The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 2

 翌年から、朔が高校生になり、山吹家との交流は少し減った。変わらず、暇があれば鶸をかまってくれたし、川を越えて別の学校の校区まで迷い込んだときも、しっかり見つけに来てくれたが、ずっと家にいて、絵本を読んでくれたりすることはなくなった。

 鶸は、さびしい午後には、鉄道模型にほおずりしたり絵本を開いてなれない文字を追ったりした。国鉄9600形蒸気機関車の微細な凹凸や黒光りする車体は、朔の細くて柔らかい黒い髪の毛とは似ても似つかなかった。その車輌をそっとレールの上に置く朔の指を思い出して、鶸はちいさな肺でため息をついた。開き癖のついてしまったかぐや姫の絵本は、日の当たる部屋で読まれ続けて、少しずつ色褪せていった。

 記憶とはオブジェクトに宿るものである、と鶸は思ったことがある。脳そのものではなく、ものに。鉄道模型。ブロック。かぐや姫の絵本。月の地図。竹の花。ドーナッツ。借りたままのCD。

 朔はドーナッツが好物だった。中央の孔から世界を透かしてみるとき、その向こうに彼の姿が見えないかと、鶸はいつでも目を凝らす。迷子になって、見知らぬ世界で、ただひとつ自分を見つけだす、黒い髪と、白い肌の、年上のおさななじみ。

 高校生が板についてきた朔が山吹家に来るのが一大イベントになる頃には、鶸の弟妹たちが、広い家中のあちこちにいるようになっていた。一歳下の鳶や二歳下の鴇、三歳下の双子のかなとりあ。もうひとり、乳飲み子を抱える鶸の母に、訪ねてきた朔は丁寧に頭を下げ、飛び出してくる鶸に直方体の箱を渡す。すると家中に散らばっていた子供たちが、小鳥のようにぱたぱた集まってくる。

 ふたを開けるとぱっと甘い匂いが広がって、おれフレンチクルーラーとか、あたしポンデリングとか、子供たちのさえずりが飛び交う。広い食卓に並ぶちいさな子供たち。鶸は朔の隣にしっかりと陣取って、茶色くて丸くて、中央に孔があいているそれを猛禽の目で狙う。

 黙って子供たちのようすを見つめている朔の前に、ひらっと影。なにかと見やれば、ひび割れた豊穣の大地に似た、香ばしげなドーナッツ。

「兄ちゃん、オールドファッションすきでしょ」

 得意気に笑う鶸に、朔は困惑の表情を浮かべる。「鶸の好きなものを先にとらないと」子供たちに人気の、いろいろな素敵なドーナッツがなくなってしまった箱を見やって、朔はかなしそうに呟く。「それに、僕が持ってきたものだし」

 鶸は首を振って、余ったもうひとつのオールドファッションをとる。俺はいいんだ、と鶸は軽やかに言う。

「兄ちゃんがすきだから、いいの」

 朔がはっと息を飲む。鶸はいつでも、まっすぐに彼に気持ちをぶつけていた子供だった。

 朔は、薄い唇を震わせる。かつて、月の地図を描いたときのように、かなしくて、むごいものを見たような顔をする。それがどうしてなのか、七歳の鶸にはわからない。――その後、十年たっても、わからないままだ。



 記憶はオブジェクトに宿る。宗教画のアトリビュートのように、それそのものが象徴となり、過去のすべてを呼び起こす。思い出のきらめきと、残酷さをもって。



 同じ頃、鶸は小学校からの帰宅途中に、奇妙なものを見た。

 通学路から見える、銀木家と背中合わせの教会の白く細い十字架は、夕焼けを受けて血のついた銀色にはかなく輝いていた。

 それを見たとき、急に鶸はさみしく、かなしい気持ちに襲われて、ふらふらとそちらへ足を向けていた。

 教会のある通りから一本それて、路地を通って、銀木家のちいさな玄関がある通りへ向かう。背中の黒いランドセルがかちり、と、警告するような金具の音をたてた。

 通りに出た鶸は、思わずあっと声を漏らして立ち止まった。

 銀木家の玄関先には、朔がいた。高校の制服を着て、鞄を持ったままだった。

 そして、見知らぬ男と向かい合っていた。

 男は銀木家の門に手を置いて立っていた。髪を金に染めていて、耳には銀や赤のピアスが光っていた。コンビニの前にいたり、バイクとかに夜中乗ってて、こわい人たちだ、と幼い鶸は電信柱のうしろに隠れたくなった。でも、こんなところで退くわけにはいかない! と少年らしい対抗心がむくむくとわき上がり、ぐっと足を踏ん張った。

「兄ちゃん」

 大きな声を張り上げて後ろから朔に飛びつく。朔は驚いて振り返った。「鶸?」肩越しに鶸を見下ろす彼の眉の角度、眦ににじむわずかな窮を見てとって、さてはこの男のせいなのだなと鶸は勘づいた。

 男は、ちょうど西日を背にする角度で、鶸を見下ろした。耳元の金属や、染めた髪の輪郭が紅に燃え立ち、顔に落ちる影を際立たせていた。痩せた、朔より少し背の高い男だった。

 男のつり上げた口角だけがよく見えた。

「迷子?」

 静かに、しかし笑いを含んだ声で訊かれて、違うと答えようとして、喉が声を出してくれなかった。代わりのように、朔の右腕にぎゅうっとしがみついた。

「鶸……」

 朔が身を屈めようとしたが、男がその腕をつかんで阻んだ。代わりに男のほうが腰を少し折り、鶸に顔を近づけた。甘いような、ふしぎな煙草の匂いが、わずかにした。

「早く帰らないと、悪い大人に連れていかれちゃうよ」

 男は存外やわらかい、けれども冷たい声で笑った。

 悪い大人はお前みたいなのだろ、と思いながら、鶸は冷えた朔の腕に、熱を分け与えるように体を押し付けた。男の言葉は無視して、朔を見上げて口を開く。

「兄ちゃん、今日うち来てよ。今日ね、夕飯天ぷらなんだよ。レンコンとか、かぼちゃとか、兄ちゃん好きなやつもあるよ。俺また兄ちゃんのぶんもとってあげるね。いつもみたいに」

 朔の手にしがみついたまま、鶸はまくし立てた。頑なに視線は男を無視した。逆光の中で立っている男は、ジーンズのポケットに手をいれて、じっと黙っていた。

「兄ちゃん、いっしょにいこ。途中でドーナッツかお」

 腕を引っ張ると、朔の体が揺らいだ。金髪の男はうっそりと笑った気がした。

 男の骨ばった手が、ゆっくりと朔の前に差し出された。

 悪魔の声がした。

「朔、おいで」

 朔の靴先が浮きそうになった瞬間を見咎め、鶸は思いきりしがみついた。

 いかないで。兄ちゃん、いっちゃやだ。

 その重みに、朔はふらついて後ろに一歩下がる。それを見た男が、口角をわずかにあげた。悪魔的な笑みだった。

「……そう」

 拍子抜けするほどあっさりと男はきびすを返した。そのまま長い影法師を引いて、少し先の曲がり角を折れる。黒い影の先端が、橙がかったアスファルトの上から消える。

 その瞬間、腕を振りほどかれた。不意をつかれて、鶸の頬に朔の爪が当たった。鶸を捨て置いてそのまま数歩いったところで朔は崩れ落ちた。膝をついて、アスファルトを見つめている。うなじの白に、細い黒髪がまとわりついていた。鶸は頬の傷の冷たい熱を感じながら、呆然とそれを見ていた。先ほどまで朔の腕を抱いていた手の中に、夕暮れの寒々しい空気が、朱色の空虚を流れ込ませていた。


「にいちゃん」


 喉からこぼれた声は、七歳の子供のものとは思えなかった。

 その声をきいて、ゆっくりと振り返った朔は、自分のしたことが信じられないというように鶸の頬を見つめて、やがて立ち上がってまろぶように鶸に駆け寄った。そしてそのまま、鶸の肩に冷たい血の気のない手を置いて、罪人のように跪き、そして抱きしめた。鶸は凍りついたように動けなかった。頬の傷だけがじくじくと熱を持っていた。

 何度も朔が謝っていることに気がついたのは少したってからで、なにも言えずに鶸は首を左右に振った。いいよ、大丈夫だよ、という代わりに。声が失われたように出てこなかった。もしかしたら、呼吸を忘れてしまっていたからかもしれない。

 夕刻の鐘が鳴るまで二人はそうしていた。鴉が不吉になき交わす時刻になって、朔はようやく立ち上がって、鶸に送っていくと言った。鶸もそうしてほしかったが、相変わらず声は出ず、仕方なく首を振った。今度は、いいよ、ひとりでいくよ、という意味だった。あまりにも目の前の朔の肌が青白く、瞳が虚ろだったから。

 朔は鶸の意図を正しく汲み取り、黙って頷いた。頬の傷にもう一度触れ、また謝った。いいよ。大丈夫だよ。声は出ない。

 鶸が先に背を向けた。はじめての出来事だった。背後に朔が立ち尽くしている気配を感じて、鶸は、そうっと振り返った。朔は影法師のように頼りない、亡霊めいた雰囲気で、玄関の前に佇んでいた。

 そのときやっと鶸も気づいたのだが、銀木家の玄関先には、小さな十字架が落ちていた。小さな白い花のようなそれを拾って、朔はしゃがみこんでしまった。体を丸めて、血の気がなくなるほどきつく十字架を包んだ指を組んで、西日の赤いつぶてに晒されて打ちのめされたように動かなかった。

 鶸は、呆然としながらも、同じようにそっと指を組んだ。この行為が意味するものを、自分は知らない。ぎゅっと空虚を押し潰すように力を込めた。けれど空白は消えなかった。繋ぐ手はもう無かった。

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