泉(09)ただどろりとした液体がスープみたいに揺蕩っているだけで。
「お、おやめなさいっ!」
「や、やめるのですっ! 円っ!」
ふたりの声が、同時に響いた。――え? ふたりの、声?
奏がしがみついて来て、繭からわたしを引き剥がした。手からナイフが滑り落ちる。邪魔をしないで。わたしは振り返って、
「な、何よ奏! だって、弱竹さんを助けなきゃ――!」
「だ、だだだめ、だ、だ、だめ……!」
奏はいやいやをするみたいにして、床にへたり込んだ。どうして? わたしは奏を視界の端に捉えながら、くるりとコクーンの方へ向き直る。
そして。
視た。
コクーンの中身を。
そこには、ただどろりとした液体がスープみたいに揺蕩っているだけで。
その中のどこにも。
弱竹さんは、いなかった。
「……え?」
呆然とする。
え? だって……、弱竹さんは、さっきこの繭の中に取り込まれたじゃあない。この中にいないはずがない。この中にあるのは、ただの液体だけ――、と。その液体が、どろりと流れ出して来る。
「……ああ、もう。折角苦労をしましたのに。流出してしまうだなんて。奏さあん、貴女とおんなじ失敗ですわ? もう、事前にちゃあんとお話をして差し上げないから、こんなことになってしまうのですわよ?」
奏と、同じ失敗? え……、それじゃあ、もしかして。
「
「や、やめ、やめてく、ください。もう、喋らな、ないで……!」
「ねえ? 奏さあん? 貴女のお母様はアナアキでしたわね? そして、お茶を飲んでコクーン化した。そのコクーンを……、あろうことか、娘の貴女は割ってしまったのですわよね? 蝶の進化を知っていれば、そんなことは決してしなかったでしょうね。無知蒙昧は罪なのですわ。貴女もそう思うでしょう? ねえ、円さあん?」
「な、何? 何を、言っているの?」
奏のお母さんが、アナアキだった? 親娘でアナアキ患者だったって、そういうこと? そして、コクーン化したと? 蝶の進化? 理解が追いつかない。ことばに理解がついてゆかない。
「ですから、コクーンの話ですわ。イモムシは卵から生まれてくる前に、〈成虫原基〉と呼ばれるとても小さな細胞の塊を身体中に作るのです。それを持って生まれて、やがてサナギになる。そのサナギをある時期に開きますとね……、その中には〈虫のスープ〉ともいうべきものしか入っておりませんの」
「む、虫の……、スープ?」
「ええ。虫は変態をするときに、ほとんどの細胞組織を酵素を放出して溶かしてしまうのです。特定の筋肉と神経システムの一部のみを残して、身体の残りすべてをドロドロに溶かして変態するのですわ。コクーンもこれとおんなじ。取り込まれたその瞬間、ひとはひとでなくなり、完全にスープ状になるのです。ですから、今そこに流れ出している液体そのものが心さんなのですわ。ああ、可哀想な心さん。大変、残念なことになりましたわね……」
「な、な……、何てこと……、それじゃあ弱竹さんは……」
「ええ。とうに世界に流出してしまった、というわけですわ」
泉さんはあら困ったわ、といった感じに小首を傾げる。
そのとき。
玄関の扉が、静かに開いた。扉の音。静かに開いて、それが静かに閉じられる。背後から、不思議と柔らかな気持ちになるような、懐かしい気配が漂って来た。
そうだ、そういえば弱竹さんが言っていた。パーティにはもうひとりいらっしゃるって。扉をくぐって訪れたひとは、この不思議な気配の持ち主は、一体誰なの?
わたしは、恐る恐る後ろを振り向こうとして、
きゅっ、すらり、とたん。きゅっ、すらり、とたん。
廊下に響く、特徴的な足音を耳に捉える。こころがあたたかくなるはずなのに、どうしてだろう。何かがひんやりと冷えてゆく。あの、足をちょっと引きずるみたいな、かかとをきゅっと鳴らす歩き方は。わたしの横で力なく佇んでいた奏が目を見張って、ぐっと息を吸い込んだ。やっぱり、そうだ。耳の中で厭に響き渡る独特のリズムを、わたしと奏はしっかりと覚えている。
「――ねえ、」
「……はい、」
わたしたちはゆっくりと見つめ合った。青ざめた奏の表情。開いた瞳孔と、震える唇。
きゅっ、すらり、とたん。きゅっ、すらり、とたん。
これは、誰? この、耳に馴染んだ足音の持ち主は。ねえ、教えてよ。
後ろの正面は、だあれ?
疑念に応じるかのように、足音はわたしの真後ろでぴたりと止まった。それから、唇を開くときの粘ついた音。それは、目の前で流れ出している液体みたいで。
「――やあやあ、まどまど。またまた会ったねえ。ご機嫌いかがあ?」
その声は、場に似つかわしくない、妙に明るい声色だった。
泉さんの家のリビングには、吐瀉物がこびりついていて。巨大なコクーンが、部屋の中心に主のように鎮座している。それが割れて、流出しているどろりとした人間のスープ。その横で女王のように屹立する泉さんと、それらの目の前で絶望に満ちた表情で立ち尽くすわたしたち。
そのすべてを両の眼に収めているにも関わらず、声の主は惨状については何の質問も発しない。彼女が本当に視ているのは。
彼女が本当に視ているのは、わたしだ。わたしひとりを、彼女はしかと見つめている。
わたしはゆっくりと首を回した。肩口から特徴のある襟が覗く。わたしと同じ、セーラー服。それから目に入る、個性的なスカイブルーのエアリーボブ。大きな瞳はいたずらっ子みたいにくりくりしていて。口元にふんわりとした笑みを浮かべていた。間違いない。
「た、環――」
環だ。たまき。海底環が、そこにいた。
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