エピローグ、あるいは喪失の記憶の断章  後篇

 電話の向こうからは獣の唸るような声が聞こえた。李一は眉尻を下げる。泣くほど辛いのに、どうして通話を切らないのかわからない。

「ねえ、紅ちゃんのこと好きだったんでしょう」

 それでも、楔を打ち込むように兄を追い詰める言葉を発する。瞼の裏にちらつく真っ赤な水玉模様。恋の熱病。

「だって杏ちゃんはロマンチストですから」

 かしゃん、とガラスの割れるような音が聞こえた。幻聴かもしれない。李一は笑う。ベランダから大きく身を乗り出した。眼下の夜の底を野良猫が走り抜ける。

 ぼくたちはロマンチスト。

 極彩色で武装しないと、現実と向き合えないほど脆いロマンチスト。

 遠い電話の向こうで、別の人間の声がきこえた気がした。李一は微笑む。

 ねえ今寝ている相手はどんな人ですか?

 また、黒い髪をして、背の高い誰かですか?

 白い肌に、赤い唇に、黒い髪。冬の花と、安い香水の匂いが記憶の底で混じり合う。

 ねえ杏ちゃん。

 失った相手は二度と戻らないんですよ。

 がたり、と、幻のような音がした。なんだろうか。李一はなんとなく部屋を振り返った。

 古びた安っぽい鏡台がある。ひび割れた縁をテープで止めた、廃墟にあるようなものだ。

 ベランダから部屋に入り、鏡台の前に立つ。奇抜な髪の色をした自分が鏡面には笑っていた。病院と、焚火と、花と、新聞紙の匂いがした。母の匂いはしなかった。

 李一はそっとその鏡台の前に座り込む。

「杏ちゃんはまだママを許せないんですか」


 二年前、双子の母が死んだ。肝臓癌だった。

 体を壊すまで働くだけ働いて、双子の大学進学費用を残して死んだ。双子は父に引き取られた。町工場で働く寡黙な父に。

 死はけして遠いことではなかった。

 中学のクラスメイトには父親が交通事故で死んだ子がいた。小学校の同級生には、新学期が始まってすぐに脳出血で死んだ子がいた。

 道端にはよく轢かれた動物が死んでいるし、そういうものを下駄箱に入れられたこともある。

 逆に、生きているということについても考える時期に入っていた。貧相な食事をするとき、シャワーを浴びるとき、着飾るとき、あらゆるときに自分の内面にこもった思春期が鎌首をもたげる。生きているとはなんだ? お前は生きているか? なんのために生きているのか?

 病室で眠り続ける母は、既に死んでしまっているように見えた。

 生も死も、なにもかも解らなくなりつつあった、十四歳。

 

 双子の母は、職場からの帰宅途中に路上で倒れて搬送された。ぼんやりした雨の降る夜明けだった。病院からの電話はがらんとした部屋にきんきんと響いて、真っ赤なまぼろしを点滅させていた。

 それを聞いた杏一は、ゆらりと立ち上がって、不意に部屋を出ていった。病院へ向かうのだと思って支度をしていた李一は止めなかったが、彼はそのままどこかへ行ってしまった。李一はひとりで、医師と相対して話を聞いていた。電話して呼びつけた父が到着して、朝がきても、杏一は来なかった。点滴を打たれて眠る母の、死んだような顔色に、李一はひとりで立ち尽くしていた。


 桃をむく。幾つも、まるいみずみずしい果実が、白い皿の上に転がる。

 ごめんねと母は言った。かさかさに乾いた白っぽい唇で、何度もごめんねと言った。

 李一は黙って微笑み、桃をむき続けた。指がわずかに表面に沈み、茶色い染みができた。母の目の下の、涙のような染みと同じ色だった。

 ほとんど時間は用意されてなくて、李一は手早く様々な作業に取りかからなくてはいけなかった。入院。治療費。数か月の余命。医師との相談。そして、葬儀について。

 実験は正しい手順を求められる。また、着実にそれぞれのステップをこなすことが求められる。李一はひとつひとつの事務的な作業を丁寧に片付けていった。 ある日中学校から病院へ向かうと、洗濯物がなくなっていた。父が訪ねてくる日ではない。母は眠っていたので、何も訊かずにおいた。

 機械的に日々を消化するようになると、時間というものは驚くほど早く過ぎ去っていく。

 勉強。事務手続き。母の世話。武装。やるべきことのために時間を切り分ける。そうすると気の狂いそうな時間はなくなった。代わりに、永遠に後悔することになる空っぽの作業の記憶だけが残った。隙間にちらつく影法師と、不意に差し込む水玉模様……。

 父とも話をした。何度も、長く話し合った。けれどそれはすべて事務的な内容だった。彼はときどき、前髪を奇妙な色にそめて、女物の服を着た自分を、もの言いたげに静かな眼差しで見つめたが、李一はそれを無視した。心を表に出さなければいけない時間は切り離した。

 週に何度か、洗濯物がなくなる日があったけれど、杏一は頑なに母の前に姿を現そうとしなかった。李一の知らないところで二人が会っていたのかはわからない――母は何も言わなかったから。

 母と何か大切な話をしなくてはいけない気がした。けれど実際には、食事を吐いてしまう母を励まし、私のために余計なお金を使わないでねと何度も言う母に学校で起きた出来事(だいたいは優しい嘘)で気を紛らわし、そして結局、そのときはやってきた。



「りっちゃん」


「きょうちゃんとしあわせになってね」


「おねがいよ、ままからの」



 七竈の実が、窓の外で揺れている。

 きれいに均された雪の原のようなベッドを前に、枯れ枝が灰色の空を分割する枠の向こうを見つめながら、李一は呟いた。

 お金なんて要らないから、そばにいてくれればよかったのに。


 冬の薄曇りの下で、葬儀場の玄関には藤原桃子という名前が他人行儀に黒々としていた。李一はホックを止めた学生服の裾を摘まんで、じっと棺を見つめていた。

 痩せた頬に綿をつめ、死に化粧を施され、白い布に包まれて花に埋もれた女が母のようにはどうしても思えなかった。うっすら開いた唇の陶器のような冷たさが、触れた指先から侵食した。

 棺の中の女が母と似ていることに耐えられなくて、李一はここでも機械的な作業に逃げた。少ない参列客の相手を丁寧に行い、職員の説明を聞き、母を失った息子を演じる。奇妙なアプリコットに染めた一房の前髪だけが、彼の大人びた対応を際立たせていた。

「李一」

 囁くような呼び声に振り返る。閑散とした受付の前に、黒い学生服の少年が立っていた。

「紅ちゃん、来てくれたんですか」

 ありがとうございます、と微笑めば、彼は悲しそうな顔をした。李一よりずっと。

 口下手な彼らしく、余計なことは一切言わず、黒目がちの瞳でじっと李一を見つめた。その透明に李一のほうが飲まれそうになる。つとめて自分の態度を意識しながら、李一は彼の前でも変わらず振る舞おうとして――できなかった。「紅ちゃん」こぼれた声は半ば茫然としていた。

 紅一はそっと李一の頭を撫でた。彼の手は大きくて、少しひえていた。

「杏一は?」

 李一は首を振る。「いないの?」もう一度首を振った。李一を追い詰めるような灰色の雲が見える窓を指さした。

 もうすぐ式が始まるっていうのに、と、震える声で洩らした。紅一は黙って少し考えてから、棺に歩み寄って、双子の母を見つめて、深々と頭を下げた。そして李一の袖を、遠慮がちに引っぱった。

「呼びに行かなくちゃ」

 紅一の瞳を真っすぐに見られずに、李一は彼の肩にしがみついた。紅一は、そんな李一の痩せた肩をぽんぽん、と叩いた。


 溶けかけの雪が影にたまり、靴を濡らした。七竈の実が揺れている。

 ひと房の薄紫を残して、メタリックなアプリコットに染めたセミロングの髪が、学生服の肩に垂れて奇妙なきらめきを放っていた。紅いろの水玉模様のバンダナで前髪をあげ、鋭い眼光を露にした杏一は、この世のすべてが敵のような顔をして葬儀場の外にいた。

 ふたつの預金通帳が宣告だった。

 母は自分たちに一生消えない罪を負わせたのだ。

 母は自分たちのために働いて死んだ。しあわせになることなく死んだ。李の木も、杏の木も植えられることはなかった。

 自分たちが母を不幸にしたのだ。

 李一はふらつく足取りで兄に駆け寄り、二メートルほど手前で立ち止まった。

「杏ちゃん、もうすぐ式が始まりますよ」

 近づいていた二つの足音に気づかないはずはないのに、杏一は黙って二人に背を向けたままだった。紅一が悲しそうに顔をしかめた。李一は戸惑いながらも、杏ちゃんともう一度呼びかけた。

「僕は出ない」

 李一は動きを止めた。どうしてですか、と唇は動いたのに、声はでなかった。紅一が何か言っているのが聞こえる。けれど内容はちっともわからない。杏一の背だけが意識を支配する。風が冷たい。七竈の実が揺れている。ばらばらと世界を乱している。

「杏ちゃん、ぼくたちふたりっきりですよ」

 ひとりにしないでください、杏ちゃん。

「杏ちゃん、杏ちゃん」

 そこには幼い子供しかいないようだった。立ち尽くす三人の子ども。杏一は答えない。礫で打たれているかのように身を固くしたまま、頑なにこちらを見ようとしない。

 ぷつん、と何かがちぎれた。李一は学生服の背に叫んだ。

「杏ちゃんはずるい!」

 李一は喚いた。脳裏に浮かぶ空っぽの洗濯籠。でも言葉は止まらない。

「ぼくに辛いところをぜんぶ押しつけたくせに! 今だってこうして逃げてるじゃないですか!

 昔はこうじゃなかった、昔は、昔の杏ちゃんは、ぼくをひとりにすることなんてなかったのに!」

 李一は仔犬が吠えるように喚いて、だだをこねた。かつて獰猛な世界との間に立ちはだかり、自分を守っていた兄の背中が、今は裏切り者に見えた。

「ねえ杏ちゃんきいてるんですか。杏ちゃん。ママは死んじゃったんですよ。

 ぼくたちはおいてかれたんですよ」

「そんなこと――」堪えかねたように振り返った杏一が言葉につまる。掴みかからんばかりに興奮して、なおも言い募ろうとした李一は、不意に目の前に現れた影に口をつぐむ。

 紅一が二人の間に割って入っていた。そのかんばせは硬く張り詰め、真っ黒な髪は、凍るような無防備のうつくしさを備えていた。

 李一の目の前を、アプリコットの髪が流れる。人工的なきらめき。色彩の鎧。

 ――きょうだいみたいですね!

 はるか昔、何も知らない自分が放った言葉が胸に突き刺さった。

「二人とも、仲よくして」

 お母さんが泣くよ、と言われた気がした。

 背丈に騙されがちだが、きちんと年相応に、線が細くて子供っぽい丸みを帯びた輪郭の紅一は、小さな声で「戻ろう」と双子に言った。

「お別れをしなくちゃ」

 七竈の花のように白い顔で、七竈の実のように紅い唇で、不吉な無垢なるかんばせで紅一は言った。

 杏一は堪えかねたように薄い唇を震わせた。

 次の瞬間、野犬のような俊敏さで杏一は紅一に詰め寄った。 

「お前が言うな! お前が――お前が!

 幸せなくせに!」

 なんでお前は幸せなんだ。

 どうして僕たちの母が持ちえなかったものを持っているんだ。

 白い肌、赤い唇、黒い髪。

 こんなにも持ちうる要素は似通っているのに。

 杏一は紅一の胸ぐらをつかんで吠えた。

「おまえみたいな幸せなやつ、大嫌いだ!」

 杏一のそれは単なるやつあたりだった。気が立った子供が癇癪を起こした程度の。けれど彼の怒りは明確で、子供っぽく純粋で、相手をその言葉で打ち倒そうという意志が、雪玉のなかの礫のように硬かった。心の傷から噴き出す血が硬く鋭く尖り、鋼鉄の棘となる。

 李一は、あまりに鋭い、燃える寸鉄を幻視する。それを振りかぶり、杏一が吼える。

「死ねっ! なにもかも死ねっ! しあわせなものはみんな死んでしまえ!」

 紅一の顔が、すうっと真っ白になる。全身の血を失ったかのように。白い唇が震える。何かを言おうとする。

「僕たちを傷つけるものは、死ね!」

 杏一の目からは涙が流れていた。振りおろす寸鉄から血が滴る。それは杏一自身の血だ。その尖端が紅一の胸を貫く幻影が、この世の終わりのようにはっきりと見えた。

「紅ちゃん!」

 倒れたのは紅一のほうだった。同時に、杏一も膝をついて崩れ落ちた。杏一は震えながら呆然と虚空を見つめていた。放った寸鉄が彼の魂をも燃やしてしまったようだった。李一は紅一に駆け寄って揺さぶった。

 李一が幻視した鉄の凶器が貫いた胸は不規則に波打ち、明らかに生命の危険を顕していた。呼吸は浅く喘ぐようで、苦しげに表情を歪める顔色は青白い。掴んだ肩から異様な振動が伝わってくるほど鼓動が激しく乱れていた。痙攣する指先をつかんで名前を呼ぶが、満足に声が出せないようで、掠れた吐息ばかりを漏らしている。人を呼ぼうと立ち上がろうとしたとき、急に紅一の体から力が抜けた。仰け反った首筋の血管が青く透けていた。まさかと思ってそこに触れる。

 脈が触れない。

 思わず白い頬に触れて、喉から出たのは母を呼ぶ声だった。棺のなかの母。死んでいる白い顔。

 その時、力尽きたように杏一が背後で倒れ伏した。李一はどうしようもなかった。ここから離れたら得体の知れないものが二人を拐いにくるのではないかという怖れに取りつかれて、ひと房、奇妙な色の前髪が視界を覆って、そしてその色がばちりと弾ける。

 膝から崩れ落ちる。足元には七竈の真っ赤な実が転がっている。真っ赤な水玉。視界のアプリコット。

 かつての兄とそっくりな声で、李一は咆哮した。



「心臓に病気があったんだって」と、紅一の母は言った。体に合ったスーツに、エナメルのヒールが格好よかった。でも心配ないから、と彼女は李一に言う。「普通は命に別状あるようなやつじゃないらしいのよ。今回は本当にめずらしく、大きな発作が出ただけで」と、色鮮やかな口紅を塗った唇で小さく微笑む。鏡の前の母と、彼女の死に化粧が思い返された。

「李一くんたちのせいじゃないから。運動したりしたから発作が出るとかそんなんじゃないの。陸上やってても起きないし、静かに本読んでても起きるときは起きるのよ」どうやら紅一の母は、李一が自責の念にかられることを心配しているようだった。葬儀で面倒を起こしたことを丁寧に何度も詫びられた。李一は力なくかぶりを振ることしかできなかった。

 あのあと、心停止状態だった紅一は、ごく幸いなことに三分足らずで到着した救急車と適切な処置によってこの世に繋ぎ止められた。

 WPW症候群の症状である房室回帰頻脈が心室細動につながり……ネットで調べてみた病状は頭をすり抜けていく。

 紅一の心臓に巣食っていた病魔は存外平凡なものだったらしい。千人に一人だとネットにはあった。少し規模の大きい中学校ならひとりはいることになる。無症状の人間も数多く、命を奪うわけではない発作の症状も頻繁に出るようなら、手術で根治も可能だという。心電図を確認した医師はしきりに運が悪かったと言った。不幸中の幸いだとも言った。病室の外のベンチでぼんやりと冷めたコーヒーの缶を握りしめて、李一はぼうっと、ネットや紅一の家族から得られた情報を再構成していた。

 紅一は比較的すぐに退院した。薬を処方されたが、手術をするかは考えていると彼の両親と祖父母は言っていた。今まで発作が出ていなくて、これからもわからないのだから、若いのだしまだ手術は…と父親と母親が話し合う横で、陸上はもうやれないわねえ、いくら影響ないっていっても万が一があるじゃないねえ、と祖母は嘆息していた。祖父は医師にまだ詳しい説明を訊いていた。まるで影のように、李一はその近くに立ち尽くしていた。手の中のコーヒーの缶が開けられることのないまま、冷えて重たくなっていくのを感じていた。

 本当に単なる偶然なのだろうか。

 でも、あのとき確かに李一は、巨大な寸鉄が、紅一を貫くのを見たのだ。

 それは感受性の共鳴だった。杏一の感情の奔流を、紅一は受け止めきれなかった。だから心臓が悲鳴をあげたのだ。けして単なる持病などではなかった。

 病室で、紅一と顔を合わせたときのことを思い出す。

 入っていいよと言われて入った病室では、いつかの母のように、点滴に繋がれた紅一が横たわっていた。ぞっと背筋が冷える。彼の青白い瞼の陰に、一度死の淵におりた色を見た。

 窓から見える枯れ枝が恐ろしくて、カーテンを引いてしまった。持ってきた花を手に、ベッド脇のスツールに腰かけて、彼が目覚めるのを待っていた。

 ほどなくして、眠っていた紅一が、薄く目を開けた。

「紅ちゃん」

 李一が立ち上がって思わず声をあげると、彼はゆっくりと視線で周りを見渡した。白い重たげな表情が、母の死に顔とよく似ていて、どきりとした。ベッド脇の柵に手をかけ、ぐったりと横たわる紅一に、抑えた声でしかしそれでも必死に喋る。

「ごめんなさい。ごめんなさい。紅ちゃんをこんなふうにして。でも、杏ちゃんのこと、許してあげてください。ぼくも謝りますから、お願いです。

 杏ちゃんは紅ちゃんのこと嫌いなんかじゃないんです、ほんとは、ほんとは違うんです。

 だから、―――」

 身勝手だとわかっていてもまくしたてる言葉に、緩慢な仕草で紅一の墨を含んだ睫毛が上下する。そこからこぼれる透明な夜は、光の加減ではっとするような紅を見せることがある――そのとろんとした紅がちらちら瞬いて、血の色が戻った唇が、ゆっくりと開かれた。

「―――なんのこと?」



 夜が世界をおおっている。

 古びた鏡台がひとつ、それ以外なにもない部屋の隅で、杏一はうずくまっていた。

 紅ちゃんは大丈夫ですよ、と短く告げた。病院の手前で、やっぱり行けない、と青白い顔で立ち止まってしまった彼をおいていったことを、少し後悔していたが、紅一と杏一が顔を合わせることがなくてよかったとも思った。

「嘘だったんだ」

 不意に杏一が呟く。

「ほんとに死ねなんて、思ってなかった」

 そんなことは誰にだってわかりますよ、と李一は呟いた。紅ちゃん以外の誰にだって、杏ちゃんの子どもみたいな癇癪はとるに足りないものに映るでしょう。

 でも、相手は紅ちゃんなんです。

 すこぅしおかしな、透明な目をした、純粋でばかな生きものなんです。

 内心でつらつら述べたてながら、紅ちゃんは何も覚えてませんでしたよ、と告げると、ぴくりと杏一の肩が動いた。「一時的にでも心臓が止まってたんです。少し記憶に混乱や抜けがあってもしょうがないって」

 不穏な単語に杏一の頬が蒼ざめる。一歩間違えれば、十五歳の蘇芳紅一も、棺の中で眠る母のようになっていたのかもしれないのだ。

「なんであんなこと言ったんですか」

 硬い声音で李一は訊ねた。

 杏一はいつまで経っても答えなかった。鏡台に反射したわずかな夜の光が、ぼうっと幽霊のように双子の姿を浮き上がらせていた。

 やがて、杏一は、ぽつんと子供のような声で呟いた。

「ぜんぶ嘘だったらいいのに」

 砕けた硝子の集大成のように、極彩色の屑の山みたいな杏一の痩せた肩が震えていた。

 ああ、この生きものは。

 次の瞬間、李一は手を振り上げて、彼の頬を叩いていた。何もない部屋に響く激しい音。

 茫然とこちらを見上げる瞳に、李一は、あの透明を見る。その瞬間、すべて納得がいった。杏一が病床の母と言葉を交わすことがなかったのも、あれほど世界を憎んでいたのも、蘇芳紅一に寸鉄を突き刺したのも、彼が他のどんな人間よりも脆すぎたからなのだ。

 かつて彼は、紅一のことを、生まれる場所を間違えたと言った。

 あなたもそうだった。

 あなたも、この世に生まれるべきじゃなかったんですね。

 李一は、そっと自分の胸に手を当てる。

「杏ちゃん」

 幻想の寸鉄を引き出す。大きくなくていい。自分の心を切り開いて、静かに滴る血を固める。ゆっくりと微笑めば、凝固する魂の出血が尖りいくのがわかる。杏一の瞳に、自分の微笑が映り込んでいる。噫いたい。この胸がいたい。十四年分の痛みが心臓に突き刺さる。

 ぼくは、ぼくよりも脆い生きものを、世界の盾にしていたのだ。

 滴る魂の血が、巨大な寸鉄に形を変える。李一はそれを、ゆっくりと舌に上す。言葉の弾丸。魂の寸鉄。

「杏ちゃんがいなくても、ぼくは大丈夫ですよ」

 そっと頬に手を添えて囁いた言葉に、杏一は――この世の終わりのような顔をした。すっと顔が白くなる。ああ、あのときの紅一と同じ、棺の中の母と同じ。

 薄い唇がひきつれて歪む。り――その形で凍りついたそこに人差し指を這わせる。

 直後、腕を弾かれ、橈骨に衝撃が走る。顔を覆った杏一は髪を乱して何度もかぶりを振った。その肩に手を触れる。もう一度腕を叩かれ、そのまま上腕を掴まれて思いきり引き寄せられ、杏一と体が重なる。咆哮が耳をつんざく。二人は鏡台に倒れ込んだ。李一の目に映る部屋が割れた。幾千の破片が世界の悪意のように二人を襲った。降りそそぐ痛みが全身に真紅の寸鉄を打ち込んだ。

 倒れて割れた鏡の破片にまみれて、雨に打たれた獣のように、杏一は絶叫した。李一は歯を食い縛り、腕に食い込む兄の指とすがりつかれる熱量を心に刻み付けようと血を流していた。



 風が吹く。滅びの風。

 ベランダの手すりがきいきいと鳴る。ああさっきもたれかかっていた時に折れてしまっていれば面白かったかもなんて柄にもない破滅型思考が脳裏をよぎる。スマートフォンがピンク色に点滅する。電源を落としてその色を消し去ると、鏡台の前で、罅に指を這わせて李一は笑う。

「ぼくは紅ちゃんの病名を知ってますよ。それは純粋というんです」

 電話口で、息を飲む音。李一は胸が苦しくなる。

 自分よりもずっと先に、杏一のほうが気づいていたのだ。だから、だから彼は。

「紅ちゃんが死んでしまうとしたら、きっとそれは寸鉄のせいでしょう。ぼくのでも、杏ちゃんのでも、他の誰かのでも。ひょっとしたら、自分のかも。

紅ちゃんは、生きていくにはあまりに向いてません」

 あなたがいちばんわかっていたでしょう。

 だってあなたもそうだったから。

 思春期たちはガラスのとげをまとって張りつめたやわらかさを隠し通そうとする。紅一はそれすらしない。とろとろ、ゆらゆらとした透明な液体のなかで、なにも知らずに泳いでいる。それは金魚鉢のなかの金魚に似ている。偶発的に、ある日、悪意もなく落とされて割れて、死んでしまう真っ赤な小さないきもの。頑丈に見せかけた極彩色で身を守る李一たちとは違う。

「ぼくも杏ちゃんも、もしかしてちっちゃなとげであっけなく死んでしまう生き物かもしれません。

 でもぼくたちにはファッションがある。虚飾の鎧。絹と、革と、レースと、リボンで、ぼくたちは戦えます」

 少しいびつな繭で武装しようとするもろい思春期。

 カーテンの裏に隠れていた子供時代の延長線上で、双子は服を身にまとっている。

「ねえ杏ちゃんそうでしょう」

 ぼくたち、永遠に着飾りつづけるんでしょうね。しあわせになれないかぎり。

 二年前の冬、葬儀も埋葬もすべてが終わって、何もない部屋、割れた鏡……立ち竦む双子……。

 大学なんか行ってやるものか、と杏ーは吐き捨てた。無理やり着せられた罪のあがないを拒んだ。彼は熱病みたいな水玉で着飾って、マシンガンみたいなサウンドをぶっぱなす人生を選んだ。

 僕は大学なんかに行かないぞ。あの、不幸なおんなののぞみ通りになどするものか。

 こうして李一の大学進学資金は二倍になった。杏ーなりの復讐によって得た利益を通帳をめくって確認しながら、この元手をどう転がそうかと、李一は思案した。

 母が死んで、湧き出すように李一は知識をアウトプットし始めた。溜め込んだ情報を組み立てて、現実と戦うマシンガンを作っていった。あわれな母がついぞ持たなかった、強力な武器。

 しあわせになってね。

 きょうちゃんと、しあわせになってね。

 ……でも、ぼくの盾になろうとする杏ちゃんは、永遠に幸せになどなれないのです、ママ。

 李一はひび割れた鏡のかけらを拾い集める。拾い集めながら、今まで学んできたことを再構成する。それが李一の武器だ。


―――ぼく、科学者になります


 破片をすべてつなぎ合わされた、使い物にならない鏡面に貼られた、カプチーノメーカーのような核融合炉の設計図を見て、杏一は黙っていた。無力な子供のように。

 ねえ杏ちゃん。

 ぼく、ちょっときみから離れます。

 きみがぼくといたければ、いてくれてかまわないです。それは嬉しい。

 でも、ぼくが杏ちゃんに頼るのは、やめます。

 ぼくはぼく自身で、ぼくの弱さを庇える力を養います。

 そして、しあわせをつかみとるのです。

 長い髪を垂らした杏一は、ばらばらの鏡の前でうつむいている。その痩せ細った背に、そっと寄り添って抱きしめる。一瞬だけ、つめたい花の匂いがした。李一は耳元でそっと囁いた。

 さようなら、ぼくの兄よ。


 獣の声がする。興奮した獣が威嚇するような息遣い。絡まり合う四肢を想起させる。満たされないガラスの内部。世界のどこにもないものを探して、彼は見知らぬ人間と寝る。杏ちゃん、そこにあるべき色を逃したのは杏ちゃん自身なんですよ、と李一は微笑んでいる。微笑みながら、瞼が濡れているのを感じる。飢えた狼の鋭さを備えた呼吸に、つとめて人間的な声を出そうとする。

「杏ちゃんが紅ちゃんに会おうとしないのは、あれのせいじゃなくて、ぼくが弱くなくなったからでしょう」

 あの脆い極彩色を見て、李一はすべてを悟った。生まれ直したように、これから先の人生をどうすべきかがわかった。今すぐに動かなければならない。羊水じみたガラスのなかで泳いでいられない。

「ぼくは時間を手に入れた。もう世界は怖くない。怖いのは根なし草の杏ちゃんのほうでしょう?」

『………っ』

何か反駁しようとしたらしい喉が息を詰まらせる。ベッドが軋る音がする。

「ぼくを守る必要がなくなって、杏ちゃんの鎧は壊れてしまった。どうしたらいいかわからないんでしょう?

 着飾って、吠えて、でも守るべきものはもういない。

 きみはいま、脆くて、孤独です」

 追い詰めて、追い詰めて、追い詰めて、そして突き落とす。舞台の上から。そうすればきっと手に入るから。

「ね、杏ちゃん」

 戻っておいで、と言う前に、嫌な音がして、ぶつりと通話が途切れた。李一はけらけらと笑う。相手がしびれを切らしたのか、杏一本人が投げ捨てたのか。ひび割れた液晶を想像して笑い続ける。

 杏ちゃん。

 杏ちゃんはママによく似ていますよ。

 痩せ細った腕も、切れ長のまなじりも、真っすぐな髪もよく似ていますよ。

 世界のどこへ逃げようと、古い鏡を壊そうと、どうしてもそれは変わらない真実なんです。

 幸いなことに、ぼくには手が二本あります。元素でいうなら、電子ふたつ。

 一本はもう、桃色のケミカル・スターのためにあげちゃいましたけど、もう一本の手はあけておいてあげますから。

 いつか幕が引かれたら、戻ってくるといいですよ。

 そしたら踊りましょう。暗闇の中で。カーテンの裏で。

 今度はきちんと三人で、薄紅のおもかげがある桃と、李と、杏で、ラスト・ダンスを踊りましょう。

 それがきっと、ぼくたちのしあわせだから。

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