エピローグ、あるいは喪失の記憶の断章  前篇

 ガラス玉を星のかけらと思いこめる感受性は、その星のかけらの鋭い刃先でみずからの心を傷つける。/寺山修司




「こんばんは。よい夜ですよ」

『こちらもだ』

「今どこにいるんです?」

『…台湾』

 電話越しの双子の兄の声は遠くて砂にまみれている。「高校ちゃんと卒業できるんです?」

『さあな』

 この間はベナレスだかにいた双子の兄は、かすれた声で吐き捨てる。

『……お前のタイムテーブルは順調なのか』

「もちろん」

 李一は軽く笑って手帳を開け閉めする。ぱたん、ぱたんと鳴る音は潮風に揺れる自室の窓と似ている。

「今日、紅ちゃんに会いましたよ。恋をしていました」

 杏一きょういちは返事をしなかった。長く垂らした髪が受話器を撫でた音がする。

 少し意地悪だったかなと李一は声を柔らかくして言った。「自覚はないですし、ちっちゃな子どもみたいな恋ですけど」

 それがどうした、と、わずかな間をおいて返してくる声は砂にさらわれて震えている気がした。

 李一はけたけた笑った。いいえ、なんでも、なんでもありませんよ、と返す。薄くすがれたカーテンを持ち上げて、天を盗み見た。夜空には星一つない。奇妙に白々した月の気配だけが、何もない部屋にいびつな三角形に差し込んだ。

 畳の上にはMacBook Proがスリープ状態で、画面を奇妙な色に光らせている。その横にはスマホと、ピンクの手帳。

 窓を開けると、がらがらとサッシが鈍い音を立てた。ぶわりとぬるい風が顎の下をなでる。女の手みたいな風だ。狭いベランダに裸足で出ると、水中の髪の毛のような黒い闇が細くまとわりついてくる。喪服の列のように点々と建物の影が夜に浮いていた。水の底みたいだ。

 電話口から、こちらの風が向こうにも届いたようだった。ざらりと砂の音。

「杏ちゃん、寸鉄事件のことおぼえてますか」

 電話の向こうで煙草のけむりを吐く音がした。『……勿論』

「紅ちゃんは忘れてるみたいですけど」

『当事者が呑気だな』

「むしろ当事者だから忘れたんでしょう」

 ベランダに風が吹く。潮と錆の匂いが、ネオンサインのような李一の髪にとろりとまとわりつく。重たい夜半の風だった。

「ね、杏ちゃんは恋してますか」

『……僕にそれを訊くか』

 麻の擦れる音がする。その重なりと杏一のかすかな吐息で、ああ、誰かと寝ているんだなと分かった。構わず続ける。

「紅ちゃんとは入学式でも会いましたし、学校でも何度かすれ違いましたけど、今日はどうしてか新鮮で。プラネタリウムのあと逢ったからでしょうか。なんだか昔のことを思い出しちゃいました」

 獣のうなり声のような、かすかな声がした。杏一なりの返事なのか違うのか。そんなのは関係なく、ただ頭に浮かんだことをつらつら並べ立てるように、李一は喋った。「覚えてますか。ねえ。初めて会ったときのこと。杏ちゃんが、紅ちゃんをぶったの」

 

 胸元のチューリップの名札。淡いブルーのスモッグ。ぷくぷくしたちいさな手足。そのあたりの記憶は、実は茫洋としているのだけれど――ばちりと、時々切れかけの蛍光灯が爆ぜるように、鮮明な光景が混ざる。

―――りいちくん?

 寒い冬の園庭の、七竈の木の下だったような気がする。外だというのに絵本を抱えた、大人しそうな子どもが、李一の名札を見て不意に話しかけてきた。

 そのときはめずらしくひとりで、木の下にあるアリの巣を見つめていた幼かりし李一は、そうですよーとにぱっと笑った。まだ自分の背負うものを知らない表情で。

―――びんごでびんごできなさそうななまえ。

 今から思ってもこれはどうなんだという感想だが、当時の李一にとっては、それはなんとも絶望的な宣告のように思えた。だからつい泣きだした。そうすると大人しそうな子どもは慌てて、本を足元におとして「な、なかないで…」と李一を慰め始めた。黒っぽい瞳が、ちらちらと木洩れ日を吸って、きれいな木の実のように光った。ちょうど自分たちの上で揺れていた紅い実のように。

 その瞬間、野犬のように園庭を走ってきた杏一が、大人しそうな子どもを殴り倒した。李一はびっくりしすぎて泣きやんで――目の前に立ちはだかる杏一のスモッグと、ぽかんとした顔でうずくまる子どもを見ていた。

「りいちをいじめたのはおまえか」

 獣のうなりのような声と、幼児らしからぬ剣幕で、杏一は子どもを仁王立ちで見下ろしていた。

 やがて、子どもの黒い瞳が、急激に潤み――ぽろっと水が落ちた。透明な夜がこぼれてしまったように。ちいさな泣きぼくろの上を伝ったその涙に、七竈の実の紅が瞬いていた。それを見ているうちに、不意に、胸の中に、奇妙な気持ちが広がった。

 当時も――そして今も、その奇妙な感覚に名前はつけられないのだが――喩えていうなら、金魚鉢が割れる瞬間のくれないをみたとき。あるいは、線香花火のさきで燃える夏が弾けるのをみたとき。あるいは、白い雪を積もらせた真っ赤な実が、ふいに落ちるのをみたとき。

 あ。

 うつくしいものが、壊れた。

 と、時間が止まり、ただ、ただ、世界が静かになるような――そんな気持ち。


 その次の明確な記憶は、実は初夏まで飛ぶのだが――真新しい黒いランドセル。そこまで時は経っていないと思うのだが、ちょうど紅一が小学校へ入る年だったのだろう。卒園間近、あのとき七竈の下で出逢わなければ、二人の人生にここまでの関わりはなかった。

 通学路だ。頭上で、白い花が、つめたくて甘い匂いを振りまいている。

 ぼくたちみんな、なまえに一がつきますけど、と、杏一の紅一引っぱたき事件から仲直りするときに話題になった事実を引っぱりだしながら、李一は話しかけた。「こうちゃんはなんでこういちなんですか?」

 睫毛の長い切れ長の目を瞬かせて、おっとりと紅一は口を開いた。

「おれ、冬にうまれたんだけど、その日に庭に、きれいな紅い実がたくさんなってたんだって」だから、紅一、と、彼は涼しげな態のわりに朴訥とした口調で喋った。真新しいランドセルの黒が、ふっくりとした白い頬によく映えた。

「おそろいですね!」うへへ、とスモッグを着た李一は笑った。「ぼくと杏ちゃんのなまえも木のなまえなんですよ!」

 きょうだいみたいですね!

 隣に立っていた杏一が、きゅっと李一の手を握った。…それは当時の杏一の、嬉しさを隠そうとするときの癖だった。

 初対面でいきなり年下の子供に引っぱたかれたにも関わらず、その後もおっとりと話しかけてきた蘇芳紅一と藤原兄弟は、家が近いということもあり、それから朝の時間を共にするようになった。祖母が彼の手を引いて、幼稚園のバスが止まるところまで連れてくるのだった。そしてそこで少し、立ち話をする。

「あ、りいちくんときょういちくん、幼稚園のバスくるよ」

「はぁい」

 ばいばい、と、紅一に手を振って、李一は杏一としっかり手をつなぎ直した。この頃はまだ知らない。まだ知らない。幼稚園に通うような子どもがふたりだけでバスを待っていることのおかしさを。親の送り迎えのない自分たち。


「ママねえ、名前桃子でしょ。これ、お母さんが――あんたたちにとってはおばあちゃんだけど――ママが生まれたとき、庭に桃の木植えてくれたのよ。それで、あたしにもおんなじ名前をつけたの」

 錆びた風の吹くアパートで、母は双子を抱きしめた。痩せ細った腕からは白粉と安い香水の匂いがした。やわらかい肉のある胸元と、硬い鎖骨が身体に押しつけられ、その違いに少しだけ困惑した。母の肩は骨が浮いていた。

「だからあんたたちにもね、ほんとなら木植えてあげたかった。でもこんなとこじゃむりだからさあ…いつかね…いつか引っ越して、お庭に木、植えてあげるからね…すももと、あんず……植えて、あげるからね……」

 母は泣いていた。酒に焼けた声は震えて、化粧を落とした薄茶色の頬には涙の筋があった。酔っていたのだろう。普段から涙を見せることはほとんどない母だった。

 一度もあったことがない「おばあちゃん」のことや、桃の木が植わっていたという母の生家の姿などをぼんやり思い描きながら、李一は、自分たちの生活に巣食っている暗い影のことについて考えていた。重みというより、むしろそれは空虚を際立たせる…家具のない部屋。罅割れたコンクリートのアパート。たびたび教師から渡される封筒。

 母は昼近くまで眠り、それから起き出して、疲れた重たい肉体を引きずって鏡台の前に座り、顔を作っていく。白粉をはたき、ラメの入ったアイシャドウと、頬紅、眉をくっきりと描いて、ぱさぱさの髪をシニヨンにまとめあげ、くたびれたじっとりした赤のドレスを着た。朝、起きられれば双子をバス停まで送ることもあったが、双子は母を起こさないように身支度するすべを身につけた。

 小学校に入って少ししたころ、杏一が、ある日、母の箪笥から出した白地に赤い水玉模様のスカーフを、髪に巻いて登校した。角のようにぴんと立った結び目の先が、自分の数歩先で揺れているのをよく覚えている。自分は、大分前に買ってもらったシャツの上に、母のカーディガンを羽織っていた。袖も裾も垂れていて、薄いすがれた布地は砂利道を透かして風に踊らされていた。

 なあ、なんでおまえらいつも女の服ばっかきてんの。

 なんでおまえらお父さんいねえの。

 なんでおまえらのお母さん夜にでかけるの。

 そんなふうに面と向かって訊くほど真っすぐな性根の子どもはいなかった。けれど、こちらを見てくる単一な黒茶けた瞳の群れは、驚くほど底が読みやすくて、杏一は角のように立てたスカーフを揺らして吠えた。あっちへいけ、不細工ども! 僕たちはお前らとは違う、特別な生きものなんだ!

 吠え続ける杏一の背後で、身を小さく硬くしながら、お父さんならいるもん、と李一は思った。別のとこに住んでるだけで。月に一度、会うんだもんと言った。嘘だった。別のところにいるのは本当だった。母がそう言うのだし、実際に何度も手紙や些細な金がきた。一度か二度、ファミレスで会ったこともある。凡庸な男だった。どうして母はこの男を愛して、別れたのだろうなあ、と子供心にも不思議に思った。そのどちらにも値しないような、影法師のような男だったから。

 母と同じ、安い香水の匂いをまとった双子は、動物の群れの中に紛れ込んだ幻想世界の生きもののように、ぞわりと異形めいて浮き上がっていた。

 ふじわらさんちのことあそんじゃだめよ。

 どうして。ぼくりいちくんときょういちくんとともだちなのに。

 だめよ、あのいえはね、おかあさんがね……。

 実際にこのような問答があったかは知らないがまあ似たようなことはどこの家庭でも言われたのだろう。

 母の服を着て、夜の匂いをさせる双子の周りからはだんだんと人がいなくなり、小学校の中学年になる頃には、紅一だけが残った。

「父さんから室内用のプラネタリウムもらったんだ」

 一緒にみようよ、と、はにかむ紅一の目は、初めて会ったときと変わらない、透明な夜のようだった。

 もしかして紅一はばかなのかもなあ、と思った。人間は少しばかなほうがいいのかもなあ、とも思った。杏一の髪には水玉模様のバンダナが揺れていて、自分の肩には母のストールがかかっていた。二人とも痩せて、色の青白い子どもだった。

 子ども用の薄いブルーのシャツを着て、ハーフパンツから薄桃色の膝をのぞかせた紅一は、双子のアパートから少し歩いたところの雑木林に立つ、古い板塀の続く家に住んでいた。門の脇の、子どもの腹ほどもある大きな鉢から、萩が大きなアーチを作っていた。博物館みたいだ、と思った。時間が凝って、とろりとゆるやかな様子が。あまりにも古くて、静かで、物言わぬ過去のセピア写真のようだったから。

 紅一の家には、大抵のばあい、祖母と、曾祖母がいた。よく笑う、白髪をふんわりと巻いた庭いじりの好きな祖母。ママの言ってたおばあちゃんって、こんな感じ? すみれの鉢植えを手入れする紅一の祖母の背に、李一はぼんやり思った。夏椿や花水木、柘榴、沈丁花、百日紅…木々が鬱蒼と茂る蘇芳家の庭のどこかに、きっと、桃やすももや、あんずがあるのではないかと探した。けれど、いつも見つけられなかった。

 紅一が引き戸をがらりと開けて、ただいま、と彼にしては大きな声で言うと、奥の台所から小花模様のエプロンをした祖母がひょっこり顔を出して、おかえり、と大きな声で返す。

「こうちゃんお友達? ああ、りいちくんときょういちくんね。冷やしあめ冷蔵庫だから」

 四時くらいにじいさん帰ってきて、そしたらご飯作るけど、食べてく? 丸い頬で笑う紅一の祖母の明るさに、思わずどぎまぎしてしまう。けっこうです、といつも答える声は小さかった。あらそう、じゃあ冷やしあめとお漬物もってきなさいな、と彼女はまた笑う。今日はお米いいよ、と紅一が米とぎを免除されて、二階の彼の自室へ向かう。

 廊下の奥の階段の脇にある、畳の部屋に、まるで病院のような低いベッドがあって、半分起こしたピンクや水色の座布団がいくつか置かれたそこには、くしゃくしゃの小さなおばあさんが座っていた。いつもにこにこしていて、顔が年輪みたいに皺だらけだった。遠くから聞こえる潮騒みたいに、紅一の名前を呼んだ。それを聞くと、紅一は「ちょっと待ってて、」ととんとんと軽い足音を立てて階段を下りて、数分したら戻ってくる。

「ひいばあちゃんボケててさ、俺のことたまにじいちゃんとまちがえるんだ」

 そう言った紅一は、幸せそうだった。床に寝転がって、天井に投影されたオリオン座を、この上もなく満たされたというように、指でたどった。

 ベッドを譲られた双子は、寝転ぶことができず、首が痛くなりそうな姿勢で天井を見上げた。ふたご座、と紅一が指さす光点を、手をつないで、ふたりで追いかけた。紅一の頭上に置かれた小さな装置。ここから宇宙が溢れ出ているのだ。こんな魔法みたいなものをくれる紅一の父親とはどんな人間なのだろう? ファミレスでただ、黙って相対した自分たちの父親を思いだす。

 紅一はふふ、と、体から幸せがこぼれたというように小さく笑う。透明な眼差しで、双子を見つめながら。

 しあわせだね。

 李一はきょとんとした。杏一も、かすかにうなった。紅一は控えめに微笑みながら、わずかに紅にそまった目元で、まぶしそうに双子を見つめた。

 おれもきょうだいがほしかった、かも。

 杏一がぐっと指に力を込めた。いつものぎゅ、ではないことに、李一は彼の動揺を知った。でも、李一も何も言えなかった。

 双子は夕暮れどきに帰る。杏一は終始無口だが、帰るときになると李一の手をぎゅっと握る。これはさびしいのぎゅ。李一も同じように握り返す。ふたりの手には、漬物の入ったタッパーと、大きなペットボトルの冷やしあめ。

 小さなちゃぶ台の上に置かれたふたつの菓子パン。余裕があれば少しの惣菜を作って、彼らの部屋にある唯一の贅沢品ともいえる、小さな冷蔵庫に入れておく母だが、双子たちが小学校に上がる頃からその頻度は減っていた。母の在宅時間も、短くなっていった。

 夕闇が押し寄せるなか、双子は食事を終えると、そう多いわけではない母の衣類を体にかけて、最後にカーテンにくるまった。布地に包まれていると落ち着くのだ。お互い、書き取りのノートなどを膝の上において、眠るまでの時間をこうして過ごす。

「冷やしあめ」

 その日は、李一がふと下手なひらがなを書く手をとめてそう言った。杏一は頷いて、冷蔵庫に入れてあったペットボトルをとってきた。

「ママのぶんはのこすですよ」

「そうだな」

 ペットボトルからは結露が滴り落ちて、畳を濡らした。交互にひとくちずつのんで、

「甘いですね」

「ちょっとぴりぴりする」

「しょうがですよ」

 などと小さな声で言い合った。赤いドレスの母はまだ帰ってこない。帰ってこない。

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