柳(04)乖離性空洞化障碍のこれから〜喪失感と共に生きる〜
やっぱり、彼女はアナアキになってしまったんだ。どうしてかは分からないけれど、スマホをあんまり使わない環境下にいたはずの弱竹さんが、アナアキになってしまったのはなぜなんだろう。
それにしても、あの態度。思わずかっとなる。彼女だって、なりたくてなったわけじゃあないはずなのに。大人気なく喚いているおじさんを、わたしは思い切り睨みつけた。
「あ? 何? な、何なんだよ……」
おじさんは一瞬でしゅんとなる。そうよね、不如帰さんのお気に入りのわたしに睨まれたら、貴方はとても居心地が悪くなるはずだわ。そうやって大人しくして、黙ってろ。
わたしはおじさんから目線を外すと弱竹さんのそばに行って、
「あの、手伝います」
彼女は申し訳なさそうに、頭を下げて、
「あ、ありが――、」
と言いかける。そこに、不如帰さんのひと声が響いた。
「何をしとんや! 客人やぞ、客人! 円ちゃんと奏ちゃんはあ!」
びくり、と電気に打たれたみたいに、弱竹さんは身体の動きを止める。それからわたしに軽く頭を下げて、そそくさと給湯室へと向かった。
ひどい態度。けれど、彼女がアナアキになっていたとするならば、それも頷ける話なのかもしれないな――、って、いけない。おじさんのことは不快に思ったくせに、同じように無意識に弱竹さんを見下してしまっている。だめだ、だめ。
それにしても、無秩序だなんて。そもそもこれは、アナアキという俗称をつけた社会学者に問題の発端があった。
◆
「アナアキ、ですね」
「は?」
YouTubeで何度も観たニュース特番、〈乖離性空洞化障碍のこれから〜喪失感と共に生きる〜〉。アナアキが生まれ始めて、間もないころ。生放送ゆえに編集も出来ないそのテレビスタジオの一室で、そのことばは突然誕生した。
「ええ、ですから〈乖離性空洞化障碍〉のことですよ、今その話をしていたんでしょう」
「えーと、えー、」
当たり前のように続けたコメンテイターの社会学者のことばを遮るように、アナウンサーは一瞬反対側を見た。スタジオにいる責任者か誰かに、助けを求めたのかもしれない。CMにいってくれといったことかもしれなかったけれど、残念ながらこれは国営放送だった。
「だって、長いじゃあないですか。〈アナアキ〉だと四文字ですし」
彼は、悪びれる様子もなく続ける。
「良くないですか? ご存知でしょう、アナーキー。無政府状態、無秩序状態。ひと昔前に流行りましたよねえ? まさにそんな感じじゃあありません? しかも実際に身体に〈アナ〉が空いているわけでしょう? 黒いアナでしたっけ、それってアナキズムのシンボルでもある〈黒旗〉に通じるものがありますよね? ほら、まさにぴったりじゃあないですか」
「いや、あの……」
打ち合わせしていた展開と違ったのだろう。アナウンサーは戸惑いの表情を浮かべながら仕切り直そうと椅子を回転させて、
「ええと……それで、
「ですからねえ、〈アナアキ〉は――、」
「あの……、すいません。一旦、速報です」
特番のスタジオから、カメラがばちっと切れる。一瞬の黒い空白があって、それから強張った女性アナウンサーがテレビ画面の中心に映り込んだ。
そのあとだ。乖離性空洞化障碍が、アナアキなんて呼ばれ始めたのは。バラエティ番組や週刊誌が、まずはその特番を面白おかしく取り上げた。その流れはますます加速して、いつしかちゃんとしたメディアにも、アナアキの俗称が使われる事態になってしまったんだ。
それは、流れのようなものだった。
目に見えない、ときのながれがたぶんそこにあったんだ。世界そのものが、何かわけの分からない力や熱量に浮かされて、渦の中にどんどんと引きずり込まれてゆくような、不可思議な現象だった。その渦の中心に、漆黒のアナがぽっかりと開いたみたいに、世界はそのひとことで大きく形を変えてしまったんだ。
無秩序。アナアキに対する侮蔑のことば。そのことばに、真に怒りを覚えてしまうわたしがいる。わたしや奏もアナアキだから、自分たちに槍の切っ先が向けられているように感じるんだ。けれど、わたしのこころが秩序を保てていないだろうことは、確かだった。火を見るよりも明らかなことだったんだ。
◆
弱竹さんが給湯室から出て来て、みんなの元にお茶を置いてゆく。その様子を、わたしは不甲斐ない気持ちで眺めていた。
ここでわたしが無理やり手伝ってもいいのだけれど、そうすると彼女の立場をますます悪くするだけだろう。だから、悔しいけれど手助けは出来ない。病状が安定していそうだったら、あとで家庭菜園のお仕事が出来るか聞いてみよう。アナアキや看護士たちしかいないそのときの方が、彼女の本音を聞き出しやすいから。喪失感で心神喪失状態に陥っていたはずの彼女を、孤独感でいっぱいにしてはいけない。それはたぶん、アナの拡大を一気に進行させてしまうだろう。
奏も、隣で少ししゅんとした表情で座っていた。心なしか体調が悪そうに見えるけれど、大丈夫だろうか。先ほど掴まれた腕をしきりにさすっている。わたしはひそひそと彼女に問いかけた。
「――奏、あんた大丈夫?」
「ええと、はい。大丈夫なのです」
奏はにっこりと笑ったけれど、何だかそれはバリケードみたいだった。わたしはこの場所での追及を諦める。奏も、弱竹さんも。わたしだってずっと、喪失感と戦い続けているんだ。
ああ、まったくもって惑ってしまうことばかりだった。
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