鏡は横にひびわれて/青い闇

 床に四角い銀河への孔。

 そんなことを思ったのは、暗黒に極めて近い青がその画面を支配していたからである。

目の奥がしんと痛むような、遠い青……

 美術室の床に直接置かれたカンバスは、非常に大きなものだった。傍らの原寸大のパーティションには下図が貼り付けられていた。それもかなり巨大で、百八十センチを超える紅一が見上げなければいけないほどだった。号だとか詳しいことはわからないけど、それが油絵の制作物としてかなり大きい部類に入ることは理解できた。

 紅一の知った顔はその青の上に眠っていた。

 もちろん直接ではない。キャスターのついた幅五十センチほどの台で、大判の絵だとそれを使って跨いで、その上に乗って制作したりする。何度か見たことがある光景だ。橋のようだと紅一は思う。

 その上に、青山藍が、目を閉じて横たわっていた。その白いかんばせは、生きた人間とも思えないほど整っている。陶器の頬に一刷け、鳥の羽のように青。身につけたエプロンに散りばめられた絵の具が花びらのようだ。

 紅一はしばし、立ち尽くして彼を見つめていた。

 彼は美しい生き物だ。

 日本人の目から見た白人の血がそうさせているのではなく、たとえどんな血が混ざっていたとしても、青山藍が青山藍として生まれたかぎり、そのおそろしい美しさは約束されていたものに思えた。天井に近い位置にある窓から差し込む六月の光が彼の白い肌を輝かせている。

 あまり寝顔をじろじろと見るのも失礼な気がして、紅一はパーティションのほうへ目線を戻した。

 神経細胞のような、何かのなかを顕微鏡でのぞいたような水彩の筆致には、覆い被さるようにべたべたメモが貼りたくられ、全貌がほとんど見えない。アルファベットで綴られた断片に興味をそそられ、なんと書いてあるのかと一歩近づく。

「下絵なんて普段は描かないんだけど」

 不意にかけられた声に振り向くと、藍が寝そべったまま、薄く目を開けてこちらを見ていた。射ぬかれたように目を奪われる。

「起きてらしたんですね」

 その姿に見とれ、声が上ずったのは隠せなかった。まだ夢うつつのような眼差しで、藍は唇の端を少しだけあげた。

「あ、すみません勝手に見て」

「遅いよこうちゃん」

 そう言って笑いながら藍は腹の上で組んでいた手をほどく。

「普段は、そのまま描くんですか」大きなカンバスを見やって、驚嘆したふうに紅一は言う。「こんなに大きいのに」

「何を描く、っていうわけでもないからね」リストカットするときに下描きするやつはいないでしょ、と身を起こす。紅一が返すことばを探していると、でもね、と、伸びをしながら藍は呟いた。

「その傷はつけなおさないといけないから」

 傷、という、投げやりな包丁のような言葉にひやりとする。普段より低い声は耳慣れない誰か別の人間のもののようだ。

 青山藍。

 入部したての頃から、気まぐれな猫のように紅一に絡んでは、彼をからかって嫣然と笑うばかりの美青年…飄々と、まるで小説の中の存在のような、花の影じみた生きもの……。

「あの、……」紅一はかすれた声を出した。この空間では大きな音を出すことが憚られる気がする。「部長が四時からお茶をいれてくださるので、藍先輩も来ませんか」

「ん」藍はどこかぼんやりとした表情で首を傾ける。「……今はそういう気分じゃないかも」

「そうですか」

「ごめんねって言っといて」

 紅一は小さく頷いた。

 起こしていた体をもう一度横たえ、藍は呟いた。「ここ、案外寝心地悪くないかも」

「ミレイの絵みたいです」

 率直な感想を漏らせば、藍は身を起こして「それって俺が狂ってるってこと?」と薄く笑った。

「いえ」わずかに狼狽し、否定しようとして――狂っていることは悪いことか、という疑問が不意に浮かぶ。この美しい生きものが狂気に憑りつかれたとして、それはあるいは――世にも稀なる至高が誕生するのではないか?

「ふふ」藍は目を閉じた。「どうなんだろうね。俺、狂ってるかな」

 紅一は答えなかった。

 青山藍の雰囲気がいつもと違う気がした。蘇芳紅一は入学してまだ日が浅く、彼との付き合いがそう長いわけではないが、それでもわかるほどだ。六月の紫陽花と、秋のそれのように、まったく違う。絵を描く人間はそういうものなのだろうか。ぐるりと美術室を見渡せば、制作途中の作品がいくつかと、眠りについているような完成品が無数に壁際に佇んでいる。ここにいる異物――人間は自分だけのような気がした――青山藍も、まるでこの美術品の一部のようだった。

「こうちゃんも寝てみてよ」

 藍はふらりと身を起こすと、紅一を手招いた。

「え、」

「ここ」

 藍の爪がステンレスを叩く。紅一は入口近くで立ち止まっていたのを、おずおずと橋に近づいた。藍は軽やかな、でもどこか不安定な足取りで橋を降りて、手でそれを示した。視線を向ければ、自然とその下の絵画そのものにも目がいく。

 橋の下に澱む青い沼――思わず覗き込んで、そのまま落ちてしまいそうな四角い孔。

 紅一が間近で見る藍の絵に魅入られていると、藍は下描きの前に置かれた水入れをどけながら「意外と丈夫だから、それ」と橋を指差す。本当に寝るのかと思いつつ紅一はゆっくりと、ガラスに腰かけるように台上に登った。

 まず中程で座り込み、注意深く体を横たえる。シャツ越しに触れる、細かな溝の多い硬い感触。体の両脇はなにもなくて、腰骨のあたりがすうすうした。落ちて、カンバスを傷めたらなんて考えると身が強張った。

「こうちゃんはオフィーリアというよりシャロットの女だね」

 藍はその美しいかんばせで微笑みながら、紅一のおもてを逆さに覗き込んだ。シャロットのおんな、言われたことばを反復した紅一の唇に、藍は人差し指で触れる。

「こうちゃんはセックスしたことある?」

 びくん、と肩が跳ねた。橋の繋ぎ目が鳴る。直截的な単語に耳まで熱を持つと、顔色として現れたであろうそれに藍が笑うのが見えた。うぶだねえ、と言いながら、藍はいっそう艶めいた表情で問いかける。

「じゃあ、恋をしたことは?」

 な、ないです、と上ずった声に乾いた笑い声をあげながら、藍は画板の横に膝をついた。そこかしこに散らばる画材をまとめたり新しく出したりしながら、「こうちゃん、機織り上手そうだもんねえ」と目を細めた。紅一はなんと答えたらいいのか分からず、「編み物しかできないです」と返すと、藍は腹を抱えて笑いだした。

 紅一は落ち着かずに視線をさ迷わせた。寝転がった状態でも、ある程度は見渡せる。むしろ視点が低くなったぶん、壁際に立ち並び覆い重なるカンバスや画板に目がいった。

「……すごいですね」

 立て掛けられたカンバス――幾つも裏返されているが、その板地に描き込まれた学校名と氏名のなかに、青山藍の文字を見つけることは容易い。「たくさん、描いてる」

 藍は紅一の言葉をきいて、ちらりと絵の群れのほうを見た。そして、いくつも見つかる署名を一瞥してため息をついた。俺は出すために描いてるんじゃないけど、楽しくないし、とエプロンの裾で手を拭きながら呟く。

「描かないといられないからね」

 署名をいれてどっかへ出すのは先生の役目、と藍はひとつの小ぶりなカンバスの上部に手をかけた。そのままぱたんと床に倒す。横たわったまま目を向けると、どうやらこれも青を基調とした作品のようだ。青の時代とはピカソだったか、と思いを巡らせるうちに、藍はまた別の一枚をぱたりと倒す。

「初めて見たの? 俺の絵」

 現れる青。シャガールの馬や、ココシュカの花嫁を思い出すような淡い…けれど深い…ねじれた青…。星月夜のような渦が視点を絡めとる。

「どうおもう?」

 ぱたり、もう一枚、不意に極端なコントラスト、アメリカン・ポップ・アート。視覚から脳髄を射るような鮮烈な青。はっと息を呑むと、散らされたレモンイエローとスカーレットが警告のように瞬いた。

「こうちゃんならダダとかシュルレアリスムとか、そういうの連想するかもね」

 ぱたり、ぱたり、ぱたん。

 蜘蛛の巣のような白い顔料に声を絡めとられた。ものも言えず、藍の行動を視線で追っていくしかできない。

 色彩の暴力。

 言うならばそれだった。青が紅一を少しずつねじ伏せていく。藍が一枚ずつ、自分の描いた絵を倒していくたびに、首を真綿で絞められるような感覚が増していく。心拍数が跳ね上がる。

「Out flew the web and floated wide;

The mirror cracked from side to side;」

 紅一の異変など知らぬげに口ずさむ藍の横顔は、青い蓮がひらいていくように官能的だ。花の蔦が絡むように、白い指がカンバスにかけられる。

 なにか来る。

 それは本能だった。

 藍はひたすらに絵を倒していく、紅一のことなどまったく見えていないように。それはいかにも彼らしくない行為に思えた。なにかに憑りつかれたように、彼は無造作に絵を倒していく。窖に手を突っ込む無防備さで。傷痕を抉る残酷さで。

 どことなく感じていた違和は今やはっきりと彼の容子にあらわれ、藍はひと際大きな一枚を倒して口ずさむ。

「The curse is come upon me,」

 紅一は過呼吸寸前になりながら、必死で酸素を手繰り寄せていた。心臓が苦しかった。

 体の下の青い闇からかいなが伸びてくる。これは男の腕? 強い力。押さえつけられるよう。幾つもの腕。絵の具の瘡蓋を引き剥がして、潜んでいた闇が絵画を、囚われた紅一を――美しい藍を蹂躙する。硬直した手足に、藍は笑う。何を見ているのか? 瞳がかいなをすり抜けている。

 鼓動が膨らむ。耳と、喉と、目と、脳と、そこにある心臓がばらばらに脈打っている。

 逆さに覗き込む、美しいかんばせ。

「こうちゃん」

 紅一はがたがたと震えていた。手足を釘で打たれたように動けないのに、爪の先まで緊張に支配されていた。視覚が藍の色彩に共鳴し増幅する。煩わしい鼓動に紛れて、ひどく幼いようなまぼろしが鼓膜を打つ。視界が青に埋め尽くされる。青山藍の真っ赤な唇が動く。

「男に玩ばれて狂った女と、男を知って狂った女のどっちがいい?」

 あいして。

 耳元で聴こえた囁きに体が痙攣した。心拍が不規則に乱れる。死ぬかもしれない、と思った。

 藍は紅一の慄えをどう受け取ったのか、金の睫毛に縁どられた悪魔的に美しい眼で紅一を射抜く。「ね、選んでよ」てらてらと濡れた角膜の向こう、瞳孔はくろぐろとした、闇…青の中央……。

 心臓が頭蓋の奥でなっているようだ。眼球が真っ赤に明滅する。喉が焼け付く。舌の根が気管に引き込まれるように攣り、呼吸を塞ごうとする。指先が引き攣った。明らかに不自然に硬直した四肢に、藍が不意にぐっと紅一に顔を寄せる。

「こうちゃん」

 藍の顔に先ほどまでの怖ろしい微笑はない。彼は険しげに眉間に皺をよせ、焦点の合わない目で顫える紅一に問いかける。

「何を見たの?」

 明らかに様子がおかしい紅一に声を掛けながら、震え続ける指先をとって握った。少し低い彼の体温に、詰まっていた呼吸を必死で吐きだしながら紅一は金縛りがとけて首を振った。

「わかんないです」

 紅一は震えながら言葉を絞り出した。彼の首を押さえつける藍の指には彼の肌が異様に冷えていることがわかる。けれど紅一の濡れた目元は朱に染まり、頬は病人のように紅潮していた。荒い息を吐きだしながら、まぼろしに怯えるように呟く。

「なにか、なにかいる、います、わからない、誰か、わからないけど…いたい、いたいです、

 ……たくさん、うで、おさえられる。

 たくさんいます。ひと。

 さわってくる。

 青い色、血ですか? 血…ながれてる…。

 きずがいっぱい、ひらいて。ひらかれた。

 さわられる。

 こわい、

 おとこの、ひと、」

 青白い火花。

 藍は、紅一の頭上に、水入れの中身をぶち撒けていた。絵の具のように閃いたそれはつめたかった。閃光のようにその衝撃が美術室を駆け巡る。何かがその瞬間、確実にスパークした。

 大きな音がした。金属音ともう少し鈍い音。

 紅一がカンバスの上に落下した音だった。波打ち際のように水が青の上を伝い、びくっと跳ねた紅一の手足を濡らした。

 藍は肩で息をしながら、指先が白くなるほど力を込めて、目を見開いて凍りついていた。瞳孔が揺れて、一歩よろけた。紅一は激しく咳き込みながらその姿を見ていた。鼻の粘膜や気管が疼痛を訴えるが、なんとか咳をこらえつつ身を起こす。そしてからとりあえず絵の上からどき、下地を見た。水飛沫が散っているのを認識して狼狽する。

「せんぱい、絵」

 濡れちゃった、と、カンバスに指先を伸ばして震える声を出した彼は、まだ赤みの残った頬で肩で息をしながら、しかし先ほどまでの異変は嘘のように藍を見上げる。「どうしましょう、」

 狼狽えている濡れた黒い瞳は、高熱が下がったばかりのような色をたたえている。藍の瞳がやがて焦点を取り戻し、その黒苺のような一対に定まると、大きくひとつ息を吐いた。

 藍は、がらん、と、足元に水入れを落とした。両手が力なく垂れ下がる。

「こうちゃんってさあ……」

 そう言ったきり言葉を失っている藍に、前髪から垂れるしずくを拭いながら紅一は首を傾げる。鎖骨のすぐ下で、ことんことんとまだ落ち着かない心臓が揺れていた。

「…先輩、大丈夫ですか」

 まだあの不穏な高揚を色濃く残したまま、ぼうっとカンバスの脇にへたりこんでいた紅一は、佇む藍に恐る恐る声をかけた。

 藍はほんの少し、眉根をよせて、立ち尽くしていた。先ほどまでの鬼気迫る異様な雰囲気を失ったそのかんばせは少女のようだった。

「俺よりね、こうちゃんの方がよっぽどおかしいよ」

 平坦な口調で小さく呟いた彼の顔色は白かった。

 夢から醒めたばかりのように、紅一は緩慢な動作で立ち上がった。座っていた場所には小さな水濡れがある。そこまで大量にかぶったわけではないが、上半身はじっとりと湿っていた。

 なぜ藍が自分に水をかけたのかはわからなかった。けれど、その直前に見ていたあのおぞましい白昼夢のような光景――あれを断ち切ってくれたことに心底安堵した。痛むほど鼓動する左胸を押さえて、落ち着くのをじっと待つ。

 藍が、不意に時計がねじを巻かれたように動き出した。部屋の隅にある、ステンレス製の棚を漁り出す。雑多なものが置かれているそこから何やら引っ張り出す。「着替えなよ。風邪ひいちゃう」

 藍が手渡してきたのはジャージだった。絵の具があちこちついていて、サイズも少し小さい。ぽたぽたと水滴を垂らすカッターシャツとそれを見比べていた紅一に、藍は「ドライヤーあるから。シャツ乾くまでだけでも着てなよ」と促した。

 紅一はシャツを脱ぐと、直接ジャージを羽織った。余裕をもって作られてはいるが、やはり袖が短い。「先輩のですか」訊くと、水入れを片付けていた藍は首を振った。「何年か前の先輩の」好きにしていいよ、と言う彼の隣にかがみ込み、紅一は濡れた床を拭い始めた。

 とりあえず布で吸水しながら、あたりにまだ放射状に倒れている、無数のカンバスを改めて見つめる。

 ひとくちに言うなら、抽象画だ。アクション・ペインティングの系譜。写真より鮮明に衝動の痕跡をとどめる画面と、失われた躍動の標本……青が印象的なその絵は、確かに先程、無数の寸鉄のように紅一を貫いた。

――自分は何を見た?

 気化熱で冷えたからではない震えが体に走る。それは恐れではなく、むしろ……。

「ごめんね」

 不意に藍が、ぽつんと、水滴のような声で言った。

 紅一が咄嗟に彼のほうを見たが、藍はそれきり黙り、準備室へ入っていった。紅一が追いかけると、美術室より狭くて暗い準備室の隅で、藍はドライヤーを探していた。シャツ越しにもわかる体の薄さに息を飲むほどだった。

 待ってて、このへんにあったはずなんだけど、と言いながらかがみこんだ藍の隣に、石膏像を掻き分けて紅一もそっとしゃがんだ。

「先輩、疲れてますか」

 目の下の隈や、普段より一層透きとおるようなうなじに、紅一は不意にそう尋ねた。藍は答えず、目を伏せたが、紅一は続けて言った。

「部長が…先輩は、絵を描いてると、ご飯食べなくなるって」

 だからお茶にも来ないかも、って、ほんとは言ってました、と告げる。

 藍は黙っていた。

 シャツの上からでもわかる尖った肩胛骨や鎖骨の窪みに目をとめながら、集中しちゃうと食事がおろそかになるの、ちょっとわかります、と紅一は小さく頷いた。「俺も、本読んでると忘れちゃう」

 でも、と、身をよりかがめて、藍の顔を覗き込む。

「ちゃんと、ご飯は食べなきゃだめですよ」

 藍はこくんと頷いた。花の首が不意に折れてしまったような仕草だった。

 紅一はまったくの突然に、この人はとても脆いのかもしれないと感じた。瓢然と構え、艶やかさで鎧おっている奥にひそむ、割れたガラスの破片みたいな脆さ。美しくて、けれど既に壊れてしまっている無秩序なアモルファス…。

「あった」

 藍が棚の奥から、埃をかぶったドライヤーを引きずり出した。明らかに型が何世代か古そうな隙間に埃が入り込んだ一品に不安を覚えて、二人は徐にコンセントを繋ぎ動作確認をしたが、案の定電源が入らなかった。

「こないだ使ったときはまだギリギリ動いたんだけどね…」

「それ、いつですか」

「……半年前かな」

 藍はため息をつく。紅一はジャージの袖を引っ張って、「これ、お借りしても構わないんですよね」と訊くと頷く。「じゃあ大丈夫です、帰る頃までには乾いてると思うので」

「……んん、あ、そっか。これからお茶するんだっけね」

 紅一は首肯した。藍はもう一度大きく息をついてドライヤーを机の上に放り出した。後で処分するつもりらしい。

「……先輩も、来ませんか」

 もう一度だけ、というように、紅一は問いかけた。

 藍はエプロンの裾をぎゅっとつまんで、離し…それを何回か繰り返していた。合わされない視線と引き結ばれた唇に、紅一は悪いことを言ったかなと、自省を込めてそっと立ち上がって頭を下げた。「すみません、制作中なのにお邪魔して」

 準備室から出ようと背を向けると、「ねえ」と声がした。扉に手をかけたまま振り向くと、藍も立ち上がって、真っすぐこちらを見ていた。

「やっぱ、行くよ。お茶」

 片付けるから待ってて、と微笑んだかんばせはまだ蒼白いが、さっきまでの触れたら砕けてしまいそうな気配はもうなかった。

 藍は瞬く間に倒れていた絵を元に戻すと、すべて裏を向けて壁に立て掛けてしまった。裏板の染みを見つめながら、瞼の裏に残った色彩の棘を愛撫するように紅一は目を閉じた。

 芸術のなかには、時おり、彼を蹂躙し、飲み込むような存在がある。それはきっと、それを作った人間の心がそこに磔になり、叫んでいるからだと紅一は思う。自分がそれを受け止めきれないほど弱いことに、唇を噛んだ。簡単に悲鳴をあげる心臓が憎いほど――濡れたシャツを手繰り寄せ、ぎゅっと握りしめた。

 支度が終わったらしい藍がエプロンを外す。「お待たせ」と紅一を振り返って言う頬に、わずかに血色が戻っていた。

 二人で美術室を出ると、藍は不意に腕を絡ませてきた。相変わらず花の蔦のような仕草だ。紅一が慌てて引きはがそうとすると、見たものを虜にするような流し目で「いいでしょ」と言う。紅一が耳まで赤くなると、その熱量たっぷりに透ける薄い皮膚を指先でつつき、にやりと笑う。

「うふふ、こうちゃんはシャロットの女だもんねえ」

 紅一は面食らって、何も言えずに口を閉じるしかなかった。

 ここにいるのはまったく普段通りの青山藍だ。艶言で紅一をからかって、ファム・ファタルめく微笑で魅了する、美しい、異国の魔物めいた生きもの。

 けれど紅一は、彼の青い闇を覗き見た。

 逆さに、斜めに散らばった彼の絵を思い出す。情感の濁流に飲まれ、結局一枚とて、正面から見つめることはできなかったなと気づいて、もう一度心臓が揺れた。死にそうなほど、紅一に突き刺さる藍の絵。

 隣に感じる存在が壊れてしまわないか、その質量を確かめながら、紅一は口を開く。

「先輩の絵が見たいです」

 いつか、ちゃんと。そう言った紅一に、藍は驚いたように手から力を抜いて、じっと、そのガラスめいた美しい目で見つめ返して――はにかむように微笑んだ。心臓がまた跳ねる。

 彼はそっと紅一の耳元で、どこか無邪気な響きを持つ声で囁いた。

「いつかね」

 いつか。不確かで、けれど希望に満ちたその響きを胸のなかで転がしながら、その日まで、この弱い心臓がもちますように、と、紅一は目を閉じた。

 共鳴の瞬間、全身に感じた、無垢な悲しみ。あの青い傷に貫かれる日を、この胸は待ちわびているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る