柳(04)乖離性空洞化障碍のこれから〜喪失感と共に生きる〜

 やっぱり、彼女はアナアキになってしまったんだ。どうしてかは分からないけれど、スマホをあんまり使わない環境下にいたはずの弱竹さんが、アナアキになってしまったのはなぜなんだろう。

 それにしても、あの態度。思わずかっとなる。彼女だって、なりたくてなったわけじゃあないはずなのに。大人気なく喚いているおじさんを、わたしは思い切り睨みつけた。


「あ? 何? な、何なんだよ……」


 おじさんは一瞬でしゅんとなる。そうよね、不如帰さんのお気に入りのわたしに睨まれたら、貴方はとても居心地が悪くなるはずだわ。そうやって大人しくして、黙ってろ。

 わたしはおじさんから目線を外すと弱竹さんのそばに行って、


「あの、手伝います」


 彼女は申し訳なさそうに、頭を下げて、


「あ、ありが――、」


 と言いかける。そこに、不如帰さんのひと声が響いた。


「何をしとんや! 客人やぞ、客人! 円ちゃんと奏ちゃんはあ!」


 びくり、と電気に打たれたみたいに、弱竹さんは身体の動きを止める。それからわたしに軽く頭を下げて、そそくさと給湯室へと向かった。

 ひどい態度。けれど、彼女がアナアキになっていたとするならば、それも頷ける話なのかもしれないな――、って、いけない。おじさんのことは不快に思ったくせに、同じように無意識に弱竹さんを見下してしまっている。だめだ、だめ。

 それにしても、無秩序だなんて。そもそもこれは、アナアキという俗称をつけた社会学者に問題の発端があった。



「アナアキ、ですね」

「は?」


 YouTubeで何度も観たニュース特番、〈乖離性空洞化障碍のこれから〜喪失感と共に生きる〜〉。アナアキが生まれ始めて、間もないころ。生放送ゆえに編集も出来ないそのテレビスタジオの一室で、そのことばは突然誕生した。


「ええ、ですから〈乖離性空洞化障碍〉のことですよ、今その話をしていたんでしょう」

「えーと、えー、」


 当たり前のように続けたコメンテイターの社会学者のことばを遮るように、アナウンサーは一瞬反対側を見た。スタジオにいる責任者か誰かに、助けを求めたのかもしれない。CMにいってくれといったことかもしれなかったけれど、残念ながらこれは国営放送だった。


「だって、長いじゃあないですか。〈アナアキ〉だと四文字ですし」


 彼は、悪びれる様子もなく続ける。


「良くないですか? ご存知でしょう、アナーキー。無政府状態、無秩序状態。ひと昔前に流行りましたよねえ? まさにそんな感じじゃあありません? しかも実際に身体に〈アナ〉が空いているわけでしょう? 黒いアナでしたっけ、それってアナキズムのシンボルでもある〈黒旗〉に通じるものがありますよね? ほら、まさにぴったりじゃあないですか」

「いや、あの……」


 打ち合わせしていた展開と違ったのだろう。アナウンサーは戸惑いの表情を浮かべながら仕切り直そうと椅子を回転させて、


「ええと……それで、和坂かにがさかさん。乖離性空洞化障碍は、スマートフォンが原因ではないか、とも言われていますよね。実際、今年は携帯電話販売史上初めてスマートフォンの販売台数が過半数を超えたことが話題となりました。そのことを受けて、わたしたち自身もスマートフォンへの向き合い方などを今一度考えて、SNSの使い方なども変えていかなければいけません。それについては、どのように思われますか?」

「ですからねえ、〈アナアキ〉は――、」

「あの……、すいません。一旦、速報です」


 特番のスタジオから、カメラがばちっと切れる。一瞬の黒い空白があって、それから強張った女性アナウンサーがテレビ画面の中心に映り込んだ。

 そのあとだ。乖離性空洞化障碍が、アナアキなんて呼ばれ始めたのは。バラエティ番組や週刊誌が、まずはその特番を面白おかしく取り上げた。その流れはますます加速して、いつしかちゃんとしたメディアにも、アナアキの俗称が使われる事態になってしまったんだ。


 それは、流れのようなものだった。

 目に見えない、ときのながれがたぶんそこにあったんだ。世界そのものが、何かわけの分からない力や熱量に浮かされて、渦の中にどんどんと引きずり込まれてゆくような、不可思議な現象だった。その渦の中心に、漆黒のアナがぽっかりと開いたみたいに、世界はそのひとことで大きく形を変えてしまったんだ。

 無秩序。アナアキに対する侮蔑のことば。そのことばに、真に怒りを覚えてしまうわたしがいる。わたしや奏もアナアキだから、自分たちに槍の切っ先が向けられているように感じるんだ。けれど、わたしのこころが秩序を保てていないだろうことは、確かだった。火を見るよりも明らかなことだったんだ。


 ◆


 弱竹さんが給湯室から出て来て、みんなの元にお茶を置いてゆく。その様子を、わたしは不甲斐ない気持ちで眺めていた。

 ここでわたしが無理やり手伝ってもいいのだけれど、そうすると彼女の立場をますます悪くするだけだろう。だから、悔しいけれど手助けは出来ない。病状が安定していそうだったら、あとで家庭菜園のお仕事が出来るか聞いてみよう。アナアキや看護士たちしかいないそのときの方が、彼女の本音を聞き出しやすいから。喪失感で心神喪失状態に陥っていたはずの彼女を、孤独感でいっぱいにしてはいけない。それはたぶん、アナの拡大を一気に進行させてしまうだろう。

 奏も、隣で少ししゅんとした表情で座っていた。心なしか体調が悪そうに見えるけれど、大丈夫だろうか。先ほど掴まれた腕をしきりにさすっている。わたしはひそひそと彼女に問いかけた。


「――奏、あんた大丈夫?」

「ええと、はい。大丈夫なのです」


 奏はにっこりと笑ったけれど、何だかそれはバリケードみたいだった。わたしはこの場所での追及を諦める。奏も、弱竹さんも。わたしだってずっと、喪失感と戦い続けているんだ。

 ああ、まったくもって惑ってしまうことばかりだった。

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