環(05)どれほど希ったとしても。

 わたしも例外じゃあなく、商店街では主に卵とかお魚とかお野菜とかの食料品を買うことが多かった。本の注文や、自転車修理もしてもらえたりする。

 これらの生活費用はアナアキ家族らは負担していない。発行されている地域振興券の金額以内であれば、月々の買い物はほぼ自由だった。アナアキたちの内需で成り立っている商店と、贅沢は出来ないものの、日々の生活に困ることはないように配慮されているアナアキ。

 診療や滞在費も、通常ならば施設利用料や通院代とかがかかるはずなのだけれど、それらもすべて国の補助金で賄われていた。つまり、アナアキになったひとたちは実質的に国の税金で生かされているようなものなんだ。アナアキ特権とも揶揄される、社会保障制度。この辺りも、アナアキと非アナアキとの諍いの火種になっていた。


 わたしからすれば、文句があるなら助成金を貰って早く出て行けばよかったんじゃあないか、って感じなのだけれど。妄執にも似た何かで、非アナアキ家族たちはここで暮らしている。彼らをこの団地に縛りつけている何か。その残滓が今でもずっと水面下で燻っている。


「おっけ、待とう」


 陽はまだ高く昇ってすらいない。時間との戦いになりそうだった。けれど、


「うう……、てか早くもお腹が空いて来た……」

「早過ぎるのです。さっき食べたところなのです。もう少し我慢するのです」

「最近は、何だかお腹が空くんだよね。食欲の秋だからかな?」


 わたしはバックパックから、小さめのお弁当箱を取り出した。おにぎりを作って詰めて来たのだ。もちろん、スペシャルなお茶もセットで。


「じゃーん。というわけで、実は作ってたの。奏、いる?」

「いえ、結構なのです」

「そか。欲しくなったら言ってね。何個かあるから」


 わたしは、おにぎりを頬張った。塩が効いていて、最高。おかかと塩昆布と、あと何を作ったんだったっけ、まあ、いいか。


「こうして紅葉の下でお弁当を広げてると、何だか遠足に来たみたいだね」


 わたしはにっこりと笑う。奏は小さく微笑んで、


「円、覚えていますか? 小学校で行った遠足のこと。彩都森林公園」

「あー、えっと、森林公園」


 記憶を辿る。ああ、そうだ、あの大きな池を抜けた、立派な一本松のあるところか。


「思い出した。確か、奏がお弁当を地面にぶちまけたとこだ」

「あは。はい、そうなのです」


 彼女は郷愁に満ちた表情で、


「あのときは、円におにぎりを分けてもらいました」

「ああ、そうだったね」


 奏はそのとき、今にも泣き出しそうで。地面に落ちたおかずを必死にかき集めようとしていたんだ。

 アナアキじゃあなかった頃のこと。小学校時代の淡い思い出。

 それらはもう化石みたいに固まっちゃっていて、なかなか思い出すことが出来ないんだ。何処かもうひとごとみたいに、ひとの思い出話を聞いているみたいに実感を伴わない。

 自分自身で思っている以上に、わたしは遠いところに来ているのかもしれないな。彩都と櫻町。なまじ距離が近いだけに、まだ人里にいるつもりではいるけれど、もしかするとここはもう、わたしたちにとっての姥捨て山なのかもしれない。とうにわたしたちはデンデラ野に放り出されていて、後戻りをすることは決して叶わないんだ。どれほど求めたとしても。どれほど希ったとしても。終活。終わりに向けて、わたしたちは歩んでいっている。


「ああ、だめだ」


 こころを奪う、喪失感。

 アナアキの代表的な症状だ。必死に探しものをしているときには忘れられているけれど、不意にときが空いたときにそれは襲って来る。おいでおいでと、黒々としたアナが腕を伸ばして来るんだ。

 気持ちがアナの中に落ち窪んでゆく。その中で延々と手を伸ばし続けているのに、こころは決して空には届かないんだ。


「円、まどか。私がそばにいるのです」


 いつかのどこかから響く、だれかの声。わたしはそれをほとんど認識出来ない。このままわたしの世界は黒々としたアナに塗り替えられて。わたしはだから、息も出来ない――、


「円、まどか。――夕月夜円」

「……あ、」


 ふわりとしたとてもいい香りが、わたしを後ろから包み込んだ。顔にかかる、さらさらとしたロングヘアー。これは、


「奏……」


 これは、わたしが梳いてあげた髪の毛だ。恋蝶奏の、濡れたように艶やかな髪の毛なんだ。


「奏、かなで」

「はい、円。私はここにいるのです」


 首元に感じる、彼女の腕のあたたかさ。頬に触れる、彼女の髪の美しさ。艶やかで美しい白。漆黒のアナとはまったく違う、奏の絹糸のように滑らかな髪の毛が、わたしのこころを引き戻してくれる。


「奏、かなで……、うん、ありがと」


 喪失感は、自己肯定感の欠如へと繋がってしまう。だからわたしたちは、自分たちはここにいる、ここにいてもいいんだって声をかけ合うことで、自分たちの立ち位置をいつも確認するんだ。

 確認していないと、世界からすぐに消えたくなるから。わたしたちは、世界を消費して生きている。

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