ディア・ミント・グリーン Side:R

 校門脇の花水木が薄ピンクの花をつけていた。

 自転車を押して歩くと、自転車から遠い方の体の側面が真っ先に疲労するのは僕だけなんだろうか。体を微妙に傾けて腕に力を込めてるからだと思うのだけど、どうにも脇腹に重たい違和感が生じ始める。

 教科書やらノートやらでぱんぱんのリュックが前かごで揺れる。文具とは案外重いもので、気を付けないとすぐに重心バランスの偏った自転車ごとつんのめりそうになる。乗ればいいだろと思うかもしれないが、登校途中に駅近くの段差で捻った足首が今になって痛みはじめていて、学校前の坂道を立ち漕ぎできる気は微塵もなかった。

 五月と六月の隙間に落っこちたような午後、日差しはもう初夏のそれだが、衣替えの許可はまだ出ていない。灰色の学生服が太陽を吸って発熱する。

 角を曲がると、あるひとりの人物が目に入った。灰色の学生服。同じ高校だ。

 彼はじっと天に向かって咲く花水木を見つめていた。まず目線より下に花水木の花がくるという背の高さに嫉妬心が芽生えるのは避けられないが、明らかに覚えのある横顔に僕はうっと足を止めたくなる。しかしここを通らないと帰れない。でも、ここでいきなりチャリに乗って素通りというのも感じが悪い。というかもはや喧嘩を売っている。

 蘇芳すおう紅一こういちという全体的に赤っぽい名前(僕が言えた話ではないが)はさすがに覚えていた。

 現在僕が仮入部を半ば強要されつつある部活――雑草研究会というなんでこんなのが正式に認可されてるんだと学校の部活動管理体制に愕然とするような珍妙な部活動に、最初に勧誘してきたのが何を隠そうこの人だった。

 現実逃避ついでに話は四月初めまで遡る。

 入学式翌日の、新入生オリエンテーションで、僕はぽつんとひとり、新入生と在学生でごった返す体育館の隅に立っていた。オリエンテーションの前に、ホームルームで、僕たち新一年生はその身分を示す名札飾りを渡されていた。女子の胸にはピンクの桜、男子の胸には緑色のクローバー。小学生じゃないんだから、と思いながらそれをいじくっていると、ピンの引っかかりが甘くて、僕の胸のクローバーがひらりと落ちた。あ、と思う間もなく、森のような生徒たちの脚の隙間に滑りこんでしまう。

 すると、不意にその隙間から、すっとつめたい夏の霧みたいに腕が伸びて、それを拾い上げた。

 そのままその人は、生徒をかき分けることもなく、流れるように僕にそのクローバーを差し出した。

 白い肌をして、代わりに髪が真っ黒で、泣きぼくろのある切れ上がった眦にほんのすこし朱が差されたよう、印象的な顔立ちをしていた。色彩の極端に少ない人だと思った。周囲の音がふわっと、靄にとけるように薄れた。

 差し出されたクローバーに触れた指先が、本物の葉をつまんだ気がした。ふっと彼の白っぽい指先が離れていく。はっと気づいて、背を向けた彼に投げかけたありがとうございます、という声が人の森の中に吸い込まれてしまった。背丈が高くて、目立つはずなのに、後姿はもうまぎれて消えてしまっていた。

 なんでもないことが妙に記憶に残るっていうことは、たまにある。このときもそうだった。でもそういうものっていうのは、大抵一回こっきりの出来事に多くて、写真のなかの一瞬みたいに刹那的だ。森の奥に垣間見た夏の霧みたいに。二度とおなじようなことは起きるはずないと思っていた。

 だから、まさか一週間後に、もう一度あの手を見ることになるとは。

 一週間もすると、新入生同士だろうがそれなりにグループは固定されて、昼休みの光景が安定してくる。林立する机に、小島みたいなグループがちらほら。ときどき、小舟みたいに揺れているひとりずつの生徒。僕もそのひとりだった。完全なるぼっちではないけど、今のところ黒才くろさいれんとくらいしか話さない。

 ふっとクラスの空気が変わって、僕は顔をあげた。喋り声が途切れるというほどではなくて、ただ少し音が吸われるような感じ。何人かが教室の入口の方を見ていて、その視線を追うと、クラスメイトじゃない人が教室に入ってきていた。上級生だ。やたらと背がでっかくて、泣きぼくろがあって、見覚えがあった気がする。あ、オリエンテーションでクローバー拾ってくれた人だ…と思った途端、彼はつかつかつかと大股でこっちに向かってきた。心の準備も何もなく、彼の大きな右手が僕の机の上にぽんっと置かれた。

翠川みどりかわみどりくん?」

 ファッという声が洩れてしまった。「僕ですか!?」

「あ、もしかして違う人?」

 いや僕です。違ったらいいなって思うけど。あとみどりじゃないし。ってかなんだこれ。なんだこの状況。襲来か。世界からコミュ障への嫌がらせか。

 俺は蘇芳紅一、と短く名のると、彼はすぐさま攻撃を開始した。淡々と、しかし次々と質問を繰りだしてくる。

「部活は決まってる?」

「い、いえ……まだ……」

「草花に興味ない?」

「えっと…ないですね」

「これから興味もつ予定は?」

「えっ…わかんないですね」

 怒涛の勢いで質問されて僕の大脳のほとんどは確実に麻痺していた。残りの部分が僕の自我を置いてけぼりで先輩と話をしていた。

「もしよければ仮入部だけでも」

 畳み掛けまくる質問の最後にそう言われたとき、完全なる機械化がなされていた僕は思わず頷いてしまい、直後にしまった! と意識を取り戻したが遅かった。蘇芳先輩は少し嬉しそうに、ポケットからメモ帳を取り出してさらさらと何かを書き付け始めた。

「放課後に活動してるから、気が向いたら来てくれると嬉しい。明日とか」

 部室の地図とおぼしき前衛絵画のメモを渡される。この人信じがたいほど絵が下手だな。いやそういうことじゃなくて。

 しかし訂正の機会もなく、蘇芳先輩は僕の机を離れようとする。最後の最後に僕の自我がこれだけは言っておけというように口を開いていた。

「あの……僕、みどりじゃなくてりょくです」

「………」

 目と目が合う瞬間、なんて脳内でBGMが流れた数秒間。

 くるっ、と背を向けて、蘇芳先輩はそのまま教室を出ていった。

 な、なかったことにされた……!?

 なんだかもうわけがわからなくて、僕は自分の椅子に座ったまま固まっていた。で、でもまあ、ひとまず難は去ったことだし……と強張りまくっている手足をなんとか叱咤して動かそうとする。

「今の蘇芳先輩でしょ」

 ふうっと息をついた瞬間、通路を挟んだ斜め前の席のショートカットの女子から話しかけられた。正直めちゃくちゃびっくりしたが、彼女は同じ中学出身だったから少しましだった。「え、あ、確かそう」

「何の用だったの?」

 部活の勧誘、と返せば、彼女はえーっと口元に手を当てた。「翠川くん陸上やるの?」

「え?」

「だってあの人陸上でしょ。中学でそうだったもん」

 待て、なんか温度差がある気がする。さも当然のようにでしょ、とか言われてるけどこれはもしかして。

「同じ中学じゃん」

 まじか。

 いや、でも、言われてみればなんか覚えがある…かもしれない。背が高くて、わりと印象的な顔立ち。でも、違う学年の人なんてそんなに覚えないからわからない。

「翠川くん、陸上やんの?」

 もう一度聞かれたので、慌てて否定しようと首を振ったら、不意に彼女の近くにいた、青いシュシュをした女子生徒が口を開いた。

「違うよあの人。陸上やめたんだって。今、ほら、あの雑草研究会」

「は!?」

 急に周りの女子が色めき立った。「雑草研究会ってあれ? 部長が死ぬほどイケメンな」「那倉なぐら先輩でしょ!? まじアラビアの王子みたいだよね」「てか青山先輩も雑草研究会なんでしょ?」「青山先輩ってあの?」「花も恥じらう青山先輩?」「えっ嘘まじで」「まじまじ那倉先輩とおさななじみなんだって」「超やばい」「なにその楽園」会話に参加してなかった女子までもが急に喋りだした。完全に囲まれた僕は、僕そっちのけで繰り広げられるガールズトークにあわわわわと飲み込まれる。ベストを着た子、背の高い子、名前をまだ覚えてないような女子たちが僕の上でわちゃわちゃ先輩たちについてあーだこーだと話している。「那倉先輩と青山先輩ってなんか付き合いたいって気にはならないよね」「わかる、なんかあの美しい二人を見ていたい」「ばら売りしないで! って感じ」「二人の周囲の空気になりたい」「雑草研究会の部室の壁になりたい」「むしろ雑草になりたい」

 なんか雲行きが怪しくないか。

 なになに何の話? と文庫本を持った子と緑のヘアピンをした子も入ってきていよいよ収拾がつかなくなってきた。僕は魔女のスープの大鍋のように、女子の輪の中心でただ震えている。飛び交うハイトーンの声はピンクや紫の銃弾みたいだ。迂闊に動くと撃ち殺される。

 女子って、魔女だ。

「ファンクラブとかないの?」「いやーないでしょ」「なんか宗教はありそうだけど」「那倉教?」「青山教?」「雑草教?」「入信したい」「わかる」「あたしもっと軽やかにイケメンを見守りたい。追っかけくらいで」「それもわかる」「雑草研究会を研究する会つくりたい」「わかる」「あたし二年の先輩も好き」「あれだよね、山吹先輩とか」「山吹先輩いいよね」「うんうんかわいい」「あたし同中だったけどわりと人気だったよ」「わかるわー」「見てるときゅんきゅんする」「え、知らないどの人?」「ほら、かおるちゃんと同じ中学の」「あーなるほど」

 なんなんだよ雑草研究会。なんでこんなに把握されてんだよ。

「蘇芳先輩もなにげに追っかけいたんだよね」

「えーそうなの。何中?」

「東。短距離やってて、めっちゃ速かった」

「まじ? ノーマークだったわ」

「そんな派手な人じゃないからね。うちでもきゃあきゃあ言われてたわけじゃないけど、ひっそり熱狂的な娘がわりといてさあ。あんまり喋んないし、飾り気もないんだけど。あと、読書好き? みたいで。文学少年的な? すごかったよ、あの人の借りた本をファンの娘が借りるから、図書館から次々本が消えるの。貸し出し中って」

「うわ、ガチっぽい」

「でもスポーツ系で文学少年ってポイント高くない?」

「えーそうかなあ、あたしスポーツならスポーツ、文学なら文学に振りきってほしいかも」

「それはちょいわかる」

「でもギャップ萌えって大事じゃん?」

「てかあの人山吹先輩とデキてるってまじ?」

「ちょっとそれ詳しく」

「なんかイヤホンシェアしたりしてるらしいんだけど」

「デキてるじゃんそれ」

 話それまくりだしとりあえず僕を解放してくれ。そして今頃くしゃみのバーゲンセールであろう雑草研究会の皆々様に脳内で陳謝する。

 ビビッドカラーの綿菓子みたいなガールズトークがめしめし僕を圧迫していって窒息する寸前、「あ、ごめん囲んじゃって」と最初に話しかけてきた子がやっと気づいて、女の子たちはどやどや彼女の席の周りに移動した。ふーっと長く息を吐く。

 な、なんなんだ雑草研究会って……。なんでこんな話題性のある人が集まってるんだ……。そもそも何をする部活なんだ? 雑草を研究するのか? 草木とか植物とかじゃなくて? 園芸部とは何が違うんだ? 生物学的観点から云々とかいうやつか? 元陸上部の人が入る理由ってなんだ? なんて埒もないことがスープのあぶくみたいに浮かんでは消え……ない。不思議すぎる。高校ってこんなところなのか?

 そして翌日。

 どうしようかなあバックレようかなあでもなんか高校の先輩の誘いとか無視したらシメられたりすんのかなあおい翠川放課後校舎裏に来いよとか言われたりすんのかなあ、なんてぐるぐる回る思考の渦にぶくぶく沈み込みながら、結局僕の脚はぎくしゃくと地図に描かれた道筋をたどっていた。リュックの紐が肩にずっしり食い込む。

 なぐら先輩とかあおやま先輩とかやまぶき先輩とか、クラスの女子がきゃあきゃあ騒いでいた先輩たちって一体どんなだろう。できたら怖くないといいな。なんて弱気なことを考えながら、僕はあぎとを開けて待ち受けているかもしれない混沌のなかに足を踏み入れていった。

 結論から言えば、未知との遭遇という言葉でこの出来事は締めくくられる。

 部室の前で偶然蘇芳先輩とかち合ったところまではまだよかった。来てくれたのか、と笑う先輩に引き攣った笑顔を返したまでは。

 部室に入ったとたん、天井から垂れるのうぜんかずらに頬を叩かれ床から生える鬼百合に足をとられ、そして褐色の肌も美しき上裸のスーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスイケメンに出迎えられた僕の気持ちがお分かりだろうか。うっかりバビロンの空中庭園にタイムスリップしたのかと思った。「ようこそ雑草研究会へ!」と追いオリーブでもしそうな笑顔で握手を求められ、ふわふわ得体の知れない白い花に囲まれながら僕はロボットみたいな動きで握手をした。「俺は那倉白臣」なんて真っ白な歯を輝かせながら名のる声もろくすっぽ耳に入らない。彼の背後、咲き乱れる春の花の間に座っていた人物が、がっちがちに凍りついている僕のほうをひらっと振り返った。それは芸術科の人みたいで、エプロン姿で奇麗なカップをもってお茶を飲んでいた。エプロンがスプラトゥーンばりにサイケなことになっているのは、絵筆をそれで拭いたりするからだろう。

「あ、翠川くんって、君のこと?」

 熟れたさくらんぼみたいな唇で、甘ったるい発音で囁かれる。思わず見とれるような動き。すげー、外人だ…なんていかにも庶民的な感想を抱いてしまった。南国のフルーツみたいにとろんといい匂いがする。

「俺は青山藍。見てのとおり、芸術科三年」

 花の蔦みたいなしなやかな金髪がシャツの襟にまとわりついていて、思わず目を逸らした。はずした視線の先の鎖骨の下、なめてみたくなる、果肉みたいな肌…って、僕はなんてこと考えてるんだ、と不埒な想像を頭を振って追い出す。その美人の背後からひょっこりともうひとり金色の頭が現れたときは仰天しすぎてリュックを落としそうになった。

「おーすげえ、キミがみどりかわみどりくん!?」

「いえあのりょくです」

 瞬間移動でもしたのかよという速度で前面に回り込まれて思わずたたらを踏んだ。しゅんしゅんとなぜか素早く動きながら、その不良っぽい先輩は「あーそういやそっか! すげー! りょくとかロックじゃん」とぱっと笑って僕の肩を叩いた。動きが読めない…というか速い。隣の家のポメラニアンが確かこんな動きをした。不良っぽいけど、あんまり怖くない…かも? と思ったが、その耳に光るピアスの数にやはり恐れをなしてしまう。「俺は山吹ひわ! ひわってほらあの、難しい字! 俺書けない!」ぴょんぴょん跳ねながら自己紹介されるがまさかの自分の名前を書けないカミングアウトになんと反応したらいいのか分からず僕は貼りついた笑顔で「ヨロシクオネガイシマス」なんて繰り返していた。ぴょんこぴょんこ跳ねる前髪がきらきら黄色く光っていて、少し幼くて人好きのする顔立ちを取り巻いてる。

 フツメン大虐殺の空間において僕は今にも失礼しましたと絶叫して回れ右したかったが、悲しいかな僕の後ろには五十メートルを六秒で走れる(クラスの女子情報)蘇芳先輩が陣取っている。追いかけられたら普通に死ぬ。

「これから走り込みがあるんだけど、一緒にやる?」

 ランニングシューズを片手に微笑む上裸のアラビアンイケメンに、僕は渾身の半笑いで「ご遠慮させていただきます」と答えることしかできなかった。

 以上、翠川緑の雑草研究会第一印象レポートでした。

 脳内でしめくくって、やっぱ総括すると蘇芳先輩が一番まともかな…と不本意な結論に至った。この人をまともの区分にいれることは結構抵抗があるが、物事には相対性というものがある。それに、そんなに怖くないし。

 さて、現実逃避終了。

 これだけの記憶が数秒のうちに駆け巡る僕の脳みそは意外に出来がいいんじゃないか、なんて考えながら、僕はぎこちなく声をあげた。こんにちは、という挨拶の出だしで掠れる。

 先輩はふっとこっちを見た。木洩れ日にその顔が白っぽくかすむ。細められた目がゆっくり動いて僕をとらえた。

「翠川、くん?」

 きぃ、と銀色の自転車を押して、先輩はちょっと首を傾げた。その前かごには、なぜか林檎がいっぱいに入っていた。

 この季節に林檎って。

 思わず目を奪われていると、蘇芳先輩はひとつ取って僕に差し出してきた。「食べる?」いえけっこうです。そう、と言って、彼はなんとそのまましゃくりとその林檎を齧った。

 銀色の自転車の前かごで輝く林檎たち。青いのもあれば、真っ赤なのもある。魔法でつくられたんじゃないかと思うくらい、色がきれいだ。

 紅い林檎をさくさく食べながら、先輩はきいっと自転車を押して、僕の隣に並んだ。あ、これはもしかして。

「帰り道こっち?」

「あ、はい」

「俺も。駅は?」

西彩葉にしあやは駅です」

「ふうん」

 先輩は、ちょっと鋭い感じのする顔をふっとゆるめた。

 ……途中まで一緒に下校のパターン、きた……。

 思わず天を振り仰ぎたくなってしまった。いや、蘇芳先輩が嫌いだとか、そういうわけじゃない。ただ、あまり親しくない人とそれなりの時間一緒に、しかも二人きり、っていうのは、自他ともに認めるコミュ障の僕にとっては単純に拷問だ。

 先輩は特に何も思う様子もなく、しゃく、ともう一口林檎を齧った。爽やかな音と甘酸っぱい匂い。林檎を皮ごと食ってる先輩と一緒に下校、というのはそうできる経験じゃない。ついでにあんまりしたくもない。

 でもまあ、流れに逆らうほど僕に根性はなかった。とりあえず、順当だろうと判断した返しをする。

「先輩も西彩葉ですか」

「ん。普段は。でも今日は用事ある」

「あ、そうなんすか」ここで僕はコミュ障なりに気をつかい、会話が途切れないように「なんの用事です?」と訊ねた。

「……さあ。まだ決めてない」

 んんっと変な声が出てしまった。まだ決めてない? なんだそれ。それって用事ないってことじゃないのか? 林檎を食べ終わった蘇芳先輩は芯をティッシュにくるんでポケットにしまう。

「学校には慣れた?」

「あ、はい」

 思いのほか真っ当な質問がきて、ちょっとほっとする。

「部活は」

「う、え、あ、まだ……」

 件の未知との遭遇からずっと、雑草研究会の部室に顔を出していない僕は亀のように首を引っ込めてしまう。どこにも入る気がないのにどうしてうちに来ないんだ、とでも言われたらどうしよう…なんて考えながら。

 でも先輩は特に何も言わず、前を向いたまま黙り込んだ。この人も口数が多いタイプではないらしい。ちょっとほっとして、ちらちらと横目で観察する。

 相変わらず、真顔になるとすこし怖いほどの顔立ちだ。色白の眦の切れ込みや、少しだけ尖らせているような紅っぽい唇。真っ黒な髪と睫毛は、染み込むような夜の闇。なんだか、生きていないような。

 その時、瞳がくるっと僕の方を向いたから、びくっと肩が跳ねてしまった。これじゃ見ていましたと言っているようなものだ。背の高さもあって、ねめつけるように見下ろされた気がして身を縮めたくなる。

 ただ、蘇芳先輩は特に僕の視線に何も言うことなく、反対に僕の足を見て口を開いた。

「脚、どうしたんだ」

「あー」僕は少しだけ痛む右足首を見下ろして頭をかいた。「朝ちょっと」

「撃たれたのか?」

 思わず「?」と頭の上に浮かべてしまった。

 蘇芳先輩は真顔だ。冗談を言っているようには見えない。

 うたれる。うたれるって銃とかのだよな。いやなんでだよ。ここはアメリカじゃないんだよ。一瞬で脳内を駆け巡ったツッコミを僕は結局すべて飲み込み、曖昧に笑った。「はは、は…どうでしょうね…」これが蘇芳先輩なりのジョークであることを祈りながら。

「気をつけた方がいい。春は密猟者が多いから」

 今度こそ「は?」と声に出ていた。先輩は真顔である。びっくりするほど真顔である。黒い瞳孔はまっすぐ僕を見つめていて、奥まで見とおせそうな透明感がそこにあって逆に恐怖をあおった。

 この人もしかしてやばいんじゃないか。

 じわっと胸に広がった不安に、舌の表面が乾いていくような気がした。

 なんとか、なんとか話題を探す。沈黙すら怖い。

「なんで先輩は雑草研究会に入ろうと思ったんですか?」

 うーん、と、ちょっと猫みたいな動作で視線をさ迷わせてから、淡々と先輩は言った。

「花と喋りたかったから」

 逃げよう。

 なんだかもう蘇芳先輩の醸し出すやばさにあてられていた僕はその瞬間自転車に飛び乗ってその場を去りたかった。というか去りかけた。

 蘇芳先輩は唯一怖くないなんて思ってた奴誰だよ。僕だよ。明らかにこの人一番やばいだろ。ちくしょう常識人の皮被ったエイリアンかよ。きれいに騙されたわ。なんだお花と喋りたいってお前の頭がお花畑か。ハンドルを握って引きつった顔をしている僕に、蘇芳先輩は不思議そうに首を傾げた。そんな人畜無害そうな顔したって無駄だぞ。

「あと、部長が格好よくて」

 女子か。

「俺、あんまり周りにああいう男らしい人がいなかったからカルチャーショックで…」

 僕は今あんたにカルチャーショックだよ。上裸のアラビアンイケメンや花精みたいな美男やポメラニアンを擬人化した先輩のほうがまだよかった。

「らん先輩は優しくて繊細で、ドイツ文学とかいっぱい教えてくれるし、ひわきち…あ、山吹鶸のことだけど…あいつはすっごい、ほんといいやつだし。ね」

 いいとこだよ、とそつなく勧誘に持ち込まれる。うん確かにいいところっぽいけどそれってシャングリ・ラ的ないいところじゃないか? 行って帰ってこれるのか?

「走り込みとか…って、あるんですよね」

「うん、まあ。基礎体力いるし」

 なんでだよもう。雑草研究ってそんなに過酷なのかよ。

「夏場はかなりきついけど、無理はしなくていいからさ」

 部室の草の世話担当でもいいし、といいながら、先輩は不意にスポーツバッグのファスナーをあける。そのとたん中からこぼれだしたのは、朝焼けみたいなひなげしとガールズトーク風味のピンクのあざみ。

 普通生花を鞄に直で入れるか? なんていう真っ当な疑問なんてふっ飛ばして、そのビビッドな色彩に頭がくらっとする。なんか僕もうこのままよくわかんない世界へ連れてかれるんじゃねえのっていう意味不明だけどかなり本気の不安が込み上げてきて、あは、あはは、と乾いた笑い声が漏れた。頼む誰か助けてくれ。煉でも水月みづきでもこの際藤原ふじわら李一りいちでもいいから。誰か通りがかってくれ。ネバーランドヘ連れてかれる。

 スポーツバッグから溢れる花をかき分けて先輩が取り出したのは、小さなスコップだった。「ちょっとごめん」と足を止めて、自転車のスタンドをおろす。

 道端の側溝のふたの上にかがんで、家と家の隙間に茂る緑の間に、そっとスコップの先を差し込む。え、え。この人何をしてるんだ。恐る恐る背後から覗き込むと、彼の手元には、天に向かってきらきら、ねじれたキャンディみたいな濃いピンクの花。先輩は根っこ周りの土ごとその花をすくい上げた。ど、どういうことだ……。ぐるぐる螺旋の紅色が、僕の意識をさらにかき回す。

「ねじ花。部室のやつより色が濃いから」

 ねじ花。なんだろうその魔法のアイテムみたいな花。じゃなくて、ああ、研究会用の試料採集だったりするのかな…となんとなく納得する。

 先輩は手早く濡らした薄紙のようなもので根っこをくるむと、丁寧にひなげしとあざみのあいだに隙間を作って、そっとバッグに入れた。そんな入れ方していいんだろうか、と不安になるが、彼の自転車の前かごは林檎で埋もれている。

 他にも採集するのかなと思って見ていると、先輩をスコップをしまいながら立ち上がった。「待たせてごめん」ほんの少し眉尻を下げる。もともとの表情が鋭いから、そういう表情をすると驚くほどあどけなく見えた。なんだか、本当に蘇芳先輩がつかめない。翻弄されているというのが正しいのかもしれない。

「草、詳しいんですか」

 試しに尋ねてみると、蘇芳先輩は「部長に比べたらひよこだから…」と首を振った。ひよこじゃなくてひよっこじゃないかと思ったけど突っ込まなかった。

「でも、見ればわかる葉っぱはわりとある」

 言いながら、ちらっと、道路脇のいろんな雑草が生えてる空き地や路地を見る。

「たとえば…これ」

 ぱちんと道端で濃い緑の葉っぱをちぎって、僕のほうへ差し出した。受け取ると、指先からぶわっと鼻の奥まで迸る青い匂い。葉脈から爆散するような鮮烈な見えない刺激に、僕ははっと息を吸いこんだ。何をちぎったのだろうと覗きこめば、道路脇には妙に大きく育っている草木がひとつ。どこかの庭から逃げ出したのだろうか。「これ、かいだことあるけどもしかして」

 先輩は頷いた。「アップルミント」

「はあ」

 ケーキとかの上に乗ってるやつですよね、と言えば、蘇芳先輩は頷いた。まじか。こんな道端に生えてるもんなのか。僕の腰くらいの高さでふわんと揺れた円い葉っぱをしげしげを見つめる。

「ミントは怖いぞ」

「へえ」

「うっかり、可愛いからって、ちっちゃな苗を直植えでもしてみると……」

 そこで蘇芳先輩は言葉を切る。ミントごときでスリリングな展開になるとは思えないのだが、つい息をのんで続きを待ってしまう。

「……庭が」

「………庭が?」

「…………ミントだけになる」

 実感のこもりまくった声に、僕はごくりと生唾を飲み込んでしまった。先輩は神妙そのものの顔つきをして、低めの声で続けた。

「あっという間に、葉っぱは大きく、丈は高く……先住民を蹴散らし…巨大なるフロンティア・スピリッツの権化となりゆく……モンスター・アップルミント……」

「へ、へえ……」

 昔読んだ漫画に、ジャカランダの花が一夜にして都市を飲み込んでしまうみたいな話があったけど、それのミントバージョンか。

 夏の匂いを立ち上らせて、もくもくと歩道にはりだしている野性味あふれるモンスター・アップルミントを見つめながら僕は口を開いていた。

「僕、ミントけっこう好きなんですよ」

 何を隠そう、ポケットのなかに入っているガムもミント味だ。苦手だって人もいるけど、飴や歯みがき粉においても、僕は好んでミント味を選ぶ。先輩はぱちりとまばたきすると、少しだけ口角をあげた。

「…俺も」

 はにかんだように笑った先輩の目元が、ほんのり紅に染まっている。その表情がめちゃくちゃ普通の人みたいでびっくりした。あ、やっぱり意外と普通かも、なんて思ってしまう。自然と、続きを口にしていた。

「昔はそうでもなかったんですけど。好きになりました」

「どうして?」

 訊かれて、え、と声をあげてしまう。

「さあ…なんでだった、かな…」

 考えてみたが思い出せない。ただ、あるとき、なんとなく口にしてみたその爽やかな香りとほんのすこしの苦みが、思ったより癖になったのだ。森の奥、忍ぶような夏の気配。

 先輩は少しだけ思案気な顔をして俯いていた。何か思うところがあるんだろうか、アップルミントに。

 きい、と自転車が軋んで、はっと目の前の風景に意識が戻る。いつの間にか、学校からだいぶ離れて、空き地の多い駅近くの住宅街を歩いていた。人通りは少ないが、もう少し行けば駅前の混雑した通りに出る。進行方向に丁字路があるが、その縦棒にあたる道を下れば、西彩葉駅の方向だ。未定の予定があるらしい先輩は駅まではいかない。どうやらそろそろお別れだ。思わず安堵の息をついてしまう。気づかれなかったろうかとちらっと隣を見れば、先輩はじっと僕の自転車の前かごを見ていた。

「荷物、重そうだな」

「ああ、まあ」今日新しく数学と英語問題集が配られて、と言えば、先輩の眉尻が下がった。「数学かあ」と覇気のない声を漏らした。

「苦手なんですか」

「うん。因数分解からきつい」

 まじか。因数分解って中一で習う気がするけどこの人どうやって高校入ったんだ。

 なんてことを話しているうちに、丁字路が目前に迫る。先輩はちょっとだけ自転車を揺すって、はあっとため息をついた。

「お互い大変だな」

 俺も今こんなだし、と林檎の山を見下ろす。

「うっかりすると転ぶよな」

 ほんとですよね、と答えながら僕も腕に力をいれる。前かごがふらついた。

「じゃあ、気をつけて」

 僕は頷きながら、先輩もお気をつけてと言って、ぐっと自転車の先を丁字路の縦棒のほうへ向けた。下り坂になっているから、腕に重みがかかる。わっと視界が開けた。隣に誰もいない、いつもの通学の光景。

 あー、やっと一人になれた…と、ふわあっと胸が軽くなって……でも、軽くなりすぎた感じがした。ざわざわどきどき、ずっと不穏に騒がされていた胸が、刺激が足りないというようだ。噛んでいたガムの、ミント味が失くなってしまったときみたいに。

 なんとなく、ちらっと背後を振り返った。先輩がこっちに気づいて、真顔のままだけどちょっと手を振った。僕も一応頭を下げる。まともと思えばなんだかんだ振り回されて、やっぱり変な人だ…と結論を出して、前のめりそうな自転車のハンドルをしっかりと掴みなおしたとき。

 がしゃん、と音がした。振り返ると、白い「止マレ」の止のところで、からからと逆さまの自転車のホイールが回転していた。言ったばかりだというのにひっくり返ったらしい。

「先輩なにやってんですか、もう」

 大丈夫ですか、と声をかける。逆光で見えづらいが、銀色の自転車の脇に先輩はうずくまってるみたいだ。

「……?」

 僕は目の上に手でひさしを作り、目を細める。

 ……違う。

 踝にころんと冷たい球が当たった。

 坂の上から、赤と緑の林檎が、ごろごろと転がってくる。地崩れのような音を立てて、無数の球体が転がってくる。

「先輩!」

 前かごから溢れかえった林檎がごろごろ転がっていくなか、僕は自転車を投げ出して重力に逆らって坂を駆け上がる。右足に痛みが走ったが、構っちゃいられない。

 蘇芳先輩は胸を押さえてアスファルトの上に倒れていた。真っ白な顔色をして、明らかに呼吸がおかしい。肺? それとも心臓? これ、救急車とか呼んだほうがいいんじゃないだろうか。スマホを取り出したが、しかし足首を掴まれる。びびりすぎて反射的に蹴とばしそうになったがなんとか堪えた。

 蘇芳先輩は僕の足を引っつかんだまま、苦しそうな表情で頑なにかぶりを振るので、仕方なく僕はスマホをポケットに戻した。何かあれば呼ぶつもり満々だったけれど。脇にかがみ込んで顔を覗き込む。

「薬とかあります?」

 切れ切れに、ワソランが財布のなかに、と言われたので、スポーツバッグを開けて財布を探す。ひなげしやあざみの花びらがばらばらと散った。

 すぐに探り当てた財布から、薬を取り出す。シートに印刷されているワソランの文字を読み取り、念のためこれですか? と確認する。頷かれたので、バッグに入っていた水筒も一緒に差し出した。震える手で受け取って飲む姿に一応動けるみたいだとほっとする。

 ワソランということは、病気は心臓だ。

 試しに手首をとって、脈拍を測定してみる。保健体育で習ったやり方はうろ覚えだったけど、彼の体に触れた途端に伝わる脈拍数にぎょっとした。腕時計を見ながら、とりあえず十五秒分はかる。でも、心拍が速すぎてうまく探せない。慎重に指先を青い血管に押し当てる。

「二百くらいありますよ」これやっぱり救急車、と言うと、ぶんぶん首を振られた。ふらっと立ち上がろうとするので手を貸して、歩道へ引っぱり込む。そのまま誘導して、草ぼうぼうの空き地に放置されていたブロックに座らせるが、そのまま後ろ向きに草のなかに寝転がられてしまった。クローバーを髪に絡みつかせてぐったりしている。見るに見かねて、枕にでもと思い上着を脱ごうとすると、蘇芳先輩がなにかぼそっと呟いたので、「どうかしましたか」と聞き返す。先輩はもう一度口を開いた。

「これが本当の草枕……」

「元気じゃねえか」

 思わず声に出して突っ込んでいたが、しかし彼の心拍がおかしいことは明確である。服の上からでもわかる鼓動の激しさにこちらが息苦しくなる。脱いだ学ランを畳んで、頭あげてくださいと言うと、素直に従ってくれたので簡易枕を差し込む。

「ほんとに救急車呼ばなくて大丈夫ですか」

 浅い呼吸を繰り返しながら、蘇芳先輩はうーと考え込む。

「あと二時間待っても治まらなかったら…」

 長えよ。それまで僕にいろってか。いやいるけど。

「…あ、帰っていいぞ」

 この状態で帰れるか。翌朝先輩が空き地で遺体で発見されたなんて嫌すぎるしそもそも上着を貸している。

 でも、放置しっぱなしの自転車は回収しておかなければならない。

「あの…僕、自転車拾ってきますから」

 その間に死なないでくださいね、なんて無茶な頼みはできないが、そう祈る気持ちで先輩の脇を離れた。

 丁字路の途中に倒れている僕の自転車と、止マレの上に横たわっている先輩の自転車。そして、坂道の上に、無数に転がっている林檎。ひとつひとつ拾うのかと思うと気が遠くなりそうだった。側溝に落っこちてしまったり、そもそもアスファルトで傷ついてしまったものも多いだろう。僕はとりあえず、自転車をひとつずつ、やっとのことで道の脇まで引きずっていって、先輩が寝ている空き地に横倒しにした。誰かの土地だろうけど、非常事態だし。まあ怒られないはず。

 林檎、と思って、痛みを増したような気がする右足を引きずりながら立ち上がると、急に先輩が咳き込んでひやっとした。ごめん気にしないで、林檎はあとで自分で拾うから、と半分くらい息に紛れてしまったような声で言われるが、そういうわけにも…と逡巡してしまう。でも、何度も道路の林檎と喘ぐ先輩を見比べて、車通りも少ないし、まあいいかと少々乱暴な結論を出してしまった。車が轢きそうなところに林檎がないことは一応確認したし。

「あの、なんかあったらほんと、言ってください」

 体を丸めて咳き込み始めた先輩に声をかける。うめき声に似た返事をかえされる。背中さすったりするべきなのかな。なんて色々考えてるうちに、咳は治まったらしい先輩がまた仰向けになる。

 ……心臓、かあ。

「……AEDとかって、どこにありますっけ」

「さあ…」いや生きてる、まだ生きてるから、と言いたげな顔で先輩がこちらをみてくる。いやまだやらねえよ。念のためだよ。

 立った状態で横たわる人を見下ろすという姿勢に耐えられず、隣に座りこんだ。草の匂いが強くなる。蘇芳先輩の急いたような呼気が耳につく。

 ……隣に、死にかけてる人。

 正直この状況はきつい。何がどう、というより、非日常すぎて、とにかく落ち着かない。地面がぐらぐらする感じだ。先輩の荒い呼吸音が途絶えてしまうんじゃないかと嫌な予感ばっかりひしひしと押し寄せる。耐えられず、スマホを取り出した。制止しようとする蘇芳先輩に「救急車じゃないですから」と言っておく。

 まだ学校に残ってる知り合いはいるだろうか。とりあえず連絡して、蘇芳先輩の友だちとかに来てもらったほうがいいんじゃないだろうか。煉…水月…あいつらに上級生の知り合いなんているんだろうか。藤原李一の連絡先はまだ知らない。

 て、いうか、そもそも先輩のこの病気について知ってる人って誰がいるんだ? 持病って結構隠したりすることも多いし。

「他に、病気について知ってる人は……」

 尋ねてみると、蘇芳先輩は気まずそうに目を逸らした。

「…藍先輩、が」

 らん先輩。あのめちゃくちゃ綺麗な顔した人か、と、果実みたいな匂いを思いだす。あの人の連絡先かあ…とスマホ片手に途方に暮れてしまった。冷静に考えて、家族でもないのに呼び出すのもなあ、と仕方なくもう一度スマホはポケットの中に帰った。

 応急処置なのか、蘇芳先輩は左の頸動脈のあたりを押さえている。「大丈夫ですか」と訊くと「少し楽になったかも」とどう見ても楽そうでない表情で言われた。手首をとってみると、脈拍は百八十くらいだった。

「こういうことあるんですか」

「いや…ここまで大きな発作、初めて…」

 浅く呼吸を繰り返す先輩の体は、よく見れば小刻みに震えている。

「そんな体で走り込みとかしていいんですか」

 先輩は黙って目を閉じた。ちょっとだけそっぽを向く。

 ……ま、言いたくないならむりに追求するのも、悪いけど。

 先輩がなにか呟いた。聞きとれなくて、また訊きかえしたけど、今度も答えてくれない。というより、苦しそうに目を閉じてふうふう息を吐いている。おあいこ、と聴こえたような気がしたけど、気のせいかもしれない。額に汗が浮いている。

 話しかけすぎた、と反省して、口を閉じた。嵐が過ぎ去るまで待つしかない小舟みたいな気持ちだ。

 何かできることはないだろうか、と考えてみる。そういえば、人間は、誰かと触れ合ってると安心して容体が安定するとか聞いたことがある。

 手、握っていいですか、楽になるかもと言うと、先輩は小さく頷いた。手を取る。ひくっとときどき震える指先が冷えきっている。クローバーを拾ったときの白い手を思いだして、きゅっとみぞおちの奥がうずいた。

 ……この人、今、死ぬかもしれないんだ。

 そう思うと、つめたい手の感触すらも不安になって思わず指に力が入ってしまう。

 蘇芳先輩は薄く目を開けて、僕の手をみた。きみの手はおちつく、と、薄い唇が囁いた。僕の手。ごく普通の、男子高校生って感じの手。でも先輩は、その手を握って安心したように深く息をはいた。

「きみの目と同じで」

 え、と驚いて、先輩の顔をみると、濡れた瞳がじっとこちらを見ていた。思わずびくっとしてしまう。仰向けに寝ているからか、瞳に光が射し込んで、はっとするほど明るい色にみえた。赤瑪瑙を輪切りにしたような色。ものすごく透きとおった紅茶みたいな、とろんとした、高熱を出してるときみたいな目。生命力の数値が低下してる感じで、見てると腰の奥が落ち着かなくなる。

「俺、君と中学校一緒だったんだけど」

「え、あ、はい?」

 急な話題転換に面食らった声を出してしまった。先輩はゆっくり「覚えてないかもしれないけど、なんべんか顔は合わせてて」と、途切れ途切れに囁いた。はあ、と曖昧に頷く。そうか、やっぱり会ってたのか。やばい、覚えてない。

「俺も最初は、意識してなかったんだけど。いっぺん、一緒になって」

「え、一緒って」

「奉仕作業」

「……あー…」

 なんか、ぼんやりと思い出した。彼がいうのは、中学校で季節ごとに行われていた、奉仕作業と銘打った大掃除のことである。無料で若い人員(中学生)を数百人も使える、学校側からしてみれば願ってもない、ついでに中学生からしてみれば日曜潰されるわ肉体労働させられるわで糞みたいな行事のひとつである。学年分け隔てなくグループ分けがされるから、関わりがあるとしたらそこだろう。

「俺が三年のとき、校門脇の花水木のしたで、掃除してて」

 記憶がぼんやり蘇ってくる。外掃除担当ははずれと言われて、不人気の役職だった。当然、割り振られた人たちもやる気なんてなくて、だらだらと竹箒で適当に地面をはいて、小枝や葉っぱなんかを集めて、ゴミ袋に適当に突っ込むだけだった。細かいところなんてほとんど忘れたけど、確かに上級生もわりといるグループだった。

 蘇芳先輩は僕の目をじっと見つめながら、確認するように続けた。

「てんとうむし、助けたろ」

 ん、と、虚をつかれたように、間の抜けた声が出た。

「ゴミ袋にてんとうむしが入ってて、内側をのぼってて…みんな気づいてなかったけど。

 君だけ、袋を開けて、逃がしてやってた」

 先輩の声はつっかえつっかえで、でも優しくふわふわしていた。僕はてんとうむし、と反復して、ほうけたように彼の目を見つめていた。この人、そんなことを覚えているのか。僕本人なんてぶっちゃけ微塵も覚えてないというのに。

「俺がてんとうむしだったら恩返しにいくと思った」

「ちょっと意味わかんないです」

「ぜひ昆虫界の竜宮城に」

「老人エンドじゃないですか」

 ふふ、と先輩は笑った。その頬に少しだけ血色が戻っている気がした。

「もし昆虫界に竜宮城があるんなら、舞い踊るのは蝶や蛾……?」

「後者はできたらやめてほしいですね」

 軽口を叩ける程度には回復したみたいで、ほっとする。先輩は赤っぽい瞳を瞬かせて、僕を見た。その眼球には僕の姿が映り込んでいる。

「じっと見てたら、目があった」

 え、と声が出た。僕と? と訊けば小さく首肯される。

「そのとき、ちょっと思ったんだ。

 鹿っぽいな、って」

 鹿。

「あの、バンビとかの」

「うん」

 褒められてるんだろうかこれ。目が合って、鹿っぽいって。

「新入生オリエンテーションで、君のクローバーを拾ったときも……同じ感じがした」普通に見覚えある子だな、とも思ったけど、と先輩は呟く。「どっちかっていうと、目の雰囲気が、鹿で……あ、あの子だって」

 先輩はそっと僕の右足首を指差した。

「だから、その足も撃たれたのかなって思った」

 いや、だからってその発想はちょっと奇想天外すぎないか……と思うけど、花と喋りたいとか言っちゃうからな、この人。

 しかし、僕はなんというか茫然とへえ…としか言えない感じだった。目から受ける印象が同じだから、同じ人って、なんか……なんだろうその魂で生きてる感じ。彼のなかに理屈というものはないのかもしれない。

「俺、鹿が好きなんだ。

目が優しくて、静かで、森の奥にいて…」

 僕のことを褒めてるわけじゃない、これは鹿を褒めてるんだ…とは思うものの、ちょっとだけむずむずする。相槌にも困ってしまい、先輩の顔から視線をそらしてしまう。

「それまでにも、きっと、会ったことがある」

 確信が持てなかったけど、と先輩は囁く。僕は目を瞬かせた。それまでにも? てんとうむしの一件以前に? 先輩は少し身じろいで、深く息を吐き出した。握った手の震えがおさまってきたような気がして、僕はそっと手首に指をあてた。脈拍は百三十程度まで落ち着いていた。

「翠川くんが……ミントが好きって言って、気づいた。小学生くらいの頃、だけど」

 先輩がゆっくりまばたきをする。ぱちんとその目の奥に、みどりが弾けた。驚いて覗きこんだ、僕の瞳だった。ポケットの中のミントのガムが、にわかに存在感を増す。爽やかで少し苦い匂いがした気がした。

 ミント。

「…………あっ!?」

 素っ頓狂な声が出た。

「もしかして、アイスクリーム……?」

 恐る恐る切り出した僕に、瞳にみどりを宿らせたままの先輩は頷いた。

 小学校中学年頃だったと思う。

 親につれられて国道近くの31アイスクリームに行った。妹の誕生日のために、アイスケーキを買いに来ていたのだ。

 薄ぼんやりした記憶だが、僕たちの前には家族連れっぽい客がいて、ショーケースの前で子供たちが喋っていた。そこで、僕と同じくらいか少し上の男の子が、じーっとポッピングシャワーを見つめていたのだが、隣にいたおかっぱ頭の女の子が「こうちゃんはバニラですよねえ」とかにこにこしながら言ってて、男の子はそれに違うと言えないらしく、もじもじしながら小さく頷いていた。

 暑いなか散々待たされていい加減じれていた僕は、なぜかその光景にコミュ障らしからぬ衝動を覚えて、ぱっとショーケースの中のポッピングシャワーを指差していた。

「これでしょ?」

 今から思うとあのときの僕には神か悪魔が乗り移ってたんじゃねーかと思うほどの行動力だが、とにかく――僕は、その少年にそう話しかけていた。

 彼はびっくりしたように数秒固まっていて、でもそれからこくこくと何度も頷いた。あらそうなの、と彼の保護者らしい人が言って、無事にポッピングシャワーの注文がなされるのを聞きながら、僕はなんとなく開放感を感じていた。コミュニケーションが苦手ということは、世界から抑圧され続けることだ。その鬱憤を少し晴らしたような気になったのかもしれない。…いや、まあ、他者の内面を代弁したところで、別に錯覚でしかないんだけど。

 まあとりあえずその場はそれだけのことで、僕たちも無事に用事を済ませて店を出ようとしたとき、シャツの袖をちょっと引かれた。

 振り返ると、コーンのアイスをもったさっきの男の子が、もじもじしながら立っていて、小さな声で言った。

「さ、さっきはありがと」

 はにかんだ笑顔で、僕にスプーンを差し出す少年。スプーンの上には、ポッピングシャワーとは違う…ころんと齧りとった林檎のひとくちのような、グリーンのアイスが乗っかっていた。おまけでのせてもらえるやつだ。くれる、ってことなんだろうか。チョコミントに見える。僕は当時まだミントのハーブっぽい青臭さが苦手で、逡巡した。

 迷って、母を見上げた気がする。母はなんと言ったのだろうか。覚えていないが、結局自分は、恐る恐る口を開けて――彼の差し出すチョコミントを、ぱくっと口に含んだ。その途端、口の中から頭のてっぺんまで、ミントのすがすがしい香りがぱっと満ちた。あ、おいしい。素直にそう呟いていた。

 少年はそれを聞いて、えへへとはにかんだ笑顔を浮かべた。その顔立ちも輪郭も茫洋として光に溶けたようだけど、その、ふわっと涼しい香気がはじけたような印象だけは強く残っている。

「あれ、先輩ですか……?」

 蘇芳先輩はこくんと頷いた。

 言われてみれば…似てるかも……いや、言われたからこそそう思うのであって、実際その少年の顔自体うろ覚えにも程があるのだけれど。

 そうだ、あの日からだ。苦手意識のあったミントを好ましく思えるようになったのは。

 はああ、と息がもれた。世界って狭い……と呟きたくなる。

「僕たち、何べんも会ってたんですね」

 信じられないほど、と付け加える。こんなに何度も巡りあって、そして今ここでこうしていることに、なんだか見えざる力すら感じる。運命というほど大げさではないけれど、それに準じる何か。ミントの香りが溢れだしたように、新鮮な気持ちで胸が満たされた。

 蘇芳先輩も同じものを感じているのか、深呼吸をすると目を閉じた。

「あのときも、鹿みたいだって思った」

 同じだったから。

 僕は目を細めた。

「アイスクリームのときも…てんとうむしのときも…君と、一瞬だけ目が合った」

 追体験のように視線がかち合う。でも、今は今だ。過去を上塗りしていく瞳。僕には先輩の、透明にすぎるほどの紅めいた瞳しか見えない。その目の奥に、僕の瞳がどんなふうに映っているのだろうか。

 ぎゅっと指を握られる。人の森の奥から差し出された、夏の霧みたいな白い手。僕の手の熱がうつったように、体温を取り戻した手。

 少しずつ刹那的に交差していた世界が、今ここで明確に交わっている。

 先輩は笑った。そうして少し身を起こす。

 この人、ちゃんと笑うと子どもみたいだ。

 ふらっと立ち上がりながら、先輩は嬉しそうに言った。

「間違いない」

 夢をみるような目が僕をとらえる。

「翠川緑は、鹿」

 僕は微笑む。僕自身は自分をそんなものだと思ったことはないし(そもそも鹿にみられて喜ぶべきなのかわからない)、全然ぴんとこないが、でも。

「先輩が言うならそうだったのかもしれないですね」

 僕はちょっと笑いながら立ち上がる。こっちを見た蘇芳先輩もまぶしそうに微笑んでいた。透明な瞳。僕の瞳のみどりをうつす紅。ありがとう、と言う声が忍び寄る夏の気配に溶け込む。ああ、生きている、と不意に思った。まだ少しだけ息を弾ませた先輩が、きっと妙な顔をしているだろう僕を見つめている。

 道路に転がっている赤と緑の林檎が光のなかで輝いていた。

 僕は先輩の隣にならびながら、少しだけこの人に付き合ってみようと思った。

 わけがわからないことを言う、夢みがちで、めちゃくちゃ変な人だけど。きっと、彼がいざなう世界は、奇妙であっても素敵な世界なんじゃないかと、緑におおわれた雑草研究会の部室を思い返しながら考えた。

 僕が鹿だというのなら、あの森のような部室にいくのも悪くないな、と、まぼろしのアップル・ミントの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。



Ombra mai fù

di vegetabile,

cara ed amabile,

soave più

かつて、これほどまでに愛らしく、親しい緑があっただろうか。

――「Ombra mai fù」

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