にゃあにゃあの井戸
朧(oboro)
にゃあにゃあの井戸 前編
その「祟り」は珍しく封書で私の
学生時分に始めた奇談怪談の蒐集は教員の仕事に就いた今も趣味として続いてはいたが、あくまで趣味としてのこと。最近では教え子たちから持ち込まれる他愛もないお化け話が関の山だった。だから、わざわざ「祟り在中」などと表書きを添えた仰々しい封書が舞い込んだのは全く初めての事だった。
とはいえ、それは見ず知らずの相手から送られてきたようなものではない。差出人は旧友の男だった。私の蒐集趣味を知っているから
当たり障りのない時候の挨拶から近況――何もすることのない田舎暮らしの退屈――を経て、手紙は本題へと入った。
彼曰く、猫の祟る井戸があるのだという。
その井戸は彼の家に程近い小さな神社の裏手にあり、特に
なかなか興味深い話である。確かに猫というのは鍋島の化け猫騒動を始めとして古くからよく
近々実際に見に行ってみるつもりなので武勇伝を聞きに是非一度拙宅へ来られたし、と手紙は結ばれていた。すぐにでも往訪したいものだが、教員というものは残念ながらおいそれと休みが取れる職業ではない。学校が休みに入れば是非に、と返事を出したのが冬の初めであった。
年の瀬も押し迫った折、二度目の手紙が届いた。
いや、それは厳密に言えば手紙ではなく、帳面から破り取った日記の一部だった。折り畳んだ日記が乱雑に詰め込まれた封筒の表書きは歪み、汚れている。差出人は書かれていなかったが、中を読めば彼からであるとすぐに知れた。日記に綴られていたのは、言わば「祟りの一部始終」であった。
私からの返事が届いてすぐ、彼は井戸を見に行ったらしい。細君に言って鰹節と魚のあらを支度させ、それを携えて神社に向かったのだそうだ。
その井戸は申し訳程度に杭と縄で囲われているが、立て札や
縄囲いは大人であれば簡単に跨ぎ越してしまえる程度のものだったという。彼も特に気負うことなく囲いを越えて井戸に歩み寄った。蓋代わりに乗せられていた板切れを退ける。意外にも井戸の中には水面のきらめきが見えた。だが、それだけだった。猫の骨もなければおどろおどろしい爪痕なども何もない。至って普通の古井戸だった。彼は板切れを元通りに被せてその場を後にした。
異変が始まるのは、それから数日後の記述からだ。
最初に訪れたのは腹痛と胸焼けだった。あまり「祟りらしく」はない、ごく一般的な体調不良だ。だから彼も置き薬の類を飲んで凌いでいる。しばらくすると嘔吐と下痢も始まった。医者を呼んだが、細君が猫の井戸のことを告げると老医師は打つ手がないと首を振ったらしい。祟り避けの
曰く、猫が鳴いている、と。
恋鳴きのように大きな鳴き声が昼となく夜となく聞こえると日記には綴られていた。真冬の事であるから発情期にはまだ遠い。よしんば狂い鳴きの猫がいたのだとしても――細君にはその声が聞こえぬらしい。猫が
この日記を何のために私に送ってきたのかは何も書かれていなかったが、彼が何らかの助けを求めているのは明らかだった。しかし私は怪談の蒐集を趣味としているだけで除霊や解呪の類ができるわけではない。悩んだ挙句に、手紙は読んだ、体調が悪いのなら一度大きな病院に掛かってみるのはどうか、春には遊びに行く、という旨の年賀状を出した。
松が明け、届いたのは細君の筆による彼の訃報だった。
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