The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 3
悪夢のような夕暮れのできごとは、しかしそれで終わりだった。一週間ほどしたある日の午後、朔がまたドーナッツの箱を手に訪ねてきたとき、鶸は兄ちゃん兄ちゃんと変わらずじゃれつき、朔ははいはいと馴れた様子でいなしながら、鶸の頬に触れてごめんねともう一度だけ言った。鶸は大丈夫! と言いながら首を振った。傷は癒えていた。
たまたま下の弟(すなわち鳶、鴇)がインフルエンザの予防接種のためおらず、妹二人と、乳飲み子雀を抱えた母と、比較的に静かな卓だった。そのせいか、雀はずっと眠っていて、かなとりあもフレンチクルーラーを食べ終わるなりあくびをしだして、母が昼寝用の布団を敷いた。母はそのまま台所の片付けをしだして、食卓には、鶸と朔の二人が残った。
鶸はものめずらしい幸福の状況を噛み締めながら、まだ大部分が残っている朔のオールドファッションに目をやった。いびつなあたたかい二重円。いつか借りた、油膜のように虹色に輝く二重円を想起させる。
かち、かち、と、時計の音が響いている。遠くからは、母のする洗い物の音。
鶸が沈黙を破り、こないだの人、誰、と声にだすのには、時計の長針が四半周する時間が必要だった。
朔は一度まばたきをすると、ああ、と小さな声をあげた。
「……教会に来る人のひとりだよ」
鶸の顔に浮かんだ懐疑に、朔は苦笑する。金髪やピアス。鶸のイメージのなかの教会とは結びつかないパーツ。
「教会にはいろんな人が来るんだ」
あの人は音楽関係の仕事をしていてね、と言った朔に、鶸の顔がさらに訝しさでふくらむ。ぷくぷくの頬を朔は遠慮がちにつついて、見かけで人を判断しちゃいけない、と諭した。
「あの人も、ロックなの?」
「うん。そういう区分かな」
ああいう音楽をやる人が、神さまを信じているの? と鶸は訊いた。朔は目を伏せて、少し黙った。ああいう音楽、という言葉に、鶸の幼さを再確認して、話しすぎたかなというように思案げにしている。鶸は朔の膝元に甘えかかって先をねだった。
「海外のロックシンガーはクリスチャンが多いよ。プレスリーもゴスペルのCDを出してる」
えーと鶸は声をあげた。あんなに怖そうな人なのに、と言うと、朔は鶸の黒い髪をなぜた。
「怖いというのはね…憧れとも紙一重なんだよ」
鶸は首をかしげた。朔のいうことは、鶸にはよくわからないことの方が多い。彼は大人なのだ。鶸よりずっと。鶸はそう思うたびにかなしくなる。父母や親戚に比べれば若いが、朔と鶸の間には十年の隔たりがある。鶸は七歳で、人生よりも長い渓谷がぽっかりと二人の間に口を開けている。そこに橋は存在しなくて、谷底に河はない。ただ、どうしようもない、時という大いなる闇がくろぐろと口を開けている……。
朔はそっと鶸を抱き寄せた。
神は許してくれるんだ、信仰さえあれば。と朔は呟いた。しかし、言葉とは裏腹に、少しずつとげを刺されていくような、苦しそうな微笑を浮かべていた。
神さま、と鶸は繰り返した。鶸にとって神さまとは、正月にお詣りをする神社でおねがいごとをするなにかであり、許しを求めるなにかではなかった。いつか恐ろしいなにかに出逢ったとき、自分が呼ぶのは神ではなくて朔だろうと思った。
朔や、あの男は、神に許しを求めるようなことがあるのだろうか。
あの男にはありそうだけど、兄ちゃんにはなさそうだなあと鶸は無邪気に思った。自分の憧れのいきものには、悪徳も罪もない。子供の残酷さでそう信じて疑わなかった。
それにしても、あの金髪の男。鶸は面白くない気持ちで朔の肩に頬をこすりつけた。
兄ちゃんはああいう人が好きなのかなあ、と埒もなく思った。ロックンロールが好きなんだから、それを歌う人もきっと好きだろう。親に見つからないように奥の和室の天袋に隠したCDのことが思い起こされた。隙を見て、たまにかけてみる。でも、まだ心は掴まれない。
エレベーション、と呟いてみる。それから、上昇、と。魔法の呪文のように。
心臓のあたりで渦巻く熱がある。衝動的に朔に抱きつくと、羽が生えたように鼓動が浮わついた。ほのかなすずしい匂い。竹の花のような。
いつまでこうしていられるだろう、と埒もなく思った。
絵本は色褪せ、鳥は巣立ち、月は欠ける。何もかも今のままではいられない。花が枯れる日が怖かった。
その日まで、自分は彼に追いすがっていられるだろうか?
それじゃあ、お邪魔しましたと朔が腰をあげたとき、鶸はやだっと思わず声を出していた。台所から顔を出した母がこらっと鶸を叱る。
「朔くん来年は受験生なのよ、子供の相手してる場合じゃないの」
鶸はそれでもぶんむくれて抵抗した。もっと幼い頃に戻ってしまったように駄々をこね、仔犬のように靴を隠そうとした。母に頭をはたかれて、渋々革靴を傘立ての裏から取り出した鶸の目には涙がたまっていた。また来るから、と朔は言う。訪問の日時に間が開きつつあることに鶸は気づいていたし、朔もそのことはわかっていただろう。
「兄ちゃん、どこへもいかないでね」
そう口にした瞬間、鶸は後悔した。なにか取り返しのつかないものが割れる音がした。
「……それは、むりなんだよ」
朔はいばらを踏んだように微笑んで、青白い手でそっと鶸の頭を撫でた。世界がじわっと黄色くにじんだ。涙の熱がつうっと頬を滑り落ちて、そこから先は言葉にならなかった。ぜんぶ涙になって流れ出してしまいそうで、鶸はぐっと唇を噛んで心を引き留めた。ここでぶちまけてしまったら終わりだ。別れだ。
朔はまばゆそうに、かなしそうに目を細めている。黒い瞳は濡れて銀がちらついて見える。鶸の前髪をそっと人差し指でどける。
なんとなく勘づいていた。受験生という言葉の向こう。少しずつ遠くなる距離にも限界があって、いつかぷつりと糸が切れる日がやって来る。
別れが近づいていた。
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