後篇

 ぱちり、と場内が明るくなると、瞳孔が光に対応しきれず、世界がふわりと飽和する。白く滲んだ視界が戻るまでぼうっとしていると、鶸がぱっと立ち上がった。

 鶸は上映中の冷房のために着込んでいたパーカーを腰に巻きなおしながら、伸びをした。

「俺たちさあ、ほんとうに…本当にはじっこに…宇宙のはじっこにいるんだな」

 途方もない世界を凝縮した一時間を、なんとか咀嚼して、自分なりに表そうと鶸が苦慮しているのが窺える。

「そこで…宇宙のかたすみの、無数の銀河の、また隅っこの、はじにある太陽系の、地球でさ…俺たち生きてるのか…」

 大きな棒渦巻銀河の端に近いところにある、オリオン座腕という渦巻のさらに端。そこが自分たちのいるところ。

 遠く深く、楽器のような女性の声が語った途方もない世界を、鶸の目は巻き戻しているようだ。深遠を静かに見つめるような眼差しは、その人間が触れるにはあまりにも巨大すぎる物語に、かすかな不安を抱いて揺れている。

 紅一は言葉を選びながら、ゆっくり喋った。

「星とか、宇宙とか、俺たちとは比べようもなくて、でも、宇宙に存在するっていう一瞬の…その事実だけが対等で…本当にそれだけの関係だから。

人間にはどうしようもない途方もなさが…ほんとうの美しい孤独なんだって思う」

 鶸は頷き、数秒間、言葉を探すように俯いて――神妙な面持ちで呟いた。

「ロックだな…」

 吹き出しそうになった。ふわっと胸が暖かくなる。ひわきちの感受性にことばが追いついてない感じ、好きだよ、と言えば、鶸が不意に真っ赤になって「……なんだよそれぇ」こーいちの好きポイント分かんなすぎだろ…と唇を尖らせた。

 人の多さを考慮して冷房を強めに設定しているプラネタリウムから出ると、特に空調をきかせているわけでもない室内はひどく暖かく感じた。ぼんやりとその落差に包まれたまま立ち尽くして、不意に気づく。そうだ、今日は自分から動かなければ。

「ひわきち、昼飯どうする?」腹減ってる? と訊けば、体をほぐしていた鶸は腹をぽんぽんと叩き、んーと首をかしげて「まだ大丈夫」と親指をたてた。紅一は受付を挟んで向こう側にあるガラスの自動扉を指差した。外は快晴だ。

「隣の建物が植物園…ていうか、ちっちゃな温室なんだけど」見に行かない? と言い切る前に鶸が大きく頷く。前髪がぴょんと跳ねた。少しほっとしながら紅一は言葉を続けた。

「プラネタリウムのチケット、温室のも兼ねてるから…」

「やっべ、どこやったっけ」

 リュックをおろそうとする鶸に、「ここ」と指摘しながら、腰に巻いたパーカーのポケットからのぞく紙切れに手を伸ばせば、偶然に鶸の指先と触れ合う。途端に鶸が驚いた声をあげた。

「お前めっちゃ手冷たいぞ!」

「それはひわきちも…」

 やっべえな思ったよりクーラーで冷えたのかも、と、二の腕をさすりながら、鶸は外を指さした。行こうぜ! 促されて建物を出る。降りそそぐ日光は相変わらず矢の束のようだ。

 隣接しているのは、そんなに大きな温室ではない。三つの、せいぜい五十メートルほどの長さのガラスの建物がそれぞれつながり、王の字になっている。薄汚れた珪砂はわずかにまばゆさを軽減させながら、緑に覆われた擬似の楽園をぼうっと光らせている。扉を押し開けると、むっと緑の匂いと湿気が体を覆った。

「うちの部室かよ」笑いながら鶸が、天井から下がったグリーンネックレスをどける。紅一も頷く。

「うちの部室も文化祭で公開すればよさそうだな」

「らんちゃん先輩がキャバクラやりたいって言ってたぜ」

「え、……雑草キャバクラ…?」

 首をひねると「意味わかんねえよ」と鶸は吹きだした。どこが受けたのかはよくわからないが、鶸が笑ってくれたならまあいいかと紅一は不思議な匂いを垂れ流すジャカランダの枝をよけた。

「って、」鶸がぱっと手を引く。どうしたのかと見れば、ブーゲンビリアの棘が手の甲に傷を作っていた。ポケットから絆創膏を差し出すと、彼はお礼を言って受けとる。

「なんか、やっぱ雑草研とは違うな」異世界ぽい、と、毒々しい赤をしたアンスリウムを見つめながら、鶸がこぼす。多肉植物をかき分けながら紅一は返す。「こういうのも南の国にいけば雑草なのかもよ」

「んん、あ、そっか…その発想はなかったわ…」

てらてらと輝くハート型の仏炎苞を怖々指で撫でながら鶸は頷いた。「部長がこんなん集めてくんのかあ…」しみじみ呟いた鶸に、紅一は南国的花々を抱えた白臣を想像して思わず笑った。似合いすぎる。バナナの葉の扇とか、棕櫚の傘とか、バビロンの皇子のよう。

 鶸と目があう。同じことを考えていたのか、不意に彼も破顔した。「似合いすぎかよ!」極楽鳥花やハイビスカスの間でふたりは笑った。

 一通り見て回って、二人は細長い温室の半ほどにぽつんと置かれた黒い鉄製のベンチに腰かける。行きのバスとおなじ、鞄一つ分の隙間を空けて。ライムグリーンのシューズを履いた足を投げ出し、鶸は背もたれに身を預けた。

「こーいち、こういうとこに普段きてんの?」

「普段…てわけでもないけど」少し藻の浮いた蓮の水槽を見つめながら紅一は返す。「昔から、たまにじいちゃんとか、父さんが連れてきてくれて…」

「ふうん…」アール・ヌーヴォー風の背もたれに手を添わせながら鶸は呟く。その横顔に紅一はひやりとする。退屈だろうか?

 鶸はポケットからイヤホンを取り出した。

「ん」

 有無を言わさず、紅一の右耳にイヤホンを押し込む。シリコンの感触がくすぐったくて身をよじる。鶸は嬉しそうにiPodを操作した。曲目を選び、にやっと歯を見せて笑う。

「ここでっていうのも、ちょっと雰囲気違って、よくねえ?」

 植物に囲まれて音楽を聴く。骨組みは同じだ。でも、違う。今日のプラネタリウムがかつてのものとは違うように。あたりの植物が違う。湿度の高い空気も部室と少し似ていて、少し違う。流れだすメロディに合わせて黒い鉄に手を這わせる。イヤホンからはゆっくりとした歌が流れてくる。聞いたことがなかった。

「なんていう曲?」

「Wake Me Up When September Ends」

 よどみなく答える鶸の声が、イヤホンをしていない左耳によく聴こえた。目を閉じて音楽に聞き入る彼の横顔を、ゆったりとしたギターと歌声にたゆたいながら見る。鶸は声を出さず、唇の動きだけでその歌を口ずさんでいた。その薄紅をじっと見つめてしまう。そのうちに思考が五感に取って代わり、周囲に満ちる温室特有の気配が増した。つよい緑の匂いがする。ガラスのティーポットのなかにいるように。プラネタリウムの、つめたくてまばゆいオニキスのドームとは違う…漂流船のように、とろりとねじれた時間の殻でできた空間だ。

 数分の曲が終わるまでの時間は短い。声がやみ、終奏だとわかるギターの音を名残惜しく聴いていると、やがて途切れた。ほのかに、次を期待したのだが、鶸はiPodのボタンを押して再生を停止した。

「あったまった?」

 鶸が笑って、やっと彼が体温を戻すために温室に留まろうとしたのだと気がついた。指先を握られ「まだちょい冷たいなあ」と言われる。鶸の指先は暖かかった。その熱が血管を伝って瞬く間に増幅する。「だ、大丈夫、俺平熱低いから」言いながらぱっと手を引っ込める。

 本当は汗すらかいているほどだった。質量のある空気がまとわりつく。心臓も熱湯に浸されたみたいで、でもどうしてか肌は冷えていた。

「体調悪いの?」

 首を振る。けれど、本当はどうしてしまったんだろうと思っていた。自分でも体の変調をもて余していた。体と――心の。

 鶸もなにか考え込んでいるようだった。少し硬い横顔の輪郭に、胸が掻き乱される。どうしよう。気を遣われてる、これは。ていうか、もしかして後悔している? ここに来たこと。自分がこんなだから。

 知りたい。

 彼の真意が知りたい。

 蘇芳すおう紅一と、山吹やまぶき鶸は、ともだち。

 でも、紅一は、彼の考えていることがわからなくて、不安になる。

 お気に入りの小説の一節を思い出す――いっしょに千ガロンのお茶を飲み、ビスケットを五百も食べれば、ひとつの友情には十分だわ。/レイ・ブラッドベリ「たんぽぽのお酒」 ガロンってどのくらいだっけ。ビスケット五百って、音楽に換算したらいくつ? 心臓が奔る。野火が奥にある。おさまらない鼓動が身体を震わせ、まるで地震のよう。揺れているのは自分だけ。今すぐ走り出したいような衝動に駈られる。

「出よっか」

 紅一は弾かれたように顔をあげた。鶸はぱっと立ち上がると、イヤホンをくるくる手早く巻き取りながら紅一に声をかける。「大丈夫か?」

 紅一は頷きつつもショックを受けていた。さっきから、鶸に、こんなに気を遣わせてる…確かに今までもそういうことはあったけど、今日は、今日はだめなのに。今日は……

「こーいち?」

 声をかけられてぎゅっと手を握った。爪が手のひらに食い込む。

「……出よう」

 妙に気張った声が出て、鶸が明らかに困惑した顔をしたが、余裕がない紅一はそれに気づかずにポケットを漁る。「な、なんか、どうした?」鶸が肩を叩きながら問いかけるが、紅一は黙ってかぶりを振って「出よう」と繰り返した。

「なーんかお前今日ほんと……」

 鶸はリュックを背負いなおしながら胡乱な目をして呟いたが、紅一はポケットの中身を握りしめる。それを取り出しながら、鶸と温室を歩き出した。「なにそれ、メモ?」覗き込んできた鶸は素っ頓狂な声をあげる。紅一は頷いた。「……今日の、予定」

「予定ぃ?」

「うん」紅一は生真面目そうな顔つきで頷くと、またそれをポケットにしまった。温室の扉を押し開けながら、鶸を振り返って言う。「……頑張るから」

「な、なにを?」

 なんと言っていいかわからず、紅一は温室の外へ出て、鶸があとから「なあほんとお前風邪とかひいてねえ…? 俺の弟がインフルエンザになったときみてえなんだけど…」としきりに心配するのを聞きながら、脳内でこれからの予定を組み直そうとしていた。プラネタリウム。温室。自分の好きなものをまずふたつ。それからあとは……。

 二人が外へ出ると、温室の脇のベンチに、ランチらしきものを食べている二人組が腰かけていた。紅一と鶸が何の気なしにそちらを向くと、目を引くピンク色の頭部が視界に飛び込む。帽子かと思ったら驚いたことに髪である。こんなにアヴァンギャルド極まりない人間を、数奇にして紅一と鶸はひとり知っていた。

「あっ」

 ピンクヘアの青年、即ち雑草研究会の宿敵たる科学部の長、桃園ももぞも咲蔵さくぞうは、二人の姿を認めるなり妙な声をあげた。ピタサンドを頬張っていた彼はそれを口に押し込み、りすのように頬を膨らませて食べたあと、さっとやけに芝居がかった動作で立ち上がってピンクの髪をかき上げたが、口の端にパンがついている。

「ふん、まさかこんなところで会うとはな、雑草研究会の諸君。温室でも見に来たのかね? 君達にはもっと素朴な草花のほうが似合いそ」「紅ちゃん久しぶりですー、デートですか?」

 桃園の口上を華麗にぶったぎったのは、そいつをどこで買ったんだと問いたくなるようなサイケなTシャツを着た紫色の髪をした青年である。前髪をひと房アプリコットオレンジに染めた原宿系。こちらもなかなかアヴァンギャルド属性である。紅一はしかし、発せられた単語に固まって返事もかえせない。

「でっ…」「おうデートデート。あれ、うちの学校の、てか科学部の奴だよね?」

 紅一の代わりに鶸が返事をする。

「そうですよ! きみは雑草研究会の方ですか?」

「うんそう。山吹鶸ってんだ」

「ひわくんですか!」

 そこで凍りついていた紅一がやっと融点に達し、「お前、こいつ先輩だぞ」とパープルヘアに苦言を呈した。

「そうなんですか! 失礼しましたひわ先輩、改めまして一年の藤原ふじわら李一りいちです」

 パンキッシュな容貌にも関わらず丁寧に一礼した李一に、鶸もつられてお辞儀をする。紅一は李一を示して言う。 「家が近所なんだ。幼稚園と小学校が一緒だった」

「へー、そうなんだ?」

「うへへ、そうですよ! 紅ちゃんとは幼馴染ってやつですよ!」

 なかよしなかよしーと両手でVサインをつくる李一の背後で震えるピンクの頭。

「僕を無視するなーっ!」

 完全に蚊帳の外へ放り出されていた桃園が叫ぶ。李一は桃園のまわりをまわり始めた。「部長おこですか? 激おこですか?」

「おこだぞ李一!」

「わーい部長が怒ったですよ!」言いながらショッキングピンクのスマホを取り出して写メろうとするのを桃園が叩き落とす。難なくキャッチしながら李一は「うへへぼくの部長あつめは着々とすすんでるですよ」とどうやら成功したらしい撮影の成果をチェックしている。

「あっお騒がせしてすみませんです、そちらはそちら、若いお二人でどうぞどうぞ」

 ばちんとウインクをして手をひらひら振る李一の顔を紅一は殴りたい。

「だってよこーいちー、これからどうする?」

 対して全く動じない鶸に、紅一はまた胸がぎゅっとする。いや、自分がおかしいんだ、普通はこんなに反応しない…と頭を振って、ポケットからメモを取り出し、もう一度今後の予定を確認する。取り出しすぎてだんだんメモがよれてきている。背後では科学部ふたり(主に李一)が騒ぎまわっている。ちょっと振り返ると、手のひらほどの鉢植えをぶん回しながら李一が桃園に駆け寄るのが見えた。「ここ鉢売ってますよ部長! 部長ぼくこの蘭買いますね! ほらおそろっち! ピンク色!」「うわっ顔の横にもってくるな葉っぱが刺さる!」

 仲よしこよしな様子で何よりだ。紅一は少し昔のことを思い出した。李一には双子の兄がいて、紅一と三人でたびたび遊んでいた。一人っ子で他人との交流も少ない紅一にとって、兄弟というのは未知の存在だ。

 ふと紅一は隣を見た。そこで鶸はじっと待ってくれている。人懐こくて子供のように無邪気な彼は、その実辛抱強くて優しくて、人を思いやれる。

 兄がいたら、こんな感じなのだろうか。

 なんとなくきゅんと胸を締め付けられた。それは苦しいものではなかった。

 『お昼:国道のうどん屋※31任意』というメモを確認して、鶸に「歩きで駅の方まで行こう」と提案する。「ご飯、……とアイス。そっちで食べよ」

「りょーかい」鶸は先に歩きだした。紅一も慌てて隣へならぶ。意図して歩幅を合わせようとした。

「ほらあ紅ちゃんたちも行きましたよ、ぼくたちも行きましょうよ!」「李一…僕の頭にサボテンを乗せておいてその言いぐさか…!」「キュートですよ!」背後から聞こえるアヴァンギャルドな会話。鶸は頭の後ろで腕を組む。

「科学部ってなんであんなピンクなんだろーなー」

「部長がピンクだからじゃないかな…」

 そんなやりとりをしながら、高い位置の太陽が光を溢す駐車場を抜けて、道へ出る。道路の左側の、ひび割れた歩道を歩いていると、相変わらず日差しがうなじや手首を焼いた。鶸の金髪がちらちら瞬くのを見ていると、鶸も紅一の少し癖のある黒髪を見て「……暑そうだな」と言った。

「……わりと」答えると、突然鶸が手を伸ばして、紅一の頭を触った。「うわ、まじで熱っ」わしゃっとかき回され、紅一は奇声を発して跳びすさってしまった。

 撫でられた、撫でられた…頭を……。衝撃にじんじんと疼く頭皮を押さえて、紅一は自分でもわけがわからず震えていた。この世の終わりのような顔をしていたのか、あっけにとられた鶸は眉尻を下げ、口角をひくつかせて、困惑しまくった表情で恐る恐る謝ってきた。

「お、おう…なんかごめん…」

「い、いや…」

 頭を押さえながらふるふる首を振る。血の上りすぎた頭は重心を失ったようにふらふらした。耳元で鳴るごうんごうんというのは自分の血流? 気づけば鼓動で指先まで震えていた。奔流に押し流されてしまう。

 どうしよう、まともに目が見られない。

 鶸も、ちょっと気まずそうに顔を逸らすと、紅一の頭を撫でた手を持て余したようにすこし宙をさまよわせて、その手でちょっと頭を掻いた。ふわりと、前髪が鳥の羽根のように揺れる。赤みが差した眦に、そのつばさの形の淡い影が落ちていた。

「うわっ急に頭をつかむな李一!」

「愛の爪こと愛アンクローですよ!」

 不意に右側、少し離れたところからピンクな会話が飛んできた。救いを得たりとばかりにそちらを見やった紅一に、鶸も同じように声のしたほうを振り仰ぐ。はげかけた白線とアスファルト、生い茂るプラタナスの下にはまたもやピンクとパープルがネオンサインのように夏のしたで輝いていた。

「なんでいるんすか先輩」

「そっちこそどうしてついてくるんだ雑草共」

「進行方向が同じなだけっすよ! 先輩たちこそ、そんななりして徒歩っすか」

「む、なりと移動手段は関係ないだろう!」

「ほんとはバスで行こうと思ってたんですけど部長がプラネタリウムで冷房に負けて、ちょっと休んでたら逃しちゃったんですよ!」「ばかっばらすな!」

「えーっ先輩冷房に負けたんすか! 南国の鳥みてーな恰好してるくせに!」

「南国の鳥とはなんだ雑草共め! 僕は雑草と違って繊細なんだ!」

「温室育ちのもやしですからね!」

「……道路越しに会話すんなよ」

 大声でやり合う三人に紅一は頭を抱えたくなる。これでは珍道中である。もう少し待ってバスに乗ればよかったかな、と思うが、今更引き返しても、この先のバス停にそのまま向かっても、なんだか何も変わらない気がする。二人きりの変に緊張した関係より、弛緩してしまったこのショッキング・ピンクな奇妙な組み合わせも、ある意味、よかった、かも……。

 いけないいけない、ピンクに負けるな、と紅一は自分の両頬を思いっきり叩く。鶸が隣でぎょっとした顔をした気がしたが気にしない。ぐっと足に力を込めて歩けば、伸び始めた道端の夏草が膝を擦る。白臣なら嬉々として採集しそうなほど立派な夏あざみだった。ドクダミ、セイタカアワダチソウ、…雑草を数えて黙々と十五分ほど歩いて、31の数字の看板が見えたあたりで、紅一は立ち止まった。侃々諤々喋々喃々、なんだかんだ科学部と道路越しに話し続けていた鶸が足を止めたのを見て、紅一は看板を指さした。

「お昼、先に食べる? それともアイス?」

「デザートは後かな…って思ってたけど、あっついわ、もう全身アイスモードだわ」

 腰に巻いたパーカーすら煩わしげに鶸は手で襟元を扇ぐ。首筋が薄っすらと汗ばんでいて、また変にどきりとする。紅一は目を逸らした。「じゃ、先にアイスで。そのあとは、ここの道下まで降りて国道に出ると、うどん屋あるから…」

「お、知ってる。マツキヨの近くだろ?」

 またポケットから取り出したメモと首っ引きな紅一に、鶸は吹きだしそうな顔をしている。

 サーティワンの店舗に入ると、一気に冷たい風が足首から吹き上げてきた。濃いピンクの塗装が冴え冴えと目に映る。…ついでに、ピンクとパープルの髪の毛も。

「だからなんでストーキングしてくるんすか桃園先輩」

「きみたちが勝手に僕たちの前を歩くだけだろうまったくこれだから」「部長コーンですか? カップですか?」

「僕はカップで…」「ラブポーションサーティワンとベリーベリーストロベリーでダブルカップお願いします、ふたつ!」

「李一お前勝手に!」

「うへへ、おそろですよ!」

 科学部二人が騒いでいるのはどこ吹く風、鶸はシーズンフレーバーといつものメニューを見比べて、少し悩んだあと「ホッピングシャワーおねがいしまっす!」と元気よく頼んだ。紅一はそれを見て、ちょっとだけ――「同じのを」と言おうとしたが、どうしても口に出せなくて、似た色のチョコミントを選んだ。弾けるキャンディの代わりに混ざる黒っぽい色を見つめながら、コーンに丸く刳りぬかれた小さなドームが盛られるのを待つ。リトル・プラネタリウム。

 ほぼ同時に手渡されたホッピングシャワーとチョコミント、鶸は弾けるように、紅一は静かに「いただきます」と口にする。隣では揃いのダブルカップを手にした科学部の二人がかしましく騒いでいる。不意に鶸が口を開いた。

「夏が近いな」

 カラフルな氷山を削り取った鶸がべろりと舌を出し、ぱちぱちする、と呟いた。燃える星みたい、と、呟いた彼に、紅一はぎゅっと胸を押さえる。弾ける流星の味を手にした彼は、確かに、目を離せないほど夏に近いところにいた。透ける金色が、立ち尽くす紅一の瞳を射る。風切り羽に似たそれから意識して視線をそらすと、紅一はそっとチョコミントに口をつけた。

 アイスクリームの表面は、少しだけ地球型惑星の表面に似ている。盛り上がった縁の岩石に、チョコレートとミントアイスの境目、わずかな溝。ここには河があったのかも、と舌でそこを舐めとる。燃える星の味はしない。

「こーいち、アイス好きだよなあ」

 少しだけ苦く爽やかなミントを大切に舌先で味わっていると、鶸がしみじみ呟いた。「よくきてんだろ、ここ」

 紅一は頷いた。「月一で学校帰りに食べる…コーンでダブル」

 チョコレートの層をそっと齧りながら紅一は言った。

「なんで月一なん?」

「んー…そっちのが、特別な感じしない?」

「なんだその自分への御褒美的な。OLか」

 軽く笑う鶸に、紅一は返し方を知らないから、黙ってしまう。単なる会話のなかのユーモアに、上手に面白く返せない。そのことが苦しい。鶸はまったく気にしない風に、コーンの縁と一緒に燃える星を飲み込む。色とりどりの流星は彼の白い喉の奥でぱちぱちと弾けるらしく、きゅっと目を閉じて楽しんでいる。――ほんもののプラネタリウムより、こっちのほうがいい? 一瞬浮かんだ思いに、こんな卑屈じゃあだめだと紅一は首を振る。でも、もうよくわからなくなっていた。近づく夏の気配が紅一の自信を溶かしていく。太陽に近づきすぎると燃え尽きてしまうのだ。自分は距離を見誤って、近づきすぎたのではないか。

「ひわきち」

 名前を呼ぶとミントの味がした。こちらを向く鶸の前髪が金に閃く。

 楽しい?

 そう訊こうとした舌がチョコレートにからめとられ、言葉が止まってしまった。あまりに真っすぐにこちらを見てきた鶸の目が、燃える星のように眩しかったから。

 ぱちり。

 心臓に、火。

「紅ちゃん、垂れてますよ」

 李一に指摘されて初めて、人差し指にチョコミントがついていることに気がついた。それは手の甲を伝って手首に達しようとしていて、咄嗟になめとろうとした瞬間、ぐっと肘を固定されてティッシュを当てられた。「なにやってんだよもう!」思いのほか近い。瞼の影。頬を掠めた金。こういう前髪のペンギンいたよな、なんて現実逃避する紅一の目にはちょっとだけ眉を寄せた山吹鶸の表情が大写しだ。

「……やっぱお前、体調悪いだろ」

 そんなこと、と答えた声が無様にひっくり返っていた。「そんな様子で言われても説得力ねえよ」震える手首をくいと引き寄せられる。呼吸が喉に引っかかってしまい、肺が膨張したように苦しい。声が上手く出せない。俯いて絞り出す。「ほんと、大丈夫だから」しかし鶸は手首を掴んだまま、「俺の目を見て言えって」言葉はきつくとも、その手つきや声音は真実、優しい。紅一はもうどうしようもなくて、思いきり掴まれている方の手のひらを開いた。当然、握られていたワッフル地のコーンは重力に従って、墜ちた。

 大気圏なんてないから燃え尽きることなく、べしゃ、と無様にチョコミントのやわらかな惑星は床に崩れる。飛び散ったチョコレートが、鶸のライムグリーンのシューズについていた。

 自分が何でそんなことをしたのかもよくわからず、茫然としていると、店員がすぐにカウンターから出てきて、大丈夫ですよと笑顔を見せながら片付けだす。鶸が紅一の手首を離し、手際よくそれを手伝うのを見て、一気に脳内がパニックになる。どうしよう、どうしよう、どうしよう……。足が震えだした。

「紅ちゃん、」

 声をかけられる。はっと視線をやると、李一の葡萄色じみた虹彩がじっとこちらを見ていた。「無理しないほうがいいですよ」

 ピンクのスプーンを指先で回しながら、小さな声で李一は言った。普段の笑顔ではない、眦に鋭さのある表情だった。違う、違う、無理してなんか……。ぐにゃりと視界が歪む。パープルと、ピンクと、イエローが、どろりと溶けて瞬いた。

 紅一はその場にしゃがみ込んでしまった。疼く心臓から真っ赤な痛みが伝播して、喉の付け根を締め上げた。呼吸が苦しい。

「ごめんな」

 鶸が斜めに紅一の顔を覗き込みながら、両肩をぽんぽんと叩いた。「驚かせたよな」

 紅一は首を振った。目の前にあるライムグリーンに染み付いたチョコレートを見て泣きそうになった。汚してごめんなさい、こんなことしてごめんなさい……。

 鶸は優しく紅一の背をさすりながら、声も出せずにうずくまってる彼にゆっくり言った。

「帰ろうぜ」

 すとんと、心臓があのアイスクリームのように、足元に落っこちた。

 今なんて? と聞き返したい気分だった。あるいは聞こえないふりをしたかった。冷水が血管を伝って全身の熱湯と混ざりあって目眩がした。

「お前みてらんねえよ。すげえ、危なっかしい」

 眉尻を下げて言う鶸はいつになく兄の顔をしている。待って、唇だけが動いて声がでない。待って、そんなことない、大丈夫だから……。宇宙に放り出されたように言葉を失ってしまう。はやく、はやくなにか言わないと。

「それじゃ、邪魔してごめんなさいです」

 李一の言葉にまたもや声を奪われる。座り込んだ紅一をじっと見つめる丸い瞳は明らかに何かを察したようで、無邪気な好青年っぽい笑顔の偽装工作が腹立たしいほどだ。唇を噛んでぷるぷるしている紅一の肩にぽんと手を置き、耳元で「落ち着いて、紅ちゃん」と囁くと、李一はスプーンを手持ち無沙汰に見つめている桃園を振り仰いだ。「部長、お邪魔しちゃって悪いですから、ここいらで別れましょ!」

 桃園はきょとん、という形容が似合う顔で、李一と紅一を見比べていた。別れるもなにも別に同行してたわけじゃ…と言いかけ、紅一の目と視線があうと、びっくりしたように焦げ茶の瞳を瞬かせて、「まあ、その、……邪魔したな」と呟いた。紅一は「いえ」と首を振りながら、桃園があんな顔をするなんていまの自分はどれほどひどい顔をしているんだろうと思った。

 鶸は紅一に「出られるか?」と声をかけ、手を差しのべる。その優しさに、紅一はどうしようもなくなって、操り人形のような動きで立ち上がるしかなかった。

 店の外に出ると、真昼間の暴力的なまぶしさと太陽熱が体を包む。もう少しとどまるという科学部ふたり(というか李一)は店内から鶸と紅一を見送った。

「じゃあなー!」

「ばいばーいですよ!」

 手を振り合う鶸と李一は早くも友人の風情である。半分麻痺した思考でも、このコミュニケーション能力はなんなのだろうかと驚愕しながら、紅一はポケットに手を入れて、皺の寄ったメモを取り出した。

 こんなに早いバスの時刻は調べていなかった。

 夕方近い時刻の羅列を見つめながら、真昼の太陽に照らされて、じりじり紙の白が網膜を灼いた。自分の周りにはガラスの壁がそびえ立っているみたいに静かだった。やけに静かで、でも締めつけるような痛みばかりが持続する鼓動の音が、耳の奥で反響した。

 少し歩くと、国道に出る。バス停はすぐに見つかった。そこから、行く予定だったうどん屋の看板が見えて、鼻の奥がつんとした。

 鶸がバス停の時刻表をチェックして、近くに戻ってくる。座っとけよ、とベンチを示され、力なく首を振ると、だめ、と強制的に座らされた。

「無理すんなよ。帰って寝ろ」

 またいつでも出掛けられるから、と慰めの言葉を口にする鶸に、紅一はこくんと頷いた。「お茶飲む? 少ないけど」差し出された綾鷹のペットボトルを受け取って口をつける。味がわからなかった。お礼を言って返したが、動作がぎこちなさすぎたらしく、鶸が余計に心配しだした。大丈夫だよ、と答える自分の声が遠い。

 終わった。

 目の前に立っている鶸は、高い太陽を背に逆光になっていて、表情もよくわからない。わからないこと尽くしだ。わからないまま終わってしまった。せめて隣に座ってくれればいいのに。鞄ひとつあけられないほど小さなベンチが憎らしかった。

 こういうときに限ってすぐに来るバスにふたりは乗り込む。車内は冷えていた。行きとは大違いだ。ぼんやり歩いたら紅一は段差に蹴躓いてしまって、また鶸に心配された。

 行きと同じように、空いていた最後尾の座席に、鞄ひとつぶん空けてふたりは座る。

 バスのなかはひどく息苦しくて、少しずつ酸素が薄くなっていくような気がした。膝がつかえるほどの座席の間隔や、低い天井。音を立てて走り出したバスは密閉感という点で走る棺みたいだ。

 プラネタリウムも、温室も、閉じられているけど、そこには不思議と閉塞感がない。世界がそのなかにあるからだろうか。でもこのバスのなかには風がない。胸のうちで燻る熱は大きくなるばかりだ。

 ……ひわきちは楽しかったんだろうか。

 不意に、そんな、シンプルな疑問が浮かんだ。

 それこそ出かける二週間前から、ずっと考えていたこと。山吹鶸が楽しんでくれるかどうか。それが紅一の最終目標だった。原点であり、終着である。楽しかったんだろうか。自分がこんな風にしてしまったけど。

 のろのろと紅一は俯いていた顔をあげた。鞄ひとつぶんあいた二人の距離。

 窓の外を見つめながら、鶸はじっと押し黙っている。そのうなじを盗み見て、紅一は膝の上で手を握りしめた。切り忘れた左手の薬指の爪が食い込んで内出血する。それでも胸の方がずっと痛かった。

「卒業、みたいだな」

 不意の鶸の言葉にびくっと肩が震えた。卒業。卒業。なにが? 俺とひわきちの友人関係? 鶸は視線をバスのなかに戻すと、ちらっと身を固くしている紅一を見た。

「しらねえ? 映画。ダスティン・ホフマン主演の。ラストでさ、結婚式で花嫁さらって逃げちゃうんだよ」サウンド・オブ・サイレンスが主題歌だったやつ、と鶸は言う。脳内で歌が流れ出した。Hello darkness, my old friend...I’ve come to talk with you again....地下水脈のようなハーモニーがじっとりと胸の隙間を濡らしていく……。

 鶸は窓の外を見つめながら続けた。

「そのラストシーンでさあ、主人公と、ウェディングドレスの彼女が、結婚式飛びだしたまま、並んでバスの一番後ろに腰かけて、遠ざかってくんだけど、…妙に、カメラがパンするまでが……最後のふたりが映ってるシーンが長いんだよ。

 最初はふたりとも笑顔でさ。でも、すぐに笑わなくなっちゃって。……なーんかさ、不安な感じで……」

 遠くを見る目で鶸は呟く。最後は誰にともなく、という感じで、声は余韻をとどめることもできず消える。紅一の脳内にある映像が焼きつく。バスの最後尾の座席。ならんで腰かける、不安そうな表情のふたりの若者。その顔は、ふたりの行く先がハッピーエンドでないことを示している。

 ちらっと紅一の横顔を見た鶸が、驚いたように声をあげた。

「なんでお前顔真っ赤なん? 暑い?」

 全身の血が集まったように熱い頬を意識しながら、紅一は狭まる気道からなんとか息を吐きだす。どこもかしこも苦しくてたまらない。

「あ…つ、い」

 声も明らかに上ずっていた。全身がじっとり汗をかいている。

 鶸は驚いてわたわた辺りを見ると、ばっと座席の下を覗き込んで、紅一の肩を叩く。

「俺足元にエアコンあるからだわ! 場所変わろうぜ」

 磨いた琥珀の瞳。肩に触れる手。シャツ一枚隔てた熱量にくらくらする。

 もうだめだ。

 じわっと、目が溶けだしたと思った。

 熱いものがあふれ出して世界を覆い、視界がにじんだ。頬を雫が滑り、あっという間に鼻と喉の奥が痛みと熱を訴える。うに濁点がついたような変な声が洩れたのを皮切りに、嗚咽がこぼれ出た。

 鶸が息を呑んだのがわかった。

 だめだ、と思った。走りたい。走れない。ここから逃げたい。逃げられない。

 太陽に近づきすぎた。

 風のないバスの中、熱から逃げられない。体の奥の衝動も何もかも体表でぶつかってぐるぐる渦巻いて燃え上がって、涙として勝手に溢れ出してしまう。洪水だ。

「ちょ、ちょま、こーいち、」鶸が狼狽えた声をあげる。その響きに余計涙がこぼれ、握りしめた手で顔を覆ってしまった。べっとりと手のひらに濡れた頬の感触。

 一八〇センチを超えた男子高校生が、バスの中でぼろぼろ泣いている。なんてみっともないんだろう。

 穿いていたジーンズの腿にいくつも雫が落ちた。顎からぽとんと垂れる水滴の温度を感じる。幾つも涙の筋ができて、もう顔全体がぐしゃぐしゃだ。誰か殺してほしい。

 鶸はハンカチをリュックから取り出す余裕もなく、動揺のあまりパーカーの裾で紅一の顔を拭おうとしたり、肩を叩いて慰めたり、大きな瞳を揺らめかせて忙しなく動いていたが、バス内に次の停車場のアナウンスがかかった途端、何か覚悟を決めたように表情を引き締めた。

 紫色のランプが特徴的な音と共に点灯する。紅一は身を震わせた。鶸がボタンを押した手を引っ込め、リュックを背負う。まだ終点の駅じゃないのに。戸惑ううちに、バスが停車した。

「おりるぞ」

 有無を言わせない鶸が、紅一の手首をつかんでバスを降りる。明らかに多い枚数の硬貨を払っていたが気に留めることもなく、ステップを飛び降りて紅一を引っ張って歩き出す。泣きすぎて視界が水中のように揺らぐ紅一は抵抗もできず、引っ張られるがまま歩いた。

 どうやら、駅のふたつみっつ前の停留所で降りたらしく、あたりは住宅が多いがほどほどに人通りもある。ふたりの姿は人目をひいた。鶸の足取りが速くなる。

 小さなマンションの一階にあるレストランのようなところに、鶸はぐいぐいと紅一を引っぱって行った。男子高校生二人が入るには少し不向きな店だったが、近くに、他の適当なカフェテリアのようなところがないのだから仕方ない。北欧的なスツールや洒落た室内照明の下をくぐり抜け、店員の挨拶も振り切るように、奥の二人掛けの席へ押し込まれた。

 スイカのスムージーとレモンスカッシュを注文した鶸は、明らかに二人を訝しんでいる店員も無視して、テーブルに少し身を乗り出した。

「どうしたんだよ」

 メニューも読めないほど泣いている紅一に、鶸はほとほと困り果てた様子で話しかける。まるで幼子をなだめるようだ。しかし泣いているのは三、四歳の可愛い子どもではない。でかい図体を縮めて、今やぐずぐずに泣き崩れている紅一は、眦を赤く染めて震えながら言った。

「た、楽しくなかったかな、って、」

 俺、変だっただろ、とまた顔をわしづかむようにぐしゃぐしゃに泣きだす。鶸は慌てて宥めだす。

「いや確かにお前変だったけどさあ…お前いつも変じゃん…あ、そうじゃなくて、別に嫌とかじゃなくて、体調でも悪いのかなーって…」

 紅一はできるだけ小さくなろうとするように身を丸めている。その背が震えているのは体内で脈打つどうにもならない思いのせいだろうか。「楽しかったよ、プラネタリウムも温室も」慰めるような鶸の声がどうしようもなく大人びて聞こえて、紅一は項垂れて「本当に?」と訊き返してしまう。「俺に、気、つかってるんじゃなくて?」

 突然、鶸が深く息をはいた。腹の奥に溜まる感情をなんとかおさめようとしているようだった。抱く強い気持ちを圧し殺しているように、「あのさ、」と、鶸は拳を握りしめて、低く声を発した。

「俺が楽しかったってどんだけ言っても、こーいちが信じてくれなきゃそれっておしまいじゃん。俺は、今日、楽しかったよ。

 俺はこーいちがさ、フェスとかの帰りに楽しかったって言うの、疑ったことなんてないよ。こーいち、絶対今までそんなとこ行ったことなくて、騒がしいのとかたぶん得意じゃねえってわかってるから、最初は心配だったけど、こーいちが楽しかったって言ったから、安心したよ。だってお前、俺に嘘つかないから。

 こーいちは、俺がこーいちに嘘つくって思ってんの?」

 畳み掛けるように言われて息ができなくなった。真剣そのものの鶸の声音が絶望的に耳朶をうつ。嘘つきだなんて思ってない、思ってないけど…でも、疑っていたことは事実だ。

 嫌われた。

 心臓が痛い。この胸の奥の火を消してほしい。どんな冷たい言葉でもいいから、わからないよりずっといいから。とどめをさしてほしい。こんな、なにもわからないで、孤独に真っ暗な宇宙に放り出された気分でいるのは、耐えられない。紅一は処刑を待つような気持ちで、涙と心情を滴らせた。

「お、俺…人づきあいへただから……ひわが、ひわきちが、…ど、どうおもってんのか…わかんなくて……や、やな思いさせてごめん…」

 なんだよそれ、と勢い込んで言われ、また紅一の体が跳ねる。眉根を寄せた鶸は、苦しげにもう一度「……なんだよ」と呟き、唇を噛んでいた。少し考え込んでから、鶸は不意に、ぐっとテーブルに身を乗り出す。悲しいほど真摯な眼差しが、涙越しに紅一の目をとらえる。

「あのな、紅一。俺いってんの、そういうんじゃねえよ。嫌とか全然じゃないし。

誰もかれも、相手がどう思ってるかなんてそんなわかってねえよ。俺だって、いろんな人と話すけど、全然わかんねえもん。でも、なんかたぶんこうだな! って、勘でいくんだよ」

 身振り手振りつきで、なんとか紅一を宥めようとする鶸に、しゃくりあげている紅一は切ないほど小さな声で絞り出した。

「嫌われたくない…」

 鶸は声を奪われたように黙った。小さな礫が胸を撃ったように、少し身を引き…また、ゆっくりと息を吸いながら、テーブルの上に身を乗り出す。

「紅一はことばが少ないけど、俺はことばを知らない」鶸はため息をついた。「……ロックじゃねえ!」何かをつかむような仕草をしてから、あーっともどかしげな声をあげて頭を掻き毟った。

「言葉なしでわかりあえるほど俺たちロックじゃねえんだよな。…未熟ってかさ」

 あー、うー、と鶸は言葉に悩んで呻き、何度も唇を噛んで、やがてなんとかして絞り出した。目の前で泣き崩れている友人の心に寄り添えるように。崩壊寸前の紅一を支えるように。

「…俺も、あんまり…言わなくてもいいっていう過信は、たぶん、みんなあって……でも、紅一はさ、それが不安なんだよな」

 紅一はまだ泣きながら頷いた。人の心はわからない。風の向こうのように見通せない。まぶしすぎれば尚更だ。

「俺、ひとと、あんまり、しゃべるのとかすくなくて、こういうの…だめ…」

 嗚咽混じりに言い訳する。どろどろ全身が溶けてしまって、焦がされて燃え尽きたようだ。こんな大きな体なんていらない。いっそ流星のように駆け抜けて消えてしまいたい。

「い、いざ、話そうとすると、言葉が出てこなくて…するとみんな先に行っちゃって…結局何も言えなくて、ああ、嫌われたって思って…それでまた萎縮して、そしたら、みんなまた…離れていく気がして……」

 喋れば喋るほど喉の奥が腫れ塞がり、心を追い詰める。

 人と触れ合うのが怖かった。体ばかり大きくなって、外見だけでとやかく言われても、すべて煩わしかった。必要以上に近づかなければよかったから楽だった。古びた本と、無人のグラウンドがあれば。美しい孤独。そのなかでたゆたっているだけで、満ち足りていた。

 だから、今までは、ずっと問題なかったのに。

 鶸とは、近づきたかったから。

 近づいても、遠ざかってしまいたくなかったから。

「みんな、次々追い越していって…立ち止まって考えてる暇なんてなくて…」

 だから走った。少しでも先へ行って、風を切って、時間を止めるために。

「でも時間は止まらなくて、俺は…俺は、いつも……」

 胸の裡に渦巻くものをとらえようと立ち止まる前に、彼の輝きが先へ行ってしまう気がした。その背を見失うことが怖かった。彼が自分への興味を失ってしまうことが、彼に失望されることが怖かった。

 繋がっていたかった。

 自分でも正体の判らなかったその気持ちが不意に言葉になった途端、鶸の両手が、ぐっと紅一の手首をつかんで、顔から引きはがした。

「なんでそんなにあせるんだよ」

 真っすぐにこちらを見る両目は、逃がさないと叫んでいた。逃げないで、話を聞いて。そこに切なるものを感じて紅一は動きが止まる。それは自分が抱いていた気持ちと同じだった。鶸は、彼が自分の信じるものを貫くときと同じ顔で、言葉を投げかけてくる。

「俺もむだな寄り道ばっかして生きてるって言われるよ。

 でも必要なんだ。ロックも、ピアスも、ぜんぶ、俺の燃料だ。俺の好きなもの。好きだから、大事だし、他の人にも誇りをもって紹介できる。

 紅一もそうだろ。こーいちなりの、だいじなもんがあって…それを、今日、俺に見せてくれたんじゃんか」

 そんなら俺はそれをちゃんと見るよ、と鶸はいう。彼も少しだけ泣きそうな顔をしている。「おいてったりしねえよ。だって、俺、お前より速く走れねえもん」

 鶸の声が、心臓に触れた。ぶわ、と金色の星が弾けた。そのきらめきが全身を包む。あたたかい銀と、まばゆい金をまぜた、黄色いひかり。

 やっと、息を吸えた。

 肺の奥まで空気が入ってくる。渦巻いていた苦しい熱が鎮められ、吐息と一緒にこぼれるのはありがとう、という掠れきった声だ。鶸はその言葉に顔をくしゃっとして頷く。

「待つよ」

 もう、帰ろうなんて言わないからさ、と、鶸はスイカスムージーに口をつけた。泡立った紅が、氷と合わさってきらきら音を立てる。どろどろの顔を拭うために目を閉じると、膜を張ったような鼓膜の奥で、レモンスカッシュがぱちぱちはじける音と、スイカスムージーの音が合わさって、水玉模様のような夏らしい響きをぽろぽろこぼしていた。何度も顔を擦ると、そっとハンカチを押しつけられた。タオル地のそれが優しく頬を拭うのに、恐る恐る手を瞼から外せば、何度もそれは紅一の顔を往復した。「痛くねえ?」訊かれて頷く。

 そっと、鶸の手が離れる。まだここにいるよ、と教えるような、優しい仕草だった。

 薄く目を開ける。プラネタリウムの終わりのように、散大した瞳孔に光が飛び込んでくる。世界はこんなに輝いているのか、と驚くほど。

 白く光に溢れたなかで、ただ一対見つめる金の瞳。

 太陽よりまっすぐに見つめられる瞳。

 ああそうかと、不意に紅一は知る。

 自分がいちばんほしかったのは、これなのだと、星を抱いた心臓が告げていた。

 紅一がぱちぱちと弾けるレモンスカッシュに口をつけると、燃える星と、夏の味がした。自分がそれに触れても燃え尽きてしまわないことが、何より嬉しかった。

 近づく夏も光も、もう怖くなかった。もう彼を見失わないと思えたから。山吹鶸が隣にいると信じられるから。

 彼とまた出かけよう、と思う。そして、彼の好きなものと、自分の好きなものを、ふたりの好きなものにしよう。今なら、それができると信じられた。世界はこんなにも輝いて美しいのだから。



 口に含めば、甘くあふれ出す君の名前。見つけてしまった。幾度も口ずさみ、断ち切ることなく味わっていた。それが合言葉のように、唱え終えると夏がきていた。/文月悠光「夏の観測席」

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