柳(03)正確に言うとそれは、お茶のようでお茶ではない。

 第七団地からほど近いところにある、第八団地。

 ここは商店街や公園、集会所などが集まっている団地の心臓部。アナアキも非アナアキも、生活基盤のひとつにしている場所なんだ。

 集会所の玄関先には、たくさんの靴がきれいに並んでいた。中には管理事務所や給湯室、簡単な救護施設、それから小部屋と大部屋がひとつずつ。大部屋には、ちょっと奇妙な加工が施されている。


「うー……」


 足を踏み入れた途端、線香のようなお香のような、変わった香りが鼻についた。


「ほな、行こか」


 不如帰さんはようやく奏の腕から手を離して、ずいずいと廊下を進む。奏は掴まれた手首の辺りをしきりにさすってから、匂いを嗅いだ。


「……うう、たばこ臭いのです」

「ご愁傷さま」


 奏の頭に軽く手のひらを置く。それから、嫌々ながら不如帰さんのあとについて大部屋に入った。

 瞬間、わっとした空気が、わたしにぶつかる。老若男女、どちらかといえば年配のひとが多かったけれど、大部屋には二十人ほどのひとが集まっていた。平日の昼下がりから、皆さんご苦労なことだ。


「まあ、円ちゃん!」

「ああ、円ちゃんじゃあないの」


 興奮を孕んだ、浮ついた空気。ここにいるひとたちのほとんどは第七・八団地、あるいは最古参の第一団地に住んでいる。分かりにくいのだけれど、まちの中でくるりと番号がひと回りしているために、地理的には第一団地と第八団地は結構近い。


「おう、円ちゃん、久しぶりじゃあ」

「待ってたわあ、円ちゃん。待ちくたびれたくらいよお」

「円ちゃん、はちゃあんと持って来てくれたの?」


 浮ついた空気の原因は、わたしというよりは、植物学者である父の研究成果によるものだった。わたしたちアナアキが団地内に作っている家庭菜園。そこではいろんな植物を育てている。

 植物を育てることは、いのちを育むこと。だから、リラクゼーションというか、アナアキの治療の一環として、団地内で植物を育てることを父が提唱したんだ。今ではその活動は、アナアキ全体に広がっていて、団地に入居すると病状が安定しているひとから活動に加わることになる。

 菜園では野菜も育てられていて、立派に育ったものは団地内にあるスーパーに陳列されることもあるくらいなんだ。かたちの悪いものなんかは、その野菜の面倒を多く見たひとの食卓に並ぶ。地産地消って感じで、特にアナアキに評判がいい。この活動は、珍しく非アナアキのひとたちからも一定の評価を得ていて、ある種の労働と捉えられている。

 アナアキたちは、実は国の費用でここの団地に入居していて、非アナアキのひとたちと経済的な乖離がある。その治療の対価としての労働と考えられているんだ。


「楽しみにしてたんだよ、円ちゃん。新しいお茶っ葉が出来たのかな?」


 その活動の中でも、みんなに特に好評なのがお茶っ葉だった。

 正確に言うとそれは、お茶のようでお茶ではない。とんちみたいだけれど、これは父が発見した新種の植物の花弁や葉から抽出されるエキスを用いた飲み物のことを指す。これを団地内では便宜上、お茶と呼んでいる。

 このお茶には、ちょっとした秘密の効果もあるのだけれど、それは管理組合のひとたちにはまだ内緒の話。効果が何であるにせよ、とりわけ香りと味が良かったんだ。そして、みんながべた褒めをしてそれを求めて来るのには、理由がある。つまり、


「ああ、せや。茶っ葉、持って来たんやろ? 出し」


 不如帰さんが気に入っているからだ。彼女の言うことは絶対。白いものも、黒くなる仕組みなんだ。だから、彼女がこのお茶を気に入ったことで、組合員の多くは会合のたびにお茶を愛飲しているっていうわけ。

 この花を摘んで加工することが、わたしの大きな仕事のひとつでもあるし、厭味をずうっと言われ続けながらも、わたしがたぶん不如帰さんにそれなりに気に入られている要因のひとつだ。

 けれど、今日はお茶っ葉は持って来ていない。鞄も自転車のところに置いて来たし、今は手ぶらだった。


「えっと……、」


 持って来ていないと言ったら、たぶん不如帰さんは恥をかかされたとかって怒るだろうな。けれど、ないものは仕方ない。わたしはため息を吐いて、


「……ど、うぞな、のです」


 奏の背負っていたぬいぐるみみたいな鞄。その中から、お茶っ葉を入れた缶が出て来た。ひとの目が集まったせいか、歯切れが悪い。


「あ、奏。持ってたの。ありがと」


 缶をもらいながら、わたしは小さくお礼を述べる。助かった。


「い、いつ会ってもい、いいようにしていたのです」

「ああ、ほら、やっぱりあるやないの。貸し!」


 わたしに手渡された缶は、すぐに不如帰さんに奪われる。それから彼女は振り向いて、叫んだ。


「ほら、何してんの。お茶や、お茶!」


 弾かれたように、若い主婦が立ち上がった。ああ、あれは身体だかこころだかを壊したとかでしばらく見かけなかった弱竹なよたけのさんだ。アナアキになったと風の噂で聞いていたけれど、管理組合に復帰したのだろうか。

 彼女はもたついたような動きで、椅子から立ち上がろうとする。少し様子がおかしかった。


「おい、早くしろよ!」


 そんな彼女に、おじさんから声が飛んだ。わたしは思わず息を呑む。無秩序。それは。それは、アナアキへの侮蔑的な詐称だった。

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