終(01)すべて、思い出したのですか?

 五月蝿さんの背中を見送ってから、わたしは考えた。

 ええっと、このあとはどこに行ったらいいのだろう。環の家に行くべきだろうか。五月蝿さんの動向を探るべきだろうか。奏のお母さんの様子を尋ねるべきだろうか。それとも、泉さんの家に行く方が優先だろうか。

 わたしはどこに――、


 ぱたたっ、ぱたぱたっ、


 音。何かを叩いている。手に持っている何か細いもの。頭上から落ちる丸い影。


「え?」


 違和感が頭を突き抜ける。この手のひらに収まっているものは。


「――え、え?」


 惑う、惑う。まったくもって――、ぱたたっ、ぱたぱたっ、と音。軽快に。リズミカルに。弾く。それは、天から落ちている。

 一体、何が起きているの? 確かわたしは――、いたいっ。頭が急に締めつけられたみたいになって。違和感はどんどんと加速する。そうだ、確か前にもこうやって五月蠅さんに話しかけられたことがあった。

 けれど、それはいつのことだったのだろう。

 頭ががんがんと鳴っている。気分が悪い。けれど、やめるな。思考を止めちゃあいけない。それは確か、葉が色づき始めたくらいのころで。わたしは自転車に乗っていたはずだったんだ。


「……ね、何か……、おかしくない?」


 わたしの中に、何か記憶のようなものが積層している。そしてそれらはどうしてか夢うつつとなって忘れ去られてしまっていて、ぽっかりとアナの中へと落ち窪んでしまっていた。そのアナの中にはたくさんのボールが詰まっていて、わたしは何度も何度もキャッチボールを繰り返している。つまり、


「何だか、わたしたちだけがぐるぐると回り道をしているみたいな……」

「……そうなのですか? 何か、おかしいことでもあったのでしょうか」


 奏が、小首を傾げてそう言った。その仕草は実に自然で。疑念を持って接しないと見逃してしまうくらいに、自然体だった。けれど、これは異常事態だ。世界に生じている異常。異常に歪んでいる世界。


 これは、おかしい。何かが、おかしい。ぱたたっ、ぱたぱたっ。天よりしとどに降り注ぐ雨。わたしの手の中には傘。それに当たった水滴が弾けている音が、リズミカルに頭に鳴り響く。ぱたたっ、ぱたぱたっ。ぱたたっ、ぱたぱたっ。


 ――


 いつから傘を持っていたのだろう。違和感は更に加速する。隣に佇んでいる奏も、自然な仕草でピンクの蝙蝠傘をくるくると回していた。けれど、おかしい。今日は晴れていたはずだ。彩られ始めた木々から木漏れ日が落ちていて、どこかまだほんのりと暖かな初秋の一日。そんな一日のはずだったんだ。

 けれど、わたしは傘を持っていて。空からは大粒の雨が落ちて来ていて。色づき始めたばかりだったはずの木々が、すっかり裸になっている。

 わたしはセーラー服を纏っていて。その上に、ちょっとだぼっとしたダッフルコートを羽織っていた。


「……雨? コート? 何、何なのよ。これは、何なの? 一体何が起こっているのっ?」

「ちっ」


 奏が忌々し気に舌打ちをした。どうして? 奏が、わたしに舌打ちをするだなんて。


「奏……?」


 わたしの不安げな声に気づいたのか、彼女は取り繕うみたいににっこりと笑顔を浮かべ直して、言った。


「――ああ、ごめんなさいです。あの、何でもないのです。円、まどか。あなたは何にも心配しなくていいのです。あなたは、私が守るのです」


 ざらり、と。内臓のどこかを撫でられているみたいに、気持ちの悪い感触。そのことばは、前にも聞いたことがあった。身体のどこかから。いつかの何かが、不意に湧き上がる。

 それは、どこかふわふわとした夢のようで。誰かが何かを喋っている。


 ◆


「ねえねえ、まどまどのお父さんって、確か植物を研究していたんだよねえ」

 そこは、環の部屋だった。ゆめかわいくって、ふんわりで。猫のグッズで埋め尽くされた空間。けれど。その中心に、何か大きな卵状のものが鎮座している。それからその表面にぴしり、とひびが入って。

「ああ、環、たまきねっ? ああ、ついに孵ったのだわ!」


 ◆


……?」


 奏の表情が、強張った。それは、触れてはいけない話題に触れたときの顔。彼女の小さな舌が、下唇をぺろりと舐めた。


 ◆


「また色々と嗅ぎ回っとるんかい、小娘ども」

 次に湧き上がって来た光景は、集会所だった。わたしと奏、それから不如帰さんや弱竹さんがいて、みんなは熱心に「わたしたちの団地。わたしたちの団地……」と唱えている。その最中に、環がおもむろに現れた。それは、環のようで環じゃあなくて。

「とある思考実験があるんです。スワンプマンっていうのですけれど」


 ◆


……?」


 何、これ。――夢? わたし、白昼夢でも見ているのかしら。奏が両手で口元を抑えた。傘が、地面にべしゃりと落ちる。涙のような雨が、彼女の全身をずぶ濡れにしてゆく。


「か、奏。あんた、大丈夫? 風邪引くよ?」


 彼女は傘を拾わなかった。それどころか、広がったまま転がるそれを一瞥して、不愉快さを隠しもせずに踏みつける。


「……ああ、もう。クソッたれなのです」


 何なのよ、その態度。まったくもって惑っちゃう。ここにいる奏は、本当に恋蝶奏なの? それともわたしの知らない一面が彼女にはあったって、そういうことなのかしら。


? 

「どういうこと? ねえ……、ど、どういうことなのよっ! これはっ! 一体っ!」

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