ディア・ミント・グリーン Side:K

蘇芳紅一は、鹿を探している。

 こう言うと大抵の人は何を言ってるんだと思うだろうが、実際何言ってるんだろうなあと本人も思っている。

 ただ、そう感じたのだ。


 時たま、世界が森にみえる瞬間がある。

 それは物心ついたころからで、行き交う人やそびえる建築がゆるゆる姿を変えて、絵画の場面のように白樺や樅の、あるいは棕櫚や蘇鉄の林になる。木洩れ日は流動して、切り取られたように永遠である一瞬。光が真っすぐに落ちるのではなく、地面に至るまえにワルツを楽しんでいるような。

 そういうときに、不意に影が横ぎる。人の森のなか、しずかな獣のように。十六年と少しの人生で幾度か味わったことのある、清々しいアップル・ミントに似た匂い。摘み立ての季節がはじけるかがやき。

 まぼろしかもしれなかった。けれど、舌のうえに広がる記憶とともに、ずっと胸の奥にのこっている、あの、鹿。


 十六歳、四月の、薄いきらめきの広がる朝に、そうして再会した。

 めいっぱいの春を詰め込んだような、緑の瞳。

 


「新入部員は確保したいな」せめてひとり、といいながら、那倉白臣がばらりとバーミキュライトの袋を開けた。部室は新しい季節を迎え、隙間という隙間に春がはびこっている。

「俺、適当につれてきたげよっか?」藍がにやっと笑うと、白臣は首を振る。「適当でいいんだが、雑草に愛を抱けない人種だと困る」

 藍はなるほどというように息をついた。彼が連れてこようものなら、確実に雑草よりも藍本人にご執心の相手しか見つからないだろう。

「でも新入生ここ気になってるみたいっすよ。わりと仮入部くるかも」乳鉢でごりごりと肥料を磨り潰していた山吹鶸が声をあげる。「大方先輩たち目当てですけどね。ところでなんで乳鉢と乳棒ってこんなエロスな名前なんすかね」

「それじゃ困るんだよな。きちんと雑草を愛してくれる生徒じゃないと。乳鉢と乳棒はね、昔は乳児に与える食事をそれで磨り潰していたからだと言われているよ」

「そっすよね。顔目当てで来られてもなあ。へーそうなんすか部長すげえ!」

「あはは、あそこ二人、よくふたつの内容を連立して話せるよね」

「そうですね」

 マイペースにニワゼキショウの鉢を磨いている紅一に、藍は腕を組んで話しかける。

「こうちゃん誰か心当たりいない? 白臣のお眼鏡にかないそうな子」

 そうですねえ、ときゅ、と鉢を磨く手をとめて考えこんだ。中学時代の後輩が何人か進学してきたが、皆陸上を続けると言っていたし、何より雑草に興味を持ってくれそうな気配がない。

 そのとき不意に、新入生歓迎オリエンテーションの場で、すれ違った生徒の顔を思い出す。ひらっと落ちたクローバーを拾ったとき。

 人の森の向こう、ぽつりと佇む鹿。

 心当たりあるの、と敏感に紅一の瞳を読んだ藍が訊く。紅一は頷いた。「同じ中学の子に、すこし」

「へえ、なんていう子」ひょいと藍が片眉をあげる。部員の視線が集まったのを感じながら、紅一はうーんと、と首をかしげた。

「みどりかわみどりくんです」名札を思い出しながら言う。

「やばい名前がすごく雑草を愛してくれそう超ロック」

「いい名前だね。なんだか成瀬川なるみたいだな」

「白臣、古いよ」

「ヘルタースケルターのほうがいいかな」

「大分違うよ」

「違うかな? 紅一くん、君は彼に声をかけることができる?」

「ええ、顔は覚えているので」

「そうか、じゃあ悪いけど頼めるかな」

 憧れの相手に頼まれたのが嬉しくて「はい!」と思わず海軍式の敬礼をしてしまう。藍がくすっと笑った。

 こうして蘇芳紅一の翠川緑雑草研究会勧誘計画は幕を開けた。



 こうと決めたら行動が早いのが蘇芳紅一の長所(たまに短所)である。翌日の昼休みには、既に彼は計画を開始していた。新入生の階まで降りて、さて例の少年はどこだろうと思案する。廊下で、同じ中学だろう見覚えのある女子を見つけたので、意を決して話しかける。急にごめん、翠川くんって知ってる? 急にでかい上級生に話しかけられたからか、その巻き毛の女子は驚いてぴゃっとはねる。草の花の文庫本を持っているところに親近感を覚えた。彼女は緊張したように隣にいた女子に視線をやる。緑のピンをつけたボブカットの少女が代わりに答えた。「翠川くんならB組ですよ」

 ありがとう、と答えてB組の表示を探せば、背後から「これはフラグ」「紅緑? 緑紅?」「センパイコーハイホモばんざい」というような囁き声が聞こえたが、意味がよくわからなかった。

 隣を真新しい制服の少年が駆け抜ける。俺も一年前はこうだったのだ、と懐かしさを味わいながら、B組を見つけた。

「翠川くんっている?」

 教室を覗き込んで、一番近い席に座っている生徒に訪ねるとあそこです、と窓際の席を指差されたので、失礼しますと足を踏み入れる。上級生が入ってくると教室内の空気が微妙になるのはよくあることだが、申し訳なく思いながらできるだけ早く用事が終わるよう、さっさと窓際に近寄った。一人で座っている生徒はちらりとこちらを見たが、自分に用があるとは思っていないようで、無反応だった。机の前まで行くと、手を置いて話しかける。

「翠川みどりくん」

 ファッという声を発してその男子生徒は飛び上がった。「僕ですか!?」

「あ、もしかして違う人?」

 妙にぎくしゃくした動きで首を横に振られたので、名前を名乗って早速勧誘を開始した。

「部活は決まってる?」

「い、いえ……まだ……」

「草花に興味ない?」

「えっと…ないですね」

「これから興味もつ予定は?」

「えっ…わかんないですね」

 なんだか人形が答えてるみたいだ。緊張してるのかなあと思って身をかがめて目線の高さを合わせてみるが、あのときみた鹿のような瞳の色が見当たらない。怯えて、イラクサの茂みの奥に引っこんでるようだ。うーん、野生動物は難しいな、と思いながらも、質問は止めない。話を聞くかぎり、まだ部活動は決めてないようだ。これは期待できるかもしれない、と嬉しくなった紅一はメモに地図まで描いて渡したが、彼が画伯と名高い蘇芳紅一の図画を読み解けるかはまた別の問題だろう。

 一通り説明は終わって、それじゃ、と席を離れようとする。見知らぬ上級生に警戒していた周囲の空気が緩むのを感じながら、扉へ向かう。そのとき呼び止められて、振り返ると、まっすぐな瞳とかちんと目が合った。

 懐かしい、黒く透明な水晶がふれあう感覚。

 あ、鹿。

 少年は意を決したように口を開く。

「あの……僕、みどりじゃなくてりょくです」



「部長、翠川みどりではなくて翠川りょく君でした」

「そうだったのか。韻は踏めないけど、どっちにしても俺たちにはいい名前だね」

「そうですね、いい名前です」

「それで、成果はどうだった?」

「あ、仮入部に誘ったら頷いてもらました。明日来れたら来るそうです。そういえば部長、やっぱりみどりかわみどりっていう名前は、ヘルタースケルターというよりガリレオ・ガリレイの系統だと思います」

「うん、俺も昨日ちょっと考えてみてマリリン・マンソンの方が近いかなと思ったよ」

「ロマン・ロランとか」

「ユベール・ロベールとか」

「レオ・レオーニ」

「ドナルド・マクドナルド」

「野比のび太」

「聖闘士星矢」

「部長、聖闘士星矢はちょっと違う気がします」

「なんかすごい天然な会話してるね、ひわちゃん」

「そっすね先輩」

 鶸は昨日と同じように乳鉢と乳棒を用意し、ごりごりと肥料をすり潰し始める。藍は周囲の鉢の花殻を手のひらの上にのせて、ふうっと吹いて、シャボン玉のように舞う様子を眺めていた。紅一がその花吹雪に目を奪われていると、藍は不意に紅一のほうを向いた。

「てか、こうちゃんその子とどういう知り合い? セフレ?」

「せふれ? サブレの友だちですか? あ、いえ、特に関係という関係はないんですけど」なんべんかすれ違ってて、と言うと、藍は優しい笑顔で首を傾げた。

「……それ、普通に考えて相手こうちゃんのこと知らないんじゃない?」

「え?」

 きょとんとした顔をする紅一に、藍は、幼稚園児に相対する保育士のように優しく「いや話したことないどころか、同じ空間に長時間同席したこともないってことでしょ? それ。なんで声かけようと思ったの?」と分かりやすく噛み砕いて質問する。紅一はうーん、うーんと左右に一回ずつ首をかしげて、あっと手を打った。

「あの、鹿に似てて」

「は?」

「鹿です。あの、ひひーんって」

「それ馬」

「そうですか」

「いや、うん、そこ? 鹿に似てるってなに? 顔が? 雰囲気が?」

「いえ、魂が」

「ごめん今なんて?」

「たましいが」

 藍はより美しく微笑み、うんうんそっかあとわけのわからない空想をのたまう子供を相手にしているように相槌を打った。「鹿似かあ。あだ名はバンビだな!」と指をならす鶸や、「相手を知らないならこれから知っていけばいいさ。千里の道も一歩からだろう」とやたらいい声でやたらいいことを言う白臣に、藍は何も言わずに首を横に振った。新入部員はできたら突っ込み属性だといいなと思いながら。




 蘇芳紅一のたまうところの鹿似の新入生、翠川緑は、翌日しっかりと雑草研究会の部室に顔をだし、そしてしっかりと混沌の渦に巻き込まれてふらふら帰っていった。失礼しました、と頭を下げて退室した彼の瞳にうずまき模様が見えたのは錯覚ではないかもしれない。

 美しい緑の諧調にみたされた部室に残った四人は、日常業務に戻っていった。鞄からランニングシューズを取り出しながら、紅一はぽつんと呟いた。

「彼、入ってくれるでしょうか」

「どうだろうねえ」

 紅一の呟きに、青山藍はくるくるとやいと花の蔓をもてあそびながら返した。「だいぶカルチャーショック受けたみたいだよ? あの子」ゆったりとした彼の喋り方は音楽に似ているが、そこにはどこか練り上げられた技巧めいた響きがある。白臣は彫刻的に端正な顔を物思いに沈めるように腕を組んだ。

「カルチャーショックか……確かに、あまり馴染みがない活動内容だろうな、雑草の研究というのは。俺と相対したときもだいぶ驚いていたようだし」

「いやあれはどちらかというと白臣のアラビアン上裸が原因な気もするけど」

「俺は部長と部長の筋肉に惚れてここに入りましたよ」

「こうちゃん薔薇族なの? 三島由紀夫なの?」

「雑草を愛し、雑草と共に生き、雑草の雑草となりを知るために日々努めれば自然と筋肉はついてくるものだよ紅一君。きみもいつしか俺のような体に」

「うわやっべえ! 部長すいません乳鉢割りました! ごりって力いれたら」

「ほらあんなふうに乳鉢を容易く割れる力がつく」

「ひわきちすごい…! 俺も頑張ります!」

「えっ俺すごい? よっしゃ! あっていうかすいません、新しいの家から持ってきますね」

「いやいいよ、予備はあるから」

「さすが部長まじロック!」

 三人のやりとりを見ていた藍は何も言わずに、机の上に置かれていたカップを手を伸ばした。紅茶を一口飲んで「俺、一応適当な生徒見繕っとくねえ」とため息をつく。

「めずらしいな、藍が」

「いやだってこの状況みてたら不安にもなるでしょ…」俺たち引退したらどうなるの、と白臣に目配せする。背後では真剣に乳鉢の割り方を鶸に乞わんとする紅一と真剣にレクチャーせんとする鶸。部室にはびこる春が彼らの脳にも侵入したのだろうかと疑いたくなるが、まことに遺憾なことに通常運転である。

「仲が良くていいじゃないか。何が問題なんだ?」

「ああうん全部かな」

 紅茶を飲み干した藍は、赤と黄色や白と青が無造作に飛び散ったエプロンを見つめながら、ここに緑がはいったならどうなるのだろうとキャンバスを脳内で広げた。余計まとまらなくなるだけかな、とも思いつつ、でも少し見てみたい、と思う。

「奇麗になりそうだ」

 突然隣でそう呟かれて、は? と思わず声をあげて白臣を見上げる。制服のシャツを着直しながら、白臣はふわっと微笑んだ。「エプロン。緑が入ったらいいな、って」

 はっと息を飲んだ。胸に不意に花吹雪が舞い込むようだ。白臣はエプロンの裾をつまんで、そっと言った。「俺は彼が入ってくれたらいいと思うな」

 白臣の横顔を見て、藍は心臓から春があふれ出すような気持ちになった。この幼馴染は、そうなのだ。みどりのゆびで、人の心もやんわりと芽吹かせる。

「……俺も」

 だから藍は、花開くように笑うことで彼に報いる。

 どうやら乳鉢から話題が別にうつったらしく、尻尾を振りながらじゃれ合う後輩を見て、三年生二人はそっと声なく微笑み合った。



 時刻は春の午后三時。金色の昼下がりはこんな日に訪れたのだろうと思わせるうららかな気候のなか、蘇芳紅一はぼうっと自分の体について考えこんでいた。

 昼から少しだけ心臓に違和感があった。気のせいだと自分に言い聞かせたが、ふとやはり気になったので、帰りの駐輪場で一応財布を確認しておく。普段飲むシベノールは入ってなかったが、ワソランがあったのでまあいいかと思った。でも、自転車に乗る気にはなれず、押して歩き出した。

 校門脇の花水木が、薄紅の花をつけている。もうそんな季節かと立ち止まった。低い枝に花が咲いていることは稀で、なんだか嬉しくなる。家に帰ったら二階の窓から庭の花水木も見てみよう、なんて考えていると、不意にまた胸がきゅっとした。

 鼓動が浮わついているとでもいうのか、表面にあがってきているような感じがする。皮膚をはさんですぐ下に、むき出しの時計を抱えてる気分。そしてこの時計は、不意に狂い出すのだ。家に戻るまで何もないといいな、と祈りながら、じっと花の形を見つめていた。

 なぜ 花はいつも こたえの形をしているのだろう なぜ 問いばかり 天から ふり注ぐのだろう ――気に入りの詩集の一節を口ずさむ。

 こんにちは、と背後から声をかけられて振り返ると、白っぽい晩春の光のなかに、鹿が立っていた。

 いくつかの木洩れ日の柱がおだやかに林立するような風景。

 光のなかから一歩踏み出したのは、鹿ではなくて少年だった。無造作な黒髪と、大きめの目が記憶に新しかった。

「翠川、くん?」

 少年はこくりと頷いた。林檎をじっと見ている。食べたいのかなと思って差し出したが断られたので自分で齧った。しゃく、と小気味良い歯触りと、ぱっと散る甘ずっぱい香気。

 登校中、開店準備に追われる八百屋の前を通ったとき、もう花の季節だというのに店先に積まれていた林檎の実に惹かれた。曾祖母が好きなのだ。スムージーにしたり、ゼリーを作ったり、林檎というのは錬金術の材料のようなもので、いくらでも姿を変える。タルトやパイ、はちみつレモン煮…と指折り数えながら、その艶やかな果皮のきらめきにふと綺麗な夢の宝石を見ているような気持ちになって、つい大量に買い込んでしまった。前かごから溢れたら洪水になってしまうかもしれない。

 科学部にはきっと冷蔵庫があるだろうと踏んで幼馴染みの藤原李一に買いすぎた林檎の保存を頼むと、「こうちゃん馬鹿という生き物を知ってますか、後先を考えないという特徴があるんですけど」と爽やかに毒を吐かれたが、了承してもらえた。なお、雑草研究会の部室にも小さな冷蔵庫はあるのだが、鬱蒼と茂る雑草をかき分けないと辿りつけない宝箱的存在であるうえに、開けたら大体の場合標本とか諸々の葉っぱがどっとあふれだしてくるので食品を入れる用途では使えない。

 少し言葉を交わしたが、翠川緑は西彩葉駅へ向かうらしい。まだあどけなさの残る面立ちで、緑は無邪気そうに尋ねてきた。

「先輩も西彩葉ですか」

「ん。普段は。でも今日は用事ある」

「あ、そうなんすか」と頷いた緑は、「なんの用事です?」と訊いてきた。紅一は少し返答に窮した。実際にこれという用事があるわけではない。しかし、まっすぐに家に帰る前に、何かやることがありそうな気がするのだ。こういうときの直感に、紅一は素直に従うことにしている。

「……さあ。まだ決めてない」

 だから素直にそう答えたのだが、なぜか緑はんんっと変な声を洩らした。

 林檎を食べ終わる。芯をしまって、学校には慣れたかとか、部活はとか、社交辞令的な質問をいくつか繰りだす。緑はあまり口が上手いほうでなく、訥々と答える様子に親近感を覚えた。無口なミントの香りがする、鹿。

 それにしても。

 ちらっと脇に視線をやる。途端に、緑がびくっと肩を竦めた。

 なんだか妙に怯えられている気がする。鹿は繊細な生き物だから仕方ないのかもしれない。右足首に真新しい包帯を巻いているのが目につく。もしかして密猟者に狙われたりしたんだろうか。それは怯えるだろうな、なんて考える。大丈夫だよ、怖くない人間もいるよ…と言ってあげたくなる。なお、自分自身がもっとも翠川緑を怯えさせているということに蘇芳紅一は気づいていない。「なんで先輩は雑草研究会に入ろうと思ったんですか?」

 間を持たせようと気を使ったのであろう翠川緑が、健気に質問を投げかけてくる。しかしキャッチボールが苦手な紅一が「花と喋りたかったから」とこれまた素直に答えると、瞬間的に緑の腕に力がこもって顔が引き攣った。気づかず紅一は「あと、部長が格好よくて」と付け加える。いかにも頼れる先輩、という風情にめっぽう弱い紅一は夢みる乙女みたいな雰囲気を醸し出しながら呟いた。緑がいっそう引いた気配がした。それにも気づかない紅一は、小動物じみた動作をするこの一年生をじっと観察した。

 自分より低い位置の、風に吹かれた草原じみた黒髪。森の生きもののような一対の大きな目。瑞々しい林檎みたいな、少年の肌。真新しい制服の灰色が、スモーキークォーツみたいに今はとても輝いて見える。自分の人生を一本のリボンにしたとき、彼の人生は、確実にそのなかにおさまる長さという事実。

 後輩、である。考えるだけでちょっと変な笑顔になりそうだ。

 何を隠そう、蘇芳紅一は後輩というものに異常なほどの憧れを抱いていた。

 後輩という存在は中学時代もいたはいたが、なんだか練習ばかりで存外その人となりを理解する時間がなかった上に、紅一自身の人見知りの気質が手伝って、彼らとは結局そこまで深い付き合いはないまま、体のことを理由に辞めざるを得なくなってしまった。

 紅一は生来の年下気質である。生まれた家では両親と祖父母、曾祖母が彼をめいっぱいに可愛がって甘やかしまくり、幼馴染みたる一歳年下の藤原ツインズとも精神的には対等であるか、下手をしたら彼らの方が紅一の面倒を見ることもあった。多少きつめの見目と無愛想さで覆い隠しているが、少し付き合ってみればその筋金どころか鉄筋コンクリートの土台付きわたあめみたいな矛盾に満ちたひとりっ子根性は瞭然である。叩き直そうにも、ふわっふわした打たれ弱いにも程があるメンタルとオリハルコン製かという硬度を誇る末っ子魂のコンボはハートマン軍曹も匙を投げるレベルだ。つまり彼は実質後輩という存在に出会ったことがないといっても過言ではないのである。

 よって、蘇芳紅一が後輩という存在に抱く期待というか幻想は他者の比ではない。幼児が弟や妹という未知の存在に憧れて親に頻りにねだるのと同じである。さらに付け加えるなら童貞が女に過剰な妄想を抱くのと何ら変わりない勢いである。要するに、新しいお人形をもらった少女や、仔犬を飼ってもらった少年と大分に似通った――つまりは多分に危うい感じの大いなるドリームが、今現在翠川緑十五歳に一心に向けられているわけだ。夢見がちというのはときに大いなる脅威となる。凶暴な幻想を一方的に向けられるほうはたまったものではない。感受性という名の暴力に晒された経験が少ないであろう翠川緑にとってはまず間違いなく受難の旅であろう帰途だった。

 さてそんなこととはつゆ知らず、紅一は周囲の景色に目を配っていた。雑草研究会の一員たるもの、いくら念願の後輩(候補)が隣にいるからといって本分を忘れてはならない。植物性の楽章のように、与謝野晶子も礼賛した季節は花と葉っぱと茎と根っこの音符に化けて、二人の周りをいろどっている。冴え冴えとしたピンクのねじ花を本日の収穫としようと、紅一が鞄を開けると、緑がなぜだか乾いた笑い声を洩らした。何か面白いものでもあったのだろうかと不思議に思うが、彼は虚ろな目をしたままである。

 採集した雑草は、普段は自転車の前かごにビニール袋にいれて持って帰るのだが、今日はそこに林檎というお客さんがいる。鞄のなかに花があることは、とても無意識的な美しさとわずかな悲しさがある。茎からはなたれる青い匂いや、土くれの小さいながらも芳醇な息吹き。花の絨毯を少しだけこそげとったみたいな気持ちになる。かがみこんでねじ花をひとついただけば、緑が背後で驚いている気配がする。君も雑草研究会に入れば自然とこうなるのだ…と紅一は内心呼びかけた。

 詳しいんですかときかれ、そうでもないということを話している最中に、通りがかった路地からはみ出す草木に目を奪われた。

 アップル・ミント。

 これならわかる、とそれに手を伸ばす。

 緑色の心臓のような葉は、誰しも目にしたことがあるはずだ。ペルセポネーに草に変えられた美しきニンフ。夏の使者のような匂いは、みどりという色をみえない粒子にしたようだ。一枚葉っぱをちぎって、緑の目の前に差し出す。濡れた虹彩にそれが映って、彼の瞳がグリーンに染まった。紅一はその色合いにひっそりと見とれる。

 かつて自宅を襲ったミントの脅威について語っていると、不意に緑が口を開いた。

「僕、ミントけっこう好きなんですよ」

 あ、ほどけた。と思う。花のつぼみのように。緊張がほころんで、薄翠の蕊がほのかにのぞいた感じだと紅一は思った。俺も、と答える声は弾んだ。

 ミントの味は世界を塗りかえる力をもっている。魔法の香料のようなふしぎな清涼感。

 かつての思い出が舌先にぱちりとよみがえる。魔法使いめいた少年の姿。

 勇気を出して、どうして、と尋ねてみた。彼の口から、もしかしたらあのアイスクリームの記憶が飛び出すんじゃないかと期待しながら。

 しかし、さあ、どうだったかな…と緑は考え込んでしまった。覚えてないのか、という気持ちと、彼は違うのかも、という不安が泡のように心に浮かんでくる。からから、と、不意に自転車のホイールの回転音が大きく響き始めた。運命の歯車みたいに。

 かつて彼の人生と自分のそれは交差したのか否か。

 あの瞳は彼のものだと思うのだけれど。

 灰色のアスファルトの上をどれほど歩いたのだろう。気づくと丁字路が道の向こうに見えた。あ、世界が別れる、と感じる。紅一はちらっと緑を見る。彼は駅にいくと言っていた。ここでお別れだ。少し悲しくなって、足を遅くしたくなった。

 でも、歩みを止めないかぎり時計みたいにからからホイールは回り続けて、そのときがやって来る。白い止マレが目前に迫る頃、緑は軽やかな声で別れを告げた。

 紅一は視界を横切る光の粒子の向こう、眩しい少年の姿を見つめる。胸が苦しくなるほど、留めておきたいと叶わない願いを抱く景色。

 でも、もし彼がやはりそうなのだとしたら。

 入部してくれれば訊く機会もあるだろうかと考えながら、世界の分かれ道をすすむ。からから、ホイールが回る。高揚していた気持ちの名残か、胸がひりっと震えて、奥が冷える。

 次の瞬間、どくん、と耳元でみえない心臓が膨らんだ。直後、視界が暗転する。

 林檎が、ぼとりと落ちた。




 めまいの正式名称は眼前暗黒感だ、と以前山吹鶸に教えたら、うおーすげーやべーロック! と非常に興奮され、しばらく二人の流行語大賞が眼前暗黒感だったことがある。

 しかし、実際に視界が奪われるとき、その刹那でぎゅうっと集束する暗黒のなかには白や赤や緑の靄が一瞬だけ漂う気がするのだ。それらすべてを打ち消すような左胸の異変、そして、断続的に失われる四肢の感覚と、体ごと倒れ込むぼんやりした衝撃。肩をアスファルトに打って、さらに膝を倒れた自転車で強打したのを大脳の辺縁で感じながら、肋骨の奥で爆ぜる苦痛と頭蓋の中心部で瞬くブラックホールのような暴力的な無の感覚にすっと意識が遠ざかりそうになる。心臓が膨張し続けている、と感じる。収縮が足りない、奥まで戻らない、と感覚に頼りきった感想が浮かぶ。がくがく体が震えるのは抑えられるものでなく、眼球をくるむ血管が暴れて暴発しそうだった。

 呼び声が遠くできこえる。返事をしなくちゃ、と思う。

 けれど、心臓に意識を吸われていく感じ。

「―――先輩!」

 赤と緑の球体が坂を転がり落ちていって、その向こうから翠川緑が走ってきた。右足の白い包帯に目を射られる。野生動物のように素早くて、今あんなふうに走れたら、なんて地面に倒れた状態で思ってしまう。緑の白い頬を汗が一筋伝い、彼がスマホを取り出して119番に連絡しようとするのがスローモーションで見えて、咄嗟に足首を掴んで首を振った。お化け屋敷でトラップに引っかかったような顔をした緑は、やがて渋々といったようにスマホをポケットに戻した。安堵のため息をつきたかったが、暴れまわる林檎のような胸の臓器が落ち着いた呼吸すらも許してくれず、短く息を吐く。

 紅一の発作は、大抵不整脈で始まる。意識を失うほどのファースト・アタックが去れば、あとはただ延々と続く頻脈との耐久戦だ。最初の波が引いたことに気づいて、身を起こそうとする前に、緑がてきぱきと薬と水筒を手渡してきた。続いて手首を取られるが、体に少しでも触ればわかるほどの異常な心拍数に、彼はあどけなかった表情をますます硬くさせる。やっぱり救急車、という言葉に首を振ると、彼は困ったように眉根を寄せた。大丈夫だとアピールしようと立ち上がったらそのままひっくり返りそうになる。結局、緑に支えられ、体を引っぱられて空地へ連れ込まれた。ブロックに腰かけさせてもらったが、だるくて横たわってしまえば、髪にクローバーが絡みつく。これが本当の草枕、と呟けば元気じゃねえか、とキレのいい突っ込みが返ってきた。血流が足りなくてぼうっとする視界で、学ランを脱いで枕にしてくれたり、緑が看護師のように行動するのを見ては、ああ面倒ごとをさせている、と申し訳なさが込み上げてくる。

 ほんとに救急車呼ばなくて大丈夫ですか、と訊かれ、さすがに考えこむ。二百を超える発作は今までになかった。上半身の筋肉が痙攣するほどだ。飲み薬で治まらなかったらどうしようという不安がよぎる。救急車を呼ばれたら家族に連絡がいってしまう。それだけは避けたかった。しかしこのまま死んでも困る。折衷案として「あと二時間待っても治まらなかったら…」と言うと、緑の顔に「いや長えよ」と浮かんだ気がしたので、帰っていいぞと付け加えておく。が、自分がいま枕にしているのが草ではなくて彼の学ランであることに気がついて、紅一は顔を覆いたくなった。なんかもうまことに申し訳ない、と世界の中心で叫びたい。

「あの…僕、自転車拾ってきますから」

 緑はそう言って、道路の方へ小走りに向かっていった。その中学生らしさが抜けきらない背中を見送りながらこのお礼は必ず…と内心で呟く。銀色の自転車を引きずって戻ってきた緑は、林檎を拾いに戻ろうとしたが、もうなんだか申し訳なさすぎて止めた。少し逡巡した彼は、戻ってきて、二三言葉を交わしつつ隣に座り込んだ。蹄みたいにかろやかな靴音が草地から直接伝わってくる。丸い瞳がこちらを窺っているのがわかった。AEDはどこかという不穏な問いかけにちょっと背筋が冷えたが、まだやる気はないらしくてほっとした。

 鹿からは、自分は何に見えるのだろうか。死にかけの…よくわからない獣? それとも人間? 紅一はぼんやり考えていた。

 面倒見のいい子なんだなあと思った。人と対するのに臆病かもしれないけど、優しくて人をほうっておけない。神さまはたまにこういう生きものをつくる。たましいが善良なる生きもの。

 もう一度スマホを取り出した緑に、他に病気について知ってる人はいますか、と訊かれて、さっと青山藍のことが脳裏をよぎった。雨の日、マンションの一室、紅い爪痕、暴かれた胸の記憶。

 ……藍先輩、が、と答えるのにわずかなタイムラグが生まれた。緑は途方に暮れたような表情を浮かべる。紅一はそれを見ながら、内心で嘆息した。

 紅一の病気について、生徒で知っているのは偶発的な事件で気がついた青山藍だけだった。顧問の村崎に頼み込んで、部長の那倉白臣にも伝えなかった。昔のように、走ることを制限されたくなかったから。

 しかし、緑は完全に紅一の異変が心臓だと気づいているだろう。頻脈、ワソラン。まあ、仕方ないかとため息をついた。こういうことがあるかもしれないことはわかっていた。瞼や頸動脈を指で押さえて、せめてもの鎮静をはかってはいるが、気休めに近い。緑が居心地が悪そうに身じろぐ。

「こういうことあるんですか」

「いや…ここまで大きな発作、初めて…」

 返事をしてから、疑問符が浮かんだ。初めて? …本当に?

 過去を探ろうとしたとたん、ばちっと脳の奥で水玉模様が弾けて意識を奪う。やっぱり世界はまばゆくて、締めつける胸の痛みにぱちぱちと視界が光る。まぼろしの血の色の花が体を揺らすほどの拍動に合わせて脳裏で踊った。は、と抑えようにも息が荒くなってしまう。

「そんな体で走り込みとかしていいんですか」

 どうやって返事をしたらいいのかわからず、目を閉じてしまった。

 運動制限はないのだ。運動が原因で発作が起きるわけでもなく、何もしなくても起きる。どうしようもない。

 それに、走っていると――死んでもいい、と思える瞬間があるのだ。今心臓が止まってもいい、後悔しない、と確信できるほどの。

 狭間に生きるとき、死と躍動とが強い匂いをはなち、それらは絶頂のように誘惑する。夏の嵐、青い稲妻のように。

 ふと泣きたくなった。浅い呼吸を繰り返しながら、呪文にも似た、かつてある人に投げかけられた言葉を呟く。

 おあいこ、なのだ。

 その意味がわかるまで、この秘密は知られたくなかった。青い闇。淵に沈むようなあの響き。大いなるなにかを宿した青の瞳が、じんわりと、黒っぽい翡翠のような、少年の瞳に塗りかえられていく。ままならないなあ、と心で呟けば、記憶と現実の視野が交錯して、風景が白く明滅した。

 発作を起こしているとき、不意に世界が鮮明に輝きだすことがある。世界が森に見えるのと同じように。水晶の珠のなか、横たわる目の前の草が宝石のように見えた。

 死に限りなく近づいているからかもしれない。もっと即物的に、苦しみで涙が滲むからかもしれない。世界はプリズムが砕けちったようにまばゆく白くなり、全身が壊れるほど心臓が鼓動する。強い死の意識が、感覚をこの上なく鋭敏にさせる。強い植物の香り。全身を浸す大地の熱。

 苦痛と快楽というのはきっと薄衣一重で、まだ知らない性の悦楽も、一度きりの永遠の底も、その瞬間となりに立っているのがわかる。自分の両側に、うつくしい靴が二足ならんでいる。光の足と闇の足。紅一はちらりと闇の足の幻影へ目を向ける。透明なつま先は緑の世界を美しく透かしている。これが死か! それをとおして見た草地はまるでみどりいろの棺衣のようだった。

 手、握ってていいですか、という声が、光の足の方向からした。紅一が死から目を離すと、そこには翠川緑がいて、彼はそっと紅一の手をとった。真っすぐに引き結ばれた彼の唇の色が白い。ああ、だめだ、死んでは、とふと感じて、息を吸うことに集中した。立原道造がゼリーにしたがった風を深く満たせば、狂った時計がかすかに噛みあい直したような気がした。

 花の木の下に座って 心臓のアレグロに耳をすまし 私が新しい私と待ちあわせする月 ――谷川俊太郎「五月のうた」

 詩がぽとぽと花びらみたいにこころを叩いて、火照る体を慰めてくれる気がする。その言葉とおなじくらい、翠川緑の手が、末端の血管から見知らぬ薬を注入しているかのように、胸を落ち着かせる。紅一を見下ろすやわらかな頬の輪郭のまるさが、このうえもなく愛おしかった。

 いのちの季節と、この少年はとてもよく似合う。

 きみの手はおちつく、と告げれば、きょとんと緑は瞬きをした。わずかに水の張られたつやつやとした目。黒葡萄のような色がかちりと記憶装置の巻き戻しのボタンを押した。



 蘇芳紅一が初めて翠川緑を現在と同一の存在として意識したのは、中学生の頃である。

 中学三年の初夏。日曜日に奉仕作業という名目で集められた晴れた日だった。奉仕作業だとかボランティアだとか言いつつ、早い話が強制大掃除だ。

 紅一が担当を割り振られた校門脇には高校と同じように花水木が咲いていて、その下に幾つかのビニール袋が用意されていた。拾った小枝や煙草の吸い殻、プルトップやガラスの破片などを分別してそのなかにいれていく作業が終わりがけの際に、ふと紅一は、ひとつの袋の内側に動くものを見つけた。指先よりも小さな紅い点。既に結ばれた口に向かってのぼろうとする、てんとうむしだった。はっと息をのんだ。

 てんとうむしが袋の内側をのぼっているのはとても残酷な光景で、紅一は目を逸らしたくなった。自分の魂が閉じこめられているようだった。口をほどいて逃がしてあげたくて、その袋を持っている下級生に視線を移した。そのとき、その少年もビニール袋の内側に気がついて、それを地面におろした。

 どんな惨いことでも森のなかならばたいしたことではない、というように、自然な仕草で、彼はビニールの袋をほどいて、赤い日向の匂いのする虫が天に飛んでいくのを見ていた。

 その横顔。

 思わず目を奪われていると、彼がこちらを見た。わずかな時間、視線が交わる。その目の色が忘れられなかった。

  不意に、ミントの香りが弾けた気がした。

 ……自分はあのとき、この翠川緑という少年を世界のなかから見つけだしたのだ、と紅一は考える。名前までは確認できなかったが、その後も校内で何度かすれ違った。そのたびに、横顔にまたたくあの日の影を探していた。

 彼が、ずっと探していたあの鹿なのかもしれないと気づいたのは、いつ頃だろう。……

 彼の目をみたとき、あ、鹿っぽいな、とごく自然に思った。人生のそこかしこに覗いている、ひそやかで甘い瞳。林檎のように艶やかで、ミントのように爽やかな色。

 そのときのことをためしに話してみると、緑はきょとんとした目をしていた。覚えていないのだろうか。鹿なら、そうなのかもしれない。森のなかなら、当たり前のことだろうから。と、紅一は納得する。

「俺、鹿が好きなんだ。

目が優しくて、静かで、森の奥にいて…」

 鹿という単語に仮託して、そっと彼の印象を伝えると、わずかに頬を染めた緑はむずむずしたように目を逸らした。かわいいなあ、と思う。

「それまでにも、きっと、会ったことがある」

 確信が持てなかったけど、と伝えると、緑は不思議そうに瞬きをした。紅一は深く息を吐きながら、だいぶ胸が落ち着いてきたのを感じる。今、話してみようかなと思った。

 ……鹿との出会いは、本当はもっと子供時代に遡る。

「翠川くんが……ミントが好きって言って、気づいた。小学生くらいの頃、だけど」

 驚いたのか、紅一の目を覗き込んだみどりの瞳の奥に、紅がぱちんと弾けた。互いの色が混ざりあうようだ。まぼろしのアップル・ミントがふわっと香った。

「…………あっ!?」

 素っ頓狂な声で緑が叫ぶ。

「もしかして、アイスクリーム……?」

 紅一は首肯した。彼が思い出したことが素直に嬉しかった。

 小学生の頃、祖母が、遊びに来ていた藤原ツインズと紅一を連れて、サーティワンに連れて行ってくれたことがある。

 いつも素直にバニラを選んでいたけど、その日はなんとなく、きらきら輝いているポッピングシャワーが気になった。でもなかなか祖母に言い出せず、黙ってもじもじしていると、隣にいた李一が「こうちゃん、バニラですよね」とにへらっと笑った。いつも頼んでいるフレーバーを覚えていてくれたらしい。好意を無下にするのも気がひけて、紅一は口を噤むことが選択した。その瞬間。

――これでしょ?

 魔法使いみたいに、白い指がポッピングシャワーを指差した。

 淡いグリーンのシャツを着て、緑がかった大きな黒目をした子供。指先からすがすがしいミントの香りがした。

 紅一が魔法にかかったように言葉も出ず、ただ頷いているうちに、ひらりとイラクサの茂みから飛び出した子鹿のように彼はまたたく間に人の森の奥へ戻ってしまった。祖母があらそうなの、とポッピングシャワーを注文している最中、ずっとどきどきしていた。彼は魔法つかいなのだろうか? どうして自分のほしいものがわかったのだろう?

 受け取ったポッピングシャワーはガラスの靴よりずっと魅力的で、ぱちぱちと弾ける花火とぎゅっと詰め込んだようだった。自分の後ろにいたあの少年は、母らしき人が注文している間、黙って立っていた。何度も話しかけようとしてできなくて、その横顔をじっと見つめつづけていた。

 彼が退店しようとする段階になって、このままじゃだめだとなんとか紅一は一歩踏み出した。震える声をかけたとき、彼は大きな、朝露に濡れたような目できょとんとこちらを見ていた。

 心を決めて、おまけでのせてもらったチョコミントをスプーンにのせて差し出した。ポッピングシャワーのぱちぱちより、不意に香りたつこの涼やかな魔法じみたフレーバーこそ、彼に似合うと思ったから。

 彼はほんの少し迷って、やがて、はむっとチョコミントを食んだ。ふわっとみどりの香りの粒が立ちのぼり、にわかにあたりが森のように感じられる。そのなかで、少年は、おいしい、と呟いた。その言葉の響き、表情、そしてその瞳――みどりが輝く瞳が、今日まで忘れられずにいる。

 だから、翠川緑が、ミントを好きだと言ってくれて本当に嬉しかったのだ。

 同じ出来事を思い返しているのだろう、揺れる緑の瞳の色が、だんだん変わっていく。瑞々しい過去が浸潤する。彼ははあ、と感嘆したようにため息をついた。

「僕たち、何べんも会ってたんですね」

 信じられないほど、と呟いた緑に、この子と出逢えてよかったな、と感じた。彼が驚いたり、嬉しそうにしたり、表情を変えるたびに、涼やかな香気がぱちっと散るように思える。いかにも爽やかなスポーツ少年だとか、そういう雰囲気があるわけでもないのにどこか漂うそれは、きっと魂に起因するのだろう。

 ああやはり彼だったのだ、と思った。

 今までの人生で、幾度もすれ違ってきた、世界の森の奥に佇む鹿。みどりがかった黒い瞳で、こちらを見つめるすがた。

 いくつもの瞬間、あおあおとした世界できみだけが鮮やかだった。

 少しあたりを見渡せば、ちいさくて色とりどりのぼたんをまき散らしたような花がさいていて、きっと世界は何億年もの美しい記憶を雨滴のように垂らしてこうして毎年の春をつくるのだと信じている。

 いとしい。

 世界が愛しい。

 どれほど胸が苦しくても、そう思えるほどに、みどりという色はミントの香りの幸福をもたらす。

 この感覚を彼と共有できるだろうか。していけたらいいな、と思う。みどり溢れるあの空間で。彼はきっと、草木に囲まれるのが似合うだろう。なんといっても、彼の魂は鹿なのだから。




 悲しめるもののために みどりかがやく くるしみ生きむとするもののために ああ みどりは輝く。 ――室生犀星「五月」

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