にゃあにゃあの井戸 後編


 往訪は春休みを待たなければならなかった。親族であればともかく、友人の葬儀では休みは取れない。線香を上げに行きたい旨の葉書を出したところ、細君は快諾の返事をくれた。


 旧家、という言葉からの印象とは裏腹に、彼の婿入りした家はかなり山深くにあった。しかし平屋造りの母屋はどっしりとして、庭なども華美ではないが品よく整えられており、旧家の名に間違いはなさそうだった。

 和装の細君――既に死別したからにはそう呼べないのかもしれないが――は顔にやつれも見えたが、彼とは不釣り合いに若いように思った。広い仏間へ案内され、仏壇に線香を上げる。鴨居に掛けられた遺影は婚礼写真を流用したのだろう。記憶にあるよりも少し老けた旧友は紋付き姿で厳めしい顔をしていた。

 ひとしきり手を合わせたところで細君が茶を運んできた。北陸の山間はまだ春になりきっておらず、冷えた指先に茶器の温かさが沁みる。井戸の話は聞きたいものの、さてどう切り出すべきか、と一口啜ったところで細君が口を開いた。

「先生も、今日なわざわざ遠いとっからおいでらして、まんで気の毒なことで」

 全く意味が通じない程ではないが、細君の言葉には訛りがある。うねるようなアクセントの向こうに気の毒、と聞こえたがそれは私から細君に掛けるべき言葉ではないのだろうか。土地の言葉なのだろうか。一応こちらに気を遣っていることが感じられる故に聞き返すのも憚られて、曖昧に笑った。

「ほんで、先生には、あの人から手紙をいとったが……ですよね」

「ああ、ええ」

 茶碗を茶托に置き、これ幸いと話を切り出す。

「なんでも、猫の祟る井戸があるとかで」

「ねこ」

 返ってきたのは意外にも訝しげな顔だった。

「身重の猫が落ちた井戸だとかで……」

「ああ」

 思い当たったようで細君は呟く。

「ほいたら、あの人やっぱり間違まちごうとったがやじゃ」

「まちごう?」

「猫んなぁて、の井戸、です」

「にゃあにゃあ」

 それは、猫ではないのか。訝しむ私に細君は付け加える。


「ここらは若い娘のことを、とか、とかうがんで」



 その昔、哀れな娘が身籠った。

 しかし相手の男は娘も子も疎み、とうとう身重の娘を井戸に落として殺してしまった。

 それ以来、悪戯に井戸を覗くと娘が相手の男と間違えて引き込むのだという。


 伝わるのは、そういう話だということだった。



「――じゃあ、猫、いや、にゃあにゃあの好むものを身につける、というのは、」

おなしにゃあにゃあには、祟らんがやと」

 前提が崩れた。彼も私と同じく地元の人間ではないために聞き違えたのだろう。悪戯に危うきに近寄った彼の――そして遠因となった私の――責めに帰すべき部分があったのは否めないが、これは言わばだ。だが、それならば彼が日記に綴っていた猫の鳴き声というのは、


 アァ、アァ、アァ。


 鳴き声のようなものが、聞こえた。


「あ、れは」

「ああ、ねんねが」

「ねんね」

「お腹が空いたがか――」

「お子さん、ですか」

 彼は手紙にも日記にもそんなことは書いていなかった。知らなかった? そんな筈はない。関心がなかった? それなら、いやそれにしたって我が子の泣き声を、しかし細君がと言うばかりであったなら、そうだ、彼女は先ほどと、


「先生」

 はっと顔を上げる。細君が隈の浮いた目で真っ直ぐにこちらを見ている。

「あの人の、手紙」

 赤ん坊の泣く声が聞こえている。

「どんながに、書いとったがけ」


 アァ、アァ、アァ。



 できることなら彼も交えて茶を飲みたかったと濁してその場を辞した。礼状が一枚届いて、細君ともそれきりになった。手紙も日記も焼いてしまった。本当のところは分からず仕舞いだし、分かる手立ても必要もない。


 この話は、誰にも語ることはないだろう。

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にゃあにゃあの井戸 朧(oboro) @_oboro_

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