泉(04)まったく、この女と来たら。
今のやり取りから仮説を組み立てるのなら、組合員かどうかがポイントなのだろうか。
泉さんやわたしたちは、アナアキになってからこの団地に引っ越して来た。つまり、団地に昔から住んでいる正規の管理組合に所属している、いわゆる団地組合員じゃあない。それから、管理組合に所属している昔馴染みのひとたちは、ひと昔前まではとある新興宗教にのめり込んでいたっていう噂もある。
あるいは荒唐無稽かもしれないけれど、洗脳とか集団催眠みたいな手段で、環の失踪を隠している……、のかもしれない。
もしくは、覚えているけれど覚えていないふりをしているとか。あとは、薬物とか? それが効くか効かないか、みたいな一定の条件でもあるのだろうか。
「……ん、あら、そう。そういうことでしたの。まあ、いいですわ」
と、突然泉さんがいきなりはきはきと喋り始めた。――何?
「ですから、失策でしたわ。ええ、あ、そうですのね? ええ、分かりましたわ」
携帯電話で喋っているみたいに、明瞭な会話。泉さん、一体どうしたっていうの? わたしの戸惑いはよそに、彼女は、
「さあ、そんなことは置いておいて、サラダ、どうぞ? ドレッシングは、梅しそとシーザーのどちらをおかけになって?」
と楽しそうにサラダの乗った皿をわたしに寄越した。
「あ、ありがと。シーザードレッシングがいいなあ」
わたしはシーザードレッシングのボトルを受け取って、サラダに振りかける。振りかける。振りかけ――、ああ、ちょっとかけ過ぎちゃった。食べよう。あ、美味しい。シャキっとしたレタスは冷蔵庫から取り出したばかりみたいに瑞々しくて冷たいし、ミニトマトもプリッとしていて噛み応えが抜群。マカロニや卵、鳥のささみも乗っていて、食べ応えもあるし。美味しい。
とっても。
わたしはお茶を飲む。えっと、何だっけ。何か、泉さんに聞きたいことがあったのだけれど――、まあ、いっか。
椅子の下で、奏がわたしの足首を蹴りつけた。
「――った、何?」
「……ごめんなさいです、足が当たっただけなのです」
彼女は伏し目がちにそう言った。目の前に並んでいる、取り分けられたお皿たち。それらにはまったく手をつけていないみたい。
「あら、どうしましたの、奏さん。食欲がないのかしら?」
「は、いな、のです。すみ、みませんで、です」
「いいのですわ、とはいえお茶くらいは飲めるでしょう? さ、お飲みになって」
「け、けっ、結構な、のです」
「あなたたちがおつくりになっているお茶なのに? ふうん、まあ、いいですわ」
奏は軽く頭を下げて、食卓から立ち上がった。それから、
「す、いません。おて、手洗いをか、貸していた、たった、えっと」
「ええ、どうぞ? 構いませんことよ」
奏の姿が廊下へと消える。きい、ぱたん、と扉が開閉する音。
「具合でも悪いのかしら、彼女。そういえば、前にお会いしたときもお食事やお茶に手をつけられなかったですわね」
「うん、ちょっとここしばらく体調が悪いみたい」
わたしはジェノベーゼを口に運ぶ。うーん、最高。泉さんの家のお料理は、どれもとびきり美味しい。まるでシェフが腕によりをかけたみたい。
「色々あって。気を悪くしないでくれると嬉しいな」
奏のお母さんの失踪のことを思い出す。彼女はアナアキだし、余計に気持ちが落ち込むことが多いはず。たぶん、そういったことが重なって気持ちの折り合いをつけられずにいるんだ。
「ええ、もちろんですわ。だって、彼女もわたくしたちと同じ、アナアキなのですから」
泉さんはお茶を口にして、
「ああ、落ち着きますわ……」
と息を吐いた。それから、
「心さん、一度お座りになって、お食事をもっとお食べなさい? ほら、どうぞ」
「ああ、はい。すみません……」
弱竹さんは、元気がなかった。先ほどは楽しみましょうねって言っていて、顔色もまずまずだったのに、どうしたのだろう。この気分の乱高下。まるで――、
と、
粛々と料理を取り分けていた弱竹さんが、「うっ、」とえづくみたいにして口元を抑えて椅子から滑り落ちる。それから、背を丸めて床に倒れ込んだ。
「あっ、どうしたの、弱竹さん!」
まずい、トイレには奏が籠っている。わたしは辺りを見回すけれど、完璧に調和されたリビングルームの中にはビニール袋なんて野暮なものは引っかかってはいなかった。やむなく、サラダボウルの中身を慌てて別のお皿にぶちまけると、それを弱竹さんの口元にかざす。
「だ、大丈夫? 気分が悪い? もどしそう?」
「うっ、うっ、ううう……」
彼女はボウルをゆっくりと押しのけて、そのまま床に額をこすりつけた。大丈夫かな。まったく、この女と来たら。綺麗な絨毯が台無しだわ。
――あれ、わたし、今何だかひどいことを考えていなかった? 自覚しないうちに、ちょっとこころの余裕がなくなりかけているみたい。ああ、だめだ、だめ、だめ。お茶をもっともっと、飲まなくちゃあ。
わたしはボウルに残ったマカロニをいくつか指でつまんで、口に放り込む。それから指についた卵を舐めた。それでええっと、お茶、お茶は――、あった。
椅子に戻って、お茶を飲む。その間、弱竹さんはずうっと床に額をこすり続けている。
「……もう、だめねえ。美しい絨毯が台無し。けれど、大目に見てあげて? 彼女はアナアキさんになっちゃったばかりなのですから。うふふ」
弱竹さんの丸まった背を眺めながら、泉さんが優雅な仕草で背もたれに背中を預けた。それから優越感に満ち満ちた、罪人を嘲るような口調で、詰問する。
「ねえ? ねえ、貴女――、うふふ、何をなさったのでした? ねえ、貴女、」
それは、とても醜悪で。
わたしはその表情を見て、嫌悪感を抱く。
はずなのに、どこかわたしには彼女の気持ちが分かってしまって。
同情。違う。これは――、同調。仲間意識だ。
「お茶、お茶……、」
わたしはティーカップに新しいお茶を注ぐ。だめ、だめだわ。このままじゃあ、何かがだめになっちゃう。お茶を飲んで、こころを落ち着けなくっちゃあ。
ああ、美味しい。安らぐわ。とっても。
「うう、ううううう……」
弱竹さんは、ずうっと床で呻いている。まったく、もう。見苦しいわね。
■ねばいいのに。
「貴女、うふふ、貴女――、何をなさったのかしら? ねえ、貴女、■したのでしょう? ねえ、貴女、」
「う、うえ、うおええぇえ、おっ、おっ……、おっ、うえええ……っ、」
弱竹さんが、とうとう吐瀉物を辺りにまき散らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます