泉(02)ママさんネットワークのお局様的存在。

 泉さんは、環とほぼ面識がなかった。奏も、一度か二度お茶会に一緒に行ったくらいだった気がする。ふたりとも、あまり相性が良くないらしい。

 けれど泉さんには、団地内で数少ないママさんたちの動向をほとんど把握している、ママさんネットワークのお局様的存在という側面があった。情報網の広い彼女なら、行方が分からなくなった環たちの手がかりを何か持っているかもしれない。


「泉さんちに寄ってみようかな。ちょっと遠いけれど、奏も行くでしょ?」


 渋るかもしれないと思ったけれど、奏はにっこりと優しく微笑んで、言った。


「はい、ご一緒するのです。私はいつも円と一緒なのです」

「ありがと。それじゃあ、行こう」


 わたしたちは第六団地の入り口に戻って、自転車で移動しようとして――、


「あれ?」


 自転車がどこにも見当たらない。ほんの少し目を離しただけのような気がするのだけれど。おかしいな……、と。落ち葉が厚く積もっている道の端の方に、何かのチューブみたいなものが隠れるように転がっていた。


「……んー? あれって、自転車の部品かな?」


 例えそうだとしても、自分の自転車とは関係がないものだ。何だかおかしなことが起こっている。けれど、ないものはないのだから仕方ない。案外、自転車置き場に忘れてしまったのかも。最近は忘れっぽくなっているから、いけないな。まったくもって惑っちゃうことばかりだ。


「ま、いいか。歩いて行こう、奏」

「承知したのです」


 奏は何も不思議に思っていないみたい。やっぱり、自転車に乗って来たことは自分の勘違いだったかもしれない。

 わたしたちは、寒風吹き荒ぶ中を第二団地へと歩いてゆく。裸になった木々が、寒々しく風に揺れていた。


「……はあ、はあ」


 奏は体調が思わしくないみたいで、ちょっと足元がおぼつかなかった。


「どしたの? 疲れたの? あっ、もしかして風邪とか? やっぱり食べる量が少ないのがいけないんだよ」


 わたしはポケットに入れているチョコレートを何粒か口に放り込む。


「――奏も、食べる?」

「……いいえ、いらないのです。ありがとうなのです」


 風に吹かれたら倒れそうな身体のくせに、強がりばっか。奏はいつも、そうなんだ。


「しゃきっとしなよ、しゃきっと。ね? 奏、元気出しな?」

「はいです。ありがとうなのです」


 奏は花が咲いたような笑みを浮かべて、わたしを見た。その頬が少しこけていて。わたしは彼女を余計に愛おしく感じる。

 わたしの奏。ここにいるのは、わたしのための奏だ。彼女をどこにも行かせやしない。


「もう。強がっちゃって。手、繋ご?」

「はい、なのです」


 わたしは、奏の手をぎゅうっと握った。

 奏も、わたしの手をぎゅうっと握った。


 ◆


「あら、円ちゃんごきげんよう。お待ち申し上げておりましたわ」


 櫻町第二団地にある大型マンション型団地、さくらヒルズ弐号棟。その最上階となる十三階に烏羽玉泉さんの家はあった。


「こんにちは、泉さん。今日は奏も一緒なんだけど、いいでしょ?」

「ええ、勿論ですわ。むしろ丁度良かったくらい。さ、お上がりになって?」


 高級マンションみたいに設えられた玄関で、ローファーを脱ぐ。明らかに手を加えられた内装で、かなりのお金がかかっていることは明白だった。さすがにここまでは、助成金などで改装は出来ない。


「お邪魔しまーす」

「……おじゃ、まし、します」


 玄関には、わたしたちのほかにもう一足ショートブーツが置いてあった。泉さんのものじゃあないだろう。なぜなら、量販店で売られているみたいに安っぽいものだったから。

 誰か、お客さんが来ているってことかな? とすれば、たぶんママさんの誰かだ。彼女はこの家でしばしばママさんたちとお茶会を開催している。


「それじゃあ、どうぞこちらへ」


 泉さんは、秋らしいピンコッタのボートネックニットをふわりと翻した。動きやすそうな細身の白いパンツが、スタイルを良く見せている。ちらりと髪から除く赤いピアスは、薄めに引いたルージュと同系色。シンプルだけれど、とても上品な恰好だった。

 綺麗な絵が飾られた廊下を進んで、リビングルームへ。ロココ様式の家具がわたしたちを出迎えてくれた。値段は分からないけれど、たぶんとんでもない金額がかかっている。


 彼女のご両親はかなりの土地持ちだとかで、娘がここに引っ越すときに自由に書いていいとばかりに何と白紙の手形帳を渡したらしい。

 ただ、それは手切れ金だとかいう噂もあって、それ以来彼女のご両親は娘や孫の顔を一度も見に来ることもないとか。非アナアキの旦那さんも、外で彼女のご両親に会っていないって話だ。

 ここは閉鎖病棟じゃあないので、非アナアキである外の知り合いが団地内を来訪することは出来るのだけれど、九割以上のアナアキが親類や友人たちから三行半を突き付けられていて、来訪者はほとんどいない。

 わたしは幸か不幸か、父以外の親類はいないから意識をしなくてもいいのだけれど、当たり前のように友だちはここには訪れない。それは単純に友だちがいなかったという点もあったけれど、セキュリティシステムの問題もあったとは思う。


 広大な敷地を誇る櫻町団地だけれど、その敷地はすべてフェンスで囲まれているために、無断での立ち入りは容易ではないからだ。

 入るには、みっつしかない門を出入りしなくてはいけない上に、特に出るときにはセキュリティが厳しいので、一割弱のまだ親類や友人に情を向けられているアナアキのひとたちですら、来訪者はほとんどいないのが実情だった。ことさらにアナアキは監視タグみたいなものもつけられているので、閉鎖感はやっぱりすごく感じるんだ。


 そんな中で、少しばかりの安らぎを感じられる場所のひとつが、泉さんの家のリビングルームだった。ここからは、かなり遠いけれど海が煌めいているのも見えるし、それから櫻町にある新興住宅街を一望することが出来たからだ。

 同時に一抹の虚しさも感じるけれど、それでも外の景色を眺めることが出来る空間っていうのはこの団地内では限られているから、気分転換にはぴったりだった。

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