちに、身の内から何か衝動が沸き上がり、酩酊したように理性が不明瞭になる。ふわふわして、跳び跳ねたくなるような。ずんずんと腹に響くドラムを感じながら鶸は、次第に夢のなかにいるような気持ちになっていた。

 ロックンロール。ロックンロール。ロックンロール。

 時計はなくて、今が何時なのかわからなかった。

 壁沿いにいると、前列の大騒ぎしている集団から抜け出してきた男が二人、隣にならんで飲み物を飲んでいた。身をちぢこませたが、彼らは特に鶸のことを気にも留めず話し出した。

「――――がさ、新しいメンバー入れんだと。ボーカル――」

「―なんでまた?」

「今日歌わせてみて―いい感じだったら入れるとよ」

「もしかして――あのガキか」

「―だろうな」

激しい音楽に慣らされた耳には成人男性の低い声も聞き取りづらいが、なんとなくわかった。

 不意に、ビビッドな色でずっと点灯していたライトが消される。周囲が期待にざわめいた。

「べんがらごうしだ」

 声が洩れた。べんがらごうし。不思議な響きだ。妖怪の名前のような。その名前は呪いのように人々の口を伝わり、やがて大きなコールとなって増幅され、狭い地下全体に響きわたる。べんがらごうし。べんがらごうし。

「紅殻格子!」

 次の瞬間、真紅のライトが点いて、少年と青年と、異形の女のキメラのような生きものが、ステージの上に立っていた。

 ギターとボーカルを兼任のようで、ずたずたに痛めつけられて壊れたやつを無理やり繋ぎ合わせた、水玉模様のエレキギターを抱えていた。背丈に比して体幹が異様に華奢で、手足はマイクスタンドくらい細かった。ひらひらした真っ赤な水玉の服を着て、紅の椿の花を、メタリックなアプリコットに染めたロングヘアに飾っていた。

 彼は枯れ枝のような腕でマイクスタンドを無造作に掴むと、低い声で呟いた。

「スカアレット・パージ」

 その瞬間、雷が落ちたように観客が沸いた。水玉模様のキメラ・ボーカリストは、かぶりを振ってまとわりつく髪を払う。白い首筋が露になった。

 その細い喉を見つめて――もしかして、彼はとても幼いんじゃないか? と不意に鶸は感じた。背は高くて、声も掠れている。でも、彼はひょっとかして、自分と同じくらいか、それとも――――。

 鶸の予感を遮るように、彼は歌い出した。

「Burning heat...as if the letter were not of red cloth, but red hot iron...」

 しわがれた声が、ベースだけをバックに囁かれた。

 真っ黒に塗られた爪が、ギターを引っ掻くように演奏を始めた。ぎゅうんとねじ曲がった奇妙なサウンド。


 おまへはぼくを裏切るだらう

 なぜならおまへは純粋だから

 黒く白くそして紅い

 スカアレットの透明…


 糾弾めいた声で叩きつけられる歌詞を突き破るようにギターが暴れる。ドラムがそれを後押しする。スカアレットという単語を、彼は血を吐くように口にする。


 おまへが音楽に犯される晩は

 さぞ美しい夜だらう

 真珠に火が降る銀が降る

 おまへはまつかなはんぶんの魂

 銀の火をもつたりない心臓

 テン・ポイント・ファイヴの七竈よ


 激しいギターリフから一転し、曲調は淡々と熾火のように燻りだす。臥した獣が唸るように、ベースやキーボード、ドラムが低音でばちばち火花をちらしている。


 黒く白くそして紅い

 スカアレットの透明…


 音はますます低くなり、渦巻くような旋律が壊れた電子音楽のようにぎゅるぎゅるグロウルし始める。


  ぼくの友だち

   ぼくの恋人

    ぼくの母

     ぼくの……


 瞬間的閃光。


「スカアレット・パァァァァァジ!!!」


 絶唱。咆える喉とメタリックなたてがみが音の銃撃を荒らした。客も咆える。鶸は肉食獣の檻に放り込まれたように音楽と人にもみくちゃにされる。


 黒地ニ紅キAノ文字

 スカアレット・レタア

 スカアレット・パージ

 黒く白くそして紅い

 スカアレットの透明…


 黒地ニ紅キAノ文字

 まぼろしを撃て!

 黒地ニ紅キAノ文字

 われら愛するものを撃て!

 かの胸のスカアレット・レタアを いま……

  撃て!!!


 牙を剥く獣。ギターが軋んでいる。ヘッドが激しくぶれる。爪が弾ける。


 ..Adultery

 Angel...

 Admire...

 Addiction...


 囁いていた声はやがて鎌首をもたげ稲妻になる。観客も一緒に絶叫する。


黒地ニ紅キAノ文字!

黒地ニ紅キAノ文字!

黒地ニ紅キAノ文字!


 ぱちぱちと、ライトの下で振り乱されるメタリックなアプリコットが銀色に見えた。

 飢えきった仔狼のようにボーカルが吠えるたび、マイクがぎゅいいいいいんと悲鳴を上げていた。ギターヘッドがマシンガンみたいにこっちに突きつけられて、彼の刃物のような目が鶸を射抜いた。

 ずだだだだだ!

 口の中で呟く。俺、撃たれてる。音の弾丸に撃たれてる。ぶっ壊れたおもちゃの戦車が、子どもをぶち殺そうと迫ってくる。

 銀色のライトの水平線。昇る殺人的太陽を背負った狼が咆えている。

 でもなんだが、その真っ赤な水玉模様は、弾痕のようにみえた。血がだらだら流れっぱなしの傷。蜂の巣みたいに世界の悪意に撃ち抜かれた少年。

 ずだだだだだ!


「こら」

 まるで教師のように声を掛けられて、鶸はびくっと壁に肩をぶつけた。

「きみ、何してるの」

 背の高い、若い男がじっと鶸を見つめて言った。

 集ってる男たちの中では珍しく黒い髪をしてて、真っすぐで少し長めの前髪と白い肌がぞわっと目から脳を突き刺した。あ、兄ちゃん、とふと思ってしまってかっと腹の奥が燃えるように熱くなった。

 ローリング・ストーンズのTシャツ。ファンだから着てるというより、安かったからとりあえず着てみた、二軍の服って感じ。シャツの真ん中でべろりとぬめる真っ赤な舌が、ライトのせいで紫に見えた。低音が炸裂する爆音の中、男は鶸の耳元で声を少し大きくした。

「こんな時間にここにいちゃいけないでしょ」

 さすがに小学生じゃないよね? と訊かれて、鶸は遠い自分の声で中学生、と答えた。アンダーグラウンドにいけるはずの、中学生。

 若者はふうんと気の無さそうな返事をした。こうしてちゃんと見れば、背が高くて黒髪なところ以外、朔とは似ていない。右耳だけに小さなピアスをしていて、黒い目をしていた。

 舞台の上では二曲目が始まっていた。ベースを盛った男が前へ出て、ボーカリストと競うようにマイクの前で声を張り上げる。絡み合う咆哮が猛々しい至上のハーモニーとなって叩きつけられる。殊更に際立たせているペーパームーンという単語が耳についた。―裏切られたら裏切り返せ。―ペーパームーンを破り捨てろ。歌う彼のたてがみがライトに燃える。

 少し不安になって、男に今何時か尋ねた。男は携帯をちらっと見て「十時くらい」と返した。鶸は驚いて体がさっと冷えた。どうしよう。帰らないと。

 朔のところに行こうと出ていって帰ってこないのだ。両親はまず銀木家に連絡するだろう。――……そうなれば、自分の失踪は朔の知るところとなる。

 朔が自分を心配するかもしれない。

 鶸はそこまで考えて、おもむろに首を振った。自分のなかの良心を否定する行為だった。

「帰んない」

 そう呟くと、ぬるくなったジンジャーエールを一口のんだ。

「何? 反抗期?」少し嘲笑うように男は自分のグラスを傾けた。ぱちぱちと泡が弾けていた。ジンジャーエール? と訊くと、目を細めて、シャンディガフ、と返された。半分くらいはジンジャーエールだよ、と言われて、ふうんと自分のグラスと見比べていると、「で、なんで帰んないの? 家出?」と再度尋ねられて、面倒になった鶸は適当にそのまま答えていた。

「兄ちゃんが約束破ったから」

「兄貴なんてそんなもんだろ」

「兄ちゃんはちがうもん。今までなかったもん。それに、ほんとの兄ちゃんじゃないし」

 男は少し目を開いて、面白そうにへえ、と鶸の話に相槌を打った。鶸の目に涙がたまっているのを見て、瞬きをした。

「兄ちゃんは……近所の年上のひとで…ずっと一緒だったけど、大学にいって、ちょっと離れてて……」

 俺が中学生になったら、ライブハウスに連れてってくれるって約束したのに、と、うなるシンセサイザーにかき消されそうな声で鶸は言うと、俯いて目元を擦った。若者は、じっとその様子を、なにか探るような目付きでじっと観察していた。

 舞台の上では水玉模様の獣が吠えている。サーチライトのような真紅の光の輪が爪先を掠める。鶸は攻撃的なサウンドを全身で受け止めながら、ずっと泣いていた。

 ちょっと遠慮がちに、男は訊いた。

「その人のことが好きなの?」

 鶸はこくんと頷いた。男はシャンディガフをあおるのをやめて、まじまじと鶸を見た。少し、困惑しているような目をしていた。

「どういうふうに好き?」

 鶸は少し考えて、か細い声で答えた。

「キスしてほしかった」

 仔犬のようにしょげた鶸の様子を見ていて、若者はなにか言いかけて一度口をつぐんだ。鼓動のようにパーカッションが響く。

「男が好きなの」

 一瞬の休符にのせて放たれた質問に、鶸は顔をあげた。

 鶸は、朔が、好きだ。他の男を好きになったことはなく、女もない。首を振る。「わかんない」

 男は黙って鶸を見つめていると、不意に、左手を鶸の肩にかけた。

「セックスはしたい?」

 鶸は戸惑って男を見上げた。知らないわけではないが、具体的にどんな行為なのかよくわからない。思春期を目前にして、ずっと過去の幸福に恋をしていた鶸は、同級生が女や性に目覚めて騒いでいる間も、ずっとおなじ相手にこがれていたのだ。

「もしかして、知らない?」躊躇いがちに訊いてきた男に首を振った。さっきから否定してばかりだ。「知ってる。けど…どんなものかは、あんまり」

「すごくいいよ」耳元で囁かれる。甘ったるい煙草の匂いがふとした。

 ライブハウスが箱舟のように揺れる。大洪水の激しさでロックンロールが人を飲み込む。


 思い知らせろ

 お前の炎を

 ペーパームーンを燃やし尽くせ

 思い知らせろ

 お前の愛を

 ペーパームーンをこがし尽くせ


 歌っていた獣は昂然とおもてをあげ、一瞬だけ鶸を見たような気がした。その瞬間、ああ彼はやはり少年だ、子どもなのだ、と鶸は直感した。自分とおなじ、アンダーグラウンドに魅せられた、――

 男の手が、鶸のちいさな頬にそっと添えられる。

「俺の部屋、来る?」

 男は、赤い光の中で、うっすらと笑っていた。

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