環(04)押さなきゃ前には進まないのです。
「やっぱりまずは、環を優先的に考えよ。お母さん、話聞いてくれるかなあ」
「どうでしょうね……、まずは様子を伺ってみましょう」
わたしたちは、環の家の階段室の前までやって来た。
階段型団地は一階につきふたつの住戸の扉が向かい合っていて、対になっている。それが五階まであるので、計十戸の家が同じ階段を利用していることになる。昔ながらの、いわゆるもっとも一般的な団地の形状だ。
三階の窓を見る。電気はついていないしひとけもないけれど、反対にあるベランダ側には洗濯物がかかっているのは先ほど確認した。
「行くよ」
「はいです」
リノベーション工事の手が行き届いていない錆びついた手すりが設えられている階段を、ゆっくりゆっくりと登っていく。コンクリート造りの建物が、ふたりの足音を反響してこつんこつんと呼び声を上げた。
「ね……、チャイム、押してもいいかな」
海底家の玄関先で、再度奏に尋ねる。彼女はバルーンスカートの裾を掴んだり離したりして落ち着きのない様子だったけれど、やがて小さく頷いて、
「私たちが進んでいる方向が正しいかどうかまでは分かりません。でも、押さなきゃ前には進まないのです」
「だよね」
意を決して、チャイムを押す。ぴん……ぽん……、という間延びして古ぼけた音。インターホンには外を眺められるようにカメラが取りつけられている。干されたばかりと思しき洗濯物がベランダにかかっていたので中にいるはずだけれど、居留守を使われるかもしれない。
しばらく待っているとやがて、「……はい」と、警戒心たっぷりの声が聞こえた。環のお母さんに間違いない。
「あっ、こんにちは。あの……、少しお話よろしいでしょうか」
なるべく笑顔を意識しながら、カメラ部分に顔を近づける。けれど、
「話すことなんてありません。あの、昨日の方ですよね? お引き取り下さい」
取りつく島もない。けれど、会話が出来るということは居留守を使って無視を決め込まれるよりはずっとやりやすい。
「あの、昨日お見せした写真の女性のことなんです。わたしたち、困っているんです」
「……ひとを、呼びますよ」
声が一際低くなった。だめだ、話は出来るけれどほとんど会話にはなっていない。彼女も、混乱をしているのだろうか。それとも何か、都合の悪いことでもあるのだろうか。
「こんな、直接訪ねて来られるなんて。迷惑なんです。今すぐ管理組合に連絡しますよ」
団地内では中継器がないために、携帯電話は使えない。インターネット回線もないのだけれど、電話線はきちんと引かれていて、非アナアキ家族の住居には固定電話が置かれていることが一般的だった。
けれど、環の家はアナアキ家族になってしまった。固定電話は今も置かれていただろうか。
「あの、それも困ります」
ハッタリかもしれないけれど、ここで電話を使われるのはよくない。探索がますますしにくくなってしまうし、不如帰のお婆ちゃんに知れたら今度こそ邪魔が入るかもしれない。
「それでは早くお引き取り下さい。はあ、何なのあなたたちは。昨日から本当に鬱陶しい」
女性から漏れる露骨な敵愾心。これは、あまり刺激をしない方がよさそうだ。
「……はい、分かりました。失礼します」
ここで粘るのは得策じゃあない。わたしたちは渋々階段を降りて、第六団地の入り口付近にとめていた自転車のそばまで戻った。少しだけ移動して、木の影に自転車を隠す。
「ここだったら、第六団地の入口からは死角になるはずよね」
「……まあ、第五団地からは丸見えですけれど」
「もう、茶化さないで。どうする? 今からでも五月蝿さんを追いかけてみよっか」
「うーん……、でも今日は環のことを優先したのです。昨日の買い物の量からすると、今日もお母さんは外出されるかもしれません。少し、待つのです」
「なるほど、買い物か」
団地内には小さいけれどちゃんとした商店街があって、これは昔からの住民にとっては自慢らしい。昭和の頃の櫻町団地は、まさに町そのものって感じだったらしくって、そこにいるだけで大抵のものが揃ったし、子供会やお祭りなどのイベントもたくさんあったという。
数十年のときを経て、一時期はシャッターが降りていたお店が多かったらしいけれど、この再開発に合わせて商店にも活気が戻って来ていた。
商店街にはそれなりに色々揃っているけれど、そこにないものについては共同購入用の生協カタログで取り寄せになる。アナアキとなった本人は団地の外には出られないので、これらの方法で日々の暮らしを成り立たせていた。
「それ、ナイスだわ。確か昨日は、牛乳とちょっとした生活用品くらいしか買ってなかったよね。ということは、今日も買い物に出るつもりかもしれない」
「はい、夕暮れ時までに外出する可能性が高いのです」
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