A twinkle in your eyes | MY CHEMICAL ROMANCE

 青春は一瞬だ。

 自分は何に力を注ぐべきか常に考えないといけない。

 何を選び、何を捨てるか。0.1秒の判断で未来は変わる。マイクロの積み重ねが世界を変える。



 急げ。うすのろ。今ここで愛を告げろ。永遠の一瞬を掴め。/穂村弘「運命の人」



「部長、大丈夫ですか?」

 この季節には少々熱い缶を彼の手に押しつけながら、冷えてるなあと思う。淡い色の爪も白っぽく濁り、唇は紫だ。藤原李一は目を細めた。自分の髪と同じ色。カリウムの炎色反応。

 なかなか戻らない体温に、毛布を頭からひっかぶっている桃園咲蔵は、両手で缶を握って暖を取っている。李一は腕時計を確認する。黒地に光るデジタルの時刻は12:14。

「体調戻るまで、ここにいましょ。まずそうだったら言ってください」

 妙にかわいい仕草で缶にほおずりしている桃園にそう言えば、こくんと無言で頷いた。

 李一は深く息をはいて、ベンチに沈み込んだ。藤原李一にとって、彼の周辺で起こる大抵の物事は想定範囲内だ。もちろん、桃園の体調不良も。

 いかにも科学部らしい休日の過ごし方――プラネタリウム。十一時から一時間、光学式のロマンチシズム溢れる上映が終わって「よかったですねえ」と隣席に微笑みかけた李一の目に映ったのは、薄桃色のストールを上半身に巻き付けて震える桃園咲蔵の姿だった。

 即座に腕をつかんで連れ出し、半端な空調の室内よりもう初夏である外気のほうがいいだろうとすぐ外にある温室のベンチに腰掛けさせて、受付にいた女性職員に体にかけられる布はないかと訊いた。女性はすぐに薄手の毛布を出してきて、念のため学生証を示して借り受ける。ストールの上からかぶせると、桃園はものも言わずに丸まった。今もねむの花のような髪を揺らして震えている。

「冷房きついんなら言ってくれれば上着貸しましたのに」

 草間彌生のような黒と赤の水玉のカーディガンを振れば、桃園は青白いままの顔でそっぽを向いた。「……お前が寒いだろう」

 おっと思った。これは誤算かも。…誤差の範囲内ですらない程度だが。思わずうへへへへへと笑うと、桃園は気味悪そうに震えながら(ただ寒いだけかもしれないが)「今のは建て前だからな! 本音はそんな草間彌生みたいな水玉着たくないからだからだぞ!」と叫ぶ。

「あ、やっぱ草間彌生っておもいます?」ひらひらカーディガンを振る。熱病のような紅のコインドットが揺れ動く。「これ兄のなんですけど、めっちゃ水玉好きなんですよ」

「君、兄がいるのか……」

 いますよと微笑めば、一体どんな人物を想像したのか桃園の頬がひきつる。

「兄はぼくより良い人間ですよ!」ぼくよりずっと複雑だけど、と言えば、余計顔が変になった。面白くて頬をぷにっと摘まむと怒られた。だんだん元気が戻ってきたのかもしれない。

 ベンチの背後に薄汚れたガラスの壁。透けて見える温室のなかはだまし絵のようにもみえる。南国の熱を孕んだトロンプルイユ。鉢が隅に置かれているせいで、ガラスにぴたりとその花芯をつけた一輪に目が止まった。

「アモルフォファルロス」記憶にある名前を呟けば、桃園がまたこいつは何を言い出すんだという目で見てくるので、「花ですよ」と教えたが、桃園の視点からはちょうど張り出したバニラの木が邪魔で見えないようだ。安い造花のようなつくりものめいた仏炎苞と、蝋燭のように天を向く中心。「ユイスマンスのさかしまに出てくるやつです」と付け加えたがぴんとこないらしい。まだ移動するのは億劫らしく、桃園は訝しげに眉根を寄せている。一般名ならわかるのだろうかと記憶を探る。

「アンスリウムですよ。モンステラの仲間」

「ああ…」

 さすが華道の家元の息子、いかにもな温室植物でも把握済みらしい。得心したふうに頷くと、もぞもぞ動き出した。体にきつく巻き付けていた毛布とストールを緩めたいようだ。ちょっと手を添えて、俯きかげんの桃園をひそかに観察した。奇態な色―自分が言えた話ではないが―に染められて切り揃えられた襟足が割れ、うなじが露になっている。

「バス、出ちゃいましたねー」

 時計を見やって呟く。駅までのバスの本数はそれなりだが、二人が乗ろうとしていた行先のものは一時間に一本だ。これだから田舎は、と内心毒づきながら、まあ歩けない距離ではなし、と想定していたルートのうち、徒歩に思考を切り替える。フレキシビリティが何より重要だ。

「食欲あります?」

「……それなりに」

 あたたかいゆずレモン(ちなみに軒並み売り切れの自販機でこれだけが余っていた)をちびちび啜りながら桃園は頷いた。相変わらず動作がどこか齧歯類っぽい。新発見かもしれない。李一は心のメモ帳に素早く入力する。弱った桃園咲蔵は、齧歯類に似ている。

「先にご飯食べちゃいましょっか」マンハッタンポーテージのメッセンジャーバッグからランチボックスを取り出すと、桃園が驚いて体を起こした。

「て…手作りなのか?」

「将来に備えて練習中なのですよ!」

 困惑に満ちた問いかけに答えながら広げたハンカチーフは、方眼紙のようなブルーとホワイトの格子模様。ウェットティッシュを用意しながら「部長、こんどおべんと作ってあげますよ」となんでもないように言う。この発言が桃園の脳内で、料理を練習中、という直前の情報と合わせて解釈されるなら、押しつけがましくは聞こえないはず。

「いや、申し訳ないが普段の昼食はちゃんとあるから…」

 少し戸惑ったような表情がたまらない。一見純粋に好意的に思える申し出を断る後ろめたさがあるのだろう。「そういうんじゃなくて小腹が空いたときつまむやつですよ。部活のときとか。ぼく、いつも自分のぶん持ってきてるので、こんどから部長のも作ってきます」喋りながらはい、とボックスのなかのピタサンドを渡す。なおも言おうとした桃園は突然現れた具体的視覚情報に意識を取られて、尻すぼみに「あ、ああ…」と曖昧ながらも李一の提案を受け入れる素振りを見せた。「煉くんにもきいてみましょうかねえ」すかさず他者の名前を出す。ここで自分だけの話ではなくなったと錯覚した桃園は、恐らくなにも言わなくなる。あとは実際に作って持っていくだけ。

 蟹とアボガドをはさんだピタサンドは洒落た模様の紙ナプキンに包まれている。じっとそれを見つめていた桃園は、意を決したようにちょみっと齧った。やはり齧歯類である。もぐもぐもぐもぐ、丁寧に噛んで味わう彼の瞳の中の「?」が「!」に切り替わるのを見る。

「……李一、君……」

 意外に料理上手いな、と、想像と全く同じ言葉が発せられる。李一は屈託なさそうににこにこ笑って「庶民の料理ですけど、お口にあってよかったです」と嫌味なく言う。そして心で呟く。

 まず、あなたの舌を手に入れる。ぼくの料理なしではいられない舌にしてみせる。

 この日のために何週間前から準備してきたと思っているのだ、と李一は自分のぶんのピタサンドを齧った。葡萄をつかったソースのアクセントが、とろけるバターのようなアボカドとわずかな塩気の欲求を満たす蟹と絡み合う。

 料理は科学だ。手順を正確にこなし、あとは調整。すべての望む数値が最大を示す点を探し出す。

「部長お茶どうします? あったかいのでいいですか?」

 水筒はちいさめのを二つ。冷たいプーアル茶と温かめの桃の紅茶。面食らったように桃園は逡巡したが、頷いた。コップとなる蓋に温かい薄紅を注ぎながら、ふと背後の温室から音がすることに気づいた。客がいたらしい。

 蝶番が軋る控えめな音がして、二人の人間が現れる。見覚えのある姿。おや、と少し驚いた。幼馴染みの蘇芳紅一である。想定外とまでは言わないが、かなり意外な相手である。ああでも、昔はよく行ってたと言ってたっけ…と、やたらに高い背丈と特徴的な目元を見つめながら思案する。桃園も李一の視線につられて顔をあげ、「あっ」という声をあげた。彼の肩が強ばり、ああ何か言うなあと思ったとたん、彼はもきゅもきゅとパンの残りを口に押し込む。もっと味わって食べてほしかった。やけに芝居がかった動作で立ち上がって、ぐっと胸を張って尊大な態度で相手に嫌味な口上を述べ始めたがいかんせん唇の端にパンがついている。可愛いなあと思いながら馬鹿を装って遮る。「紅ちゃん久しぶりですー、デートですか?」冗談のつもりだったのに、蘇芳紅一の瞬間的に真っ赤に染まった顔を見ておやと思った。ただデートという単語に照れたのとは違う。彼の代わりに隣に立っていた金髪の青年が頷いた。

「おうデートデート。あれ、うちの学校の、てか科学部の奴だよね?」

「そうですよ! きみは雑草研究会の方ですか?」

「うんそう。山吹鶸ってんだ」

「ひわくんですか!」

 そこで凍りついていた紅一がやっと融けて、「お前、こいつ先輩だぞ」と言ってきたので

「そうなんですか! 失礼しましたひわ先輩、改めまして藤原李一です」と深めに頭を下げた。紅一は李一を示すと「家が近所なんだ。幼稚園と小学校が一緒だった」と言う。鶸は驚いたように 「へー、そうなんだ?」と二人を見比べた。

「うへへ、そうですよ! 紅ちゃんとは幼馴染ってやつですよ!」

 なかよしなかよしーと両手でVサインをつくる。背後に迫るわかりやすい怒りの気配に笑いを噛み殺す。

「僕を無視するなーっ!」

 怒るあなたがみたいんですよーと頭の中で答えながら、李一は満面の笑みで桃園を振り返る。ついでに周りをくるくる回ってみた。「部長おこですか? 激おこですか?」

「おこだぞ李一!」

「わーい部長が怒ったですよ!」手のひらの上で転がされてくれるこの桃色の青年がたまらなく可愛らしいと感じる。スマホを取り出して写メろうとすれば叩き落とされるので、予想通りの行動に落ち着いてスマホをキャッチしながら、李一はちゃっかりと隙を狙って撮影できた写真を確認する。及第点。「うへへぼくの部長あつめは着々とすすんでるですよ」素早く自宅のMacBook Proに送信しながら、行動に困って震えている紅一にウインクを飛ばした。 

「あっお騒がせしてすみませんです、そちらはそちら、若いお二人でどうぞどうぞ」

 言いながら、ちらりと山吹鶸を盗み見る。

 見た目は悪くない。というか、率直に言って優良物件だ。可愛らしいと女子に評判そうな童顔から、屈託なく笑ってみせる表情、耳ざわりのよい声も、気づいたら相手に心を開かせる。ルクスではかりたくなる笑顔は天の恵みに等しいだろう。紅一はどうにも理想が高いタイプらしい。透明な想像力の翼は確かにイカルスめいている。彼の不吉なラストの選択肢が複数脳内に浮かぶが、同時にハッピー・エンドもいくつか浮かんだ。紅一は自分のように計算高くない。彼がどの運命を選ぶ(それほど自発的な行為ではないだろうが)は留意すべき事項だと心のメモに入力した。

 不意に肩をたたかれ、振り返れば桃園が不機嫌きわまりない表情で「終わったか?」と問うてくる。「ええ」とうなずけば、彼はふんと鼻を鳴らして雑草研究会のふたりに背を向けた。つんととがった唇や傲然とそびやかす(その実、不安などを押し隠すためだが)華奢な顎の輪郭に、李一は心の中で舌なめずりをする。そんなことはつゆ知らず、桃園はちらりと横顔で後輩を見やると言った。「僕たちもここを離れようじゃないか」

「もうお体は?」

「平気だ」

 そうですかとうなずき、ランチボックスを手早く片付ける。広げたハンカチを桃園がたたんでくれたので、笑顔で受け取りながらこのハンカチは保存だなと考える。荷物をまとめて「お待たせしました」と桃園の隣に並ぶと、彼は頷いて、まだ雑草研究会のふたりが――というより、この二人から想起させられる彼自身の個人的な感情――が気にかかるようで、少しだけ温室の前のふたりを見ている。李一は彼が動くのを待ちながら、入り損ねたガラスの壁の向こう側を見ていた。

 温室の入口には、展示にするには小さすぎやしないかと思っていた鉢植えが複数並んでいる。ノーマルな観葉植物の苗をよく見ると、値段を書いた紙が受け皿に貼ってあった。扉をあけてひとつ手に取る。お会計はプラネタリウム受付で、という注意書きが目に留まった。

 鉢植えは好きだ。自分が世話をしないと枯れてしまうだろうところが、特に。

 なんだか嬉しくなってぐいっと鉢を桃園のほうへ押しやる。

「ここ鉢売ってますよ部長! 部長ぼくこの蘭買いますね! ほらおそろっち! ピンク色!」「うわっ顔の横にもってくるな葉っぱが刺さる!」

 髪と花を絡めるように押し付けると面白いほど慌てるので、もうひとつ別のサボテンの鉢を手に取って天使の輪っかが輝くピンクヘアにのせてみる。絶叫された。そんなふうに騒いでいると、雑草研究会ふたりの声が遠ざかっていくのを感じた。

「ほらあ紅ちゃんたちも行きましたよ、ぼくたちも行きましょうよ!」「李一…僕の頭にサボテンを乗せておいてその言いぐさか…!」「キュートですよ!」

 桃園は「いい加減にしたまえ!」とサボテンを掴んで棚へ戻す。その手つきが丁寧なところが、李一が桃園に惚れている一因でもある。

 李一は手帳を開いて予定を確認する。「部長アイス食べましょうよアイス。あっついですし!」

「僕はさっきまで寒くて震えていたんだが」

「歩いてれば暑くなりますよ!」

 ぎらぎらまばゆい白の太陽を指さしてにっこり笑えば桃園はため息をついて黙った。決定だ。主導権は完全にこちらにある。心の中で開閉するショッキング・ピンクの手帳。アスファルトを駆けて、駐車場の外へ出た。「ちょっと、」戸惑って、待ちたまえ、と声をあげる桃園を振り返り、笑った。桃園が眩しそうに目を細める。腕にまとわりつく空気をかき分け、彼の手首を掴んだ。湿気よりも熱量が優るからりとした暑さだから、ひどく自然に触れられる。桃園も何も言わなかった。

「こう暑いと銀河ヒッチハイクしたいですねえ」

「その発想はおかしくないか?」

「地球離れたいですよ! 部長も一緒にいきましょ、種子島までは学割で」

「なんでそんな具体的なんだ」

 そんなことを話しながら、ちらりと周囲を見た。プラタナスの木陰。鈍色がかった初夏の青空。白い太陽光。目を細める。

 反対側の歩道に、雑草研究会の二人が歩いていた。方向は当然同じ、国道を経由して駅に向かうルート。まあデートの行き先としては無難かなと勝手に心中で評価していると、不意に山吹鶸が、蘇芳紅一の頭をくしゃっと撫でた。その瞬間紅一が奇声を発して跳びすさった。他人事ながら舌打ちしたくなる。案の定二人の間には気まずい空気が流れていた。

 どうしてああもわかりやすいのか。

 よそを見ていたらしい桃園が「どうした」と聞いてきたので、その磨いた金属じみた光沢の頭部をがしっとわし掴んだ。熱い。

「うわっ急に頭をつかむな李一!」

「愛の爪こと愛アンクローですよ!」

 ふざけた声が向こうに――紅一に聞こえていれば面白いと思った。好きなら自分から掴みに行け、と幼馴染みを心中叱咤するが、彼にそんな勇気がないこともまたよくわかっていた。案の定、さっとこちらを見た紅一の表情は、遠目でもわかるほどに強張っていた。

 暴れる桃園はあっさりと李一の手から逃れ、櫛通りのいい髪を手でしきりに梳いてはぶつくさ言う。「君の奇行には慣れたと思っていたがやはり慣れないぞ頼むから一時間かけてセットした髪を触」「部長、あの二人いますよ」「僕のアイデンティティたる美しいピンク…なんだって?」

「ほらあれ」と指差せば、プラタナス越しの宿敵の配下(桃園ビジョン)の姿に気づいた彼は分かりやすく動揺した。眦に朱が差し、むっと口許が強張る。なにかの果実のような瞳が、戦地で敵をねめつけるように視線を投げると、山吹鶸があっという顔をして、ぎゅっとわかりやすく煽るような顔つきをして声を張り上げた。「なんでいるんすか先輩」負けじと桃園も息を吸う。「そっちこそどうしてついてくるんだ雑草共」

「進行方向が同じなだけっすよ! 先輩たちこそ、そんななりして徒歩っすか」

「む、なりと移動手段は関係ないだろう!」

「ほんとはバスで行こうと思ってたんですけど部長がプラネタリウムで冷房に負けて、ちょっと休んでたら逃しちゃったんですよ!」「ばかっばらすな!」

「えーっ先輩冷房に負けたんすか! 南国の鳥みてーな恰好してるくせに!」

「南国の鳥とはなんだ雑草共め! 僕は雑草と違って繊細なんだ!」

「温室育ちのもやしですからね!」

「……道路越しに会話すんなよ」

 紅一のため息もなんのその、黄色と桃色と藤色の、ぽおんとよくとおる声が夏空に放り投げられる。きゃんきゃん吠えるピンクVSイエローの背後から余計な合いの手をいれながら、李一はじっと山吹鶸を観察していた。

 紅一に明るい声をかけていた鶸は、彼のことを意識しているのかいないのか。いまいち読みづらい。単なる友人と思っているような気がする。彼を推し量るにはまだ情報が足りない。未知の流星のように。

 喋っていると、それなりの時間がすぐに経ってしまう。それは道路越しの噛みつき合いでももちろん同じで、ピンクの看板が視界に飛び込んできたとき、李一も桃園も思わず目を見合わせた。「つきましたよ部長!」と袖を引っ張り、横断歩道を渡っていると、反対側の歩道にいた紅一と鶸が自動扉をくぐるのが目に入った。

「あらら、紅ちゃんたちもサーティワンみたいですよ」

 桃園は梅干しを食べたような顔をしていたが、むっと唇を引き結ぶと眉尻をあげた。ここで引き返すのも負けたような気がする! と顔に書いてある。李一は手帳を開け閉めしながらにこにこ彼の後ろについた。

 自動扉をくぐると、まるで珍獣を見たような店内の視線が集まるが慣れたことだ。山吹鶸が振り返って、二人の姿を認めてうわっという顔をする。

「だからなんでストーキングしてくるんすか桃園先輩」

「きみたちが勝手に僕たちの前を歩くだけだろうまったくこれだから」「部長コーンですか? カップですか?」

「僕はカップで…」「ラブポーションサーティワンとベリーベリーストロベリーでダブルカップお願いします、ふたつ!」

「李一お前勝手に!」

「うへへ、おそろですよ!」

 笑ってみせれば桃園はまだ何か言いたげだが、大きくため息をついて黙った。成功。選択権をこうしてじわじわ奪っていく。結局桃園は不満げながらも李一の強引を受け入れてしまうのだ。

 さて雑草研究会のふたりはどうかと見れば、鶸は早々にホッピングシャワーを選び、カウンター前で尻尾を振りながら(李一のまぼろしである)待っている。それをじっと見ていた紅一はチョコミントを選んだ。鶸の隣に並んで、彼よりは控えめに尻尾を振りながら(あくまで李一のまぼろしである)、大人しく待っている。その背を見つめながら、李一は少し考えた。同じものを頼むことをためらう紅一の心理は、李一には到底理解できないものだ。彼は恋しい相手を神聖化してでもいるのだろうか。さもありなん、と思いながらカップアイスを差し出されて受け取り、笑顔で桃園に渡す。目が醒めるようなピンクのスプーンも添えて。桃園がちまっとしたその先で、早速ピンクのドームのてっぺんをすくって口に含む。予想通り、小動物。ハートの形をしたチョコレートが、舌の先に乗るのを見つめて、自分もピンクを端から削り取った。ついでに「ラブポーションって恋の媚薬って意味ですよねえ!」と言った瞬間桃園がアイスをふいてスプーンを落としたので新しいスプーンとティッシュを差し出す。

「ら…らんみたいなことを言うな……」

 ひょいと、李一は片眉をあげた。その名前は李一の心を刺激する。それは嫉妬だとか、そういう類いのものではない。もっと機械的な刺激。そう、タグをつけられたデータがマシン内のある指定された場所に導かれるように。青山藍というタグが、それに関する情報を李一の脳内のあるひとつのプログラム――すなわち、「桃園咲蔵をどのようにして藤原李一のものにするか」という命題に挑戦する分野へ振り分ける。彼の名前はまだ計画が中途であること、未だ解くべき暗号が不確定であること、危険因子はあくまで残されているということ、その他様々な事実を指し示す警告である。

 ぱたん、ぱたん。脳内で手帳が開閉する。青山藍の姿を思い返しながら、しかし李一はいつものように微笑む。

 ―――りっちゃんはもういるから、ふーちゃんかな?

 花開く美しきかんばせのなかの青い眼差し。ラジウム光に似た輝き。あの瞬間、直感した。これは地獄だ。人のかたちをした地獄だ。かつて踏みにじられた花だ。

 自分が昔、見た色だ。

 目を閉じる。リセット。次に目を開ければ、映るのは過去でなく今現在、目の前ですねている桃園咲蔵だ。

「青山先輩ならもっと気の利いたこと言うですよ、きっと!」うへへ、と笑えば、耳まで真っ赤になりながらぶんぶんと首を振った。「そんな、ことっ……!」

 あはは、と笑う李一は、うっそりと、蛇のような眼光で桃園の胸元を射抜く。そこに幻視するブローチ。中世ならば恋しい相手の片目や、遺髪があるだろう。指先ほどの初恋の棺。ちろりと唇をなめる。冷えた舌。

 いつかあなたの耳元で囁こう。いつまでまぼろしを追い求めるおつもりですかと。

――どんなに深く憧れ、どんなに強く求めても、青を手にすることはできない。/谷川俊太郎「青」

 天国にいける人間が選ばれるようにまた、地獄に堕ちる人間も選ばれるのだ。

 あなたはきっと選ばれない。

 あの美しき地獄にあなたは沈めない。

 桃園咲蔵のちいさな唇が、最後のひとくちを飲み込む。藤原李一が選んだものを。ショッキング・ピンクとパープルのマーブルを。横顔の瞳の虹彩がにじむ。薔薇いろの火のように。

 その瞳がこちらを向いてくれる瞬間を待っている。その目の色を本当に知る日を待っている。

 李一はそっと桃園から視線を外す。まだ彼はこちらを向いてくれないから。ピンクのハートが傾いで、血のような赤の上を滑った。スプーンですくって噛み砕く。刺すような夏の甘味。誰もが熱病のように恋する季節。口の中で呟いた言葉を、冷えた塊と一緒に飲み込む。それが喉を伝い落ちるとき、甘さも美しい色もわからない。

 …それならこちらはどうなのだろうと、静かなつめたいリトル・プラネタリウムを持って立ち尽くす紅一をちらりと見上げた。鳥の羽根のような睫毛。泣きぼくろの映える、白い頬。同じように誰かを見つめる横顔。それを見た途端、ああ、と思わず声が洩れた。

 蘇芳紅一を、憐れみたくなった。

 夢みるような瞳は、誰が見ても明らかな熱を宿している。彼はじっと、じっと、山吹鶸を見つめていた。光の加減で紅茶色にきらめく眼差し。透明な夜のような心の窓。

 紅ちゃん、紅ちゃん。きみもまた、焦がされているのですね。

 黄色い未知の流星のまばゆさに燃え尽きてしまいそうなのですね。

 李一は、自分もアイスの残りを口に運びながら、心中でせいいっぱい、おさななじみに呼びかけた。紅一の手にあるリトル・プラネタリムは、だんだんと溶けていく。形を失っていく。今にも溢れそうなミントグリーンのなかを、黒っぽいチョコレートが滴り落ちた。融解だ。

 やがて、指先にミントがとろりと垂れる。ぼと、と、手の凹凸を伝って、ゆっくりと手首に移動していく。息が止まりそうだ。

「紅ちゃん、垂れてますよ」

 なんでもないように指摘したら、紅一は一瞬、ぼんやりとした目で自身の手を見つめて、それからはっと息を呑んで狼狽えた。咄嗟に舐めようとした彼の舌の赤が目に焼き付く。その瞬間、その肘をがしっと掴み、ティッシュを押し当てる金髪の青年。下の兄弟がいるのだろうという強い声。桃園と李一すらはっと息をのんだ。子供のようにかぶりを振るばかりの紅一が、唐突に、明らかに故意にアイスクリームを持った手を離した。べしゃり。墜落。飛び散る飛沫。なんてめまぐるしいんだ、この二人は、と李一は感嘆した。感情と行動の奔流。飲まれそうだ。

 鶸がさっとかがみ、目を見張る手際の良さで処理をする。店員と一緒にてきぱきと片付けるつま先の、チョコレートの染みが黒点のように見えた。

 紅一は唐突に床にしゃがみこんで、これでもかというほど身をちぢめていた。どうしようもなくなってしまったときの、昔からの癖だ。声をかけた。

「紅ちゃん、」

 はっと視線をあげた紅一の表情は、あまりに追い詰められている。揺れ動く瞳は崩壊寸前だった。どろどろと溶けだした熱量に、ああやっぱりきみもそうなんですねえと内心で呟く。

「無理しないほうがいいですよ」

 ピンクのスプーンを指先で回しながら、小さな声で李一は言った。紅一は唇を震わせたが、なにも言葉がでないようだった。溺れているような眼差しに眉をひそめたが、助けてやることも出来ない。

 これ以上自分達がいてもなあ。

 もう一度鶸のほうを見る。彼と紅一の関係が、今瞬間的に限界に近いところにあるのは確かだ。閃光のような青春は人の心をかき乱す。くるり、とスプーンを大きく回転させて、息を吸った。

「それじゃ、邪魔してごめんなさいです」

 わざと明るい声をあげる。素早くかがむと、紅一の耳元で「落ち着いて、紅ちゃん」と囁くと、李一は桃園を振り仰いだ。どうしているべきかわからないのか、じっとスプーンを見つめている。「部長、お邪魔しちゃって悪いですから、ここいらで別れましょ!」

 はっと顔をあげた桃園はきょとん、と李一と紅一を見比べた。別れるもなにも別に同行してたわけじゃ…と言いかけ、紅一の目と視線があうと、びっくりして目を瞬かせた。「まあ、その、……邪魔したな」と殊勝に呟くと、カップとスプーンを捨てる場所を探してわたわたしているから、李一が受け取って一緒に捨てた。あまり騒がずに店を出る。児童扉が開いたときに挨拶をしようと振り返ると、目が合った鶸が笑顔で手をあげた。こちらもつられて笑顔になる。

「じゃあなー!」

「ばいばーいですよ!」

 明るく手を振る。桃園はふんと鼻を鳴らして彼らに背を向けた。でも、心配だというように、横目で少しだけ二人――というより、明らかに放心している紅一を見た。夏の影法師のように、ぼうっと立っている。目元が青白くて、深い眦や泣きぼくろが妙に目立った。瞳がひどくうつろであるが、熱の残滓がじっとりとそこに読み取れる。引き結ばれた唇も色が悪い。隣に立つ鶸はこちらを向いておらず、表情はわからなかった。うなじにかかる金色の髪がまぶしい。

「な、なんか…なんだ、あれは」

 店を出て数十歩、桃園が後ろを振り返りながら言った。さすがに、ただアイスを落としただけとは思っていなかったらしい。奇妙な空気を肌で感じ取ったのか、少しだけ顔色が白かった。「ああいうことってままあるもんですよ」李一が笑うと、うーむ、と桃園はまだ何か言いたそうな顔をする。雑草研究会のメンバーなだけあって素直に心配はしたくないのだろうが、確かにあの二人はあのとき見ていて息が詰まる何かがあった。

「ロマンチストなんです、紅ちゃんは」そういうと、桃園は首を傾げながらもふうん、と一応は納得したようなそぶりを見せる。李一は心の中で付け加える。――あなたとおなじようにね。

 うずくまってこちらを見上げた紅一の表情。

 自分が味わっている苦しみが何なのかわかっていない顔。

 紅一はばかだ。

 彼がばかなのは、そうでないと耐えきれないからだ。

 とろとろ、透明な溶けたガラスが渦巻いている彼の内面は、ある冷たいひとことで無数の針に化け、瞬間的に彼を引き裂くだろう。だから彼は愚かに出来ている。その冷たさに気づかないように。

 でも、彼の心そのものが冷えたなら――内側の針は無数の杭にすら化けるだろう。

 身中から溢れ出る無数の杭が彼を引き裂くビジョン。明瞭なそれは単なるイメージでなく、可視化された実際の精神のダメージだ。

 黄色い彼は知っているんだろうか、自分の隣にいるものが、ガラスより脆いまぼろしみたいなものだってことを。

 触れ合うだけでずたずたになる生きものが、恋なんて地獄に耐えられるものか。

 ピンクの羊とパープルの猫がぶらさがったスマホを取り出す。ついでに、ショッキング・ピンクの手帳も。いくつか予定やら何やらをチェックしてから桃園に笑いかける。

「部長、新宿ルミネいきましょー。あそこ服屋十時まで開いてますから」

「あいにくだが僕は帰るぞ。明日は学校があるんだからな」

 旅費の心配はないあたりさすが御曹司である。はあいと素直な返事をして、手帳に今日の流れなどを書き込む。隣で桃園は大きく息を吐いて、少し伸びをした。健康的な色に戻った頬が、初夏の日差しで既に薄赤くなっている。ああ紫外線対策も考えておかないとなと手帳に書き足した。「またどっか出かけましょうねえ部長」

「僕はだいぶ今日一日でおなかいっぱいだぞ……むむ、この高貴なる僕が下級生に振り回されるとは……」

「今日は予行演習ですよ」

「なんのだ?」

「部長さっき聞いてなかったんですか! 銀河ヒッチハイクですよ!」

 あーはいはいといなされる。眉間を揉んでこのどうしようもない馬鹿をどうしようという表情をしている桃園に、ごめんなさい、あなたのせいで馬鹿なんですよ、と内心ほくそ笑む。

「ほんものの夏にはちゃんとどっか行きましょうね。どこいきます?」

「李一、僕は一応受験生なのだぞ」

「部長なら大丈夫ですよ!」

「お前に言われると不安になってくる。というかお前もテストあるだろうが」

「知らなかったんですか、りいちくんは学年で八本の指に入る成績なのですよ」

「タコかお前は」

「そうそう、学割効くうちにいきましょうねえ、銀河ヒッチハイク!」

「お前は呑気でいいな…」

 うへへへと笑えば、桃園は笑顔を作るのを失敗したような変な表情を浮かべた。それを見ながら、李一は今自分が放った言葉について考える。

 桃園咲蔵は藤原李一より二歳年上。卒業後の進路は海外だと聞いているから、学割は使えなくなる。つまり、今年中。李一は唇をなめる。

 それまでにあなたを手に入れる。

 ショッキング・ピンクの手帳を蝶々のように開け閉めし、ゆっくりと鞄にしまう。「その手帳、悪趣味じゃないか?」「それ部長が言ったらシマウマがストライプディスるようなもんですよ!」軽口を叩く影で、李一は手帳の表紙をもう一度なでた。

 彼は藤原李一の手帳がどんなものなのか知らない。

 李一の手帳はタイムテーブルだ。

 人生はあとどれだけで、ほしいものを手に入れるために、自分は何をすべきなのか。これが解っている人間は少ない。けれど李一には解っている。やりたいことをやるには人生は短すぎるし青春は駆け足だ。限りある時間を切り分けて、確実にほしいものをつかみとる。その予定が書き込まれた手帳だ。

 李一はプラタナスの木陰に足を踏み入れて、未だ太陽の下に佇む彼を手招きする。丸い瞳がまたたき、その靴先がためらいながらも自分の方へ真っすぐ踏みだされるのを、李一は無邪気を装う完璧な笑みで待ち構える。

 自分の半径一.五メートルまで、桃色が無防備に近づく。髪の色より赤みがつよい唇が何か言おうと動くのを遮るように、彼の手首を掴んだ。触れ合う肌は乾いている。驚いた桃園が何かを言っているが、揺れたピンクのすだれの奥にのぞく急所を、李一は一年前から、常に狙っているのだ。

 熟れた桃のようなうなじ。

 一年前の夏となにも変わらない。恋する桃色。舞台の上の、ケミカル・スター。





 一年前の夏、降りそそぐ白っぽい陽ざしのなかで、藤原李一は世界に挑むつもりだった。

 高校見学なんて形ばかりで、もう受ける高校は決まっていた。そして受かる自信もあった。藤原李一は、自分が人よりも賢いという自覚がある。原子物理学を理解していた頭脳を、その日だけは黒く染め戻した髪の奥に隠して、馬鹿のように笑いながら友人と歩いていた。授業中の教室を覗き、放物線や微積分がのたくる黒板を見つめる。この程度なら、入学しても自分がやりたい勉強に集中できるだろう。

 その日までの藤原李一は、ただ、マイクロで回転する世界、金融、経済、科学、すべてが複雑に融合する未来に斬り込みたいという欲望しかもっていなかった。一秒単位でしか生きられない人間に興味はなかった。だから彼は不確かな足場を嫌った。学校というモラトリアムの揺籃が何より疎ましかった。未来といいつつ、一か月、一年、たったそのくらいしか想定していない同世代の少年たち。そんなところでぐずぐずとしていられなかった。人生は短くて、科学の武装は光速で拡散する進歩のネットワークによって鱗のように剥がされてしまう。

 それではだめだ。常に走りつづけなければならない。よそ見は許されない。自分はほしいものがある。だから世界でいきてみせる。

 藤原李一は"実弾"がほしかった。

 彼のそれまでの短い半生は、あまり他人に語るようなことではない物質的欠如や喪失というものに支配されていた。彼の人生における断片的なコードとして、不意に李一の脳裏に浮かぶもの――鏡台。母。煙草。黒。アルコール。潮風。父。口紅。兄――埃の積もった舞台裏――書き割りだけを見せつけられているようなみじめな劇場のねずみ――

 どんな見事な役者も、幕が下りればくたびれた泥人形だ――ということを、李一はよく理解していた。所詮肉体しかもたない人々。消費され、使い捨てられる有機……。役者自身もどこかで気づいていた。舞台の外での自分のみじめな姿を。…だから、その瞳には虚無が渦巻いている。

 自分を産んだ母もそうだった。みじめで、舞台裏で重たい肉体を引きずって、苦しんでいた。

 そんな現実しか見られなかった彼は、見えない武器――すなわち知識を手に入れようと考えた。

 武器がほしい。幸せになるための武器が。

 武器をもたざるゆえに、自分を犠牲にせざるをえなかった母。"自分"とは、最も巨大な損失だ。

 自分はそうはならない。

 そのためには世界を相手取る必要がある。実弾を込めて、彼方にあるだろう幸福というものを撃ち落として、それを永遠にするために。

 投資だとか株だとか、奨学金、サイエンスフェア、特許だとか、いくらでも弾は集められる。自分はマイクロ秒のタイムテーブルを編む。ロジカルなふりした巨大な経済の蠢動と戦うために。本当にほしいものというものが、ほしかったから。幸福のために、きっとそれは不可欠だろうから。

 李一がどうして世界でいきようと思ったのか。そこでなら、見つかると思ったからだ。世界のすべてを見渡せる頂点に立ったとき、自分はネットワークと科学技術を自分の幾千の目とし、幾万の脳とし、探すつもりだった。自分が生きる意味を。物質的欠如に覆われた人生を取り返すための、たったひとつの―――幸福。

 だから一年前のあの夏の日、藤原李一の人生設計は音をたてて瓦解した。そしてそこには既に、桃色に輝くネオンの新しい塔がそびえ立っていた。

 前半は授業を見学し、後半は複数のグループにわかれて校内を案内します、という係員の声を聞きながら、どうせ点呼をとるわけでもないのだからと、ふらりと李一は自転車置き場のほうへ歩いていった。運動部が活動するグラウンドや生徒がひしめく教室棟から、少しずつ離れていく方向へ。喧騒が遠くなって、五感が自分の周囲に集中するイメージが好きだった。

 自転車置き場の裏へ出ると、倉庫があった。誰もいない。その下の少し段差のある焼却炉の近くに、ひっそり、特別教室棟に寄り添うような古い建物があった。さては旧校舎か、と察しが付くほどに老朽化した見た目は、まるで自分が遠い未来にいるようで、不思議な気持ちになる。コンクリートや鉄。近代的な材質なのに、人の気配がない過去の遺物。校舎の脇に這いのぼる黒い蔓草に目を凝らせば、非常階段の手すりだった。舞台装置のようだ、と、なんとなく考えた。

 ざらり、と、輝くガスを含む夏の風が吹き抜けた。

 瞬間、視界に鮮烈なピンクが閃いた。そして響く、銃弾のように通る声。砂糖のように甘い声。黒い鉄の蔓と、駆ける色彩。

「らん、まってくれ、らん、」

 非常階段がへばりつく古い校舎で、不意に孔雀がはばたいたようだった。自分は状況演劇に巻き込まれでもしたのか? 李一はその桃色の影に飲み込まれる。

 およそ非現実的な、ピンク色の髪の毛。先端まで入念に染められたそれは、夢の靄のように李一の意識を浚っていった。

 あまりにも骨董的な、胸元のブローチ。波打つ房の、金色のエポレット。舞踏会のための靴音。

 そして白い横顔の、あげた声の、真っすぐに誰かを見る瞳の、その――――気狂い寸前の無垢さ!

 みつけた、と思った。ネオン・ピンクのロマンチスト。書き割りの摩天楼。電飾のオリオン。

 演じられるオフィーリアとは決定的に違う。彼に舞台裏はない。幼い恋の夢のなかから抜け出せずにいる生きもの。人生をスポットライトのなかで送る、燃えるインナモラーティ!

 桃色は、ふっとこちらを見た。その瞳。三階の、蔓草のように脆い手すりの向こうに、ピンクの火花がスパークした。

 その桃色はすぐに姿を消した。夢や愛が霧散するように。李一は立ち尽くしていた。

 あのいきものはなんだ?

 頭の各所で鐘が鳴り響いていた。あのいきものをさがせ。あのいきものの名をさがせ。あのいきものをうちおとせ。体はすぐに動いた。集めきった情報を頭に叩きこみ、李一は新しい手帳を買った。火花のようなショッキング・ピンクの手帳。

 下地を、裏方を、楽屋ばかりを見せつけられてきた李一の人生で、彼だけは舞台の裏を知らずにただ立つスターだった。桃色に輝く炎は火屋のなかで燃え盛る。そのランプの火を灯し、吹き消すことができるのは舞台裏の黒子たちだけ。

 あの夏の非常階段で、自分は確かに見つけたのだ。

 世界でたったひとつ理屈のないもの。

 愚か者だと笑われてよかった。

 李一は、たったひとりの人間のために世界への踏み台を棄てた。幸福とはなにかを蓋をあけてみればそれは、幼い頃から憧れていた"本物の役者"、「ホンモノ」の「ニセモノ」だった。舞台の上の女は本当に気が狂っているのだと、着ぐるみの中には人なんていないと信じたかったように、どうしようもなく記憶に巣食うみじめさを覆い隠そうとする執着だった。

 だが李一は、そのときそのときで、自分自身にとって最良の選択をしてきたと確信している。かつて知識という武器を知った日から、李一はあるひとつの目的のために生きてきたのだから。

 藤原李一は、藤原李一自身のために生きる。

 奇態なファッションも、勉強も、タイムテーブルも、すべて自分のため。自分が愛するものを手に入れたいがため。手に入れた愛するものを永遠に逃さないがため。

 タイムテーブルは完全だ。

 桃園咲蔵の進学先がどこであろうと、自分はその秋にはそこへ向かっているだろう。年齢などという枷に捕まっちゃいられない。そして、見知らぬ土地の彼に、懐かしい気配を差し出すのだ。この一年をかけて掴む舌になじませた味や、見慣れたこのパープルを以て。そして、幼馴染の名を呼ぶ唇、ブローチの輝く胸元、思い出の色のピンクの髪、いつかそれらまるごとこの手の中に。徹底的に、時間をかけて、彼のすべてを奪い去る。なにもできなくなるほどに、ぐずぐすに甘やかして、人生の最後の最後まで。

 ねえ、桃園部長。ぼくの魂のケミカル・スター。

 あなたのラスト・ダンスの相手はぼく。摩天楼のぴかぴかのネオンのしたで、ルビーの靴で踊りましょう。まぼろしの青を捨てて。空も海も手に入れられないけれど、まがいもののパープル・ネオンは手に入る。世界なんていらない。あなたのために燃えてあげる。ロマンチストがあなたの性分だろうから、自分は常に現実を見つめて生きていく。ピンクとパープルで武装して、舞台の上であなたを支える骨組みになる。

 だからはやく、舞台の裏など見ないで、クライマックスを迎えたらカーテンコールのなか、ただネオンの下へ落ちてきて。そうしたらぼくは、幕を引いて、あなたを永遠にしてあげるから。

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