The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 4

 翌年の三月の終わり。

 はやい桜となごり雪が物陰でひっそりと息絶えている、まばゆい白い春。


「兄ちゃんいっちゃやだぁ…」

 駅のホームまでくっついていって、朔の腰に引っ付いてぐしゃぐしゃに泣き崩れていた鶸を、朔は小さくて古びた銀のトランクを置いて困ったように抱きしめた。ぽんぽん、と背中を叩かれ、優しく指で涙をぬぐわれた。

「兄ちゃん、どこにいくの」

「大学だよ。勉強しにいくの。そう遠くないから…隣の県だし」

「俺もいきたい。兄ちゃんのいくとこぜんぶ」

 おいてかないで、とますます強くしがみつく鶸に、弱りきった表情で、朔は眉尻を下げた。元々、ここにいてすみません、とでも言うような面差しは、もう完全な十八才の青年のそれだった。蛹のなかにいるような輪郭の半透明な揺らぎは、少なくとも外見上は消えていた。

 鶸はふっくりとした自分の手を見る。もちのように白くて赤くて、雪解け水がつまってるみたいにぷにぷにとやわらかい、子どもの手。

 朔はその手をとって、元気づけるように軽く上下にゆすった。

「もっと大きくなったら、どこへでも行けるよ」

「大きくなったらって、どのくらい?」

 朔は首をかしげる。あと十年くらいかなあ…と、鶸の指を一本ずつ摘まんだ。途方もなく思える年月に鶸の顔が崩壊寸前になったのを見て、朔は慌てて「中学生になったら、だいぶ自由に動けるようになるから。…いや、そんなに自由でもないけど」と下手な慰めをした。中学生だって、今の鶸には遠すぎるように思えた。物心ついた頃、原始の記憶に浮かぶ朔が、当時中学生だったのだ。中学生とは、鶸にとって大人だった。

「それまでは大人に連れていってもらわないと」

「じゃあ、兄ちゃんが連れてって」

 朔の細い眉が揺らいだ。瞳が鶸の瞼にたまる涙と、強い光のある目を見つめる。

「連れてって。ロックンロールなところ」

 わずかな背伸びだった。朔は太陽を背にした小鳥をみたように目を細めて、ロックンロールなところ、と反復した。

「ライブハウス…とか?」

「そこでいい。ロックなところがいい」

 些細な、けれど決死の対抗心だった。あの金髪の男への。

 しゃくりあげながらも、まっすぐに鶸は朔の目を見つめる。大きな目は鏡のように朔を映しているだろう。そのまま目のなかに閉じ込めてしまいたかった。

「中学生になったら、つれてってくれる?」

 鶸はせいいっぱい、声が震えないように努めてそう囁いた。

「うん。……約束」

 頷いた朔は、そっと鶸と小指を絡ませた。その長さの違いにまた涙がにじんだ。

 列車の到着アナウンスが響く。そっと朔は立ち上がろうとする。

 鶸は泣きじゃくりながら、子どもの意地で朔にぎゅっと抱きついてねだった。

「ちゅうして」

 朔は戸惑っていた。視線を泳がせて、それから困ったように「鶸…」と優しい声で呼びながら、そっと頭を撫でた。

 思いきったことをしたと今でもおもう。鶸は望みのものを得るまで絶対に離れないぞという意思をもって朔に抱きついていた。朔の黒い濡れたような上着に指を食い込ませ、溶けた雪のかたまりのようにひとつになってしまえばいいと思った。くちづけなどなくとも。ひとつになってしまえればそれで。

 駅舎と走り込んできた電車にはさまれて、世界が一瞬暗くなる。ホームの屋根と電車の隙間から差し込む光に、朔の眼が銀に濡れているように見えた。


「目を閉じて」


 春の雪が、額にふれたようだった。

 かたくしがみついていたはずの肉体が引き離されると同時に、発車ベルが鳴り響いた。目を開ける瞬間、黒い上着と髪、古びた銀のトランクが閉まりゆく四角い扉の向こうに見えた。

 電車を追うなんて真似はできなかった。ベルが鳴った途端に、とてもつよい風が吹いて、鶸を真っ白な桜吹雪のなかに浚ってしまったからだ。軋む車輪で走り出した列車は花びらの向こうに消え、よろめいた小さな鶸は小鳥のようにないた。兄ちゃん。いかないで。その全身を、散った桜が叩く。やがて記憶が白くかき消される。

 泣き叫んだときに誤って食べてしまった桜の花びらの味を、今でも覚えている。

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