All things are bright and beautiful

しおり

前篇

 初夏の日差しは、光そのものに似ている。

 そのなかで、金色が踊っている。


「まじさ、ホイールがこう、ぐわって曲がるんだよ。すげーなガードレール! まじでロック!」

「怪我は?」

「あ、俺は無傷。ほら元気」ひわははバス停で軽くジャンプする。テニスシューズのライムグリーンが目に焼き付いた。

「弟も今日でかけるっていうし、その下のやつのチャリもこないだ修理に出したばっかでさ」

 ごめん急に、という鶸に首を横に振りながら、紅一こういちはじっと駅前の喧騒を眺めていた。初夏の日曜日。若者を中心に、老若男女が忙しなく行き交っている。バス停の屋根の下のベンチにはお年寄りと幼児が並んで腰かけており、これから紅一たちと同じところへ出かけるのだろう、嬉しそうな女児がしきりに祖父らしい相手に語りかけている。「――ほいくえんでね、いっぺんだけプラネタリュームみたことあるんだよ」

 鶸が相好を崩してその様子を見つめていた。下の兄弟が複数いるという彼は生来の兄気質だ。紅一はその横顔を眺めながら「…てか、どうしてこけたんだよ」と訊いた。

「いや、学校前の坂を下ってたらさ、枝が頭に当たって! バランス崩して脇のガードレールに突っ込んだ。びっくりしたわ、朝はあたんなかったのに、木って伸びるの早いんだな」

 額をぽんぽんと叩きながら鶸は笑う。紅一は安堵と呆れをこめたため息を吐いた。

 昨晩、「チャリ壊れたからバスでいい?」という鶸からのLINEにすぐに気づけたのは、紅一がひっきりなしに今日のことを気にかけていたからである。普段の紅一ならLINEの通知は一日以上気づかないのがデフォルトだ。すぐに最寄り駅からのバス時刻表を引っ張り出して、慣れない手つきで返信した。

「植物園前までいくバスが、10時5分にあるから、それで」ともたもた打ち込んでいる間に、鶸の方から「10:05の植物園行のやつでいい?」と送られてきた。仕事が速いと感嘆しながら、「うん」と返せば、妙な鳥のスタンプが送られてきた。そのとぼけた可愛らしい絵を見つめながら、紅一は息を吐いた。

 隣に立つ友人を盗み見る。彼が落としたiPodを紅一が拾ったことがきっかけで知り合って、偶然部活が一緒になって一年。ふたりで出かけたことは初めてではない。ロックフェス、新宿、めくるめくアンダー・グラウンド…紅一にとっては海の向こうの国やらと大差ないような極彩色の異世界。ロックンロールとネオンサインのワンダーランドにあてられ、ライブハウスで倒れたときには迷惑をかけた。

 しかし、今回は少し勝手が違う。

 紅一はポケットの中のメモ用紙をぎゅっと握った。今日の予定を書いた一枚。今日の紅一のよりどころだ。

 そもそも、なぜこんなことになったのか。

「今度のテスト明けどっか行こうぜ」

 放課後の緑溢れる部室、鶸のiPodのイヤホンをいつものように二人でシェアしながら、Seven Nation Armyを聞いていたとき、鶸がおもむろにそう言った。

「ん。どこに行く?」

 紅一が英語の課題を埋めながら訊くと、鶸はごろんと並べた椅子に寝転がって、額に触れるすいかずらの葉ををもてあそびながら、少し考えるそぶりをした。

「こーいちの好きなとこでいいよ」

 ほらいっつも行く場所選ぶの俺ばっかじゃん? と笑った顔はまぶしすぎて、よく覚えてない。

 その鶸の発言に際し、紅一は凍りついた。

 自分の好きなところ。それはすなわち、自分の出かけたいところ。自分が、山吹鶸と出かけたいところ。

 そんなのない、と思った。俺がひわきちと出かけたいところを選ぶ。それは本末転倒だ。紅一は、鶸が選ぶ場所だから行きたかったのだ。自分の知らない世界。金色の世界。

 自宅に帰るなり、滅多に開かないノートパソコンを開いてGoogleの検索画面を出したが、いったい何を検索すればいいのかすら見当がつかない。

 どうすればいい? 彼の行きたい場所。彼が楽しめそうな場所。いや、そうじゃなくて、俺の行くとこじゃないと。落語。舞台。だめだ。ひわきちが寝る。神保町。いや遠いし。ちょうど近くで浜口陽三の展覧会が…だめだ。絶対興味ない。やばい。レパートリーがもう尽きた。映画? 映画とか…今何やってるんだ? というか、映画見終わってからどうすれば? 小一時間考えて、結局パソコンは閉じた。

 考えれば考えるほどどつぼにはまり、思考が焼けつきそうだ。自分は誰かと出かけるとき、どんなところに行くか?

 ……俺、ひわきち以外と出かけたことがほとんどないんだ。

 気づいたとたん、泣きそうになった。

 テスト後なんて、鶸の性格なら誰もからカラオケとかボーリングとかとにかくそういうものに誘われるだろう。でも、それらの代わりに、鶸は紅一に声をかけてくれたのだ。自分はそれに値するか? 絶対、しない。考えるだけで夜も眠れなくなった。祖父母に相談したが、古本屋めぐりが趣味の祖父と、庭いじりが好きな祖母とではどうにもならなかった。研究者の父と、認知症の曾祖母からもよいアイディアは出なかった。残るは俗に言うキャリアウーマンたる母のみである。しかし、夜遅く帰ってきた母に茶を出しつつ訊いてみると、彼女は煙草のけむりを吐きつつ、あっけらかんと言い放った。「あんたの好きなとこでいいじゃないの」

 盛大に振りだしにぶん戻された紅一は、睡眠不足の頭と心なしか痛む胃を抱えながら、雑草研究会のトップに泣きついた。

「………部長、俺はどうしたらいいんですか」

 まだ小さなえにしだの鉢に水を遣っている那倉なぐら白臣きよおみの背に問いかける。黄色い蝶々のような花をいとおしげに見つめながら、白臣は振り返った。

「お前の好きなところでいいんじゃないか?」

 男が惚れる男学内ナンバーワンに輝いたと噂の笑顔に見とれる。と同時に、心が地べたに叩きつけられる。

「それだと……それだとだめなんです」

 俺はひわきちが行きたいとこ行くのがいいのに、とこぼれた声は情けなく震えていた。机にべったりと伏した紅一の脇には地元のるるぶとことりっぷ。この雑草研究会の先輩たる青山あおやまらんが「お困りのこうちゃんに♡」と渡してきてくれたものだ。なお間にラブホテルのパンフレットが挟まれていたがもはや慣れたことなので目を閉じながらそっと引き抜くと白臣が受け取ってなんとかしてくれる。

 紅一を散々からかったあと気まぐれにいなくなってしまった藍ならどこを選ぶんだろうか、などと考えていても答えはでない。後輩のりょくに訊こうとしたら表情が鬼気迫りすぎて逃げられた。室内とはいえ元短距離走者の紅一が見失う速度とは余程である。

 突っ伏している紅一の耳に水音が届く。白臣が部室中の雑草たちに水を遣っているのだろう。断続的なその音を聴いていると、心が落ち着くが、悩みは晴れない。

「鶸も、お前と同じ考えだからそう言ったんじゃないか?」

 白臣は穏やかに言う。へばっていた紅一が顔をあげれば、じょうろを持った白臣がこちらを見ていた。

「自分の知らない世界を見たいっていうことだろう」

 どこぞの王子のように端正な面立ちで微笑んだ白臣は、太陽を背負っていて、ああこの人も金色だなあと紅一はぼんやり思う。太陽の似合う眩しいひと。俺の周りにはそんなひとばっかりだ、と、増していく夏の気配を吸い込みながら、紅一は深く息をはいた。


 帰り道、自転車置き場で、紅一は意を決してスマートフォンを取り出した。黄緑色の四角に触れ、慣れない手つきで打ち込む。

 ―――プラネタリウム、行かない?

 スマホを握る手はじっとりと湿りきっていて今にも取り落としそうだった。

 可愛い鳥のスタンプで「OK!」と返ってくるまでの一分間は、今までの人生で最も長かった。


 して、エックスデーである。

 夏の手前で立ち止まっている季節ではあるが、だいぶ陽光がきつい。鶸の染めた髪がきらきらと金に透けていた。頬骨やうなじが炙られているような気がして手のひらを当てると、じっとりと汗をかいていて不快だ。

「ちょっと暑いかもな」

 腰にまいたレモン色のパーカーで手を拭きながら、鶸も呟いた。「気温何度だっけ?」

 気温計など持ち歩いていない紅一が首を振ると、鶸はスマホでなにかを打ち込んで「最高気温二十五度? 嘘つけ絶対もっと高えって」と呟いた。

「日が照ってるから…かな」

 紅一は首筋を手で擦る。熱と忙しない脈が手のひらを灼いた。バスはまだだろうか。何本も違う行き先のバスを見送る。じりじりと日に焼かれる。

 幾度も騙された排気音、今度こそ本物が近づいてきて、植物園前行の表示と一緒に紅一たちの前で止まる。ぷしゅうと間の抜けた音を立てて開いた扉から乗り込む。

 バスのなかは生ぬるい。まだクーラーを入れる季節でないからだが、紅一たちにとっては舌打ちものだ。鶸がぱたぱた首筋を手で扇ぎながら「なあ一番後ろ座ろうぜ!」と笑いかけてくる。二人がけに一人ずつ座るのか一人がけに一人ずつ座るのか、はたまた二人がけに二人座るのか、既に頭がぐるぐるしていた紅一は咄嗟に勢いよく頷いた。鶸は軽やかに通路をぬけて、一番後ろの日の当たる席へ腰かける。鞄一つぶんだけ開けて、紅一も座った。膝を揃えて、ぎゅっと手を握るのと、鶸が嬉しそうにリュックを開けてスマホを操作しだすのが同時だった。

「プラネタリウムとか小学生の頃見たとき以来だわ!」

 どうやらホームページを検索しているらしい。横合いからちらっと覗かせてもらうと、いかにも公営らしいサイトが目に入った。トップの総画ポップ体を指さした鶸が、これはねえよなあと笑う。はねた前髪を透かした笑顔が相変わらずまぶしい。

「つーか、プラネタリウムっていろいろ種類あるのな。ハイブリッド式? とかめっちゃかっけえ。ロックな感じ」

「ここ、古いから光学式だと思うけど」

「こーがくしき?」

「ん、……デジタルじゃないってこと」

「古き良きってやつだろ! ロックだな!」

 ふふ、と笑い声が漏れる。なんでもロックで済ませる鶸の感性は前向きで、物事を良い方向へ捉える。そこが彼のいいところだ。

 プラネタリウムと植物園があるのは、駅からバスで三十分ほどの場所である。理科好きの青少年の欲求を満たす施設が集約されている、少し古い公営の建物は、曇った温室と薄汚れた半球が目印の、周囲は住宅や木々が目立つ、少しさびれたような一角にあった。しかし日曜日なだけはあって、駐車場はそれなりの充填率だった。バスを降りた二人を初夏の熱気が包む。

 時刻は午前十時三十八分。十一時からの上映のチケットを無事買うと、受付の前の椅子に二人で腰かけて、待つことにした。

 館内には、星めぐりの唄がオルゴールで流れていた。壁には歌詞が貼られている。鶸がそれを目に留めて、横のコラムの宮澤賢治の名前に目をとめた。

「みやざわけんじ? だっけ、この人教科書に詩のってた?」

「載ってた。永訣の朝」

「はーなるほど」だから見覚えあんのか、と合点いったふうに頷く。「でもあれ授業でやんなかったから内容は知らないわ」

「え、なんで」

「え? こーいちやったの? あれ、現国だれ?」

「金子先生…」

「あーじゃあ違うわ! 理系って現国村崎先生なんだよな」

 村崎の顔を思い浮かべる。咥え煙草が真っ先にイメージ画像として出てくる、なかなかの曲者教師だ。顧問なので何度か話したことはあるが、授業を受け持たれたことはない。彼はどんな授業をするのだろう。

「俺国語できなさすぎてめっちゃ目つけられてんだよなあ」

 眉尻を下げて苦笑いする鶸は村崎とそれなりに関わりが深いようだ。誰とでも仲良くなれる鶸である。教師と仲が良くても不思議ではない。

 ……不意に、じり、と胸が焦げた気がした。

 文系と理系では力を入れる科目も違う。高校なら、クラスで教師が異なるのも当然だ。

 だけど、なんだか。

 プラネタリウムの上映時刻を告げる館内放送が流れて、紅一のずるずると沈む思考をかき消した。鶸が弾かれたように立ち上がり、プラネタリウムの入り口へ急ぐ。あとをついて、びろうどの張られた扉をくぐった。円形に並べられた椅子の群。中央には独特の形状をした機械。こもったような、懐かしい匂いがした。ああ、ここだ、と思う。ここに連れてきたかった。

「う、おおお…なんかすげえ……」

 映画館のような椅子の布の毛羽立ちを指先でいじりながら鶸が洩らす。紅一は慣れた動作で荷物を足元に置き、どうやら新設されたらしいドリンクホルダーにペットボトルを置きながら「冷房きついから、気を付けて」と伝える。鶸は頷き、パーカーを腰からほどいてたたんで、座った膝の上に置いた。

 程なくて、照明が落ちる。映画館とよく似ていて、少し違う空気。隣の鶸が、腕置きの上でぎゅっと拳を握ったのがわかった。青い光に照らされた瞳が一等星のようにきらめいた。その横顔の別人のような影にはっと息を呑む。

 幼い頃から慣れ親しんだ、けれどまったく違うプラネタリウムが始まった。

 落ち着いた女性のナレーションも覚えきっていて、同じように頭で再生できる。でも、違う。隣に山吹鶸がいる。それだけで何もかも。

 銀河への旅。

 プレヤデス星団が現れる。迷子になった流星。あてもなく奔っていく。青春の駆けだしたい焦燥を煽る光……青や白の、恒星のまたたき。コールサックのような暗黒部。ばちりとピンクや緑の星雲がはじけ、紅の蠍座の心臓と金の火がくるりとおいかけっこを始める。

 びろうどに触れる部分が一体化して、手足の感覚が遠ざかる。自分も今、茫漠の宇宙を漂っているだけの原子の集合体にすぎないように…。

 不安になって、隣を見た。

 父や、祖父がかつていたところには、新しい友人が座っている。アンドロメダに照らされた横顔が刻一刻と移り変わるさまに胸が締め付けられそうだ。

 離れたくない。

 子供の頃の不安感をそのまま持ってきてしまったように、恐怖に襲われる。幼い頃から、この美しい閉鎖でたびたび囚われてきた幻覚。隣を見たらそこはブラックホールがぽっかり口を開けているのではないか。父も、祖父も、どこかへ消えてしまっているのではないか。そんな不安だ。

 並んでいても、不意に自分だけ周回軌道につかまってしまったら? 尾を引いて永遠に遠ざかる背を見つめなければならないのがどうしようもなく怖い。囚われたくない。手を伸ばしたい。触れていたい。膝の上の手を強く握りしめる。

 けれど太陽に近づけば、待つのは死だ。

 惑星はめぐる。恒星に近づきすぎず、遠ざからず、永遠に近い時間を、燃え尽きることを怖れて。

 紅一はぎゅうと身を抱いて縮こまった。昔からの癖だ。太陽の誕生を聴きながら、自分自身を圧縮していく。太陽に近づきすぎないように。身の内に抱くものをこぼさないように。なくしてしまわないように。冷えていく体を押し込めて…でも、これだと、隣にいるものとは触れ合えない……。

 鶸の指先が、とんとんと紅一の肩を叩いた。はっと身を起こすと、彼は、星雲を映した瞳でこちらを見つめて、偽物の宇宙を指さした。顔をあげれば、見慣れたはずの――満天の星である。

 鶸は唇だけで、すげえ、と言った。その呼気が、紅一の冷えた肌に確かに触れた。

 不意に体の強張りが溶けた。

 いる。ここにいる。

 北極星がまたたき、鶸の髪が瞬間、銀になる。おだやかな熱量をそのきらめきに感じた。ふっと、椅子に身を沈める。胸に錘が詰め込まれたような気持ちが和らいだ気がした。

 億の孤独のなかで、確かに隣にいる。

 そのことが、無性に嬉しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る