The Paper Moon Over the Siskin's Nest. 1
約束したじゃないか。
中学生になったら連れてってくれるって。
嘘つきはよくないって教えてくれたのは兄ちゃんじゃないか。
なのにどうして。
「ひわ、起きた?」
アーモンド形のぼやけた世界、にじむ光を順応した瞳孔が吸いとれば、海の底から浮かび上がるみたいに、緑と湿気に溢れた部室が目に飛び込んできた。その視界の中央で、蘇芳紅一が、読んでいたムーン・パレスの文庫を閉じて、鶸の顔を覗き込んだ。「まだ眠い?」
ん、と掠れた声で返しながら身を起こした。机に突っ伏して寝ていたせいで、枕にしていた腕や首が痛い。
鶸は惰性で机の上に放り出されていたウォークマンを手に取った。二人でひとつのイヤホンと音楽を共有する時間はもはや日課で、今日はあれを聴こうこれを聴こう、新しいアルバムを買ったからそれを、なんて考える時間も楽しい。けれども今はそれすら怠いと感じた。
「こーいちの好きなのでいいよ」
ウォークマンを差し出せば、紅一はそれを受け取って慣れない手つきでゆっくり曲目を確かめていって、U2の『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』のアルバムジャケットの画像を見て指を止めた。
「これ、俺も持ってる。いいよね」
鶸はわずかに強ばった笑顔でうなずいた。紅一は静かに曲目を眺めている。やがてその視線がひらっと画面上を上下にさ迷って、鶸のほうへ向けられた。
「Elevation, いれてないの?」
紅一は不思議そうに首をかしげた。
紅一がいぶかしむのも無理はなかった。アルバムのなかからその一曲だけ消されているのだから。
「まじ? 操作ミスかも」
鶸はわずかに笑って、紅一の手からさりげなくウォークマンをとる。不自然に消去された曲。紅一は特に何の疑いも持たないようで「そっか。あ、俺今日はグレイス聴きたい」と微笑んだ。白い頬と黒い前髪がじわっと滲む。切れ長の眦がわずかに紅に染まっている。鶸は夢の残滓をそこに見る。薄ぼんやりと遠ざかるみどりの匂いと、甦る光景。鼓膜を叩く幻聴。
小学校を卒業した春のことだった。
昼下がり、日がよく当たる和室でのんびりしようと、漫画を抱えて一階の南の部屋に寝転がっていると、洗濯物を抱えて和室に入ってきた母が鶸の姿を認めるなり言った。
「そういやあんた、
鶸は漫画を放り出して立ち上がった。レモンイエローのパーカーを引っ付かんで飛び出す背中に、「あんた帰ってきたら片付けなさいね!」という声がかかる。
朔は大学に進学してしばらく家を離れていた。盆と正月には帰っていたらしいが、その時期は山吹家も大わらわで、ほとんど会えない年月が四年続いたのだ。
そもそも、物心ついたときから、朔は鶸の実兄のようなものだった。
幼い頃から忙しい両親に放し飼いにされていた鶸は、かなり行動半径もその自由度も高い子供だったが、迷子になれば迎えに来てくれるのは朔だし、学校まで連れていってくれたのも朔だし、嫌なことがあってひっそり落ち込んでいるときに慰めてくれるのも朔だったし、新しいものを教えてくれるのも朔だった。つまり山吹鶸の八歳までの人生におけるいわゆる憧憬の世界に存在していたのは銀木朔という近所にすむ黒い髪と白い肌をもつ線の細い若者だった。
朔の家は、彼の父が牧師をしている小さな教会に併設された小さな建物で、居住スペースと呼んだほうがいいような平屋だった。そこに銀木家は父子でひっそり暮らしていた。鶸は朔から母の話をついぞ訊いたことがない。また、訊いてもいけない気がした。母がいないことが特段鶸の朔に対する感情に影響を及ぼすことはなかった。ただ、それにより、朔の父が家を空けたりするときは、しばしば知り合いである山吹家に朔が預けられたりしていた。それが、幼い鶸は嬉しかった。自分よりずっと大きな遊び相手が、幼稚園の話なども忙しがらずに聞いてくれて、秘密基地ごっこ、田圃の水路でのザリガニ捕り、庭での鬼ごっこなどに付き合ってくれるのだ。ただ、蝉を輪切りにして、「雄の蝉の腹部は空洞なんだよ」と嬉しそうに教えてくるところはなんとかしてほしかった。
朔は読書が好きだった。かぐや姫や雪女の絵本を読んでくれたのも彼だった。朔と過ごすうちに、彼は本当は外で遊ぶのがあまり好きでないのだと気づいた鶸は、子供なりに気をつかって、お絵かきや鉄道模型やブロック遊び、そして読み聞かせを彼にねだるようになった。何度目になるかわからないかぐや姫を聞いたあと、つきってどんなところなの、と訊いた鶸に、朔は、どんなところがいい? と囁いた。
――どんなところだろう。
――鶸の好きなようにつくってみようよ。
――兄ちゃんもいっしょにつくろ。
そういって画用紙とクレヨンをひっぱりだしてきた鶸に、朔は薄く微笑んだ。
――えーっと、たけがきっといっぱいある。
――竹か。
――いつもはながさいてる。
――花?
――ひゃくねんにいちどって兄ちゃんがいってたやつ。
――ああ…ずっと咲いてるんだね。月の上では。
――そう。つきだから。
――ふふ。白くて綺麗だね。
――うん!…兄ちゃんのほっぺみたい。
――こら、つまむな。……他にはどうしようか?
――ドーナッツのおみせ! 兄ちゃんすきだから。
――ありがとう。
――あと、ほんやさん。兄ちゃんすきでしょ。ほん。
――鶸のすきなものもいれなくちゃ。
――兄ちゃんつれてくから、いい。
――え?
――おれ、兄ちゃんといっしょならそれでいい。
言いながら、鶸は黄色いクレヨンで、白い画用紙の上に二人の人影を描いた。朔が持った鉛筆の影が、ふらふらとその周りをさ迷っていた。
――…僕を?
――うん。
きっぱり言いきった鶸に、朔はほんの少し眉尻を下げた。
――鶸。
朔の細い腕が、小さな鶸を抱きしめた。どうしようもない運命を抱きしめるような、かなしい腕だった。
月にいけたなら、僕たちのいるところが月の上ならどんなによいだろう、と、朔はひとりごとを、泣きそうな声で呟いていた。鶸は、彼をおおうには小さすぎる手で、それでもぎゅっと朔を抱きしめ返した。
――月の上では、悪いことは何もおこらない……。
床に広げた画用紙に、鉛筆とクレヨンで描いた月の地図は、今も机の引き出しの奥に取ってある。
ふたりはちょうど十歳差で、鶸が五歳、朔が十五歳になった頃だった。
現在の山吹鶸という人間を形作る構成要素のひとつとして非常に重要なエレメントに、ロックンロールという音楽がある。人間には誰しもそういうものがあるが、しかしそれは生まれたときからもっているものではない。それは人生のどこかで運命的に出逢うものだ。そしてその出逢いは、その時だった。
その日は、いつもとは逆で、鶸が朔の家を訪ねた。手には母の持たせた、庭の枇杷が入った紙袋。果物をもっていくと、朔は必ず、ご褒美のように鶸に食べさせてくれる。枇杷をむく朔の白い指先を考えながら、鶸はぽてぽてと、教会へ続く道を歩いていた。電信柱の本数も覚えてしまうほどの慕わしい道のり。やがて見えてくる教会の白くて細い十字架と、その裏手の小さな平屋。鶸は駆け出した。
銀木という表札のかかった門柱の脇を抜けて扉の前にたつ。背伸びをしてもチャイムに手が届かないので、扉のノブに下がった貝殻のベルを鳴らす。鶸が来たときのために朔の父がつけたらしい。
出てきた朔は、中学の学生服を着ていた。身を屈めて視線を合わせて、頭をなでる。
「いつもありがとう」
季節のたびに、鶸の訪問はみずみずしい果物をともなう。山吹家の心遣いだが、鶸にとってそれは、朔からありがとうの言葉がもらえる嬉しいおつかいである。
枇杷の袋を受け取った朔は、なにも言わずにきびすを返す。当然のように鶸もそのあとを追う。あがっていくのがいつものことだからだ。
短い廊下は、自分の家とは異なる匂いがする。食卓と一緒になった台所に入ると、その、なにかふしぎな林に分け入ったような香りの感覚は強まる。
朔は枇杷を洗いながら、足元にじゃれつく鶸をあしらう。鶸は自宅の賑やかな台所とは違う、ひっそりと静まり返る銀木家の台所を観察した。
枇杷をざるに移し、朔は鶸の肩をぽんぽんと叩いた。
「部屋にいこうか」
勢いよく頷く。朔は少し笑う。
台所を出れば三歩で朔の部屋だ。鶸の家とは違う、箱のなかのような小さな家。それゆえに濃密になる気配が、鶸は好きだった。
教科書を広げた勉強机の上に枇杷のざるを置いた朔が、CDコンポの電源を切ろうとするのが見えた。
「兄ちゃんなんかきいてたの」
目敏く尋ねた鶸に、朔はわずかに間をおいて「うん、少しね」と答えた。鶸はぱっと駆け寄って朔の背中にかぶさった。
「何きいてたの?」
「こら、おりなさい。重いから。……なんでも。ただの音楽だよ」
そう言ったとたんに鶸がぶんむくれたため、朔はため息をつきつつおんぶしてよしよしとなだめる。背中に甘えかかって少し機嫌を治した鶸は、「何きいてたの?」と同じ質問をした。
「……ロックンロール」
ろ? と聞き慣れないことばに首をかしげると、「本当にちょっとおりて。枇杷むいてあげるから」と揺すられた。きゃっきゃとその揺れを少し楽しんでから、鶸はおとなしくおりた。
朔はざるに盛った枇杷をひとつ手に取り、丁寧に剥き始める。その指先に、蜜色がかった透明な果汁がしたたるのを、腰かけたベッドの上から見つめながら、鶸は「ろっくなんとかってなに?」と質問した。
「音楽の一種。…はい。枇杷むけたよ。ベッドの上は汚れるからこっち来なさい」手招きされ、勉強机の方へ近づくと、口開けてと言われて雛のように素直に従う。果肉を口に運ばれ、頬張ると、独特の甘味が口いっぱいに広がった。
「おれもききたい」
もごもご枇杷を咀嚼しながら鶸が言うと、朔はええ、と声をあげた。
「五才児にはちょっと…」
「やだ。きく」駄々をこねた鶸に、朔は元々下がり気味の眉をさらに下げた。
「兄ちゃんがきいてるのききたい」朔の膝にのってさらにねだれば、結局相手が折れた。躊躇う白い指が、のろのろと再生ボタンを押した。
瞬間、体をぶち抜かれたような気がした。
戦争映画の銃撃シーンみたいなパーカッションや、気が狂った吠え声みたいなボーカル、楽器全体の悲鳴みたいなギター、伏兵の呼吸みたいなベース………
暴力的な極彩色が耳と目と鼻と口を通り抜けていって脳のど真ん中でスパークした。全身が震えるような音楽。
知らず鶸は朔にしがみついていた。小さな手が学生服をぎゅうっと掴んでいるのを見て、朔は停止ボタンを押した。
「な? まだ早いって……」
よしよしと頭をなでられる。額を胸元にこすりつけると、安心させるようにぎゅうっと抱きしめられた。そのまま抱え上げられる。鎖骨のあたりに押し当てていた頭を離すと、ゆっくりベッドの上におろされた。
「兄ちゃん、こういうのが好きなの」
膝を抱えて鶸は訊いた。CDをコンポから取りだしながら、朔は首をかしげた。うなじにかかる黒髪が揺れる。「…そうだな」好きだ、と頷いた。とくんと鶸の心臓が揺れた。
「最初は確かに怖かった。でも、」心を掴まれる曲が、必ずあるんだよ、と朔は鶸の隣に腰を下ろして、そっと頭を撫でた。鶸はこてんとその肩に寄りかかった。
「兄ちゃんはどれにつかまれたの」
朔は目を細めて、机の上に並んだCDに視線をやった。切れ長の目がその文字列をさ迷って、絵本を選ぶときのように、ひとつに留まった。引き抜く。
これかな、と、白い指が、とんとんと一枚のCDを叩いた。英字のタイトルは鶸には読めなくて、朔を見上げると、オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド、と、少し固い発音で彼は囁いた。
「この中の、エレベーションってやつ」
「えれべーしょん」
「うん。上昇、って意味」
「じょうしょう」
「上にいく、ってこと」
鶸は天井を見上げた。銀木家の天井はあまり高くなくて、はっきりと見える古びた木目の飴色が滲む枇杷の果汁のようだった。蛍光灯のわずかな黄色がかった光が、輪っかをつくって二人を囲んでいた。
「これはきっかけにすぎなくて、今はもっと好きな曲が他にもたくさんある」
いとおしげにCDの列を撫でる朔に、ツキンと心臓が痛んだ。他の好きな曲。それはどんなの? 教えてほしかった。ぜんぶ知りたかった。
「兄ちゃん、おとな」
鶸がさびしそうに呟けば、朔は息を洩らして笑って、優しそうに鶸のちいさな頭に手を置いた。
「僕も、最近聞き始めたばかりだから……」
教わったばかりなのは一緒だよ、と慰める朔の声が海の底のように遠い。
兄ちゃんは、これを誰に教えてもらったの。
そう訊きたくても訊けなかった。それは、山吹鶸の人生において初めての感覚だった。
ピアノを弾くようにCDの列をなぞっていた朔は、不意にオール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインドのケースを手に取った。
「これ、貸してあげる」
そう言って、朔はCDを鶸に差し出した。目の前の、四角形の向こう側にいるモノクロームの四人の男たちを見つめて、鶸はぽかんとして…朔をみあげた。
「兄ちゃんはいいの?」
「僕は何度も聞いたから。それに、今はYouTubeとかでも聞けるし」
まだ早いと思うけど、いつか聞く日が来ると思うから、と朔は幽かに笑った。世界に抑圧されているような、弱々しい微笑みだった。それを見て、鶸は蝋燭の火のような悲しみにとらわれる。なにが彼をこんな風に微笑ませるのだろう?
「他の人には内緒でね」家族にも、と朔は、濃い色のビニール袋にCDを入れて、畳んだ。枇杷を入れてきた紙袋にそれをいれると、鶸にそれを差し出した。
「良さがわかるようになったら…返してくれればいいから」
鶸は朔を見上げて勢いよくうなずいた。宝を託されたような気持ちになって、受け取った紙袋にほおずりをした。
自分がもらったのは、彼の秘密だ。CDは借りたにすぎないけれど、この袋のなかに、自分は今、銀木朔という少年との秘密を手にいれたのだ、と、幼いながらに鶸はその行為の意味を直感していた。
枇杷をもうふたつ食べさせてもらったところで、送っていくね、と、朔は腰をあげた。鶸はもう少しいたかったが、母親から「朔くんは"じゅけんせい"なんだからね。長居しちゃだめよ」と口を酸っぱくして言われていたので、大人しくしたがった。朔は玄関を出ると、鶸の手を握った。
つないだ手は大きくて、反対側の手に抱えた紙袋の中身を意識して、鶸はうつむいた。自分があの音楽をわかるようになるのは遠い未来になるような気がした。
時間が均等でないことは、子供が一番よく知っている。行きと帰りで、全く異なる世界を歩いているように、朔の隣にいる時間は早く過ぎる。電信柱の本数なんて数えてる暇はなかった。自宅の田んぼが見え隠れする距離になったとき、たまらず立ち止まってしまったほどだ。
朔は鶸の前に屈むと、軽くつないだ手をゆすって、鶸を宥めた。彼を困らせたくなかったので、鶸は泣きそうになりながら一歩踏み出した。朔との歩幅の違いは、鶸をじりじり追い詰める。夢の世界から現実へ突き飛ばす明け方の手のように、残酷に、自宅の匂いが近づいてくる。
十字架のない、大きな日本家屋の前にたどりついたとき、鶸はもう半分泣いていた。抱えた紙袋をぎゅっと胸に押し付ける。無情に、朔の手が揺れる。嫌だ。この手が離れるのが嫌だ。
朔と別れるときはいつもこうで、けれど今日はその悲しみが何倍にも増幅されている気がした。舌の上に残る枇杷の風味や、耳の奥にぼんやり光る極彩色。
朔はなにも言わず、もう一度だけ手をゆする。揺りかごみたいな仕草。鶸は彼にすがりついた。二つのからだの間で、紙袋ががさりと押し潰された。
最後に、朔は鶸を抱きしめた。白い首筋から、百年に一度咲くという、竹の花のような、清々しくてかなしい匂いがした。
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