柳(05)わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。
集会所の大部屋は通常、長机が置かれていてパイプ椅子が並べられている。ここで管理組合の役員さんたちが月に一回程度、申し送り事項などを取りまとめる役員会議をしているんだ。
この会議は団地ごとに分かれていて、第七団地ならば第七団地管理組合というものが組織されている。そして一から十三までの管理組合の中でも重要な役職に就いているひとたちは、より重要な――、というか正直もっともややこしい会合にも付き合わされたりするんだ。
それが、この〈団地の集い〉だ。
管理組合のひとたちの中でも、特に不如帰お婆ちゃんのお気に入りの古参メンバーたちの多くが、今この部屋には集まって来ている。中には役員じゃあないひともいるのだけれど、とにかく彼女の近くにいるひとたちのことだ。
この集いが行われるときには、長机やパイプ椅子は部屋のいちばん後ろに綺麗に片づけられて、部屋には畳が敷き詰められる。その上に、紫色の高そうな座布団が置かれていて、今わたしたちはその座布団に腰を下ろしていた。
畳と座布団だけでも少し不思議な雰囲気になっているのだけれど、それは前のホワイトボードに貼り付けられているお経みたいなものに比べれば、それほどおかしいものじゃあなかった。異様に達者な筆文字でしたためられた古い書類が、ホワイトボードに磁石でぴたりと止められている。
それは、団地規約の原本だ。
今はシートで保護をされているとはいえ、約50年前に書かれたものなので黄ばんでぼろぼろになっている。歴史がそう感じさせるのか、書類からは何かオーラにも似た禍々しい雰囲気が漂っていた。
「ほな、始めよか」
ホワイトボードの方向を向いて、わたしたち二十数名が並んで座っている。それと向かい合うように前に座っている不如帰さんが、まるで何か厳かな儀式を始めるみたいに、ゆっくりと瞳を閉じた。その動きに応じて、組合員たちも瞳をそうっと閉じる。
わたしは決して応じない。隣にいる奏も、場に応じる様子はなかった。
「櫻町団地管理規約」
不如帰さんの声とともに、一斉に唱和が始まった。
第1章 総則
(目的)
第1条 この規約は、櫻町団地の管理又は使用に関する事項等について定めることにより、団地建物所有者の共同の利益を増進し、良好な住環境を確保することを目的とする。
(定義)
第2条 この規約において……
管理規約の唱和。これが、櫻町団地管理組合のもっとも奇妙かつ不気味な〈団地の集い〉の名物だ。
もちろん管理規約は膨大なページがあるので、一日ですべてを読み切るわけではない。何回にも分けて、何度も何度も唱和される。わたしがお経みたいと言ったのはこの点にあった。みんなはおおよそのことばを覚えているらしく、立板に水のごとく第1章の唱和を終えた。
「ほな、今日は第7章にしよか」
彼女の声に、みんなは目を開ける。それからようやくお茶で喉を潤すと、めいめいが持っている櫻町団地管理規約の冊子をめくっては一斉に唱和を再開した。
第7章 会計
(会計年度)
第58条 管理組合の会計年度は、毎年6月1日から翌年5月31日までとする。
(管理組合の収入及び支出)
第59条 管理組合の会計における収入は……
そして、極めつけが最後のこれだ。不如帰さんが背筋をぴんと伸ばした。応じるように、組合員みんなの背がすらりと伸びる。
それから彼女は、よく通る声ではっきりと宙に向かって言った。
「わたしたちの団地」
唱和。
「わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地」
奏がうんざりした顔で耳を塞ごうと手を震わせる。けれど結局、耳に手は当てなかった。そんなことをすれば、不如帰さんを激昂させてしまうから。
「わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地」
わたしの斜め前には弱竹さんがいた。
彼女も一心不乱に「わたしたちの団地」と唱え続けている。そんなものを唱えても、何にもならないのに。団地が彼女を救うなんてことは、今までもこれからも決してないはずなのに。
わたしと奏は、唱えない。ただじいっと巖となって、この気持ちの悪い時間をやり過ごすのみだ。ただじいっと、耐えるだけなんだ。
不如帰さんは唱和を始めようとしないわたしたちに注意をしない。自然と、自然と自分たちの方へこころがなびいて来るのを、ただ静かに待っている。ただただじいっと、待ち続けているんだ。
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