泉(08)お腹が空いた。

「え? ああ、そうでしたわ。ええ、うるさいですわね、ああ、そうですの?」


 彼女はまた突然あさっての方向を向くと、そちらに向かってぺらぺらと喋り始めた。それから、しまったといったような顔をつくって、


「ああ、漏れていましたの? 声が? ああ、それで奏さん、さっきは慌ててトイレに駆け込みましたのね。さぞかしぞうっとしたでしょうからね……」

「う、るさい。うる、さいの、です。喋らな、ないでく、ださい!」

「貴女のお母様も、呆れておりますことよ。ねえ、そうでしょう、宵さあん! ――え? ああ、そうでしたわね。彼女は個でなくて総体に……、まあ、いいですわ」


 宵さん? ええっと、それは確か――……、


「う、うるさ、さいのです! 喋るん、んじゃああ、ありませんっ!」

「え? 誰と? ああ、宵さんと、でしょうか? それは、どちらにしろ難しい注文ですわ。だって、ねえ? 貴女のお母様はもう〈個〉としての維持はおしまいになってしまっていましたもの。ええ、とうに〈総体〉となってしまわれたのでしたわね、うふふ。――貴女自身の失策によって、ね? うふふ」

「うわ、うわああ! うわああああああ! 言う、言うんじゃあ、ああ、あっ、あっ、ああっ!」


 奏が地団駄を踏み始める。――え? これは、何? 一体、何の話をしているの? だめだ、何か重要な話がされているようだけれど、まったくもって全容が見えて来ない。惑っちゃうばかりだ。泉さんが、サラダをつついている。どうしてだろう。何か、すごくお腹がちくちくとして来るんだ。


「そして、そうですわね。ねえ、円さあん。ねえええ、円さああああん、ほうら、お腹――、空いたんじゃあありませんこと?」


 お腹、ああ。そうだ。ああ、だめ。だめだ。


 お腹が空いた。


 わたしは慌ててテーブルにしがみつくと、サラダやチキン、グラタンやピザを貪った。掴み、口に放り込む。咀嚼、咀嚼、咀嚼、嚥下。食道を通る食物と、多幸感。満足感と、満腹感。次の瞬間に訪れる、空腹感。

 ああ、だめ。食べても食べてもお腹が空いて来ちゃうんだ。お寿司やミートパイ、キッシュにマカロン。咀嚼、咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。咀嚼、嚥下。


「ああああああ、ああああああっ!」


 獣みたいになって、わたしは食事を食べ散らかす。ど、どうして? だめだ、身体の動きが抑えられない。


「アナアキになって、二年……、でした? まずまず持った方じゃあありませんこと? ねえ、奏さん。貴女はよくそんなに食べるのを我慢出来ますわねえ。こんなに、こおんなに美味しいですのに」


 な、何? まずまず持ったって、どういうこと?


「アナアキのアナが巨大化するにつれて、喪失感は増大しますわ。それを埋めるように、食欲がどんどんと増進する。貴女、お医者様にそんなことも聞いていらっしゃらないの? だめねえ、もうとっくにその時期にさしかかっているっていうのに。さあ、どんどんお食べになって? どんどん幸せになってくださる?」


 ――幸せに、なる?


「ねえ、ねえ? もっともっと幸せになってくださる? そうすれば貴女は変容する。! そして、その空きに空いたアナに幸福のお茶を注ぎ込めば――!」


 ――お茶? ああ、そうだ。お茶を飲まなくっちゃあ。わたしはテーブルの上のティーポッドに手を伸ばす。コップに注ぐのも面倒になって、ポッドをそのまま掴んでお茶を喉に流し込んだ。ああ、美味しい。

 とっても。


「……とはいえ、まだ時間はかかりそうですわね。それもそうですわ、貴女にはまだまだ絶望が足りませんものね。あのなよなよした心さんでも一ヶ月以上はかかりましたものねえ。一ヶ月以上……、ずうっとずうっと罵倒し続けて、癒し続けて、罵倒し続けて……、ああ、とてもとても可哀想な心さん」

「一ヶ月以上、罵倒し続けた?」

「ええ。こころの弱い彼女を追い詰めるために、彼女のおうちにお邪魔したり、こちらに来て頂いたり、ときには団地の集いに行かせたりして。時間がかかりましたわ。その点、貴女はもっともっとこころが強そうですからね……、追い詰めるには、わたくしだけじゃあ役不足かもしれませんわね」


 こころの内がすうっと冷えてゆく。お茶を飲んだおかげもあるのか、とても冷静な気持ちが戻って来た。彼女は。烏羽玉泉さんは。こんな冷酷なことを、ずっとずっと彼女に向かってして来たのか。こころが、どうにかなってしまいそうだった。

 わたしは、テーブルにあったナイフを掴む。そしてそれを――、


「や、やめるのですっ!」


 奏の声が飛ぶけれど、さすがにこれを泉さんに突き立てるわたしじゃあないわ。突き立てるのは――、

 わたしは椅子から降りて、テーブルの横に鎮座している巨大なコクーンに、そのナイフを突き立てた。

 それはぞぶり、と気持ちいい感じに繭を突き破って、中の空洞らしきところまで突き抜ける。この中には、弱竹さんがいる。さっきは足がすくんでしまったけれど、何とか彼女を助けなくては。


「――なっ!」


 泉さんが驚いて立ち上がった。その表情を見て、わたしはほくそ笑む。それから一気に繭を縦に切り裂いた。

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