エピローグ、あるいは喪失の記憶の断章  中篇

 人体模型共。

 杏一が他人を指して呼ぶ言葉だ。昔は「不細工ども」だったが、もっとグロテスクで醜悪なビジュアルのものを探した結果、人体模型に落ち着いたらしい。

「醜いだけじゃない、木偶で、本性が剥きだしなことに気づいてない愚かなところもだ」

 母の鏡台の前でバンダナを結びながら杏一は言う。カーラーでサイドヘアを巻き、二つに結い上げる。まるで獣の耳のようなヘアスタイル。

 奇抜な恰好をした杏一が、群がる好奇と嘲笑の目を刃物のような声で罵倒するのは、狼が全身の毛を逆立ててうなっているようだ。

「あの屑ども、め…!」

 "人体模型ども"に殴られたのか、切れた口の端をさらに噛み締めるように杏一は低く呻く。李一はそっと彼の頬を撫でた。子供らしからぬ尖った線の輪郭が悲しかった。 

「りっちゃん、りっちゃんはいじめられてないか?」

 まるで子どもみたいに幼い呼び名を口にする杏一は、母と同じように痩せこけていた。李一は微笑んで頷いた。母のショールを巻きつけた肩の痣を隠しながら。

 杏ちゃん。むかしの杏ちゃんはぼくのこと「りいち」って呼んでましたよ。

 りっちゃん、だなんて、そんなママみたいな呼び方は、しませんでしたよ。

 小学校高学年になれば、わけもわからず異質に怯えていた幼さは無くなり、代わりに偏見と軽蔑にまみれた狡猾さが子供たちに宿るようになる。双子――主に杏一と、周囲とのぶつかり合いはますます激しくなっていっていた。

「あいつらは醜い」長く伸ばした髪を水玉模様のバンダナでまとめ、杏一はきっぱりと言う。だから僕たちは美しくあるべきだ、とでも言うように、十一歳の杏一の不健康な青白い顔立ちは、人形的な整い方を見せ始めていた。女のような――母のような――容貌。

李一は、まだ充分に子供じみた輪郭の自分の顔を、母の鏡台で見つめながら、杏一に現れ始めた美しさについて考えた。

 美しさは遺伝する。なら、不幸はどうなのだろう。


 不幸は遺伝というより性質である、と李一は翌々日に結論付けた。

 黒は女を美しく見せるという。

 ぽたぽたと垂れる黒い滴を見つめながら、李一は心のなかで呟いた。

 なら、痩せこけた少年はどうなのだ?

 墨汁の匂いは嫌いではなかったが、今は猛烈に吐きそうだった。髪や、服や、体からしたたる墨が、足元に黒い水溜まりをつくっていた。母のカーディガンはぐっしょりと、あまりに多くの黒に濡れていた。せっかくやっと肩が落ちない程度に成長したのに。

 李一の背後から墨汁をかけた人物はとっくに姿を消していた。誰がやったのか探すなんてことは意味がない。どうせ誰もが敵だ。

 李一は通学路で立ち尽くしていた。頭上では、白い花がつめたく甘い匂いを振りまいている。このまま帰れば、杏一が怒り狂う。たまたま一緒に帰らなかった自分自身を呪う。かといってこのままでもいられない。近くの公園まで行って洗おうと思ったところで、背後から驚いたような声をかけられた。

「李一?」

 振り返ると、そこにも黒い少年がいた。黒い髪、黒い真新しい学生服。蘇芳紅一だった。切れ長の目を見開いて李一の姿を見つめていたが、やがて、唇を引き結んで、ポケットから取り出したハンカチでそっと李一の顔をぬぐった。

 誰にされたの、とは聞かず、こっからなら俺の家の方が近いから、と李一の手をそっと掴む手の甲の白さにめまいがした。



 青々とした畳の上で、頭からしずくを垂らしながら、李一は呟いた。

「紅ちゃんは、なんでぼくたちといるんですか?」

 丁寧に洗濯ものを畳んでいた紅一は、ゆっくりと李一をほうを向いて首を傾げた。

「なんでって、なんで?」

 李一はため息をついた。やっぱり、紅一はこういう人間だ。

 一才年上の彼は、だんだん、切れ長の眦や手、首筋に、大人びた影が宿るようになっていた。ぷくぷくしていた手足はしなやかに伸びて、横顔には憂いが見え隠れした。けれど、真っすぐにこちらを見てくる目の奥の色だけは、昔と変わらない。

「それは道理に合わないんじゃないか、な? 親と子がまったくの無関係だとは思わないけど、親の職業とかで、人間の価値って変わるもの?」

 変わるんですよ、と心の中で返した。家庭がすべてなのです。

「李一の母さんって、犯罪やってるわけじゃないだろ。真っ当に、お店で働いて、お金稼いでるだろ。なんでそれを悪く言うの」

 水商売というのは、法的に問題がなくても、社会的には問題とみなされるんですよ。

「それってやっぱり変じゃないかなあ。よっぽど、その…あ、あの、…いかがわ、しい内容ならわかんないけど、悪いことしてないし、おしゃべりするだけ、みたいな認識じゃだめなの?」

 認識っていうのは個人の持ち物でしてね、紅ちゃん、誰もがあなたみたいに考えるわけじゃないんですよ。

「……」

 紅一は黙って、俯いた。洗濯物を畳む手が止まっている。振り子時計の音だけが響いている。

「……俺、世間知らずだから……」

 苦しそうに呟いた。なにも言えず、李一はよく手入れされた畳に目を落とした。

 洗濯機が回る音が、遠くから聞こえる。

「ごめんなさい、洗濯」

 頭を下げると、紅一はかぶりを振った。「俺も体育着洗わなきゃいけなかったし」紅一は中学では陸上部に入ったのだそうだ。李一は、彼に「喧嘩して墨をかけられた」と微妙に嘘をついた。一方的なものだと知られるのはまずい気がした。

「……でも、やっぱりおかしいだろ」

 洗濯物を畳むのを再開しながら、紅一は、小さくともきっぱりとした声で言った。

「おかしいことはおかしいって言わないと」

「言ってもむだですよ」

「う、……諦めちゃだめだろ」

「なんべんもやったですよ。それに口下手で知れてる紅ちゃんに言われたくないですよ」

「た、確かに……」俺、咄嗟にことばが出てこないタイプだけど…と紅一は首を傾げた。

 李一は、理論で抗うという選択肢についてじっと考えていた。

 噛みつかれるから噛みつき返す。それではこちらも血を流すばかりで、やがて数の多い相手に倒される。

 別の方法をとらなければならない。

「李一頭いいから、どこがどう正しくないのか、ちゃんと言えるよ。そしたら、たぶん相手も自分が悪いってことがわかるんじゃないかな」そうすれば、仲良くなれるかも、という平和ボケした後半は聞き流しながら、李一は俯いていた。

 力では勝てない。

 生半可な言葉、考えでも勝てない。

 学ばなければ。

 相手を打ち負かせる知恵を、知識を、身につけなければ。

 これは闘争だ。精神の闘争だ。

 瞼にちらつく黒の幻を睨み付けながら、李一は繰り返した。

 学ばなければ。



 精神の闘争には、心の鎧が必要だ。

 物心ついた頃からよりどころだった母の服は、やがてファッションという名の武装へ変わっていった。

 きらびやかに着飾る行為は、獣の威嚇に似ていた。

 鏡台を見て、お互いを見る。武装完了。李一は昔からの表情で微笑みをつくる。杏一は角のように立てたバンダナを揺らす。

 色彩の獣にならんとする双子に時おり囁き声をかけるのは、やはり、幼い日に七竈の木の下で出逢った子どもだけだった。

「プラネタリウムに行こう」

 はにかむ表情が、昔とまるで変わらない蘇芳紅一だけが、双子の友人であり続けた。

「紅ちゃんは、ちょっとおかしいのかもしれませんね」

「あいつがおかしいのはとっくにわかってたろ」

「そうですね」

 あいつはちょっと、生まれる場所を間違えたみたいな、と、下校中のアスファルトの上に落ちている赤い花を見つめて杏一は呟く。

「どこに生まれれば良かったんですか」

 李一の質問に、杏一は答えなかった。黙って、道の先に見える、遠くの天で燃ゆる夕暮れを見つめていた。首筋には、新しい痣があった。

 緑おおわれた一軒家に住んで、両親と祖父母と曾祖母と暮らしていて、幸せを疑ったことのないような少年。

 李一はぎゅっと手を握りしめた。

 そんな紅一は健康に背が伸びて、中学では周囲と少し段差ができるくらいだった。十二歳になった杏ーも、背は伸びた。首や手足が細くて、関節がごろりとした、不健康な背の高さだった。二人の後ろに引っ込んでいた李一は、まだ女の子と間違われるほど小さかった。小さなその頭で、猛烈に勉強した。図書館にこもり、面食らう教師をつかまえては質問を繰り返した。

 知識という弾薬を蓄えながら、それでも李一はまだ少し世界に怯えていた。硝酸カリウムに砂糖を混ぜて点火すれば爆発物ができる。理科の趣味本のその一文に線を引く。メタノールには強い毒性がある。線を引く。

「りっちゃんはどうしてそんな勉強するんだ」

 声変わりの最中の、かすれきった声で、杏一はどこか不安そうに尋ねた。西日のわずかに差し込む焼けた畳の上で、飽かず図書館から借りた図鑑を繰っていた李一は、「"ちはちから"なのです」と小さな声で返した。

「そんなことしなくても、僕がお前を守るよ」

 だって僕達は兄弟なのだから、と、かすれてほとんど出ない声で、杏一は言った。


 色彩の獣のまま双子は中学生になった。早熟な十二歳の杏一は、季節が駆け足で過ぎていくように急速に尖っていった。頬も、顎も、眼差しも、痩せぎすの肩や腰の骨は夜ごと軋むようだった。

「こんなに大きくなっちゃうのねえ」

 珍しく、朝方に目を覚ました母が、身支度をしている双子を見てくしゃっとした顔で笑う。涙のような薄いシミが、右目の下にできていた。杏一は何も言わずに、髪を角のようにまとめあげたあと、冷蔵庫を開けてそっと冷やしあめを出して、母の前に置いた。

「ああ蘇芳さんとこの。……いつも悪いわねえ…」わるいわねえ、と二度繰り返した母は、そのペットボトルに、申し訳程度に口をつけたあと、李一の前にそっと押し出した。

「あんたもきっとすぐにあたしを追い越すのね」りっちゃん、と額を額をそっと合わせた母の首筋からは、安い香水と枯れた花のような匂いがした。そして、掠れた声でこうささやいた。

「あたし、あんたたちが大きくなってもだいじょうぶなようにするからね…」

 母より小さかった李一は、そんなことを言う彼女が縮んで消えてしまうような気がして、ぎゅっと抱きついた。

 大きくなるということ。

 第二次性徴……男性ホルモンが分泌され、声が低くなり、生殖能力を持つようになり……。

 夜、布団の中で、李一は、まるっこい自分の手足を見つめながら呟いた。本で読んだ内容を繰り返し反復する。

 双子だったはずなのに、李一と杏一の身長差は今や十センチになろうとしていた。双生児について調べる。二卵性双生児。なんだ、ただの別々の存在じゃないか。おなじひとつの命だと信じていたのに、こんなことって。

 寝返りを打つと、畳の感触がありありとわかる。そっと手を伸ばすと、隣の布団は冷えていて、カーテンを閉じていても防ぎきれない白っぽい月光の破片が、残酷に部屋に這入りこむ。視界の端の鏡台が水面のように輝いていた。

 杏一は、十二歳を過ぎた頃から夜に出歩くようになった。週に二、三回だったのが、四回、五回と増えていった。

 どこに行っているんだろうと思っていた。水の底みたいな夜。母が働く繁華街? それならいいのに。声をかける勇気がなくて、布団のなかで膝を抱えた。母が帰ってきて、杏一は? と動転した声で訊かれたときも、思わず「友達のところ」と返してしまった。

 中学校ですら休みがちな彼に、李一は明確な不安を覚えていた。

 ある明け方、杏一は、大きな黒いバッグを背負って戻ってきた。まるで獣がとらえた獲物を巣穴に持ち帰るように。疲れて眠る母の横で、彼はその中身を李一に見せた。

「ギター…?」

 尖った二本の角をもつ、奇妙な形に、李一はウニの発生におけるプルテウス幼生を思い出した。

「もらった」

 言われてみれば、確かにボディに細かな傷がついているそれは使い古しにも見える。

「誰にですか」

「知り合い」

 杏一はすぐにギターをバッグにしまう。彼はそれ以前にも、CDコンポなどを「もらって」きていた。

「杏ちゃんはいつもどこに行ってるんですか?」

 震える声でとうとう問いかけた。ぎらりと、こちらを見た杏一の目が、朝焼けのなかで紅く光った。

「…………戦場だ!」



 杏一は、中学生という素性を隠して、アンダーグラウンドなライブハウスに出入りしていた。李一を庇うせいか、やたらと高くなった背丈だけなら、確かに彼は不健康な青年に見えた。

「杏ちゃん」李一は驚いて問いかけた。「なんでそんなことするんですか」

「僕は人体模型どもを壊すのだ」低くしゃがれた声で杏一は呟く。

「音楽とは、やつらを倒す武器なのだ」

 十二、三の子どもが、と笑い飛ばせるような雰囲気ではなかった。

 ある晩、杏一に手を引かれて、下った先のアンダーグラウンド・ライブハウスで、李一はそれを思い知った。

 ぼろぼろのエレキギターをつぎはぎして、真っ赤な水玉模様をペイントして、色彩の鎧をかざしてバンダナで長い髪をかき上げる。そしてマイクを壊すような声で咆哮する。獣が怒り狂うように。尖らせたギターのヘッドを客に突きつけて絶叫する姿は、手あたり次第にマシンガンをぶっ放してるみたいだった。音楽で撃ち殺される若者たち。あたり一面血の海だ。

 すべては精神の闘争である。ならば弾丸も、音楽や言葉であるべきなのだ。

 ギターヘッドを構える杏一に、李一は戦場の子供兵士を連想する。そしてその恐ろしい想像に身震いする。

 巨大な寸鉄のような咆哮に、心臓が竦む。

 杏ちゃんは、その音楽で誰を殺したいんですか?


 冬が近づいている。中学一年生の冬。痩せた母と、帰らない兄と、影法師のような父のことを考えながら、李一はぼんやりと歩道を歩いていた。そしてそんな自分達家族と、どうしても相対的に浮かび上がるのは、蘇芳紅一だった。

 妬み嫉みがないといえば、嘘になるのかもしれない。自分達が彼のような家庭ならば、と考えたことは数えきれないほどあった。

けれど、李一は――そして恐らく杏一も――彼の、どことなくとらえどころのない雰囲気に気づいていて、その幼さともいえる部分には、李一は言い知れない恐ろしさのようなものを感じていた。

 純粋すぎる感性が滅ぼすもの。

 考えながら歩くと、ふと、聞き覚えのある声が聞こえて、前を向いた。

 少し行った先の曲がり角で、紅一と杏一が、向かい合って話しているのが目に入った。彼らの背丈は同じくらいだった。

「李一」

 李一に気づいた紅一が嬉しそうに呼んだ。中学を休んでいた杏一も、李一を見て頷く。

「今、杏一が、家に来ないかって誘ってくれたんだけど」いい? と紅一は首をかしげた。「テスト前だから練習ないんだ」

 李一は少なからず動揺した。咄嗟に返せず、思わず兄の方を見る。「杏ちゃん」いいんですか、と目で訴えた。杏一は痩せた肩をそびやかし、いいだろというように首をかしげた。長い髪が揺れる。

 躊躇いながらも、結局李一は頷いた。紅一なら、と思ったのだ。それでも脳裏にちらつく焼けた畳、無い家具、くすんだ天井などが不安を誘った。

 音に聞くのと実際に見るのとでは違う。あの透明な目の奥に、少しでも哀れみなどが見えたなら、と思うと、道中の足取りは鉛のようだった。

 明らかに貧しさを漂わせる安アパートの一室に入っても、紅一は何も思わないようだった。「俺、杏一と李一の家に来たの初めてだな」とはにかんでいた。やっぱり彼はすこぅしばかなのかな、と、李一は安堵した胸を抱えて思った。人間はばかなほうがいいなあ、としみじみ考えた。

 入るなり、杏一は荷物を投げ出すと、部屋の隅にあったCDコンポを引き寄せた。李一がぎょっとするほど性急に、しかし慣れた手つきで、一枚のCDをかけた。

 荷物も下ろさずにいた紅一が目を瞬かせた。展覧会の絵だ、と小さく呟いた。耳慣れたプロムナード。パイプオルガンの音が安アパートに響く。

 しかし、直後に、手酷い裏切りのような雷鳴。紅一がびくんと撃たれたように震えた。杏一が曲目を変えたのだ。シンセサイザー、ドラム、ギターの銃撃。

 ついぞ聞いたことのない音量で、シンセサイザーが吠える。オルガンの絶叫が耳をつんざく。

「お前はこういうのは知らないだろう。お綺麗な育ちだからな」杏一は足でコンポを蹴り、横倒しにする。その拍子に曲が変わる。ブルースヴァリエーション。

 ぐい、と紅一のシャツを引っ張った。バランスを崩した紅一が引き寄せられ、されるがままになる。杏一が彼の顎をとり目を覗き込むと、は、と熱に浮かされたような吐息を洩らした。強い麻薬を打たれたように体が震える。体内を穿つ音のうねりに翻弄される。その瞬間、身の凍るような――悪魔のような目をした杏一は、紅一の耳元で低く囁いた。

「僕が教えてやる」

 李一は咄嗟にコンポに駆け寄り、コンセントを抜いた。一瞬で静まり返る室内に、力の抜けた紅一がへたり込んで荒い息をつく音が響く。

「……少し音が大きいんじゃありませんか、杏ちゃん」

 李一が押し殺した声で言うと、憑き物が落ちたような顔をして、杏一は床に落ちているプラグを手に取ってしげしげと見つめた。

「……びっくりした」すごい、と、紅一は呟いた。頬は上気して、目は少し潤んできらきらしていた。「ELPだ」杏一はCDジャケットを見せる。「ハードというよりプログレだがな」少し自慢げに言う。普段、李一に見せるような顔だ。李一は混乱した。今見たあの表情は? 紅一を捕らえたときのあのおかしな空気は?

「僕は、弾くぞ」こういうのをな、とCDを爪で叩いた。

「杏一、音楽やるんだ」

「そうだとも」

 僕はギタリストだ、と、部屋の隅の黒いバッグを指した。

「なんてバンド?」

 まだ少しとろんとした目で、紅一は尋ねた。杏一は「ライブハウスに来たら教えてやる」と歪んだ笑みを浮かべ、李一には教えるなよ、というような表情をした。

 李一はぞわぞわと背筋をはいのぼる嫌な予感に身震いした。窓から指す赤い西日が、三人分の影を古びた畳の上に黒々形作っていた。

 もし自分が早く帰ろうとしなければ、ここで何が起きていた?

 故意ではないだろうが、しかし、きっと――怖ろしいことが。

 普段は三人のうちでもっともよく喋るはずの李一が黙りこくって、もっとも喋らないはずの杏一が、いくつかのCDを片手に、低い声で紅一に話し続けていた。紅一は杏一の話に熱心に耳を傾けていて、杏一はそれを望んでいるように思えた。

「あ、俺今日は米研ぎの当番なんだ」

 腕時計を見た紅一が荷物を担ぐ。虚を突かれたように、李一は「え」と声を漏らしてしまった。杏一はふんと鼻をならして、ひらっと手を振った。

「杏一、李一、ありがと。じゃあ」

 ちょっと笑うと、紅一は音もなく扉の隙間から部屋を出た。扉がしまる。

 とんとんとん、と、体躯のわりにいつも軽い足音が遠ざかっていく。

 安アパートでは、部屋の外の音もよく聞こえる。今鳴らした音楽も、あとで苦情が来るだろう。

「杏ちゃん、なんのつもりですか」

 足音が消えるなり、自分でも驚くほど鋭い声が出た。

「なんのつもりって、何がだ」

「どうしてこんなことをしようと思ったんですか」

 杏一は顔をしかめると、急に何を言い出すんだとばかりに低くうなった。「…あいつが、音楽は知らないというから、思いきり驚くようなのを聞かせてみたかったんだ」

 李一は口をつぐんだ。別に、問題のない範囲の理由だったからだ。けれど、胸中は未だにざわざわとしている。でかい音は悪かった、と杏一は謝り、しかし直後には普段の彼らしく傲然と肩をそびやかした。

「りっちゃんだってあいつを世間知らずだと思うだろ」

 大体、音楽を聴かせることの何が悪いんだ、と杏一は言った。その目は純粋に不思議そうだった。李一は咄嗟に返そうとして、言葉に詰まる。

「何も――何も悪くないのかもしれません」

 杏一はますます訝しげな顔をした。先程までの様子とは別人のようだ。そう、さっきまでの杏一。蘇芳紅一を捕らえた彼は、異様だった。李一は思い返す。

 逃がさないと言わんばかりに、紅一の体を拘束していた杏一。

 李一にはけしてあんな態度を取ったりはしない。

 まるで、――喰らおうとしているようにみえたから。

 その夜も杏一は出掛けた。ギターを背負って、朝になっても帰らなかった。母には、友達のところだと言った。母は隈のできた顔でそう、と頷くと、りっちゃんは友達のとこに行ったりしないの、と訊いた。李一は曖昧に微笑んで黙っていた。



 それから一週間後だろうか。

 李一は、ときどき気が向くと家にまっすぐ帰らない。図書館に行くわけでもなく、ただぶらついて息抜きをする。

 その日も、駅ビル近くで少し時間を潰してから、放課後を楽しむ学生の海を泳ぎバスターミナルに向かった。そこで、蘇芳紅一と出くわした。

 バスを待つ列に並んでいた彼は、李一に気がつくと控えめに手を振った。

「李一」

「めずらしいとこで会いますね、紅ちゃん」

 自分より大分高い位置にある頭を見上げながら言うと、紅一はこくんと頷いて、「……これのために」と、鞄からそっと一枚のCDを取り出した。買ったばかりのようで、ビニールがかかっている。U2だった。

 俺、あんまりロックとか詳しくなかったけど、とU2のアルバムを両手で持った紅一はちょっと笑った。「こういうのもいいね」

 聞いてるとどきどきする、と少し目元を染めて呟いた。

 李一はぞくりとした。彼の目に、どこか陶然とした、強い音に征服されることの快楽を味わっているような色が見えたから。

 杏一は、彼にとんでもないものを教え込んだのかもしれない。

 紅ちゃん、音楽とは弾丸なのですよ。

 それはきみを傷つけるものかもしれないんですよ。

 李一がそんな思いにとらわれながら、表面上当たり障りのない答えを返しているうちに、学生でごった返すバス停にバスが到着した。人の波に押され、二人はバスのばらばらの席に座った。通路にも学生が雪崩れ込み、紅一の姿は見えなくなる。紅ちゃん、ねえ、と心のなかで呼びかける。どうしてきみはそんなに無防備なんですか、と。

 家に近づくにつれ、バスのなかから人が減る。それぞれの校区の外れにある紅一の家と双子のアパートは、いつでも長らくバスに揺られた末の薄暗がりの向こうにあった。

 七竈の真っ赤な実が窓を叩いた。まるで血しぶきのように。

 バスから学生がいなくなっていく。李一の通う北中の紺の学生服も、紅一の通う東中の黒の学生服も、ひとりずついなくなって、いつしか臙脂色のびろうどが目に沁みる車内には、紅一と李一だけしかいなかった。

 昨晩からどこかへ出かけたままの杏一に心の中で呼びかけながら、李一はちらっと紅一のほうを見やる。ごく一般的な男子中学生のような姿をして、彼はバスの後部座席に座っている。

 無造作な短い黒い髪。七竈の花のように白い肌に、七竈の実のように紅い唇…ぽつりと鮮やかな、目元の泣きぼくろ。

 あ、不吉だな。と、思った。なんとなく。

 彼の黒い学生服からは、つめたい冬の花のような匂いがする。

 脳裏に浮かぶ――白粉をはたいた肌と、ぬるりと口紅を塗った唇。きつい、安い香水の匂い。

 李一はマフラーに顔をうずめた。母の匂いがする。編み目がゆるんで、ほつれてしまいそうな母のマフラー。一房染めた前髪や、制服につけたアクセサリなどと不釣り合いな、素朴なマフラー。

 これは武装だ、と李一は呻く。精神の弾丸を防ぐための武装。そうでしょう、杏ちゃん、と呟く。熱病のようなくれないの水玉に溢れた杏一と自分。

 そんな二人に無防備にふれてくる、蘇芳紅一。

 李一はもう一度彼を見た。

 どうしてこうも無頓着でいられるのだろうと感嘆するほど、飾り気のない姿。

 磨かれていない石炭のような――けれども、紛れもなく整った容貌。

 あまりに無垢ないろをした、透明な夜の瞳。

 彼に感じる違和感の理由に、李一は気づきつつあった。


「紅ちゃんは、やっぱり少しおかしな人ですね」

 夜半、夕刻に帰ってきてから珍しく出掛けずにいた杏一に、李一は話しかけた。

「僕たちと関わる人間がまともであるものか」

 カーテンをまくって夜を睨みながら、杏一は低く洩らした。

「生まれる場所を間違えたんですね」

 いつか杏一がいった言葉を口にすると、杏一はくつくつと喉の奥で笑った。

「あいつはおそらく、この世に生まれるはずではなかったのだ」

 李一は黙っていた。杏一の言うことが、ひょっとしたら正しいのかもしれないと感じ始めていたから。

 覗き込むとはっとする、あの瞳。

 この世に生まれるはずではなかったから、いくつも足りないものがあって、それがあの透明なのだろうか。あのはにかむ表情なのだろうか。「プラネタリウムにいこうよ」色彩の獣に無防備に触れる危うさなのだろうか。

 李一は、母の鏡台に目をやった。古びたそれは、いつでも疲れきった母の姿と、武装した双子の姿を映す。

 いつか鏡越しに見た、母の黒く濁った瞳を、忘れられない。

「あいつはばかだなあ!」

 杏一は夜に向かって、大きな声でいった。内容にも関わらず、その声はあまりにも、いとおしそうだった。

 ねえ杏ちゃん。

 杏ちゃんは紅ちゃんの不吉な美しさに気づいていましたか。

 ぼくよりも早く。

 影があの世にいるような、魂が半分しかないような、あの瞳に。

 あなたは恋をしていたんですか。


 この世の苦しみにつかれたママの瞳を見ることが、つらかったんですか。

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