The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 5

 ――それから、四年。


 白い花吹雪のように、記憶のダムが決壊して溢れて濁流となって押し寄せるなかを、鶸は駆け抜ける。

 花びらのように時が飛び散る。子ども時代が地層のように積み重なって、いつしか崩れて歪み、折り重なり、隙間に入り込み、すべては白く銀にきらめく靄の向こうで輝いている。過去の四季がうずまく竜巻。

 それらに後押しされるように、疾風のごとく鶸は白い十字架のもとに急いだ。

 中学生になった。もうすぐ世界が追いつくのだとこがれる思いでいっぱいだった。

 瑪瑙みたいな記憶の堆積が地殻変動を起こして、ぶわっと過去の幸福と喪失の期間を交錯させる。思い出はいくらでもあって、そのどれもが鶸を加速させる。まだ、まだ、たくさんの、光り輝いてどこか胸を刺すような、やわらかでうつくしいとげ―――それに血を流す痛みはきっと幸せだ。

 Elevation!

 祝砲のように響く音。

 …不意に、過去の花嵐の隙間から、ちらりと不吉な―封じていたなにかが溢れそうな気がした。なんだっけ。この記憶は。

 その破片が像を結ぶ前に、視界に飛び込んできたものがあった。

 光を受ける白い十字架の裏通り、影法師のような背を見つける。全身の皮膚がぱっと火花をおびて心臓がはぜる。

 黒い百合の花束を持った朔は、亡霊のように希薄な気配をまとっていた。白いシャツに黒いズボン、つめたい革靴。白い頬と、切れ上がった眦に、ひとはけ朱を差したような人形めいた顔色は春の日差しに靄のようにうすれて消えてしまいそうだった。

「兄ちゃん!」

 たまらず叫ぶ。朔はちらりとこっちを見た。匕首のようなひやりとする切れ長の目だった。はっと息が止まる。

 四年前、駅で桜の向こうに消えた若者。十歳年上の、大人になった幼なじみ。

 わずかな間、彼がまるで別人のように見えた。面差しも服装も昔と変わらず、けれどなにかが致命的に異なっているような気がした。

 鶸がわずかに躊躇った間に、朔はふいっと顔を背け、そのまま歩き出した。

 道路の上で、鶸は凍りついたように動けずにいた。通りは静まり返り、生き物の気配ひとつなかった。重く甘ったるい、死に似た黒百合の香りだけが残っていた。

 無視された?

 我に返った鶸は、慌てて通りを斜めに横切った。兄ちゃん、と呼びかけながら駆け寄る。朔はもう一度、切れ上がった目でゆらりと鶸の方を見た。

 近くでみると、幽鬼のように凄絶な陰惨がその目に宿っていて、ぎくりと動きが止まってしまう。

 朔はどこかぎこちない様子で、「……鶸」と弱く呟いた。

「兄ちゃんおかえり、……」朔の奇妙な様子への違和感と、目の前に彼がいるという流星群のように降り注ぐ幸福がない交ぜになり、高揚が声を蒸発させてしまった。鶸は言葉も出ずにぎゅうっと朔に抱きついた。黒百合の花束が邪魔をしてそこまで密着できなかったが、それでも鼓動が伝わるほどだった。

 しかし、朔は腕を動かしたが、それで鶸を抱きしめ返してはくれなかった。鶸は不安になって朔を見上げた。本当にこれは兄ちゃんなのかな、というように。

 朔は鶸と目が合うと、少し痩せた白い頬でぎこちなく微笑んだ。

「……元気だった?」

 そう訊くかすれた声は昔のようにやわらかくて、鶸は嬉しくて満面の笑みで頷いた。

「うん! ねえ、俺いっぱいロック聴いたよ、兄ちゃんの好きなU2とか、クラプトンとか、ジミー・ペイジとか……そう、あれも好きになった! エレベーションも!」

 さっと朔の表情が凍りついた。鶸はそれに気づかず――気づいていたとしてもそれがまさか彼が好きなはずのロックンロールのせいだとも思わず、なおも続けた。

「ロッカーもけっこうわかるようになったんだ。ねえ、俺中学生だよ兄ちゃん! もう少ししたら髪染めようかなって思ってるんだ。金! ロックだろ?」

 不意に朔が、大きく腕を振って花束を地面に叩きつけた。開きかけのかたい黒百合の蕾が折れて、飛び散った橙の花粉がべたりと振りほどかれた鶸の靴を汚した。

 よろめいた朔は、震える手で花束―ぐしゃぐしゃになった花束を拾おうとしたが、指先がつかみ損ねてもう一度花粉がぱらりと落ちた。それは道路にこびりついた。

 鶸は、あのときのように―頬にまぼろしの傷の熱を感じながら―硬直していた。しかし、動揺が表れた手つきで花束を拾おうとしている朔を見ていて、手伝わなくてはと麻痺しかけた脳で考えた。

 俯いた朔の隣にかがもうとして、はっと鶸は息を飲んだ。

 右のこめかみの少し上、生え際の近くに、前髪で隠れていた奇妙な傷痕があるのが見えた。

 そのひきつれた十字架のような傷に釘付けになっていると、気配に気がついたのか、鶸の方を向いた朔と目があった。

 その瞳の色。

 鶸の顔に浮かんだものを見てとった瞬間、朔はがばっと花束だったものを無造作にわし掴むと、そのまま玄関の扉を開けて、中にはいってしまった。貝殻のベルはもうなく、ばたんと飾り気のない無粋な音がした。兄ちゃん、と鶸は慄いたように叫んで扉に駆け寄った。どうしたの、俺なにか悪いこと言ったの、と絶望をにじませてすがる。

 帰ってくれ、と、朔が言った。冷たい扉の向こうから。そのことばに、鶸の心臓が凍った。喉の付け根を押し潰されたようだった。扉越しに、必死に朔の体のぬくもりを探ろうとした。冷えた扉は硬くて、何も教えてはくれない。

 たまりかねて、一度だけ扉を強く叩いた。

「兄ちゃん、どうしたんだよ!」

 扉の向こうにまだ朔がいると信じて叫んだ。まるで朔本人を殴ったように痺れた手からかなしみが伝播した。

 やがて意味のある言葉を叫ぶこともやめて、鶸はただ泣いた。最初は押し殺して、やがて吠えるように。高く低く泣き声が、何もいない空に吸い込まれる。

 返事は、ずっとないままだった。




 家に帰る気にもなれなかった。

 汚れたシューズを引きずって、桜の花が踏みにじられたアスファルトの上を、影がどこまでも引っ張られていくままにずっと歩いた。白い十字架に背を向けて、ずっと、ずっと遠くまで。

 夕刻が迫る頃、いつしか駅にたどり着いて、改札の前に立ち尽くしていた。人通りが自分を邪魔そうに避けて通っていく。改札の向こうのホームには、今年も桜の花が散っているのだろうか。

 朔兄ちゃん、俺卒業したよ。

 もう四月からは中学生なんだよ。

 新しい制服も買ってあって、ロックンロールもちゃんと聴けるんだよ。

 なのになんでどこへもつれてってくれないの?

 昔、むかし、朔の膝に甘えかかっていた頃の自分。どこへもいけない子どもの自分とは違うのに。

「中学生になったらね」

 ホームでの別離のとき以外にも、時おり朔はそういって鶸をなだめることがあった。

 ちゅうがくせい、と、そのたびに、はるか昔の鶸は呟いた。雪空の向こうのように遠い。桜の梢のかなたのように遠い。

「兄ちゃん、俺もう大人だよ」

 わかるもん、エレベーションだってわかる、わかる、なにもかも。子どもにだってわかるのだ。この胸を襲う衝動も。

 朔は笑う。これまでと同じように。優しくてかなしい、まぼろしの竹の花のように。その散り際のように。

「嘘はよくない」

 頬を挟んで、額を合わせる。

「なんべんも言ったろ」

 鶸は陶然と頷く。これからでもなんべんも言って。

 朔のかすかな叱責は、真綿よりやさしいものが首を絞めている感覚。これがほしい。これがほしい。自分はいつだってそうだった。彼がほしかった。

 今だってそうだった。

 けれど、わからない、わからない、なにも。

 どうして?

 夜の闇がひたひた迫ってくる。

 あいつがいるから?

 金に染めた髪、紅や銀のピアスがちらつく。酷薄そうな笑みと、やわらかいけれどつめたい声を思い出す。

 脳内で、四年間にため込んだロックンロールがぐわんぐわんと反響していた。一際大きくElevationが響いている。その音に合わせてうねる思い出が呼び起こされるが、今は何も考えたくなくて内なる耳を塞げればと祈った。できるだけ何も考えなくていいように、刺激の飽和してしまいそうな賑やかな場所を探してずるずるとさ迷った。そのうちに、駅の裏側の通りに入り込んでいた。

 駅裏は俗にいう繁華街で、安っぽいバーやスナックやら、よくわからないネオンと異臭がひしめき合うようなアンダーグラウンドだった。坂を下りながら、ラーメン屋の隣にある縦長の扉を覗き込む。扉の貼り紙には鶸にはよくわからないアルファベットや漢字が踊り、出演順と記されていた。

 魅いられたように、鶸はその扉を押し開けていた。

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