泉(05)わたしは自分の手で、愛する子どもを殺しました。

 うわ、何、この女。こんな女、いらない。わたしたちの王国には、このような女はいらないわ。わたしはボウルの底に溜まったサラダやマカロニを手のひらで掴む。そしてそれを、無理やり口の中に詰め込んだ。ああ、お腹が空いた。ああ、

 だめ、お腹が空き過ぎて、どうしようもないわ。お茶は、どこ?


「うふふ、うふふふふ。ねえ、心さん、言っておしまい? お父さんやお母さんを大切に想っているこの子に言っておしまいなさいな」


 泉さんのテンションが上がって来た。何、どうしたの? 弱竹さんは、一体何をしたっていうの?


「うえ、うおえ、うおっ、おっ、おお……」


 吐瀉物にまみれながら、彼女は弱弱しく首を振る。まるで、そのことばを認めたくないみたいに。いやいやをして、駄々をこねるかのように。

 泉さんがゆらありと立ち上がる。そして、丸まった弱竹さんの背中を踏みつけた。彼女の表情は醜く歪み切っていて、普段のしとやかな物腰はもはやどこにも見当たらない。彼女は足裏で存分に弱竹さんの背を踏みにじってから、嬲るように言った。


。その絶望感と喪失感から、貴女はアナアキになったのでしょう? 言っておしまいなさいなあぁあ、それをおぉお!」


 どういうこと? 子どもを、殺した?


「う、うえっ、あっ、ちが、違う。違うの、円さん。わた、わたしはそんなつもりじゃあ――、うおえぇえ、」


 弱竹さんは吐瀉物から辛うじて顔を上げて、ぐしゃぐしゃになった顔面でわたしに話しかけて来る。何、この女。鬱陶しいわ。


「そんなつもりじゃあ、なかったの。ううう、だって、うう、ちょっと放っておいただけじゃあない。うう、そんな簡単に、ひとが死ぬだなんて、おっ、おっ、思わないじゃあない!」


 彼女は言い訳を並べ立てて、自らを防護する。けれど、そんなくだらない虚像の壁を建設しても自分の価値は上がらないわ。えづき終わったのか、彼女はゆっくりと呼吸を整え始める。けれど、胸かどこかが痙攣しているのか、その呼吸は妙なリズムになっていた。


「ひっ、ひっ、だって、わたしだってそんな、そんなことをしたかったわけじゃあない! わたしだってこの団地に、ひっ、ずうっとこの団地に殺されていた! 産まれたときからずうっとこの団地で育って来た! あなたも知っているでしょう、何が〈わたしたちの団地〉よ! あんなの、ずうっとずうっと聞いていたら――、ひっ、おか、おかしくなるのも仕方ないじゃあない!」


 ひきつけを起こしている。彼女は汚物にまみれたまま床をゆっくりと這い回り、テーブルの端を掴んだ。


「汚いですわねえ……、ほら、これでも飲みなさいな」


 泉さんが、弱竹さんの顔にお茶をぶちまける。びしょびしょになる彼女。けれど、吐瀉物を貼りつけているよりはいくらかましかも。弱竹さんはそのままテーブルにしがみつくと、お茶の入った急須を掴んで直接中身を飲み始めた。


「ひっ……、うう……、ああ、だめだな、わたし。こんな、ひっ、こんなに取り乱しちゃって……、ああ、だめだ、わたしは本当にだめな人間なんだ……、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」


 今度はいきなり落ち込み始める。まるで、漆黒のアナの中に這入り込んだみたいに。これは、アナアキの初期症状のひとつ。躁鬱病に似たような病状だけれど、処方された薬でサポート出来る範囲内だ。


「えっと……、ほら、弱竹さん、お薬あるでしょ?」


 初期症状に侵されている彼女であれば、処方薬を持ち歩いているはず。それを飲めば、一時的に落ち着ける。けれど、彼女は駄々をこねるみたいに首を振った。薬を持ち歩いていないのだろうか。


「ああ……、でも、だってわたし、この団地が厭で。だけれど出ることも出来ない。わたしはここからどうやっても出られない。わたしはアナアキじゃあないのに。わたしはそのとき、アナアキじゃあなかったのに」


 確かに、彼女の言うことにわたしも心当たりがあった。それは、〈わたしたちの団地〉とも呼ばれる櫻町団地管理組合の功罪だ。


 かつて、とある新興宗教が彩都と櫻町で蔓延した。まちひとつを呑み込むほどの規模だったその新興宗教を拡散させた宗教法人のせいで、犠牲になったひとも多いと聞く。

 九十年代の後半、世紀末を迎えて、世の中が不安定になっていたころのことだった。裏サイトなどを辿れば色々情報が出て来るはずだけれど、ともかくその宗教法人は、さまざまなトラブルを経て教祖さまを失ってしまい、事実上の壊滅状態になってしまったんだ。

 そうすると、困るのはその影響下にあったひとたちだ。

 この団地内において、その新興宗教は絶大な影響力を誇っていたらしい。けれど、その中心が失われた。守るべき道標がなくなったとき、彼らがそれに代わるものとしてすがりついたのが、〈団地イズム〉とも言うべき団地への愛着――、いや、執着心だった。


「けれど、わたしはここから出られない! わたしだけじゃあない、昔から住んでいる組合員のみんなは、この土地に縛り続けられている! わたしたちは出られない! 例え国がこの団地を無理やり排除して、宗教の色をどうにかして取り上げて、負の遺産をすべて壊滅させようとしたところで、わたしたちの団地は揺るがない! アナアキたちが大挙して押し寄せて来ようと、わたしたちの団地は決して決して揺らぐことはない! ――そう、あああ、そう思っていたのに、あああああ!」


 現在、櫻町団地を管理する管理組合が掲げている思想こそが、先にも触れた〈わたしたちの団地〉だ。団地の規約を暗唱したり、「わたしたちの団地」と繰り返し述べたりするその集会は、完全に宗教じみている。

 そのリーダー格が、わたしとも面識が深い不如帰ほととぎすさんっていうお婆ちゃんで、そのひとのご高説を賜ったおかげでわたしも今のような話に詳しくなってしまった。お茶をつくって定期的に渡したり、集会にもしばしば呼び出されたりして、結構いい迷惑なんだ。反面、情報を得られることも多いけれど。


「団地内では望まない性行為が頻発していたの。望んだ子どもじゃあなかった。組合員同士の結婚だったし、それも籍をただ入れただけ。子どもはふたりとも障害児だった。ふたりとも。わたしは懸命に育てたつもりよ。けれど……、ああ、わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地に、救いなんてあるの?」


 その思想は、組合員に支えられているだけの砂上の楼閣だ。中身も何にもない、単なる歪んだ地元愛がそこには横たわっているだけなんだ。そんなものに人生を左右されるだなんて、イかれている。


「友だちも、みんなおんなじ目に遭っている。まひるちゃんも、このはちゃんも、みんな。わたしはちょっと疲れてしまっただけ。疲れてしまっただけなの。少しの間ご飯をあげなかったくらいで、子どもが死んでしまった。もうわたしはすがりつけない。わたしたちの団地なんて、なかった。わたしの子どもは死んでしまった。そんな団地に、救いなんてあるの?」


 けれど、幼少時からこの団地で生まれ育った弱竹さんには、それは絶対的な指標だったのかもしれない。拒絶をしたいけれど、それを失ってしまうと立つことも出来ないってくらいに、その〈わたしたちの団地〉は彼女の心の中に巨大な塔を建設していたんだ。

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