終(02)世界を一段階、推し進める。
「言っただろう、恋蝶くん。すでに彼女は手遅れだと」
ぱたたっ、雨の音を弾かせて、白い傘が奏を雨粒から覆い隠した。その傘からちらりと覗く、白い髪と赤い瞳。全身真っ白という、酔狂な格好の似あう男性。
高麗剣猛先生だ。
「世界は前にしか進まない。君やボクたちがどれだけ世界をリセットしたのだとしても、所詮は小さな蝶の羽ばたきでしかない。迫り来る暁闇を押し留めるには至らないのだよ。しかも今回は、功を焦っただろう? だから反対をしたじゃあないか。雨天決行だなんて、幾ら我々にときが残されてなくともやるべきではなかった。……いや、正鵠を期すのであればそうじゃあないな。恋蝶くん、君は本当は気づいて欲しかったのではないかね? 彼女自身に、夕月夜くんに自ら気づいて欲しかった。そういうことではないのかね?」
相変わらずの斜に構えたみたいな態度と長台詞。それにしても、世界をリセット? 今回は功を焦った? 何を、一体彼は何を言っているの?
「君が何度羽ばたいても、バタフライエフェクトは起こらない。恋する蝶の役割は終わったのだ。さあ恋蝶くん、芝居はもうお仕舞いにしよう。幕を閉じるときが、来たのだよ」
「だ、だ、だめな、のです! まま、まど、円はわ、私がまも、守るのです!」
高麗剣先生は、厳しい表情で奏を睨んだ。
「何度も何度も。何度も何度も何度も何度もやり直したぞ。これで、何度目になる? とうに分かっているだろう。世界にリセットボタンなど存在しない。我々がいくら同じシチュエーションを演じたとしても、厳密には同じ条件下にはない。季節、天候、風向きや君の髪の毛の長さに至るまで、世界は決して繰り返さない。君の望む世界には決して傾かぬのだよ。そんなことは、何度目かの時点ですでに分かっていただろう」
「それで、でも! それでも、円はわ、私が――!」
「くどい! 恋する蝶の役割は終わったと言っただろう! ボクたちはまた、失敗をしたのだよ!」
◆
「取り出したるは小さきもの。さてさて諸君、これは……、何かな?」
父の映像が、ノートパソコンに流されている。マドカムラサキの特殊性や危険性。ああ、そうだ。父は言っていた。あの花の持つ強い毒性と強烈な依存性。身体の痺れや脳の記憶障害。それから、空。うつほ。それは、母の名前だ。
『うつほ、ああ、うつほ……、ここに……、いたんだね……』
◆
「しん、じんるい……?」
そうだ。どうして忘れていたんだろう。この団地の中には、いつの間にか失踪したひとたちが何人もいる。そして彼らがアナアキの次の段階――、コクーンとなっているという事実を。それどころか、彼らは殻を破ってその先にまで進んでしまっているんだ。
高麗剣先生は、ことばを紡ぐ。畳みかけるように、剣を叩きつけるかのように。
「コクーンが初めて発見されたのは、一年ほど前だったかな? 第一発見者は夕月夜誠准教授。まだそのときには、彼は世界に足をつけていた。ボクも一緒に研究に打ち込んでいたのだから、間違いない。それにしても、本当に驚いたよ。それが発見された場所とは……」
「や、やめ、やめてく、ださい! せ、せんせい!」
◆
「あら、円ちゃんごきげんよう。お待ち申し上げておりましたわ」
泉さんの家に、わたしはいる。そこで、わたしは取り返しのつかないことをした。ナイフの感触を思い出す。コクーンを引き裂いたとき、わたしは何を考えていたんだろう。弱竹さんのこころを、結局わたしは最後まで理解しなかったんだ。
「……はあ、役立たずだなあ、もう。まあいいや。もっかい戻って、やり直すとするよお。まどまど、あんたは何度でもリセットされる。もっかい繰り返せばいいだけだよ、学園祭並みの茶番をさあ」
◆
「どれだけの時間を費やせばいいのだ? すべては元に戻らない。ならば、次の一手しかないのだよ、恋蝶くん。世界を一段階、推し進める。そのためには、彼女に真実を告げる必要がある。そうは思わないかね? 夕月夜くん」
「あの……、一体何を……」
いや、何を、じゃあない。わたしはたぶん、識っている。ただ、わたしはそこからずうっと目を背け続けていただけで。とっても上手に、擬態をしていただけなんだ。
「う、ううう……、せん、せんせい。だめ、なのです……」
奏が、地面にへたり込んだ。雨に濡れて水たまりが出来かけているそこに。それから、彼女はわき目もふらず泣き始めた。
「ううう……、うえ、うっ、えええっ、ううえぇぇえ……っ!」
拳を地面に何度も何度も叩きつける彼女。そのたびに、水がばちゃばちゃと跳ねた。
高麗剣先生は、彼女の姿をちらりと見る。けれど、まったく慰める様子はない。そのまま、彼は話を続けた。
「最初のコクーンが発見された場所。それは――、君の部屋さ」
「え? 今、えっと……、何て言ったの、先生」
こころがひんやりと冷えてゆく。混乱。混迷。不安。疑念。けれど、分かる。未だに思い出せないけれど、わたしは擬態をしていた。マドカムラサキのように、わたしはわたし自身をも騙すためにずっと擬態をしていたんだ。身体だけじゃあなくて、自らのこころまでも。
「君はいつも日誌をちゃんとつけているね。しかし、それをきちんと見返したことはあるかね? とはいえそれらは問診時に、定期的に取り替えているのだがね。一年前につけた君の日誌……、それが、実はこの鞄の中に入っている。ここに、何が書かれていたか思い出せるかい? 君は挨拶をしたのだよ。この世界に向かって。一年前にどのように挨拶をしたのか、君は思い出せるかい?」
思い出せない。何、その一年前って。今は秋。わたしはそれを思い出す。いや、それすらもすでに違う。とうに季節は、冬へと巡ってしまっている。一年前の冬。そのとき、わたしの身体に何が起こったっていうの?
「思い出せないのなら、仕方がない」
先生はアタッシュケースをびしゃびしゃになった地面に置いて、雨に濡れないように注意しながら中身を取り出した。そこに入っていたのは、一冊のノート。表紙に、名前が書いてある。間違いない。わたしの日誌だ。
彼はページをめくる。そして、
「ああ、ここだ。さあ、見たまえ」
あるページを、わたしに見せつけた。日付は1月11日。そのページには、確かにわたしの筆跡で、奇妙な文字が書かれていた。
〈はじましめて こんちには みさなん おんげき ですか?〉
何、これ。一見普通だけれど、きちんと読むと文字の順番が違う。これは――、これは、何? 本当に、わたしが書いた文章なの?
「夕月夜円くん。未だに自覚症状がないようだが、とうに君は次のステップへと足を踏み出していたのだよ。ご存知だとは思うが、改めて言おう。ボクたちは、君のような新しい人類をこう呼んでいる。――〈新人類〉とね」
「し、新人類……」
荒唐無稽な話だと思っていた。わたしはひとり蚊帳の外にいるって、そう思っていた。けれど、わたしはもう、すでに?
「最初はこの文字列の意味が分からなかったが、のちに分かって来た。これは、君たちの脳の構造が変容してしまったがゆえの現象だ。君たちは自然とこう書いてしまっているけれど、普通のひとが普通に書いた文字列じゃあこうはならない。この現象は、タイポグリセミアと呼ばれている。文節の最初と最後を変えなければ、ちょっと順番が変わったところでひとはその文章を読むことが出来るんだ。脳とは不思議なものだな。そして、擬態をしたばかりの新人類を見分けるのは、難しいことじゃあない。ただ日誌を見ればいいだけなのだよ。無意識に君たちは、こうやって文章を書いてしまう。訓練をすれば、それすらも上手に擬態出来るらしいのだがね」
「わ、わた、わたしが……、し、新人類……?」
「そうだ。そして、もうひとつ教えておこう。世界で最初に産まれたコクーン。そこから初めて産まれた人類。コクーン化を促していたのは、その新人類の父だった。新種の植物である、マドカムラサキに見初められた学者の娘。ふうむ。もしかすると、名づけ方が悪かったのかもしれないね? 名前はちからだ。古来から、連綿と続く因習。名づけにより、ひとは聖にも邪にも染まる。つまるところ、そういったものだったのかもしれないね? 残念だ。ボクはこれから、君に向かって実に残念な事実を告げなければいけない」
高麗剣先生はノートを仕舞い込むと、わたしをゆっくりと指さした。
「君は、新人類の教祖になるべき存在だ、という事実をね」
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